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邪馬台国コミュの邪馬台国が魏に使者を送った目的は?

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邪馬台国が魏に使者を送った目的はなんですか?
ふと疑問に思いました、
中国または、朝鮮から侵略される可能性がでたため?
国内で、敵対する勢力、または、統括している勢力内で、権力を
ふるうために、魏の後ろ盾がほしかった?
交易がしたかった?
技術をほしかった??

みなさんはどう考えますか?

コメント(7)

私は公孫氏が司馬イ仲達に滅ぼされた事による戦勝祝いに赴いたと考えます。
別スレでずいぶん前に書きましたが、交易の安定化のためです。
鉄などの交易のためには強大な国の後ろ盾がないといけない時代ですから。

中国の記録に倭が出てくるのは、基本的に政権の不安定状態から安定化に向かった時で、いわばヤクザの大組織が跡目争いで揉めていて、抗争が終結して後継者が決まったら、全国の二次団体や三次団体が杯直しをするような物ですね。
>yoshiさん
公孫氏が滅んだのが238年なので、可能性としてありますね
ただ、魏としては宿敵をうったわけではなく、臣従したいた一族の
反乱を収めたにすぎないのではないでしょうか?
倭や朝鮮にとっては、大きな敵だったのかもしれませんが・・・どうでしょうか?

>土岐正造さん
○○会系●●組みたいなものですね
水戸黄門の印籠とでもいいましょうか・
国内が安定する前にもらったほうが?とも思いますが
いかがでしょうか?

素人質問で大変申し訳ありません
レックス様>
確かにおっしゃる通りだと思いますが、それならばもっと早い時期に朝貢していたはずです。
公孫氏は独立をしようとしていた気配があります。長い時間地方の長官をしていると独立をしようと考えるのは無理がない事だと考えます。
当然、巍に対して敵対行動に走るわけですから、朝鮮半島の南端に出先機関を設けている(私はそう思っています)倭国としては、甚だ脅威に感じられた事だと思います。
土岐様がおっしゃるように、交易を公孫氏により妨害されたくはなかったと考えます。
その公孫氏を排除してくれたのだから、戦勝のお祝いを届けるのは、無理からぬ事ではないでしょうか?
日本も戦国時代に侵略してきた軍勢に対して、敵だとしても、戦勝祝いを届けたと言われていますが、同じ事だと考えます。
自分達の利益を守る為の行動だと考えます。
ちなみに晋がやられてから宋になるまで朝貢は行われていません。
朝貢の相手は誰でもいいわけではないようですよ。
書き方が紛らわしかったですが、この場合の安定化というのは中国国内の安定化という意味です。

光武帝の金印は、外戚の王莽の新王朝創設と前漢滅亡、そして後漢王朝成立までの間に、中国は人口が大激減するような混乱の時代になり、後漢王朝が安定し始めた状況を見ての朝貢という側面があります。もちろん、後漢王朝自体が人口激減による余波もあって、遠方地域からの直接交易から撤退したという事情もあり、周辺各地の王朝に朝貢を促したと事情があります。

三国時代というのも同じく、黄巾の乱で人口が半減とも10分の1とも言われる大激減をして、その中で三国が台頭してきたという事情、三国時代といっても国力は魏が突出していたという事情があっての朝貢です。司馬氏がクーデターで政権を取った後も、倭からの朝貢は節目に出されていますので。

朝貢というのは、王の徳を慕って貢ぎ物を持ってくるという建前で、その政権が諸外国から認められているという国内的なアピールに友好でした(だから貢ぎ物の返礼は数倍の物になる)から、倭側の事情と同時に、中国側の事情もあります。中国側は蛮族も自分の政権を支持しているという国内アピール、周辺諸国側は中国との関係を結ぶことでの、交易の安定化と独占権の確立。

一和会が滅びて、実質リーダーシップを取っていた渡辺若頭が山口組五代目に就任して、杯直しをしたような物で、下部団体としては山口組の直系団体という後ろ盾が、山口組としてはこれだけの団体が新組長を支持しているという対外的なアピールという、双方の思惑がありますから。ちなみに、邪馬台国への距離が以上に数値が大きいのは、西の大月氏に匹敵する大国として倭を大きく見せる必要があったから。参加団体の構成員数を誇大に言うような物ですね。
わかりやすい説明ありがとうございます。
みるみる頭が整理させて、学生時代にもどりつつありますw

またもや想像でかきますが・・・・
黄巾党の乱で、中国の人口が半減とも10分の一とも・・・・
はじめて知りました、なるほど、この減った人口は減っただけではなく
移民として、各地に逃れたはずですよね、
もちろん、倭にも多くの人が、渡来人として流れてきたかと思いますが、

そう考えると、中国や朝鮮の状況を倭国でもモニタリングし、
脅威でもあり、交易や技術をもらえる相手でもあり、自国の地位確立のためにも、朝貢を行ったと、、、
 中国が安定し、その朝貢の経路でもある、公孫氏が滅んだ直後で、国内でも大乱が終わったタイミングというのはいいタイミングかもしれませんね。

ただ、朝貢で大量の返礼をもらい、それは、当時の国内では生産できないものが多かったのではと思いますが、なぜ、文字をもらわなかったのでしょうか?
渡来人が来ている、または、中国までモニタリングできる、文明力があって、
中国に時々朝貢しておきながら、なぜ、この時期の文字や紙が出的でないのでしょうか、よろしければおしえてください

文字に関しては、稲荷山古墳出土の鉄剣銘が5世紀の物とされますが、この中で「乎獲居」「獲加多支鹵大王」など、すでに万葉仮名と思われる用法が存在し、片部遺跡の土器に墨書された文字が4世紀前半と推定されるなど、資料は少ないながらもかなり早い段階から入っていたことがうかがわれます。

で、卑弥呼に関して言えば三角縁神獣鏡の問題があります。畿内説の方々はこれこそ卑弥呼の鏡と言いますが、出土量の多さ・実際には存在しない年号が書かれている・中韓からは出土例がない、などの理由から、国産説・呉の工人が日本で作成説が有力ですね。

加えて、京都産業大学教授の森博達氏が、三角縁神獣鏡の銘文が漢文の態をなしていないことを指摘されています。そういう視点で見ると、実は稲荷山古墳出土の鉄剣銘も漢文としては微妙な違和感があり、むしろ過渡期の万葉仮名として読むと、普通に読めてしまいますよね?

 其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、
 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、
 令作此百練利刀、記吾奉事根原也

ちなみに、正始元年鏡の銘文はこんな感じです。
 正始元年陳是作鏡自有経述本自州師杜地命出寿如金石保子宜孫

万葉集の漢字用法とか、成立が7世紀後半から8世紀前半と考えると、3世紀の神獣鏡・5世紀の鉄剣銘・7世紀の万葉集と、漢字の受容はかなりジックリと時間をかけて、少しずつ日本語の中に取り込んでいった感じですね。


自分はグレイシー柔術をやっているのですが、ブラジルの格闘技雑誌の名前が、『OTATAME』という名称でした。「お畳」の音写ですね。日本で『リング』という雑誌を出すのと同じような気持ちで付けたのでしょうが、おかしいとの指摘を日本から受けて『TATAME』に改称しました。

「お畳」という言葉自体は朝日文左衛門の御畳奉行などでも使われてる由緒正しい日本語ですし、日系ブラジル人の間では生き残っていた言い回しなんでしょうけれども、現在の日本人からするとおかしな感じがします。自分が子供の頃は、豆腐のことを女房言葉で「おかべ」という年寄りがいっぱいいましたが、アメリカで豆腐の良さを紹介する書籍のタイトルが『the OKABE』では、日本人の多数には「岡部幸雄の本がアメリカで出たの?」となってしまいかねませんね。

ブラジル人で「生活」という入れ墨を入れている人がいて、どういうつもりかと聞かれて「Lifeを日本語にしたんだぜ」と答えたそうですが。英語のLifeが持つニュアンスからすると、「人生」とかの方がより近いんでしょうけれども。どうも三角縁神獣鏡や稲荷山古墳鉄剣銘の銘文は、それに近い違和感、中学生の稚拙な英作文っぽい感じがしますね。でも、英語ネイティブの人間から見たらおかしな英語も、英語ネイティブでないくんの人間同士だと、かえってなんとなく意味が通じちゃうような物?

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