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ウデータ/基本情報コミュの●自伝/20〜29才●

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■1982(20才)

自身のオリジナル曲を演奏するロックバンド“ジャンクシップ(G.Vo/宇田、B/藤田某、Key/早瀬光、Dr./布家好典)”を結成。“ロック風であること”を強く意識した作品を多産する。

当時心酔していた泉谷シゲルの影響の色濃い「人間のクズ」、ストーンズの“悪魔を憐れむ歌”ギターカッティングとツェッペリンの“天国への階段”のリフを融合させた、初期の記念碑的作品「バイ・バイ」、大熊光代との想い出をコミカルに歌った「クマのバラッド」等。

友人の中畑昌也が大阪のスタジオ246を借りて録音した彼のバンドのデモテープのクオリティに衝撃を受け、同じように246で先の3曲を4トラックにて本格的に録音し、デモテープを制作。そのテープで京都の老舗ライブハウス「拾得」への出演を決める。

この頃、すでに吉田拓郎の存在は僕の中で揺るぎないものであったが、同時にクラブの先輩達の影響で友部正人、加川良といった“関西フォーク”の偉人達にも心酔する。特に友部の旅に関連したトーキングブルースの数々には多大な影響を受けたといっていい。

また、丁度この頃、アルバム「ザ・リバー」を発表した登り調子のブルース・スプリングス・ティーンにを知り、バンドの楽曲の詩、アレンジにも多大な影響を受ける。木屋町のビデオ喫茶で観た「ロザリータ」のライブの熱狂はその後も長きに渡り、僕のロックアイコンとして機能する。

この年の夏、千本丸太町から太秦の「京映荘」に引っ越す。四畳半の下宿屋から六畳・流し台付きアパートへランクアップするが、ここでも一年以上家賃を溜め、大家の目を逃れての隠遁生活を余儀なくされたりする。

この年のバレンタインデーに、音楽同好会の1年後輩であった新井則子(仮名)からチョコレートをもらい、新学期から付き合い始めるが、まだまだ恋愛に慣れておらず、奔放な彼女を独占しようと嫉妬に狂う毎日が続き、両者疲弊して数カ月で関係は破綻。

音楽同好会恒例の長野県夏合宿にて、臨時バンドで自作曲「レティシア」「ラスト・トレイン」「トミーエンジェル」を演奏。「ラスト・トレイン」は新井則子との別れを歌った華曲。

また、この夏、去年の北海道旅行と同じメンバーである友人の佐々木、米島と共に懲りもせず九州旅行へ。福岡から宮崎、鹿児島へと縦断。今回は自分でもある程度の資金を持って行ったが、結局昨年と同じく途中で他の2人とケンカして決別。帰りにはお金が足りなくなり、宮崎に住む親戚に金を借りて帰るというテイタラク。

さらに、この冬のクリスマスイブ、同メンバーで街へ繰り出し、運良く3人連れの女をゲット。後日、その中の一人とデートしてメイクラブ。彼女のことを歌った「トミーエンジェル」を制作するが、これはブルース・スプリングスティーンの「ザ・リバー」にそっくり。翌春彼女は短大を卒業し故郷の四国へ還ってしまう。

年末には単身長野の山田温泉へ。この頃から毎年年末から年始に掛けての、主に長野方面への放浪旅行が始まる。また、西脇順三郎のソフィスティケイトされた旅の詩や、田村隆一の軽妙かつ洒脱な文体を持つエッセイに感銘を受ける。
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■1983(21才)

この年、吉田拓郎ファンクラブ“グループ人間なんて”の会合で、僕の音楽の最大の理解者、吉田さつきと出逢う。彼女をキーボードにスカウトし(ベースが脱退、キーボードの早瀬が脱退したベースを担当した為)、
“第2期ジャンクシップ(G.Vo/宇田、B/早瀬光、G/大崎某、Dr./飯田某、key/吉田さつき)”結成。吉田とは、以降10年に渡って親しく付き合うこととなる。

その他の創作活動としては、大学ノートに水性ペン一発描きのコミック作品、「たとえばこんなラブソング」「夢郎旅日記」「野沢温泉慕情」「夜空のパチンコ」等を執筆。一部支持を得る。

また、洋楽志向の強まりから、学園祭用の有志バンドにてブルース・スプリングスティーン、ローリング・ストーンズ等の楽曲をコピーするが、ボーカルに関してはメチャクチャ英語を適当に怒鳴っていただけ。

この夏のある日、ふと思い立って友人の中畑昌也と彼のワゴン車で琵琶湖へドライブ。真夜中、走れるだけ走ってどこかの湖岸に車を停めて眠ったのだが、次の日の朝、一生の内に何度あるかないかの素晴らしい目覚めを体験する。爽やかな風がワゴン車や体の隙間という隙間をソヨソヨと吹き抜け、無限に散らばる光の粒の全てが輝き、地球と自分の間にあった“膜”が取り払われたような感覚。それは宗教的ですらあった。たとえ相手がむさい中畑であったとしても、だ。ボブ・ディランのけだるい「サマータイム」が、決して手で触ることの出来ない清廉な空気のようにカーステから流れていた。
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■1984(22才)

この夏、高校時代の友人の中畑、米島の3人で、ワゴン車を飛ばし中畑の故郷、山口県・隠岐の島へ。彼の親戚の経営する民宿にタダで数泊(食事付)させてもらう。シュノーケルひとつの素潜りで、空を飛んでいるかの様な、観たことのない海底の眺めに感動したり、いたるところにゴロゴロしている谷岡ヤスジ系の野牛にビビリつつの島中央の岩山に登ったりと、沖ノ島の夏を満喫。

“ジャンクシップ(第2期)”の活動としては、拾得に出演しつつ、スタジオ246にて「ジャンクマン」「キースリチャーズブルース」を録音。

この頃、友人の浅原がアパートに遊びに来た際、マジックで“宇田”と書かれた石鹸のフタを発見。徹底追求され、遂に3年間つき通したウソがバレる。ジャンジャン。

年末年始には懇意となった吉田さつきと長野へ小旅行。野沢温泉を廻り、名古屋を経由して帰る。彼女とはほとんど付き合っているのと等しい雰囲気であったが、何となく一線を引いていた。

また、マーチン・スコセッシの「タクシードライバー」をテレビの深夜劇場で観て、遅ればせながらその新鮮かつ屈折した映像、ニューヨークの雰囲気、ストーリーの破天荒さ、幻想的なラストシーンの全てにハマる。たちまちフェイバリット・ムービーに。
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■1985(23才)

○「石蔵イラスト」入社。

千本丸太町の山田荘から太秦の映画撮影所跡の「京映荘」に引っ越す。6帖一間、流し場付、共同トイレ。遊んでいる訳にも行かず、チャイクロ(図鑑)の訪問販売の職に就くが、すぐにサ店でさぼってしまい、成績が上がらず1ヶ月で退社。

10月、滋賀県の山奥にある石膏工房「(株)オフィスアカデミー」に月給8万円で就職。そこで各種図柄のデザインを担当していた岡原幸代と出会う。社長には怒られてばかりであったが、10才程年上の岡原さんは優しく、僕のデザインや音楽についてこちらが恥ずかしくなるほどの賞賛と共感を示してくれる。が、彼女が神経症で数ヶ月入院、その間社長との関係が悪化し、半年程で退社。

正月は単身で夜行列車に乗り、昨年の長野・五色温泉へ旅行する。この頃、黒いボブ・ディランと呼ばれたボブ・マーリーに興味を持ち、立て続けにアルバムを購入。「ノーウーマン・ノークライ」「アイショット・ザ・シェリフ」が醸し出すレベルソング的な佇まいを非常にカッコ良く感じ、大音量で掛けまくる。

3ヶ月程の無職生活の後、4月「石蔵イラスト」へ入社。給料は最初の3ヶ月は何と3万円。その後、1年掛けて7万円、10万円とステップアップ(?)。社名が“石蔵イラスト”だけに僕もこれでイラストレーターでい、と思いきや仕事は新聞の折り込みチラシのレイアウトばかり。

入社早々、隣の席で年上の美人デザイナー吉田直子女史に一目惚れして「ヘイ・レディ・レイ」を作詞作曲。その他、以前クリスマスに女のコをゲットした思い出をコミカルに歌った「とんでもない女共」、将来に対する漠然とした不安を語る「指折り数え」等、“第2期ジャンクシップ”の代表曲を制作。

この夏、バンドの吉田さつき、友人の藤本克哉氏と共に、吉田拓郎の最後のビッグイベントとなった「ワン・ラストナイト・イン・つま恋」へ。憧憬し続けた巨人がゆっくりと朽ちて行くのを感じる。

この頃、古本屋で見つけ、何となくタイトルに魅かれて買った岸田秀の「ものぐさ精神分析」に多大な影響を受ける。岸田氏はフロイト派の心理学者であり和光大学教授。“すべては幻想である”“人間は本能の壊れた動物である”“文化とは本能の代用品である”という言説にかつてない信憑性を感じ、他の著作も乱読。長い間感じていた“なぜステレオのボリュームは聴きもしない10まであるのか”“なぜ公衆トイレでは数知れぬ他人がチンポコを握ったその手でひねった水道で手を洗うという不毛な行為が行われるのか”という疑問を氷解させる。

岸田氏の云う“こわれた本能(沿うべき水路は壊れているが、エネルギーとしては行き場が定まらず無目的に渦巻いている)”とはすなわち、後々僕が発見する“ロックンロール”とほぼ同義である。
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■1986(24才)

会社の後輩・金子美智代と席が隣同士になったことを機会に急接近。彼女の仕事の悩み等の相談相手になっている内にお互いに恋愛感情が芽生え、ある時、会社近くのサ店で彼女が「仕事を辞める」と言うのを必死でなだめている内に、お互い感極まりその場で長々とディープキス、それを期に本格的に付き合い始める。

バンドのギター、大崎氏が大学卒業を期に脱退。代わりに岸下が加入し、“第3期ジャンクシップ(G/岸下雄一、B/早瀬光、Dr/飯田某、Key/吉田さつき)”の体裁が整う。

円町の“どん底ハウス”を活動拠点とし、スタジオ246にて後期の代表曲「ブロンドオンブロンド」「夜のハイウェイ」を録音、デモテープを送付した“ウエストウイングレコード(今はもうないらしい)”のアポを受け、バンドとしては初めてプロスタッフによるスタジオ録音を体験。

「リュイ・リュイ・リュイ」「朝の天使」を8チャンネルで一発録する。大いに盛り上がったが、その後音沙汰なし。程なくメンバー間にそこはかとない不和が生まれ、バンドは解散。

秋も深まった頃、肺に穴が空き、そこから肺と肺角膜の間に漏れ出した空気が肺を圧迫するという病気、「肺気胸」となり、アパート近くの病院に約1ヶ月入院。病室のテレビで「ビートたけしフライデー殴り込み事件」の速報を見てワクワクする。

金子美智代との密月時期。2人で夏は倉敷へ、年末・年始は飛騨高山へ旅行する。また、この頃、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」「世に棲む日々」「国盗り物語」を通読し、坂本龍馬、高杉晋作、織田信長という日本史の三大傑物に入れ込む。

特に信長には心酔し、いつかストーンズの“ジャンピン・ジャック・フラッシュ”をテーマ曲とし、ドント(稀に見るノブナガ顔)主演で「国盗り〜」を映画にしたい、とまで思い詰めた。
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■1987(25才)

この年、付き合っていた金子美智代の強い希望もあり「京映荘」から、会社からも程近い五条御前通交差点近くへ引っ越す。ユニットながらバストイレ&クーラーまでついた7帖新築ワンルームマンション。

この年、バンド活動は休止していたが、リズムボックスを使って録音した吉田さつきとのユニット“ジャンジャン”のオリジナル曲「シュー」が、大阪市民音楽コンテストで「最優秀賞」を受賞。ステージにて当時の大阪都知事より直に粗大ゴミの如き楯を渡される。

後日、審査員だった“紙風船”の片割れ後藤氏から「キミには必ず客が付く」「会って話したい」との電話があり、新阪急ホテルで会見。予算200万円で、アメリカのスタジオで録音しないかと言われ、驚喜して下宿に数日こもりサンプルを作るが、曲の長さについてディレクターらしき男と電話で口論となり、話は立ち消えに。

年末・年始は金子美智代と萩へ旅行する。この頃の僕の決定的なロックアイコンはストーンズのキース・リチャーズ。以降、ピストルズのジョニー・ロットンにその座を明け渡すまでのかなりの間、キースは僕にとって唯一無二のアイドルとして君臨する。

また、狂気の歌姫ジャニス・ジョプリンや、ジャケ買いしたライブアルバムを聴いて、ニューヨークのロック詩人、ルーリードに少なからぬ興味を持つ等、徐々に僕の中にロックンロールが結晶しつつあった時期。
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■1988(26才)

バンドを解散して、2年近くもライブをやっていない状態に煮詰まり、心機一転して京都御所近くの「どん底ハウス」(円町にあった店舗が引っ越したもの)で毎週水曜日に開催されていた“飛び入りライブデー”に、ギター1本にハーモニカホルダーを下げての弾き語りスタイルで出演し始める。

何度目かのライブの時、当時40才であった平賀氏というオヤジに「キミは本物の匂いがする、ぜひ拾得のライブデーにも参加しろ」と声を掛けられ「やっぱりオレはホンモノなんだ!」と有頂天に。平賀氏を始め、ここで、アイリー入江やSIN、ダイナシ等、多くの友人と出会うこととなる。平賀氏はかつて岡林信康と共に北海道を放浪したこともあるという、関西フォークの生き証人的人物。

年末・年始には金子美智代と軽井沢へ旅行。芥川龍之介が逗留していたという旅館鶴屋に宿泊。しかし、夏の避暑地として有名な軽井沢だけあって、冬の寒さは尋常ではなく、シーズンオフで店も開いておらず、しかも、この旅行はオレが勝手に前から金子と打ち合わせしていた長野からの行き先を変更したものであり、彼女は旅行の間中、不機嫌そうであった。

しかし、この旅は「シュガーカントリー」「この列車は太陽へと向かっているんだ」「寒い街へ」等の曲を生むことになる。

この頃、アインシュタインの「相対性理論」にハマり、走る電車や、下りのエレベーターでの光の実験に大喜びする。が、イメージ遊びを離れ、E=mc2てな数式が出てくるともう訳分かんなくなってダメ。

この年、3年勤続のご褒美に会社から16型カラーTVとVHSビデオを進呈される。さっそく、当時チラホラと出来始めたばかりのレンタルビデオショップにて、観たくてたまらなかったエロビデオを借りて観、頭がクラクラして倒れそうになる。また、「バスケットケース」「シャイニング」「エイリアン」等の伝説的ホラーやSFをレンタルしまくる。

また、遅ればせながら、日本文壇の最重要作家・芥川龍之介に心酔。特に「蜃気楼」や「歯車」「或る阿呆の一生」等、後期の作品に強く惹かれる。さらに、坂口安吾の「信長」や「イノチガケ」等の時代物を読みふける。
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■1989(27才)

1月7日、昭和天皇崩御。時代は平成の世へ。

同じく1月、3年間付き合っていた金子美智代と別れる。最大の原因は僕の優柔不断さにあると思われる。決定打となったのは、2人で行く冬期の旅行の行き先を彼女に相談もなしに突然変更したこと(旅行料金は割りカンなのに)、彼女が大切に思っている友人が参加していた飲み会を、寝ていて忘れたことなどが上げられるが、それらは切っ掛けに過ぎず、やはり日頃積もり積もって来た不満が爆発したのだろう。

その直後の1月12〜15日、別に失恋の傷を癒すという訳ではないが、前年度から友人の中畑に強く進められ、金まで出してもらって、今や相当有名となった故・高橋信次率いる“ライフスペース”の自己啓発セミナーのベーシックコースを受講。

近代的なビルの1フロアを借り切り、老若男女50人程を集めて4日間の日程で行なわれるこのセミナーで、僕は自らを実験台として人がいかに洗脳されやすいかを思い知ることになる。

小さな体育館ほどのスペースに軟禁され、トレーナーと称するやたらと覇気のあるオヤジに朝から晩まで同じ価値観を叩き込まれれば、誰もがソノ気になってくる(考えてみればすべての俗事に確固たる根拠がない以上、洗脳されやすさは人間の特質であると言えよう)。

セミナーの要旨は至ってシンプルであり、いわゆる宗教性はない。目の前にコップに入った水があり、水が飲みたいと思えば誰もが何ら躊躇なくコップに手を伸ばし水を飲むであろう、しかし、好きな人に告白するとなるとこうはいかない。なぜか。それは、もともと生まれ持ったピュアな心の核に、ひとことで言えば人間関係のシガラミ(このシガラミのことをセミナーでは“グランジ”と呼び習わしていた。数年後にブレイクすることになる“グランジ”ロックも、もちろん同じ系譜を汲む言葉であろう)がこびり着いて層を成し、我々の行動を抑制しているからであり、セミナーはそのシガラミの層を砕いてピュアな自分を採り戻すためのもの、ということであった。

ここで出逢った22才の美人OL片岡礼子に“アムウェイ”に勧誘され、自宅デモの色香に負けてディストリビューターに登録。自分がいかに節操がないかを実感。

8月、片岡礼子と岐阜へ小旅行。織田信長ゆかりの地を探訪。しかし、“ライフスペース”“アムウェイ”“片岡礼子とのイイ関係”共、すべて長続きせず。自分がいかに粘りがないかを実感。

久しぶりにバンドが組みたくなり、最初のオリジナルバンド“ジャンクシップ”のドラマーであった布家、キーボードに吉田、ベースに早瀬光を誘い、新バンド“奇妙丸”を結成。その後、吉田の紹介でギターに高橋秀好が参加し、「バラバラッド」「メインストリートに火花」「ニューロックンロール」といった宇田中期の代表曲を録音。拾得でのライブも定期的にこなす。

この頃、会社が巨費を掛けて導入したマッキントッシュ2fxにインストールされていたイラストレーター3xを使って「UDA BIG ART」シリーズ(自作イラスト集)を制作。深夜、会社に侵入して膨大な数のA3作品をカラー出力する。“MATURI”“TABACO”“TISSUE”各シリーズ等。頼りなげな手書きのラインが、マシンを経て出力されることである種のスタイル(力=パワー)を持つことを確信する。

この頃、会社に出入りしていた業者から初めてのワープロ「書院」(当時20万円もした)を2年ローンにて購入。まだまだ扱い慣れないキ−ボードにて、せっせと駄文を打ち散らかすようになる。

この年末・年始は一人で長野へ。「1990」「秘密」「メガラマニアック」「トルバドールブギ」「ディアー」等、宇田の代表的なフォークソングの殆どはこの時期の作。また、芥川龍之介の後期の私小説的作品、「歯車」や「蜃気楼」に心酔。
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■1990(28才)

漫画の投稿を真剣に考え始め、ケント紙にペン描きで、唯物論と形而上学を融合させた「神的恋愛論(ストーリー物)」、望月峰太郎の影響が色濃い「ジハード(ストーリー物)」、80年代に一世を風靡したわたせせいぞうの漫画を思い切ってフォーキーにアレンジした「トラベリンマン(1頁16コマ物)」、相原コージ的不条理に魅せられた「うごめきくん(四コマ物)」等を相次いで執筆。

会社から帰ってメシを食い10時位に寝て、朝の3時に起きて描くというハードスケジュールをこなす。が、結局どれも送らないまま時が過ぎる。ツメが甘い。が、「トラベリンマン」はSINに紹介された大阪のフリーペーパー“ジャングルライフ”の編集長に気に入られ2,3度掲載される。

夏には、吉田さつきと姫路から瀬戸内海の白石島へ旅行。ロードームーヴィー的なビデオ作品「うの一夏by高杉(SA-TU-EI)」を撮影。島のむせ返るような美しさと閉鎖された密室的な物語性に大いに魅せられる。
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■1991(29才)

○1月17日、“湾岸戦争”勃発。

それを受け、5月には“どん底ハウス”で知り合い、懇意となったダイナシ(上杉)の呼び掛けで京大の西部講堂にて行われた一大反戦イベント「あらぶのあぶら」に企画段階から参加。他にも多くの異色バンドが集う。

その後“奇妙丸”は、クリスマスにスタジオ246で「コガネムシ」「花火」「アトミックロック」等の楽曲を録音、大作「闇は批判する」制作後間もなくギター、ドラマーが“宇田が時間にルーズであること、ライブ後に反省会をしないこと”等を理由に相次いで脱退(?-違うっけ?)。「闇は〜」で、某コンテストへの参加が決まっていたが、バンドは解散状態に。

その後、個性派ニューウェイブ系の小林君をギタリストに、キース・ムーンをとてつもなく下手にしたような原君をドラムスにフューチャーした新バンドを結成。古本屋で見つけたニーチェの「ツァラトゥストラ」の持つ雰囲気に惹かれ、バンド名を“ツァラトゥストラ”とする。

ベースは中島氏、キーボードは奇妙丸でベースをこなした早瀬光(本来はキーボーディストだが…)。リズム的にヨレヨレながら「パレード」「ツァラトゥストラ」「いとしのセブンティーン」をスタジオ246にて録音し、拾得でライブをこなす。

バンド名にしたのだから、少しは理解しておかないとという気持ちから少しづつニーチェの著作を読み始め、“真実はない、ただ無数の解釈がある”というアフォリズムに、岸田秀以来の衝撃を受ける。

また、この年、バンド仲間であった布家氏にそそのかされ、自宅転送テレクラ、つまりツーショットダイヤルを初体験。その匿名性を利用し、24才・森川ヨシオを騙る。ルーズソックス前夜の17才・高校生“ヨシコ”、祇園の26才・ホステス“ジュンコ”と相次いで出逢い、この新しいコミュニケーションツールの実用性を痛感する。

8月にはヨシコを連れてハイウェイバスで下関まで、また、9月にはジュンコの車で出来たばかりの瀬戸大橋を渡り、レオマワールドへ小旅行。忘れられない夏となる。さらに、山科のジュンコ宅で数ヶ月のヒモ風生活をエンジョイ。同時に当時チラホラ出来始めたカラオケボックスに連れて行ってもらったり、初めてのカーセックスを体験したりする。

その体験を元に、ワープロにて、初の私小説「ネオンテトラ」を執筆。同ワープロにてその他の駄文を書き散らし始める。その後2人との関係は自然消滅。このツーショットダイヤルとの出会いは大きなメルクマールとなる。

宇田のトーキングブルースの佳作、「0990-1」「0990-2」はそれぞれヨシコ、ジュンコがモデルである。11月、ツーショットダイヤルにて村上あゆみと出逢い、丁度住んでいたマンションが契約切れになった彼女が、僕の7帖のワンルームに転がり込んで来てナシ崩し的な同棲生活へ。

年末年始は彼女と尾道へ小旅行。海峡の町を堪能する。

(ウッディー)

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