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猛虎伝説コミュの景浦将(全7伝説)

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景浦将 かげうら・まさる
背番号 6
在籍1936年〜1939年 1943年

初代ミスタータイガースと呼ぶ人もいる創世記の最大のスター選手。
人呼んで「闘将」、投打にわたり打倒沢村に燃えた。
首位打者1回 打点王2回 最高勝率1回 最優秀防御率1回
給料の面で球団と揉めたり、2度の出征のため、野球人生は短かった。

1915.7.20生
出身地  愛媛県
出身校  松山商業 立教大学中退
外野248 投手56 三塁30 一塁28 右投右打
173cm 75kg

1931年 春夏甲子園出場 7番サード
1932年 投手兼三塁手で甲子園出場 春優勝 夏は決勝で3塁打二本放つが投手強襲の打球を脚に受け降板 準優勝
1936年 2月28日 阪神側の熱意によって立教大を中退し、大阪タイガース創立時に入団

1936年 背番号6 46試合 2本 38打点 .275  投手 9試合 6勝0敗 1.05 最高勝率(秋) 
1937年春 55試合 2本 47打点(打点王).289 投手 22試合 11勝5敗 防御率0.93で2位  開幕投手
1937年秋 38試合 3本 31打点 首位打者 .333 投手8試合 東西対抗出場 外野を守る事が多くなった
1938年春 31試合 5本 31打点(打点王) .283 投手6試合 2勝0敗
1938年秋 27試合 1本 13打点 .263 投手5試合 2勝1敗
1939年 74試合 9本 38打点 .258 投手6試合 2勝2敗 東西対抗出場

1940年〜1942年 応召する 出兵

1943年 除隊 阪神復帰 主将 52試合 3本 24打点 .216  一塁28試合 三塁24試合 東西対抗出場

1944年 家業の材木店を継ぐため帰郷 その後応召する
1945年 フィリピン・カラングラン島で戦死(餓死したとも言われる 5月20日)

1965年 殿堂入り

投手4年 登板56試合 勝利27 敗戦9 完投10 完封2 奪三振134 投球回274.1 奪三振134 防御率1.58
打者5年 出場323試合 打数1134 安打307 本塁打25 打点222 盗塁28 打率.271

コメント(21)

★史上最強の打者★

藤本定義が「史上最強の打者」と評した選手。
それは「プロ野球草創期のサバンナを縦横無尽に駆け回る肉食獣」のイメージがあったからだ。
もし、戦争が影浦の命を奪わなかったら、ミスタータイガースの系譜は全く違ったページを記しただろうし、プロ野球の歴史も変化したと言われたほどである。

在籍5年で通算打率.271、本塁打25本は大した記録ではないが、戦前の粗悪な素材のボールとバット、広い甲子園球場を考えると、数字以上のものがそこにはあった。
写真左 阪神初代監督 森茂雄
写真中 2代目監督 石本秀一
写真右 3代目・7代目監督 松木謙治郎


★造反★

1932年に松山商の投手兼三塁手として甲子園で春優勝、夏は準優勝している。
その後は立大に進み外野手として六大学の花形選手となり、松山商の先輩である初代監督・森茂雄に誘われて入団したのが1936年だった。

入団後はすぐに三塁手に戻り4番を打った。
公式には身長173cmだったが実際には167cmしかなかったとも言われたが、それでも沢村栄治(巨人)には180cmぐらいに見えたそうだから"豪傑"なプレーぶりが想像出来る。

影浦を誘った森は監督になってすぐの7月に更迭され、石本秀一が監督になるが、影浦はその監督交代にあからさまに不満を表した。
守備に就いているときに打球が飛んできても知らん顔、打席ではわざと空振りという造反を示すやんちゃ坊主ぶり。
松木謙治郎が注意をすると、素直に頭をペコリと下げ舌をペロッと出す茶目っ気もあった。
★ケタ外れの豪傑★

影浦をタイガースに誘ってくれた、立大の先輩である初代監督の森をいびり出したと言われた2代目監督の石本とはソリが合わず、影浦は"アンチ石本"であった。

だが、ここ一番の場面では、打席からベンチの石本監督に向かって指を一本立てて「ここで打ったら・・・」とボーナスを要求。
石本監督がうなずくと必ず快打を飛ばしたらしい。
それを見ていた藤本定義は「ヤツの打撃センスとパワーは無尽蔵や!」と、ブルッたという。
その賞金で立大の同輩・坪内選手らとドンチャン騒ぎをして、一晩でパーっと使い切ったという豪傑ぶりであった。

試合途中でボーナスを要求して、その通りにかっ飛ばした猛者は影浦が最初で最後である。
その上、宵越しの金は持たないという遊び人で、ステーキ3キロぐらいはペロリと平らげる大食漢だったが、酒は一滴も飲めなかったというから驚きだ!
★影浦vs沢村★

日本プロ野球の歴史は、影浦将(阪神)vs沢村栄治(巨人)の『伝説の対決』から始まった。

まだ日本に “プロ野球” のなかった1934年、ベーブルースを筆頭とする全米オールスターズの来日にあわせて、全日本チームが結成された。
全日本チームは翌年、米国遠征を敢行。
その際、「東京ジャイアンツ」と名づけられ、これが『巨人軍』の誕生である。

そのころ大阪では、東の巨人軍に対抗すべく新たなチーム作りが始まった。その名は、『大阪タイガース』。
やがて、名古屋金鯱軍、阪急軍なども加わり、1936年、7球団で 『日本職業野球連盟』が結成された。

本格的なリーグ戦は、その年の秋に開幕。
方式は複雑で、1回戦総当りリーグを4度、トーナメント戦を2度行い、それぞれの大会で1位になったチームに勝ち点を与え、勝ち点の合計でトップになったチームを年度優勝とするというものであった。
ところが、すべての大会を終了した時点で、勝ち点トップで2チームが並ぶ。
それがタイガースと 巨人軍で、12月に両者の雌雄を決すべく、優勝決定戦(3回戦制)が開催されることになった。

巨人軍の大黒柱は、あのベーブルースをも驚愕させた若きエース沢村栄治。
9月のタイガース戦では、日本プロ野球初のノーヒットノーランも記録していた。
一方、タイガースのスーパースターは、エースで打線の核でもある影浦将。
当時、 「巨人を語ることは沢村栄治を語ること。タイガースを語ることは影浦将を語ること」 と言われた2人の対決に注目は集まった。

12月9日、気温2度。東京の埋立地に完成したばかりの洲崎球場で、日本プロ野球初の決戦の火ぶたは切られた。



第1戦。先発は予想通り、巨人・沢村、、タイガース・影浦。
立ち上がりは両者とも無難にゼロに抑えたが、3回に影浦がつかまった。
連打でピンチを迎え、2度のスクイズでかき回されると、守備の乱れも重なって一挙に4点を奪われる。
沢村を相手に序盤の4失点は致命的かに思われた。
しかし続く4回、影浦はすぐさまバットで反撃する。
走者を2人置いて登場すると、沢村のブレーキの鋭いドロップを豪快に弾き返と、打球は大きな弧を描き、そのままスタンドへ。
影浦の3ランホームランで1点差で期待通りの好ゲームになり、影浦vs沢村は熾烈な戦いとなっていく。
その後は、両投手ともに立ち直り、つけ入る隙を与えない。
結局、11三振を奪い3点に抑えた沢村が5−3で影浦に投げ勝ち、巨人が大事な第1戦をものにした。



第2戦は、連投の沢村が自責点は1ながら、失策がらみで6回までに5点を失う。
一方の影浦は、この日は打撃に専念して、タイガースは御園生−若林のリレーで巨人打線を封じ、5−3で快勝して対戦成績を1勝1敗の五分に持ち込んだ。



そして、運命の第3戦。
巨人の先発は、前日リリーフに立った前川、タイガースは中1日あけて、エース影浦。
序盤に2点を先制したタイガースは初代王者に向けてエース影浦はエンジン全開。
しかし4回、“魔物” が影浦を襲う。
この回、3つの失策で出した走者を2本のタイムリーで返され、まさかの4失点で影浦は自責点は0ながら、巨人に逆転を許してしまう。
リードを奪った巨人は、5回からすかさず3連投の沢村を投入し、勝負に出た。
沢村は連投の疲れも見せず、気迫のピッチングでこれに応える。
そして8回、一発出れば同点の場面で打席に影浦が向かう。
この試合最大のヤマ場を迎えた。
第1戦でドロップを豪快にスタンドに運ばれた沢村。 ここは一転して渾身のストレートで押す。
ストレート、ストレート、 そして最後もストレート。
沢村は気迫のピッチングに、影浦は三振をきっしてしまう。
結局沢村は、登板した5回以降3安打無失点に抑え、4−2で巨人軍に勝利をもたらした。


こうして日本プロ野球“初代王者”の栄冠は、激闘の末、東京巨人軍に輝いた。
★あぶさん★

水島新司の漫画''あぶさん''。そのモデルといえば、近鉄や日ハムで活躍した永淵洋三との説が有力だが“影浦安武”という名前は阪神の名選手にあやかったものでもある。
創立時以来の主砲で、若くして戦死した''影浦将''。
南海と同じくらい阪神が好きな水島は、沢村からの場外の海に飛び込む一発を放った豪打を、重ね合わせたのだ。

また''男どアホウ甲子園''の''藤村甲子園''は藤村富美男からだし、''ドカベン''には往年の名捕手・土井垣武と影浦将を組み合わせた“土井垣将”という脇役が。
中西清起と''球道くん''のつながりも、またしかり。
★戦死★

1945年 5月20日 フィリピン・カラングラン島で戦死

阪神ダイナマイト打線の中心的存在として、もはや伝説となった影浦将はフィリピン戦線ルソン島の山中に孤立し補給の途絶えた部隊の食事当番であった。
影浦はマラリヤの高熱を押して食料調達に出掛けたまま行方不明になったという。
再召集の兵役であったため、一旦内地に戻った1943年〜11944年に阪神へ復帰、代打10打席連続安打という派手な記録を最後に、甲子園で彼の勇姿を見ることは2度と出来なかった。

影浦将こそが真の初代ミスタータイガースだったと主張するオールドファンは今だに多い・・・
★殿堂入り★

景浦将 かげうらまさる
打倒・沢村に燃えたタイガースの強打者

殿堂入年度: 1965年
表彰区分: 特別表彰
出身地: 愛媛県
生年月日: 1915年7月20日
没年月日: 1945年5月20日
出身校: 松山商業→立教大

【顕彰文】
松山商業 立教を経て職業野球創設期に「投」の沢村に対照して、「打」の景浦と並称された長距離打者であった。強肩を利して投手をもつとめ、豪放な性格で人気を集めた。
【成績詳細】
タイトル: 首位打者1回('37秋)/打点王2回('37春、'38春)/最高勝率1回('36秋)/最優秀防御率1回('36秋)
記録: シーズン最高勝率1.000('36秋)※プロ記録/14試合連続得点('38.7.9〜9.9)
リクエストに応えて戴き有難う御座いました。影浦さんって動画残っているのでしょうかね?沢村さんの方は有名な動画が有りますが、影浦さんは有るのかな? そういえば、造反に書かれている件で(ボールを追わないとか・・)野球殿堂入りに反対者も居たとか。。
>きっどさん

私も戦前の猛虎伝説にはまってきました・・・
乞うご期待

★戦前の猛虎伝説
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14729908&comment_count=7&comm_id=1721075
ファンタジーなんですよね、映像も無いし見たことも無い想像の世界ですからw 一番左のポスター見たら12月まで試合してますもんね。凄いなぁw
>有馬さん
写真ありがとね^^
この時代で貴重なカラー写真です。
遠慮しないでいただきま〜す!

最近サボり気味でしたが、またやる気が湧いてきました^^
立教大学で、あの長嶋茂雄も、目標にしていたOBが、景浦氏、沢村投手とのライバルも、勿論ですが、沢村投手と言えば、小学生時代からライバルだった、「酒仙投手」西村幸生投手と沢村投手とのエピソードも、欠かせませんネ!
祖父母が健在なので、景浦将さんの逸話(実話)をよく聞いて育っています。1リーグ時代の選手を試合で生で見ていて、練習も実際見ているので間違いないです。

父母も小さい時に、景浦さん(1943年)の試合等を見てきているので戦後の1リーグ時代を含め、記憶が鮮明に残っている世代です。


練習中に、左中間最深部から(約140メートル)ノーバウンドでキャッチャーに返球していたそうです。全盛期の新庄の肩より凄かったそうで、「新庄は戦前なら普通の肩」(祖父談)
といつも言っていますexclamation ×2

藤井さん、山口さん、藤村富さんの肩が新庄クラス、景浦さん、松木さん、別当さんの肩は別格だそうです。衝撃


戦前の試合で、甲子園で右中間、左中間最深部にホームランを打った選手は景浦選手だけ・・・

「田淵さんの弾道は景浦さんのものに近い」そうですが、「飛距離は景浦さんの方が上」、「もし田淵さんが怪我しなければ(試合中の事故に遭わず)、今のアニキ並の身体だったら景浦と並んでいただろう」と言っています。衝撃

惜しい人を戦争で亡くした。と語っています。

凄い選手ばかりだったんですね。






伝説の選手ですね。

すごくデカクて体格のいい選手、っといったイメージです。

身長を拝見したら藤モン位ですね。
今の選手達は大型化していますが、身体の頑丈さでは昔の選手に敵いませんでしょうね。
>きのっちさん
羨ましい限りです、景浦選手をはじめ、往年の大スターをこの目で見てきた祖父母から、直接、選手達の武勇伝を聞けるのですから・・・手(チョキ)わーい(嬉しい顔)

>ハイタッチさん
確かに頑丈さでは絶対に昔の選手には敵わないのでしょうねダッシュ(走り出す様)
景浦選手の事は甲子園の記念館でも知る事が出来ますが、改めて凄い選手だったと感じました。(
影浦選手画像残ってるらしいですね。
素振りしてる画像らしいですが、
まるでねじ切れそうなフルスイングだとか。。

戦争が無ければ、藤村と最強コンビが形成されたんだろうなw

ま、タイガースの場合両雄並び立たずになってる
心配の方が強いか・・・・

祖父母談から

景浦さんが戦死しなかった場合、景浦さんを尊敬して入団した別当薫さんと最強コンビが形成されたはずです。

3番、センター 別当
4番、レフト  景浦

戦前の主役で大スターだったのは、景浦さん、松木さん、若林さん、西村さんらです。彼らの人気が絶大でグラウンドに出てくるだけで、どよめきが起きたそうです。

藤村さんは戦前は脇役(いぶし銀)で、彼らが出てくると目立たない存在だったそうです。


藤村さんが戦後活躍したのは、6大学の大スター別当さんに人気が集中したため、別当さんに対抗するため「ものほし竿」でHR量産、派手なパフォーマンスをしたためです。


戦前は大学卒の選手が大スターで活躍していて、若林さん、景浦さん、松木さんらがチームで発言力、影響力がありました。

しかし景浦さんが戦死したことで、大卒と高卒選手が派閥を作ってしまい、軋轢が生まれます。


2リーグ分裂の時、もし景浦さんが生きていて「タイガースに残る」と発言していたら、別当さんは勿論、若林さんも残ったでしょう。その他の選手も移籍しない可能性が高いです。

逆に藤村さんや、その他藤村さんを慕う選手が毎日に移籍していたと話しています。


彼が生きていたら、セリーグはタイガースが黄金期を迎えて、景浦さんの立教大の後輩である長嶋さんもタイガースに入っていたんではないでしょうか。


















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