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猛虎伝説コミュの田淵幸一(全21伝説)

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田淵 幸一  たぶち こういち
背番号 22
在籍1969年〜1978年

三代目ミスタータイガース

捕手という厳しいポジションながら、恵まれた体格を生かした力強いスイングで、他の選手には見られない高くて美しい弾道のホームランを量産した天性のアーチストと呼ばれた。
江夏との黄金のバッテリーはプロ野球史上最強である。

1946.9.24生
出身地  東京都豊島区
出身校  法政一高 法政大学
捕手・外野手・一塁手 右投げ右打ち

1968年 春六大学ベストナイン捕手 六大学通算22本塁打は慶応高橋由伸が破るまで約30年間破られなかった。読売入りを熱望するも ドラフト1位で阪神が指名

1969年 阪神タイガース 背番号22 117試合 22本 .226 新人王 オールスターファン投票出場 プロ入り初安打は池田(大洋)からのホームラン
1970年 89試合 21本 .244 オールスターファン投票出場 8月26日外木場(広島)から頭部に死球を受け、意識不明5日間 全治3ケ月
1971年 80試合 18本 .228 オールスター出場
1972年 128試合 34本 .258 4番打者 ベストナイン オールスター出場
1973年 119試合 37本 .256 ベストナイン ダイヤモンドグラブ賞 オールスターファン投票出場 4打席連続本塁打 巨人戦では死球をはさんで7打席連続本塁打
1974年 129試合 45本 .278 ベストナイン ダイヤモンドグラブ賞 オールスターファン投票出場 王に2本差をつけていたが読売4連戦で卑怯な連続四球にあい、本塁打王を逃す。
1975年 130試合 43本(本塁打王) .303 ベストナイン オールスターファン投票出場
1976年 130試合 39本 .277 ベストナイン オールスターファン投票出場 
1977年 102試合 23本 .261
1978年 117試合 38本 .288 オールスターファン投票出場
     
1979年 田淵・古沢−真弓・竹之内・若菜・竹田の交換トレード
1979年〜1984年 西武ライオンズ  ライオンズの新しい顔として活躍 アニメ「がんばれタブチくん」がヒット
1983年正力松太郎賞受賞 1979年、1984年オールスター出場

1984年 10月 タブチ・エンタープライズ設立
1985年〜1989年 TBS解説者 スポーツニッポン評論家
1990年〜1992年 福岡ダイエーホークス 監督
1993年〜22001年 TBS解説者 スポーツニッポン評論家
2002年 阪神タイガース チーフ打撃コーチ 背番号88
2003年 チーフ打撃コーチ
2004年 TBS解説者

著書 「ホームランだけが人生だ」「ぼくのホームラン野球教室」他

実動16年 試合出場1739 打数5881 安打1532 本塁打474 打点1135 盗塁18 盗塁死24 犠打0 犠飛43 打率.260
監督通算3年 試合390 勝利151 敗戦230 引き分け9 勝率.39

コメント(23)

★東京六大学の本塁打王★

法政大学時代は、山本浩二・富田勝とともに『法政三羽カラス』と呼ばれ、黄金時代を築いた。

法政大学3年生の春には通算8号ホームランを放ち、それまで長嶋茂雄(立教→巨人)が持っていた東京6大学野球通算本塁打記録に並んだ。
そして、慶応大学戦では左中間を破る当たりを放ち、明らかにランニングホームランで記録更新となるところにもかかわらず、三塁でストップ。
それは、新記録はスタンドにまで運んで達成したかったからだという。
もちろん、新記録は、その後すぐに達成され、最終的には大学通算22号本塁打という記録を残している。

この記録は1997年に高橋由伸(慶大→巨人)に破られるまでリーグ記録だった。
★第4回ドラフト選択会議(昭和43年)★

法政三羽カラス(田淵、山本浩二、富田)を中心にこの年は史上まれにみる新人の大豊作となった。

【各チームのドラフト1位指名選手】
※当時は抽選で氏名順位が決められ、その順番のあやで数々のドラマが生まれた。

東映(指名順位1番目) 大橋 穣 亜細亜大 内野手

広島(指名順位2番目) 山本 浩司 法政大 外野手
ミスター赤ヘル 首位打者1回 本塁打王4回 打点王3回

阪神(指名順位3番目) 田淵 幸一 法政大   捕手
阪神史上最強の捕手 セリーグ新人王 本塁打王1回

南海(指名順位4番目) 富田 勝 法政大 内野手

サンケイ(指名順位5番目) 藤原 真   全鐘紡 投手

ロッテ (指名順位6番目) 有藤 道世 近畿大 内野手
ミスターロッテ パリーグ新人王 首位打者1回

近鉄(指名順位7番目) 水谷 宏 全鐘紡 投手

巨人(指名順位8番目) 島野 修 武相高 投手

大洋(指名順位9番目) 野村 収 駒沢大 投手

中日(指名順位10番目) 星野 仙一 明治大 投手
我らの仙ちゃん 屈指の巨人キラー 最多セーブ王1回

阪急(指名順位11番目) 山田 久志 富士鉄釜石 投手
最強サブマリン投手 最多勝3回 最優秀防御率2回

西鉄(指名順位12番目) 東尾 修   箕島高   投手
元西武監督 最多勝2回 最優秀防御率1回


【その他の主な指名選手】
阪急(ドラフト2位)  加藤秀司  松下電器  内野手
阪急黄金時代の主砲 首位打者2回 打点王3回

阪急(ドラフト7位)  福本豊   松下電器  外野手
世界の盗塁王 13年連続盗塁王 シーズン106個は日本記録

東映(ドラフト4位) 金田留広 日通浦和 投手
400勝投手金田正一の実弟 最多勝2回

ロッテ(ドラフト9位) 飯島秀雄 茨城県庁 短距離走
東京・メキシコオリンピック出場 国際陸上で100m10秒1の日本新記録
★黄金のバッテリー★

田淵は、阪神に入団したとき、2歳年下の江夏豊は既に阪神のエースだった。春のキャンプで初めて江夏の剛速球を受けた田淵に江夏は「球を捕るときにミットが動いている。それでは際どいコースがボールと判定されてしまう」と指導。

田淵は、その日からミットを動かさずに江夏の剛速球を受けるため、左手を集中的に鍛える。
それは思わぬ効果を生んだ。左腕を強化したせいで、外角の球をいとも簡単に美しい弾道でスタンドまで運べるようになったのだ。江夏が投げて田淵が援護する。

プロ野球史上に名バッテリーは数多くあれども、総合力なら彼らが間違いなく最強のバッテリーだろう。
★天性のアーチスト★

田淵幸一は、昭和50年にあの王貞治からホームラン王を奪った天性の長距離砲でああったが、田淵の最大の持ち味は、高々と舞い上がり、スタンドに深々と舞い降りていく美しい本塁打でその虹のような美しさに、人々は「天性のアーチスト」「史上最も美しいホームランを打った男」と呼んだ。

力が入ってる感じがしないのに、綺麗にボールが飛んで行く。この人しか真似の出来ない打ち方、まさに天才肌と言うにふさわしい。
ゆったり構えてスーッとバットが出る。
ボールが衝突するのではなく、まるでバットに吸い込まれるような美しさ。そしてさほど激しい衝突も感じられないまま、打球は高々と夜空に舞い上がり、長い長い滞空時間の後、静かにスタンドに弾む...この時間を楽しむ事こそが田淵のホームランの醍醐味でした。
★プロ初打席★

1969年、田淵は甲子園の大洋戦で9回江夏豊の代打として打席に立った。これが田淵のプロ初打席である。
しかし、マウンド上には後に通算200勝を達成する大エース平松政次が立っていた。
田淵は平松のカミソリシュートと呼ばれる鋭いシュートの前にあえなく3球3振。
それでも、翌日、田淵は6回と8回に本塁打を放ち、早くもアーチストとしての才能を見せ始めている。



『平松 政次』(ひらまつ まさじ)
球界最高のシュートの使い手として名高い。平松が投げるシュートは「カミソリシュート」の異名をとり、切れ味抜群だった。
通算201勝、そのうち51勝を巨人戦で挙げる、巨人からの勝星数は金田正一に次ぐ歴代2位で巨人キラーとして名を広めた。
★涙のホームラン★

1974年「父死ス」の電報をポケットに入れながら、監督の「試合を気にせんと帰ったれ」の言葉をさえぎり、平松から涙のホームランを2発放つ。

奇しくも平松投手はプロ入り初打席を三振に仕留められた因縁の投手であった。
★人生最悪のデッドボール★

1968年ドラフト1位で阪神タイガースに入団。ルーキーイヤーの1969年に22本の本塁打を放ち、新人王に選出された。

田淵は2年目も順調で、前年を上回るペースで本塁打を量産、1970年8月9日対大洋戦で21本目の本塁打を放ち、自身の記録にあと1本というところまできた。
そして、運命の1970年8月26日 対広島戦19回戦(甲子園)、田淵は6番捕手としてスタメン出場。広島の先発は外木場義郎だった。
田淵は第1打席、左肘に死球を受ける。
第2打席では前の打席で当てられているだけに、絶対打ってやろうという気持ちが田淵にあったと推測される。
一方、外木場は3回裏、4番遠井吾郎に満塁本塁打を浴び、5番バレンタインにセンター前ヒットを打たれて、なおも無死という状態が続き、相当頭に血が昇っていたと推測される。
そして、打席に6番田淵が入る。

その初球。外古場が投じた内角の速球を、打ち気満々の田淵は避け切れない。左側頭部にもろに死球を受け昏倒する。
左耳から血が溢れ出て、駆けつけたナインは死ぬかもしれないと思ったそうだ。

このときに、意識を取り戻した田淵が最初に発した言葉。それは「阪神勝ったか?」でした。

田淵は救急車で西宮市鳴尾の明和病院にかつぎこまれ、9月1日には大阪市福島区にある大阪厚生年金病院へ転院。精密検査の結果、全治3ヶ月と診断されて後半戦を欠場、10月14日まで入院生活を送った。
この死球が原因で、田淵の左耳は難聴になり、捕邪飛を追う際に方向感覚にズレが生じるようになってしまう。

実は、田淵は大学時代から内角球の逃げ方がうまくなかった。しかし、ホームランバッターである田淵に対し相手投手は内角を攻めるため、当然死球が多くなる。
これを憂慮した球団は、耳当てつきのヘルメットを準備していた。しかしこのヘルメットが届くのは、この死球があった翌日だった。
勝負事に「たら」「れば」は禁句だが、もしこの耳当てつきのヘルメットが1日早く届いていたら、田淵のその後の野球人生は大きく違っていたかもしれない。
★輝け!!猛虎22番★

1975年、ビクターから発売された1枚のLPレコード
「やったぜホームラン王! スーパースター22番/田淵幸一」

田淵幸一が本塁打王を獲得した記念に出された1枚です。

この中には植草貞夫さんのホームランシーンの実況中継や、田淵へのインタビューの他に、田淵自身が録音に参加した2曲の曲が収録されている。
その中の1曲が下記の「輝け!!猛虎22番」です。
東京混声合唱団男声部による力強いコーラスで曲が進行し、その合間に田淵のセリフが挿入されています。



「輝け!!猛虎22番」」
歌:東京混声合唱団・服部ひろ恵  セリフ:田淵幸一

T・A・B・U・C・H・I
かっ飛ばせ かっ飛ばせ 田淵
怒涛渦巻く 甲子園
期待と声援 背に受けて
野球ドアホの血が燃える
「好球必打!」「わーホ−ムランだぁ」
もやしと言われた少年時代
唇かんで頑張り抜いた
悔し涙は活きていた 活きていた
吠えろ若虎 オーオーオオ オー
栄光の背番号22番

T・A・B・U・C・H・I
かっ飛ばせ かっ飛ばせ 田淵
日本列島 股にかけ
男が命をバットに賭けりゃ
野球ドアホの血が燃える
「一球入魂!」
「わーホ−ムランだぁ」
デッドボ−ルも敬遠さえも
怖れず行けと父に言われた
誓い果たして今ここに 今ここに
吠えろ若虎 オーオーオオ オー
栄光の背番号22番

T・A・B・U・C・H・I
かっ飛ばせ かっ飛ばせ 田淵
★巨人戦7打席連続本塁打★

1973年4月26日、田淵は後楽園球場で行われた巨人戦で6回に関本四十四投手から左翼席へ3号本塁打を放つと、8回に菅原勝矢投手から左翼席へ4号2ラン。打棒は勢いをさらに増して、9回には同じ菅原投手から5号3ラン。

そして、続いて5月9日に甲子園で行われた試合でも2回に高橋善正投手から左翼席へ9号ソロ。次の打席では死球に終わったものの7回には高橋投手から左翼席へ10号2ラン。9回にも高橋投手からセンターへ11号ソロを放って6打数連続本塁打とした。

さらに翌10日には1回に高橋一三投手から左翼席へ12号2ランを放ち、同一カード7打数連続本塁打という不滅の記録を成し遂げた。


写真の左は高橋一三
右は関本投手
★天敵 安田猛(ヤクルト)★

安田の無四球記録を止める

1973年9月9日、ヤクルトの安田猛投手がプロ野球新記録を続けていた 連続イニング無四死球が、田淵を敬遠したことにより、81イニングで止まった。
7月17日の対阪神15回戦の8回表1死二塁で田淵を敬遠で歩かせたのを最後にその試合の9回から無四死球を続け、1950年の白木義一郎投手(東急)の74を破り、81イニングまで継続していたが、9月9日の対阪神25回戦2−2で迎えた9回2死二塁で同じ田淵を敬遠し記録をストップした。

田淵への敬遠の後からはじまった連続無四死球が、田淵への敬遠でとっまてしまいました。。。
★シュートが得意?★

「天性のアーティスト」と呼ばれるほど、美しいホームランでファンをシビレさせた田淵幸一。
あの王貞治と同世代だったため、本塁打王のタイトルは一度きりだけど・・・まぁ、「2番目で良し」の姿勢も楽天家の田淵らしい。
そんな田淵のホームランの球種が、すべてシュートだったとは・・・どういうことやねん?
これは田淵が、苦手としたシュートを投げさせないため、ワザとそう言ってたとのこと。
こんな芸の細かいことしてたなんて・・・。
★本塁打王★

田淵は、通算474本塁打を放っているが、これは歴代7位の記録である。
にも関わらず、タイトルにはあまり縁がなかった。

それは、巨人の王・長嶋が同時代に活躍していたためである。
1974年には自己最高の45本塁打を放っているが、王貞治が49本打ったため3年連続の本塁打2位に甘んじることになった。

1975年、前年本塁打王の王がスランプに陥ったのに対して、田淵は前年に続いて好調を維持。
最終的には王の33本に10本差をつけて43本で初の本塁打王となった。

その後、トレードで西武に移り、1980年43本の本塁打を放ったが、近鉄のマニエルに5本差をつけられている。
打点王・首位打者にも縁がなく、1975年の本塁打王が田淵が獲得した唯一の打撃タイトルとなっている。
★超強肩捕手★

田淵がとプロ入りした1969年、パリーグのロッテに100m 10秒1の日本記録保持者「飯島秀雄」が入団して、プロ野球史上初の代走専門選手が誕生した。

この「飯島秀雄」と田淵は3月15日のオープン戦で顔を合わせ、その強肩で盗塁を見事に刺してみせた。

また、日本プロ野球史上No1の盗塁王の福本ともオールスターで数回対決している。
結果は盗塁を13回試みて6回刺している。
ちなみにオールスターでは福本は田淵以外の捕手からは8回試みて1回しか刺されていない。

なお、田淵と福本が初対決だった1972年のオールスターは「3盗塁死」を記録している。

捕手の盗塁阻止率は、普通は4割台なら合格、4割5分なら強肩と言われているが、田淵は1969年、1970年、1972年、1973年と4度も5割台の盗塁阻止率であり、まさに超強肩と呼ぶにふさわしい記録を残している。
★3イニング連発★

一試合2本塁打以上の固め打ちの世界記録保持者は、やはり世界の王で、メジャー記録の72回(ベーブルース)を遥かに凌ぐ95回である。
田淵は野村と並び日本では2位の57回の記録で王には遠く及ばない。

しかし、田淵には王もやった事がない本塁打の固め打ちの記録がある。
それが「一試合3イニング連発」である。
1976年8月25日、甲子園の広島戦で記録したもので、6回に池谷、7回に金城、そして8回に瀬戸から3イニング連続の本塁打を放っている。
★敬遠合戦★

1974年は田淵と王が熾烈な本塁打王争いを繰り広げていた。
そして迎えた10月2日から5日の巨人ー阪神4連戦(後楽園)は、この日まで田淵43本、王42本というデッド・ヒートを意識した両チーム投手陣によって、前代未聞の敬遠合戦となってしまった。

なんと4連戦で王は14回歩かされ、田淵は12回。
満足に打たせて貰えた打席は王が5打席で田淵が6打席だからあきれる。
それでも田淵はこの6打席中5本のヒットを打ち、内1本を見事にスタンドに叩き込んで怒りを爆発させた。
ちなみに王は5打数ノーヒットに終わる。
★世紀のトレード★

田淵幸一、西武へ放出

1968年ドラフト1位で阪神タイガースに入団した田淵幸一は、22年目の11970年8月26日、人生最悪のデッドボールを受ける。これが原因で、田淵の左耳は難聴になってしまう。
このデッドボールの後遺症のせいか、捕邪飛があがると、田淵は時に方向違いに走るケースがあった。

1978年10月11日、阪神は球団社長に小津正次郎氏の就任を発表。社長に就任すると小津は世間を驚かすための手を考える。
そして、最初に思いついたのが外国人監督の起用。11月4日、ドン・ブレイザーの監督就任を発表すると、さらに次の手を考えるのだった。

1978年10月12日、パ・リーグのクラウンライター・ライオンズが消滅。新球団として西武ライオンズが誕生した。
新球団を大きくアピールするためには、目玉選手が必要。当時の堤義明オーナーは、そう考えたと思われる。

デッドボールの後遺症が残る田淵、新社長として張り切る小津、合理主義者の外国人監督ブレイザー、新球団のアピール策を模索する堤、これら点と点が線になり、田淵のトレード話が持ちあがる。
1978年11月15日深夜、小津社長は酔っ払っていた田淵を呼び出すとトレードを通告。
「とにかく西武へ行って、根本陸夫監督から野球を勉強して、また阪神へ戻ってこい。」
これに対して田淵は「じゃあ、来年タイガースへやってくるブレイザーは、いい監督じゃあないんだ」と応戦したという。

結局、1978年11月23日夜、田淵、小津社長、西武・根本監督の三者会談が行われ、田淵はトレードを承諾。
1978年12月6日、阪神は田淵幸一、古沢憲司の2選手を放出、西武から竹田和史、若菜嘉晴、真弓明信、竹之内雅史の4選手をトレードで獲得することを発表した。
★深夜のトレード通告★

後に田淵はこの世紀のトレードに対して、こうコメントしている。
『自分の人生の中で、一番腹を立てた時!』


≪何故、腹がたったのか?≫
それはトレードそのものに腹がたったにではなく、その通告の仕方など、球団のやり方に対する不満が原因であったのだ。

当時住んでいた西宮のマンションに阪神球団から電話がかかったのは53年11月14日の深夜だった。
正確に時刻を言うと午前零時を十数分過ぎたころだ。
「話しがあるから、すぐにホテル阪神まで来て欲しい。」という事だったが『今夜はもう遅いので明日では駄目なのですか?』と言っても、どうしても今夜来て欲しいとの事だった。

午前一時過ぎにホテル阪神に着いた時に、待ち受けていた小津球団社長にトレード通告を受ける訳だが、これほど大事な話しを何故、真夜中に呼び出して行なわなければならなかったのか・・・
真夜中でなければならなかった理由は、いまだに理解出来ない事の一つと語っている。
阪神球団に選手に対する思いやり、愛情、あるいは誠意があれば、翌日のしかるべき時間に呼び出し正式に通告する事になったのではないかと・・・。

また、その時のトレードに対する球団側の説明にも納得がいかなかった。
小津球団社長は、「他人のメシを食うのも役に立つ」とか、「将来また阪神に帰って来る事もある」とか、どうも焦点のない言い回しに終始していて、何故、トレードするのか納得のいく説明がされなかったからだ。

『君は戦力として阪神に不必要になった。阪神が進めて行こうとする野球には合わない。だから。トレードする。』と、明確に通告された方が納得出来たとも語っていた。
★ジャネット八田★

後に田淵はこの世紀のトレードに対して、「自分の人生の中で、一番腹を立てた時!」とコメントしていたが、では結果的には、このトレードは田淵自身にとってどうだったか?と言う質問に対しては「良かった!」と答えている。

なぜならば、トレード先の西武は新しいライオンズとして第一歩を踏み出そうとしている時であり、戦力の強化をはかり、夢にまで見た優勝を経験出来た事と、トレードがきっかけで今の奥さん『ジャネット八田』と巡り合えたからだ。

※愛妻ジャネット八田との間に生まれたご子息(裕章氏)は現フジテレビのアナウンサーです。
★がんばれ!!タブチくん!!★

☆実在の名捕手(田淵幸一)をギャグにした画期的な漫画の映画化。

実在の名捕手で本塁打王にも輝いたパワーヒッター田淵幸一氏を題材にしながらも、なんとも憎めないダメ男のコメディとして成立させた画期的なギャグ漫画の映画化作。
映画の内容もユニークで「どこから見てもOK」というキャッチフレーズ通り、マルチラウンド・アニメと名付けられた(野球の9イニングに例えた)9本の短篇で構成されている。

今観て笑えるかどうかは微妙だが(汗)主人公のタブチくんを始め、ヤクルトのヤスダ、監督のヒロオカなど、どの登場人物も実在の人物ながらユニークに描かれており、見ているだけで楽しくなる(特に安田投手に目をつけたセンスが素晴らしい)お話もまったく現実離れしたものばかりでなく、微妙に現実の話とリンクされた話だったりするのが凄い。
現実の田淵、安田両氏に配慮してか再放送もソフト化もされない本作だが、彼らがこの映画(漫画)を見てどう感じたのかは興味あるところ。ある意味、問題作ではある(笑)西田敏行の声はイメージピッタリ。
1996/芝山努監督作品
★三代目ミスタータイガース★

≪ミスタータイガースの定義≫
ミスタータイガースはあくまでファンの付ける呼称であるので、どの人物をミスタータイガースと呼んでも構わない。
それを踏まえた上で、ここでは一般的な見解を記すこととする。

初代 藤村富美男(内野手、投手、監督:背番号10)
2代目 村山実(投手、監督:背番号11)
3代目 田淵幸一(捕手:背番号22)
4代目 掛布雅之(内野手:背番号31)

ミスタータイガースは上記4名を指す(タイガースファンの多数派意見)

トレードで西武に移籍した田淵幸一に関しては、トレード以前にはほとんどのファンが3代目と認めていたものの、「引退するまでタイガース一筋でなければ、ミスタータイガースではない」と主張して除外するファンと、「田淵は自分の意思でタイガースを出たわけではない」として擁護するファンとで意見が真っ向から対立している(実際、1978年オフのスポーツ紙で田淵はトレード直前に「阪神が好きだ」「阪神でずっとやっていきたい」と発言しており、トレードが通告された際も素直には受諾せず、球団としばらく口論した。
また、トレード受諾直後の会見でも「優勝ができなかったことに悔いが残る」と無念の表情で語っており、以上のことを踏まえても、西武移籍が田淵の意思によるものでないことは明らかである)。

にもかかわらず、移籍後には除外するファンが多数派となった。
しかし2002年に田淵が星野仙一監督の下で打撃コーチとして復帰して以降は「田淵は3代目である」というファンが多数派となった。
また掛布氏も自身の公式サイトにおいて、ファンからの質問に答える形で、田淵氏はミスタータイガースであるという見解を示している。
よって4代目が掛布雅之としたい。
★チーフ打撃コーチ★

2002年、無二の親友である星野新監督に声を掛けられ、田淵が我が阪神タイガースに23年振りに帰って来てくれました。

そして「うねり打法」で浜中らを育て、チーフ打撃コーチとして見事な打線を完成させ2003年の18年振りの優勝に貢献してくれました。
田淵が最も愛した阪神のユニフォームを着ての初優勝です。

その際に自らの著書「新猛虎伝説」において、阪神ファンの皆様に以下のような感謝のコメントを残しています。



"タイガースファンのみんなに"

長い間
弱い時もまたもっと弱い時も
雨の中でずぶ濡れになりながら

大敗の屈辱にまみれた試合でも
最後まで声を嗄らしながら
応援を続けてくれた

キミ達の声援から
どれだけ勇気をもらったか計りしれない

ベンチ全員が戦力
そして球場全体が
タイガースの戦力と化して
勝ち取った18年振りの優勝だったよ

この素晴らしい雰囲気の中で
みんなと共に戦い抜けたことを
誇りに思う

ありがとう

毎日毎日変わらぬ
世界一の応援を
ほんとうにありがとう


    阪神タイガースチーフ打撃コーチ
               田淵幸一
ベースボールマガジン 別冊早春号(3月号)(Baseball Magazine Vol.9 No.2) | BBMスポーツ | ベースボール・マガジン社
https://www.bbm-japan.com/article/detail/48987

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