ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

猛虎伝説コミュの村山実(全20伝説)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
村山 実   むらやま みのる
背番号 11
在籍1959年〜1972年

二代目ミスタータイガース

小柄ながら体全体を使って投げ込むフォームは、ザトペック投法と呼ばれた。落差の大きいフォークボールを武器に、長嶋と名勝負を繰り広げ、ミスタータイガースという愛称も持っている。
栄光の背番号『11』は永久欠番である。

豆知識:長嶋が村山から放った展覧試合でのホームランはファールです・・・と、闘将村山は死ぬまで語っておりましたから。。。

1936.12.10生
出身地  兵庫県尼崎市(生まれは神戸市北区)
出身校  住友学園中学 住友工業高校 関西大学
投手 右投右打

1959年 大阪タイガース 背番号11 54試合 18勝10敗 1.19 最優秀防御率 沢村賞オールスター出場
1960年 36試合 8勝15敗 2.52 開幕投手 オールスター出場
1961年 48試合 24勝13敗 2.27 オールスター出場
1962年 57試合 25勝14敗 1.20 MVP 最優秀防御率 ベストナイン オールスターファン投票出場辞退
1963年 28試合 11勝10敗 2.77 オールスター出場 (昌史に一時改名) 夙川マンション11建設
1964年 46試合 22勝18敗 3.32 開幕投手  オールスターファン投票出場 芦屋マンション11建設
1965年 39試合 25勝13敗 1.96 最多勝 最多奪三振205 沢村賞 ベストナイン オールスター出場
1966年 38試合 24勝9敗 1.55 開幕投手 最多勝 最多奪三振207 沢村賞 ベストナイン
    オールスターファン投票出場
1967年 30試合 13勝9敗 2.80 開幕投手 オールスター出場
1968年 32試合 15勝8敗 2.73 開幕投手  三宮に女性用舶来品店開店
1969年 35試合 12勝14敗 2.01 投手コーチ兼務 オールスター出場
1970年 25試合 14勝3敗 0.98 監督兼務 最優秀防御率0.98 勝率1位
1971年 19試合 7勝5敗 2.71 監督兼務 
1972年 22試合 4勝6敗 3.60 監督兼務 4月21日から金田ヘッドが監督代行
1973年 春引退試合で現役引退 背番号11は永久欠番

1973年〜 読売テレビプロ野球解説者 日刊スポーツ評論家
1974年〜1976年 SSK勤務 開発室長
1977年 リージェント・ファーイースト日本本社の株を購入し、芦屋マンション11の1Fに事務所設立

1988年 監督就任 背番号11
1989年 監督
1990年〜 解説者

1993年 殿堂入り

実動14年 登板509試合 勝利222 敗戦147 完投192 完封55 投球回数3050.1 奪三振2271 防御率2.09


コメント(25)

★母校に銅像★

阪神尼崎駅から北上、尼崎市の南北の大動脈、五合橋線沿いに尼崎産業高校はある。ここは村山実氏の母校だ。
この学校は、1916年財団法人住友私立職工養成所として大阪市港区に設立され、戦災により1946年に現在の尼崎市に移った。
住友工業学校・住友工業高等学校と名前を変えていたが、尼崎市立に移管されることをきっかけに、1956年に尼崎市立尼崎商業高校と合併し尼崎産業高等学校と名前を変えた。

村山実の在学中は、まだ住友工業高校という名前だった。その通り、北隣には住友金属甲東寮、ここから東側一体の産業道路と挿まれる領域はすべて住友金属工業の所有地。住友工業は工場で働く優秀な人材を育成するために住友財閥が作った職業学校が前身で、村山氏在学当時は卒業生のほとんどが住友系列の会社に就職していた。
当時は中等部も同じ敷地に併設されており、村山氏は中学・高校を通して通学した。(中学は昭和中学分校となったが廃校になった)
村山実氏は住友工業時代に投手に転向し、フォークボールをマスターした。ザトペック投法の原型はここで作られました。

村山実像は等身大。
OBが中心となって作成したのだ。総予算1000万円は母校にて寄付で集めた。彫刻家・抜水政人さんが約5カ月かけて粘土で原型をつくりあげた。04年8月15日に除幕式が行われた。

この銅像は高校敷地内にありますが、正門入ってすぐの場所にあるため、外からでも眺める事はできます。学校敷地内には部外者は入ってはいけないとの掲示があり躊躇しましたが、職員の方に問い合わせると銅像を見る程度はかまわないとの事でした。
銅像の向こうのグランドでは野球部の選手たちが汗を流していました。
★関西大学入学秘話★

村山実さんが関大に入学する二年前、関大のホームグラウンド・日生球場で、関関戦初のナイターゲームが行われた。
伝統の関関戦ということで、関大、関学の両校の学生(野球を観戦すると、体育の単位がもらえたという)や一般のファンが埋め尽くす球場の中で、村山さんも観戦していたという。
関大の先発は一年生エース・森本達幸さん(現郡山高校監督)。森本さんは郡山高校出身で、地方大会で二試合連続ノーヒットノーランを成し遂げ、関大野球部に鳴り物入りで入学した。当時、上級生との上下関係が厳しく、一年生でベンチ入りはめったにないことだった。

村山さんは後に「僕もあの時、見てたんです。一年生で投げている森本さんを見て僕もと思い。関大に入学したんです」と森本さんに思いを語ったという。

村山さんは関大に入学する前に、立教大のセレクションを受けた。高校時代めぼしい成績がない村山さんは「チビだから」という理由で落とされ不合格。
それに憤激した村山は、関西大学に進み、2年生のときに第5回全日本大学野球選手権へ出場し、何と初戦から決勝戦まで全試合完投で関西大学を初優勝に導いた。

しかし、第6回大会では立教大に敗れて涙を飲んだ。
当時の立教大の一年生には将来『永遠のライバル』とされる長嶋茂雄さんがいた。
大学卒業時には、契約金2000万円を提示してきた巨人を蹴って契約金500万円の阪神に入団。打倒巨人に燃え、天覧試合サヨナラホーマーを長嶋に打たれてからは、常に長嶋を標的として敵対心を見せ、抑えることに全身全霊を注いだ。
★天覧試合の長嶋の本塁打はファール?★

1959年6月25日、プロ野球史上初の天覧試合が行われ、阪神は小山正明が先発した。
7回裏、小山は、王貞治に同点2ラン本塁打を打たれて、降板。
その後を村山が救援することになった。
村山は後続を絶ち、結局、試合は、9回裏を迎えた時点で4−4の同点だった。
9回裏の先頭バッターは長嶋茂雄。
村山は、カウント2−2からの5球目に腰を引かせるためのシュートを投げたが、それが内角高めに入ってしまい、長嶋が放った打球は左翼席上段ポール際に突き刺さるサヨナラ本塁打となった。

しかし微妙な判定であったため、村山は死ぬまで「あれはファールだった」と主張し続けていた。
村山は、このサヨナラ被弾をきっかけにして、打倒長嶋に執念を燃やし、以来、村山VS長嶋のライバル関係ができあがった。

1989年6月25日、甲子園球場での阪神対巨人戦、岡田彰布がビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放ち勝利するが、天覧試合からちょうど30年目の日で、同じ左翼ポール際への一発でスコアも5-4と裏返しとなり、しかもこの時の巨人監督が天覧試合で完投勝利した藤田元司であったことから、岡田が村山監督の仇討ちを果たした形となった。村山の執念なのか。試合後「天覧試合と同じ日? そりぁうれしい、気分が全然違うよ」とコメントした。
★日本人で初めて大リーグを完封★

1962年、村山は25勝14敗、防御率1.20で2度目の最優秀防御率のタイトルを獲得し、シーズンMVPにも輝いていた。
その年の11月18日、村山は、日米野球16戦で大リーグのデト
ロイト・タイガースと対戦する。

村山は、初回から好調に飛ばし、8回二死まで無安打に抑える。その後、不運な安打を浴びたものの、見事に被安打2に抑え、4−0で完封。
これが日本人初の大リーグチーム完封という快挙になった。
日本は、デトロイト・タイガースと18試合を行い、4勝12敗2引き分けと惨敗に終わっている。
★プロ初登板★

プロ初登板は1959年3月2日、阪神甲子園球場での巨人戦(オープン戦)。
初代ミスタータイガース・藤村富美男の引退試合の日でもあった。
当初は前日の予定も雨天中止のため月曜日の試合となったにもかかわらず、3万人の観衆を集め華々しく行われた。
このとき村山は2回を投げ打者7人と対し、被安打1、無失点に抑えた。

公式戦初登板は同年4月14日の国鉄(現ヤクルト)戦。
初先発でもあったが、この日は火曜日ながらデーゲームであり、観客はたったの34人しかいなかったという。
ちなみに、国鉄の先発は金田正一。結果は村山が6回までノーヒットに抑える好投で、2安打完封という鮮烈デビューであった。
★ザトペック投法★

村山の投球フォームは、顔をゆがめて体全体をうまく使って常に全力で投げ込んだ。
その姿は、オリンピック2連覇を果たしたマラソンランナー、ザトペックがスタートから苦しそうに全力で走る姿とだぶって見えた。
そこで人々は、村山のフォームに「ザトペック投法」と呼ぶようになった。

さらに、長嶋に天覧試合サヨナラホームランを打たれたことで、苦しそうに投げる姿に「悲壮感」というイメージがつき、村山の代名詞にまでなった。
決して悲劇ばかりを被っていたわけではないのだが、「ザトペック投法」の悲壮感は、村山に常に付いて回った。
 
★二度のリーグ優勝に貢献★

藤本定義監督のもと、小山正明・村山実・バッキーらの好投手を軸に、1962年にタイガースは2位大洋(現横浜)に4ゲーム差をつけて、2リーグ分立後の初優勝を遂げた。
1962年に続き、1964年にもリーグ優勝を遂げたが、日本シリーズでは東映・南海にともに破れ、日本一の夢は果たせなかった。

1962年 25勝14敗 1.20 MVP 最優秀防御率 ベストナイン
1964年 22勝18敗 3.32  
★永久欠番の11番★

村山実はタイガースの一時代を支えた大エースで、背番号11番は初代ミスタータイガースの藤村富美男(10番)に次ぐ球団二人目の永久欠番となった。
このユニフォームは1970年より採用されたタイプで、初めて背中に選手名が入った。袖には「OSAKA」の文字が入る。
★対戦打者1人で退場★

1963年8月11日の阪神×巨人戦で村山はリリーフで登場。
最初に対戦した池沢義行にカウント2−2からの5球目をボールと判定されて激怒。
村山は、主審に対して激しく抗議。そのとき、暴言を吐いた、として退場処分になる。
村山は、そのときチームメイトの山本哲也の肩にすがりついて悔し涙にむせんだと言われている。

なお、村山は前日の同一カードでは8回までノーヒットというピッチングをしており、それを破られたのはこの日対戦していたのと同じ池沢だった。

「1人の打者との対戦が終わるまで投手は交代できない」という野球規則がある中、対戦打者1人目で退場になったのは日本プロ野球史上の中でまだ村山ただ一人だけである。
★1500奪三振と2000奪三振を長嶋茂雄から★

 1966年6月8日、巨人戦を前にして、村山は報道陣の前で宣言した。

「1500奪三振は長嶋から奪う」

村山は宣言通り、ほかの打者はわざと打たせて取り、長嶋のときだけは三振を意図的に狙って記念すべき通算1500奪三振を見事に長嶋から奪っている。

さらにその3年後の1969年、村山は、2000奪三振も長嶋から奪うことを宣言して、このときも長嶋から2000奪三振を奪うことに成功している。
★ノーヒットありラン★

残念ながら、完全試合と無安打無得点には縁がなかったが、相手をノーヒットに抑え完投しながら味方の失策などで失点を許す“ノーヒットありラン”という珍しい記録を2度も記録している。
ちなみに、いずれも勝利投手であった。
★伝家の宝刀フォークボール★

村山の宝刀は、オーバーハンド、スリークォーター、サイドハンドから投げ分けるフォークボールである。
住友工業高校時代にマスターしたのだが、大学時代はほとんどフォークボールを使わず、直球で押していたという。

村山は、他の投手に比べて指が短かったため、握力強化器具や一升瓶を人差し指と中指の間に挟んで鍛えたと言われている。また、指の開きを大きくしたかったために、人差し指と中指の間の付け根をカッターで切ったという伝説は有名である。
村山のフォークは、目標にする投手も多く、村田兆治は、村山に教えを請い、フォークボールをマスターしている。
★監督兼投手★

1970年に監督兼任となったが14勝3敗、防御率0.98という驚異的な防御率を残し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。これは、現在でも戦後の最高防御率である。

しかし決してファンは村山の監督としての采配を望みはしなかった、村山の投手としての登板機会が減ることは明白であり、村山の投手生命を縮めることにもなろうと予測されたからだ。
ファンは長島が現役でいる限り、まだまだ村山の激投を期待し、ジャイアンツに立ち向かってほしかったのである。

戦後の最高防御率で最優秀防御率のタイトルは獲得したが、登板回数にいたっては前年よりもが58イニングも減り、江夏の337イニングに対してその半分にも満たない156イニングであった。
兼任監督のツケを支払わせられたのは、村山でもなく球団でもなく優勝を待ち焦がれていたファンであった。

二年後の1972年はシーズン開幕当初から、金田正泰ヘッドコーチに指揮権を委譲し、投手村山に専念したが、力の限界はそこまでやってきていた。

この972年のシーズンオフに監督を辞任するとともに引退してしまった。
ファンの夢を奪ったミスタータイガース村山実の早すぎた兼任監督は、川上巨人のV6、V7、V8を許してしまい、プロ野球をダメにしていくものとなった。
★宿敵 長嶋茂雄★

こんなエピソードもあったらしい。
初めて購入した自宅の電話番号が「3279」
つまり3(長嶋)に泣くということだったが、当時電話を引くのだけでも大変だった時代のため、しばらくはこの電話番号を仕方なく使っていたそうだ。

村山にとっては、長嶋がすべてのバロメーターだった。
つまり”ライバル長嶋を押さえれば、後は雑魚”自分の玉が他の選手に打たれるわけがないという強烈な思いこみがあった。
事実、村山の調子の良いときは、たとえ長嶋でもボールがバットに当たる感じがしないほどの鋭い投球をした。
それほど投手村山には、力があったということだ。
あの貧打の阪神にあって、生涯の勝ち星、222勝147敗、防御率2.09が、その実力を見事に物語っている。

炎の闘将村山とライバル長嶋との対決は、伝説として、永遠に今後も語り継がれていくに違いない。

ライバル長嶋茂雄は、村山実に対して次のような短い賛辞を送っている。

「彼との対決は、野球人長嶋と、野球人村山との魂の闘いだった。生涯でこのようなライバルに出会えたことは幸せだった…」
まさに長嶋というライバルあっての村山氏の人生だった。
しかもあれほどの死闘を繰り返しながら、投手村山は、打者長嶋に一度も死球をぶつけたことがないのである。
★兄貴★

村山の猛虎魂を引き継いだ次代の阪神のエースは江夏豊である。
その江夏にとって、一球入魂で宿敵巨人に立ち向かう村山はまさに憧れの兄貴のような存在で、江夏にとっては目標でもあり、数少ない心を開けた大先輩でもあった。

村山が監督になって、江夏の給料の一部を強制的に「天引き貯金」にしたが、江夏の暮らしぶりを案じてである。
入れば入っただけ使ってしまい、無くなれば家でおとなしくしてればいい・・・それが江夏の金銭感覚だった。
後に、江夏は西宮に自宅を新築したが、これは村山の「天引き貯金」のおかげであった。

また、江夏は心臓病による発作で倒れた事があった。
試合終了後、ベンチ裏の長椅子に横たわる江夏の姿を撮ろうと殺到したが「撮るな!殺す気か!」と叫びつつ記者達に灰皿を投げつけたのが村山だった。

しっかり者の長男とやんちゃな弟・・・村山と江夏はそんな関係であった。

村山の死後、江夏はこう語っている・・・
「村山さんにはずっと借りっぱなしです。一生頭が上がらない。なにも返せないまま、もう会えなくなってしまった・・・。」
★引退試合★

1973年3月の引退試合は甲子園での巨人とのオープン戦であった。
この時、引退試合に向けて村山の練習相手としてキャッチボールをしたのは中学生時代の阪神の岡田彰布監督である。

7回「ピッチャッー村山」のアナウンス。
リリーフカーがブルペンに近づいた時、江夏・上田・古沢・谷村・平山の投手陣が村山を取り囲んだ。

江夏が「僕の肩に乗って下さい!」

江夏を中心に両側を上田・古沢・谷村・平山で騎馬を作り、村山を乗せて登場した。
前代未聞の光景に歓声は最高潮に達した。

マウンドに駈け寄った捕手田淵に「今日は涙で見えないから全部フォークでいく」と村山は言い、その通り実行した。

先頭の高田は三球三振、末次も三振、王はフルスイングをしたが、これまた三振で三者三振で締めくくった。
(長嶋は発熱の為大阪入りしなかった)

田淵が「ムラさんまだまだ現役でイケルよ!今日のフォークは最高だった」と告げると、村山はまた男泣きに泣いた。

この試合では女優の浪花千栄子(同年12月死去)があいさつし、「村山はん、あんたほんまに長いことようおきばりやしたなぁ。おおきに、おおきに」とねぎらいの言葉を贈った。

最高に感動的な引退試合であった。
★殿堂入り★

村山実 むらやまみのる
真っ向勝負で魅了した2代目ミスター・タイガース

殿堂入年度: 1993年
表彰区分: 競技者表彰
出身地: 兵庫県
生年月日: 1936年12月10日
没年月日: 1998年8月22日
出身校: 住友工高→関西大学

【顕彰文】
関西大2年の昭和31年、大学日本一になり34年タイガースに入団。同年6月天覧試合以来巨人長嶋との対決がファンを魅了した。37、39年リーグ優勝に貢献。45年には33歳で兼任監督に就任し、戦後最高の防御率0.98を達成した。フォークボールを駆使した力感あふれるザトペック投法で最優秀選手1回、最多勝2回、最優秀防御率3回、沢村賞3回、222勝147敗、防御率2.09

【成績詳細】
タイトル: 最高勝率1回('70)/最優秀防御率3回('59、'62、'70)/最多勝利2回('65〜'66)/最多奪三振2回('65〜'66)
表彰: 最優秀選手1回('62)/ベストナイン3回(投 '62、'65〜'66)/沢村賞3回('59、'65〜'66)
記録: 最優秀防御率3回獲得※セ・記録/通算最優秀防御率(投球回2000以上)2.09※セ・記録/シーズン最優秀防御率0.98('70)※セ・記録
★トラポエム★

  "「闘う男」村山実、涙の退場劇!"



「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」

     本当にそう思うよ

    だって村山が42年前に

「涙の退場」をした時の白黒写真を見てごらん

  バックネット裏の観客のほとんどが

     大笑いしているだもん

      でも村山はマジ

      正真正銘のマジ

       偽りなきマジ

      彼はマジで怒って

     マジで泣いております

       真夏の巨人戦

       舞台は甲子園

    7回表、村山はリリーフ登板

   2-2からのボールの判定に抗議

   球審に執拗に食い下がるエース

        そして退場

        すると号泣

  その間、何秒くらいだったのか・・・

 「ワシらは1球に命をかけとるんや!」

   その“過剰なる本能”を見て

  笑い転げている「闘わない奴等」

    でも彼らは悪くない

    村山が凄すぎるのだ

「生涯一・戦う男」村山実が歌う唄は

      美しく綺麗で

そして時に哀しい響きを聴く者に与える



≪阪神タイガースの選手に捧げる詩の世界より抜粋≫
★平成10年8月22日永眠★

二代目ミスター・タイガース 村山 実氏が22日午後11時38分、直腸ガンのため、神戸市内の病院で亡くなられました。
61歳でした。

ザトッペク投法。
村山実氏のピッチングはまさに「全身全霊」を込め、身体ごと打者にぶち当たっていくような投球だった。
打倒巨人に燃え、宿敵長嶋との対決に見せた執念は凄まじかった。

そして誰よりも阪神タイガースを愛し・・・
誰よりもファンから愛された投手でした。

いち阪神ファンとして、村山実氏の御冥福を心からお祈りいたします。
どうかあの世でも偉大な打者たちをザトペック投法で豪快に三振の山を築いて下さい。
貴方の偉大な足跡を歴代の阪神ファンに伝えてまいります。

合掌
★炎の闘将 村山実の動画です★
http://www.youtube.com/watch?v=OTAfWoaN3dQ&mode=related&search=
最高傑作です!!動画のバースで涙が・・・
>いけちゃん

村山の涙にも感動して欲しかった・・・
[シリーズ] よみがえる1958-69年のプロ野球 PART.7(週刊ベースボール 別冊立春号) | BBMスポーツ | ベースボール・マガジン社
https://www.bbm-japan.com/article/detail/48965

ログインすると、残り2件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

猛虎伝説 更新情報

猛虎伝説のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング