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天羅万象コミュの天罹伝【リレー小説別館】

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始めのリレーがキャラ縛りがきつくなったようなので別立てで場所を作りました

ここのルール
次の人へのシュチュエーションリクエストは可能だが固定キャラと書き手のシュチュエーション予約、予告は行わない
行いたい場合は幕あいトピにて次のシュチュエーションの概要を簡単に書く
その他妙案あれば随時追加します

それでは一番槍をお待ち申す

コメント(23)

夕暮れが夜の闇に消えようとする街道を、一人の旅芸人風の娘が駆けていた。
いったいどこから駆けっぱなしなのか、裸足は擦り剥けて力なく地を蹴るたびに血がにじむ。
服もあちこちがぼろぼろで、何度も転んだのであろう、泥だらけだった。
しかし、何よりも道行く人々の眼を引いたのはその形相である。胸にしっかりと白い包みを抱えた娘は、まるで凶暴な獣に今まさに飛び掛られてでもいるような、恐怖、焦燥、絶望に眼を見開き、戦慄きながら駆け続けていた。娘に眼を向けた人々は、咄嗟に目をそらす。
それは、まさしく狂人であった。
と―乱れた黒髪が、街道沿いの茂った木に絡まり、娘の足がもつれた。勢いよく地面に転がる体、白い包みが転がる。はらりと解けた包みの中からは、木切れで作られた精巧な腕がちらりと見えた。
這いずりながら娘が伸ばした右手は、肘から先がすっぱりとなくなっていた。どす黒く血のにじむ腕の先に巻きつけてある布が、ごく新しい傷であることを語る。
隻腕の娘はおびえた目で包みをさっと抱え込み、辺りを見回すと―また、走り出した。
木に巻きついた娘の黒髪が、娘の後を追うようにふわりと風に舞う。誰かがそれを手に取れば分かったことであろう。それは、人の髪ではなく黒い絹の糸であった。

娘は人ではない。傀儡と呼ばれる、非常に精巧な人形であった。名を、鈴白という。
狂った人形が己の切り落とされた腕を抱えていずことも知れず駆けることになったわけは、数日前に遡る―。
狂った傀儡−−鈴白の背を、男はさきほど彼女が髪をかけた樹の枝葉に身を潜め、見つめていた。
季節は吐く息が白くなり始める頃だ。日が落ちるのも早く、周囲はすでに暗くなっている。
それでも、男は鈴白を見失うことはなかった。幼い頃から夜目は効いたが、それ以上に夜でも見通せるよう鍛えられていたからだ。
鈴白だけを見つめていた男は、不意に横手を見据えた。
すでに星明りしかない街道の端−−誰にも見つからぬように追う、三人の影があった。常人よりも遥かに速く走る脚力は、男同様、鍛えられて者の動きだ。
男は一瞬の躊躇もなく、鳥のように跳躍した。
月と星星が照らすの、夜闇のように深い黒装束の姿だ。全身を黒一色で覆い、外気に触れる部分は両眼の部分のみ。
男は音もなく三人の前に着地すると、ただ一言だけ口にした。
「領主からのご命令か?」
三人は男の姿を確認すると慌ててひざまずいた。
「はっ。領主からのご命令により、内密にあの傀儡を回収しろとのことです。波翅(はばね)様」
男−−波翅は部下である下忍の答えに返事をせず、ゆっくりとした動きで両手を上げた。

−−すとっ

どこか軽やかな音に続き、波翅に話していた下忍の耳に、背後で何かが倒れる派手な音が響いた。
下忍がふり返れば、共に傀儡を追っていた忍が眉間に棒手裏剣を刺し、目を見開いたまま絶命していた。
下忍の思考が刹那、中断した。そして次の瞬間には頭を直刀の忍刀で断ち斬られ、永遠に思考を停止した。
波翅は下忍の衣服で刃に付いた血のりを拭うと、腰の鞘に刀を戻した。
顔の向きを変え、いまだに狂ったように走り続ける鈴白の背を見つめる。どれだけ離れようとも、どれだけ視界が悪くなろうと、彼の衣服同様に黒い瞳は彼女を見逃すことはない。
不思議な気分だった。
彼は雇われ忍だ。腕も、この世界では優秀だろう。
金さえ出せば、どんな汚い仕事もこなしてきた。
……にもかかわらず、傀儡を救ってしまった。
波翅は少しだけ理由を考えることにした。
しかし、すぐにやめた。
「時には、理由なく動くのもおもしろかろう」
自分に言い聞かすように、波翅は独りごちた。
「昼は内政に他国の情勢、場合によっては戦争が加わる。ならばこそ、夜こそ身体と心を癒せ。男も女もな」
それこそが父である炎津(えんづ)の領主、銅帋重幸(どうがみしげゆき)の口癖だった。
それゆえに、城下には遊廓が多かった。本物の女は当然、傀儡を扱う店もある。中には女用の遊廓、男が控えた店もあった。
他国からは色狂いと嘲笑されていたが、それでも進行してくる国がないのは、内外に対する父の政治が長けているのだろう一一そう納得するしかなかった。
そして、そんな父だからこそ一四になった時、初めて遊廓に連れていかれた。
初めて選んだ女が、傀儡だった。
「初めてが傀儡か。それもまた良かろう!」
父に大笑いされた。
その傀儡を選んだ理由は一つしかない。
誰もが笑顔で自分に声をかけるのに、彼女は覗き部屋の端で暗い表情をしていた。それが印象的だった。
行為の最中も、笑いもしなかった。
それでも一一自分でもわからない一一影のある彼女に惹かれていた。
それからというもの、時間があれば彼女と会った。
一年ほど経ち、彼女が言った。
「哀れみで会うのは……もうやめませんか」
そんなことはない、と強く否定した。他に何を言ったか詳しく覚えていないが、否定し続けたことだけは覚えている。
その時、彼女は初めて、恥ずかしそうに俯いて、笑ってくれた。
心が弾んだ。
彼女以外に何人もの女に会ったが、やはり彼女以上に気になる女はいなかった。
そしてまた一年が経ち、父から婚約の話をされると同時に、彼女は行方不明になった。


無意味に広い部屋の中央で目を覚ますと、銅帋幸正(どうがみゆきただ)は金糸や銀糸で縫われた、これも無意味に豪華な布団から起き上がった。
幸正は彼の父親とは違い、華美な装飾はあまり好きではない。手早く布団を剥がすと、襟を正し、手櫛で髪を整えた。
「誰かいるか?」
「ここに」
幸正の問いに、遠くの襖が静かに開いた。
「鈴白は見つかったか?」
そう、幸正は口にした。
「申し訳ございません。鈴白の捕獲に失敗いたしました。また、鈴白の過去を調査した結果がこちらにございます」
 眼前にひかえたクサから渡された書面に目を通し、報告を聞くだけだった松郭(まつがき)は初めて口を開いた。
「他にあるか」
 首筋から頬にかけてや、袖から伸びた部分にサムライ独特の文様が見える。顎髭を伸ばすままにした精悍な顔つきは、それだけで歴戦の武士を連想させ――事実、彼は農民の出身でありながら、己の腕だけで重幸のお側役に任命されたのだ。
 武家出身の家臣からは、影で成り上がり者と侮蔑されているが、重幸はなによりも成果を重んじるため、現実には功績を挙げることで、それらを黙らしていた。
「山を越えた隣国の朱鷺が、鬼告・風凪の連合軍に侵略行為を受けました。密偵からの報告によると、朱鷺のヨロイ部隊が出陣していないとのことで、何かしらの問題が発生したと予想されます。現在、朱鷺は黒鷺城にて籠城、我が国に援軍を要請する早馬が向かっています」
「予想でかまわん。保って何日だ」
「密偵からの報告から判断すれば……」
 平伏したままのクサは、一度言葉を区切った。
「総攻撃に備えてヨロイ部隊を待機させているならば、落とすのは無理でしょう。ヨロイ部隊に問題があるならば、保って四日かと」
「そうであろうな。朱鷺はヨロイ部隊があるからこそ、珠鉱山を保持できるのだ。でなければ、我らも隣にある鉱山を指をくわえて見ておらぬわ」
「援軍の件、どうなさいますか」
「それは殿がご判断めされるであろう。ただ、このまま珠鉱山を奪われるのは惜しい。この機会に占有するが得策。援軍とは別に軍を動かせぬか進言してみるか」
 そこで一息つくように松郭は顎鬚を撫で、頭を下げたままのクサを見下ろした。
「……まだ何かあるようだな」
 クサは、下げていた頭をさらに低くした。
「はっ……手前ども不始末により大変申し訳ございませんが、我が里の忍が一人、謀反を起こしました」
「ほう、抜け忍というやつか。里から追われる覚悟とはたいしたものだ。して、わざわざここで報告する意味はなんだ」
「鈴白の護衛をし、追っ手、法弦様を共に斬り伏せました」
 クサの声は苦渋に満ちていたが、それを聞いた松郭は喉の奥で苦笑していた。
「恐ろしい傀儡よの。幸正様だけではなく、忍まで誘惑するとは。その忍は私の知っている者か」
「波翅でございます」
「飛び波翅かッ。……また汝らにとっても災難だな」
 松郭は笑ったままだった。自分の腕だけでお側役なったこともあり、生来、争いごとが好きなのだ。
「波翅に関しましては手前どもで処理いたします。それに合わせまして、鈴白の回収をいたします」
 手にした鈴白の資料に再び目を通し、松郭は肩をすくめた。
「飛び波翅に戦闘用傀儡となると、それなりに荒れそうではあるな」
「鈴白に関しまして、いまだ半狂乱であるため、問題はありません。ただ、時折、目覚めたかのように刀をふるうため、追っ手を増員いたします」
「気をつけるがよい。この書面通りならば、武の資質は私よりもお前たちに近い。また片腕と引き換えに返り討ちにあいました、などという報告など聞きたくはないからな」
 シノビの背が冷たくなった。松郭の声こそ先程と変わらないが、後頭部に刺されるような感覚がある。平伏しているため彼の表情を確認することはできないが、その身体から昇る威圧感だけははっきりと伝わっていた。
「飛び波翅もおる。回収が難しいというならば、斬り捨てて構わん」
「よろしいのですか」
「殿は元々そのつもりだ。幸正様を諦めさせるために、目の前で斬り捨てるおつもりだったのだ」
「了解いたしました。これまでの里の不手際、こたびの働きで返させていただきます」
 そう言い、クサが立ち上がる。と同時、気づかぬうちに忍装束ではなく武士の格好をしていた。松郭に軽い会釈し、襖から何食わぬ顔で出て行った。
 一人残された松郭は声が出さずに笑い、クサがいなくなった襖を見つめた。
「クサであの技術よ。飛び波翅、いったいどれほどの腕か」
 気にならないといえば嘘になる。感情がわずかに昂ぶっていた。
 法弦は彼にサムライをほどこした人物であり、農民であった松郭の剣の師だ。陰陽師として一流であれば、剣士としても一流だった。
 法弦の死が悲しくないわけでもないが、刀を帯びる者は常に死と隣り合わせだ。命を捨てる覚悟がなければならない。なにより、手合わせをしてみたいという思いが強かった。
「この立場がつまらぬわけではないが……自由の身が羨ましいものよ」
「ぬぁっ……あぁぁ」
「…………」
「がぁ、うぁッ!」
 茶店から全速で――早馬よりも速く街道を駆け抜け、波翅は腕の中で暴れる鈴白を土の上に投げ捨てた。背後を振り返れば先程までいた茶店は、影も形もない。たとえ遠眼鏡を覗いたとしても点ですら映らぬほど距離をとっていた。
 確認のため周囲に視線をやり、気配を探るが、特に気になるものはない。あるのは、月と星の輝きだけだ。
 息を一つも切らさず鈴白を見下ろすと、彼女は手傷を負った猫のような目で波翅を睨んでいた。彼とは対照的に、興奮しているのか呼吸が荒れていた。まるで獣だ。
 視線を茶店があった方向に戻すと、波翅は口元に巻いた布の下で一度だけ短く息を吐いた。
 誤算だった。
 影から鈴白の動向を観察するつもりだった。追っ手の気配があれば、彼女に見つからぬよう始末するつもりだった。
 だが、考え方が――そもそも何か目的があった鈴白を助けたわけではないが――安易だったことを思い知らされた。
 抜け忍に成り下がった波翅を直接狙うのではなく、鈴白に人数をさくことで彼を誘いだしたのだ。
 と、思案げだった波翅の耳朶に鯉口を切る音が響いた。
 ゆっくりとふり返り、眼前に迫ったいた刃をわざと紙一重でかわす。
 確認するまでもなく、鈴白が白刃を構えていた。手にした得物は刀というより、短刀に近い。斬り飛ばされた右腕の木片は脇に抱え、左手だけで短刀を握っている。獣じみた瞳で波翅を見据え、刃先がわずかに震えていた。
 なんの躊躇もなく上段から斬りかかり、下段から上段へ。横薙ぎの一閃から突きへと移行し、間合いをつめるためにさらに一歩近づいて水平に突いた。
 その全てを波翅はかわしていた。
 剣術の覚えがあるのは間合いのつめ方から見て取れるが、脇に何かを抱えた状態で斬られるほど、彼は落ちぶれた忍ではない。さらに体重移動や足の動かし方から判断すれば、鈴白は右利きだった。
 次々と繰り出し続ける刃は常に空を斬り、やがて鈴白は刃の背を口にくわえた。空いた左手の指先が複雑に動き――。
「――――ッ!」
 今までほとんど感情のこもっていなかった波翅の目が、驚愕に見開かれた。そして脳が判断するよりも先に身体が動き、抜いた直刀の柄で彼女の鳩尾を突き、前屈みになった瞬間、流れるように首筋にも柄を打ちこむ。
 昏倒し、崩れた落ちた鈴白を見つめる彼の瞳には、いまだ驚きの色が浮かんでいた。
「……忍なのか、この傀儡」
 幼い婚約者を殺すことができず、私の生まれ育った国と生みの親である傀儡師は、この世から消えてなくなった。
どれだけ逃げたことだろう。どれだけ時間がたったことだろう。忘れたい記憶は薄れることなく私にまとわりつき、無意味に時が過ぎていく。
 過去から逃れるために居場所を変え続けた。ある時は廃寺。ある時は旅一座。ある時は色狂いの大旦那……。
次々と変え、傀儡の遊廓に住まいを移し――あの人に出会った。
 誰もが都合のいいことしか言わないのに、笑顔さえ見せない自然な君が気になった。
 そう、言っていた。
 全てが、自分の存在さえどうでもよくなりかけていただけなのに、物好きな殿方だと思った。
 それから、あの人は何度も私に会いにきた。会うのをやめてほしい、と言ったこともあった。そのたびに、それは無理だと懇願された。
 一度だけ、なぜそんなに私が気になるのかと訊いてみた。
 忘れることのできない言葉と、顔。
「城に帰ると何かが足りないんだ。……君が足りないと思ったんだよ。君に逢って、ただそばにいてほしい」
 恥ずかしそうに笑っていた。
 嬉しかった。枯れていた涙が流れそうだった。
けど、あの人の部下だという男たちが現れ、私の世界は一変した。
 右腕を斬られた。落ちた右腕が木片へと変わっていた。
 私は、傀儡だと思い知らされた。
 帯に隠していた短刀で男たちに斬りかかり、血溜まりの中で木片に変わらない男たち見下ろした。
 私は、殺すために造られた傀儡なんだと思い知らされた。
 騒ぎを聞きつけた人間が悲鳴を上げ、私は逃げた。顔が強ばっているのを我知らず実感する。
 感情が、感覚が、意識が深い闇の底に落ちていく。色彩に溢れていた世界から色が失われていき、何もかもが希薄になっていく。
 右腕だった木片を抱え、ただ走り続けた。
 私は、傀儡なんだ……。
 濃霧に覆われたように薄れていく思考の中で、それだけが狂ったように巡り巡っていた。

「幸正様……」
 夢うつつの中で鈴白は小さく呟いた。閉じられたまぶたから一滴の涙がこぼれる。それは澄み切った朝日の光を浴び、ほのかに輝いているように見えた。
 無光と名乗ったサムライが微笑を浮かべたのを見、波翅は改めて腰の直刀に指を伸ばした。指先が柄に触れるか触れないかのところで身構え――曲げた小指の先に刃鋼線で編まれた投網がかかっている。
 サムライであれば一刀で斬られてしまうものだが、眼前の無光はまだサムライ化していない。人間という枠から出たサムライならまだしも、人間の膂力で刃鋼線は容易く斬れるものではない。
 サムライが変化するのも、わずか数秒ではあるが時間がかかる。
 刃鋼線での足止めに一手。
 無光のサムライ化に一手。
 二手、波翅が有利になる。
 刃鋼線の投網を投げつけるとほぼ同時に、背後の鈴白を抱いて駆ける。
 時間にしては充分だが、それでも波翅の思考は、海の霧のようにまとわりつく悪寒を拭いきれなかった。
(なぜ、この男はサムライ化していないのだ……)
 当然の疑問だった。
 シノビは偵察、奇襲など、直接的な戦闘力を持たないのが通説だ。しかし、中にはサムライ同様の戦闘能力を有す強靱なシノビもいる。
 シノビがいると知っているならば、サムライ化して突入するのは常識に近い。
 膨らむ疑念が、波翅を動かさなかった。
 投網を投げた瞬間に斬り捨てるのも考えたが――里の追撃も頭の片隅にあった――相手の力量が読めない今は、やめておくのが無難だ。
 なにより、このサムライは先程のクサとの戦闘で手傷の一つも負っていないのだ。
 波翅も一二人を相手にすれば、勝つことはできても間違いなく傷を負う。
 しかし、
「やる気、ですか?」
 目の前でゆるやかに構えたサムライは、目新しい傷どころか、古傷の類すらその身体に見つからなかった。
 疑問が疑問を呼び――そして、不意に波翅は自分自身に疑念を感じてしまった。
(なぜ、この傀儡を救おうとしているのだ)
 考えるのやめた疑問――いや、考えることを避けていた疑問が頭をよぎる。
 なぜ――。
 しかし、波翅は刹那の間に余計な思考を捨て去った。今は無駄なことを考えている暇はない。
 浅く息を吐いて、彼はサムライを見据えた。無光の一挙手一投足に意識を集中させる。
 だが、意識を刄のように鋭く集中させる波翅とは対象的に、無光は微笑を唇に刻んだまま、ゆっくりと構えを崩した。
 伸ばすままにした髪に右手を突っこみ、頭をかく。
「どうやら……」
「邪魔が入ったようだな」
 無光の言葉を、波翅が継いだ。
 くっくっく……と、声を押し殺して無光が笑う。
「気配を探るのは貴方の方が得意でしょう。いくつ、ですか?」
 小屋の周囲に散る気配と、充満する殺気。
 無光と同様に気配を探り、波翅は少しだが、安堵の感情を見せた。
 波翅が感じるクサの気配は三六人。あからさまに気配を現して身動きできぬようにした策だ。気配を完全に消したシノビがいる可能性も捨てきれないが、無光の興味は波翅ではなく、里の忍たちに向いている。
 もしシノビがいるならば、無光に相手をさせ、その隙に距離をとればいい。
「いくつ、ですか?」
 無光が同じ言葉を口にした。表情は微笑から、満面の笑みに変わっている。
「読み間違えていなければ三六だ」
 淡々と答える波翅に、無光は喉の奥で笑っていた。
「貴方ほどの男が間違えることもないでしょう。長いこと生きてきましたが……勘でわかる、貴方は随一だ」
「……誉められているように感じんな」
 嘆息気味に吐かれた言葉に無光は目を丸くし、顔を崩して笑った。
「貴方がそんな軽口をきけるとは思いませんでしたよ」
 そして、どっかりと畳に土間の縁に腰かけた。
「向こうはこちらを警戒して、いきなり飛びこんでくるような真似はしないでしょうよ。よかったら飲みませんか。お代は、貴方と傀儡を追っているクサに払っていただきますから」
 無光は腰にぶら下げていた酒瓶をはずし、蓋をとると、波翅の答えを聞かずに酒を呷り始めた。そして何度か喉を潤すと、さっきまで殺意を向け合っていた者同士とは思えない気楽さで、酒瓶を差しだした。
「どうぞ、毒なんて入っていませんから。安物ですが、風凪の水を使ってるので良い味ですよ」
 完全に敵意のなくなった無光を見下ろし形になり、波翅も緊張をといた。しかし腰を下ろすことはなく、
「下戸だ」
 ただ一言、口にした。
 それが癖なのか、無光はまた声をださずに笑っていた。
「なんともまぁ、餓鬼のようですな。では、菜っ葉代わりに名でも教えてもらえますか。相手がいるのに一人で飲むのは退屈なものでしてね」
「波翅だ」
「なんとっ、霧実(きりさね)の里の飛び波翅でしたか。私の鼻もなかなか使えますな。あの、飛び波翅とは」
 一人感心している無光を横目に、波翅は気づかれぬよう小さく息を吐いた。
 元来、シノビは影の存在でなければならない。にもかかわらず、名の広まってしまった自分はシノビとして価値があるのだろうか――そう思わざるを得なかった。
「しかし、あの飛び波翅が下戸とは」
 ぷっ……と吹いた後、今度は声を上げて笑った。
 クサの集団を軽く蹴散らす腕を持ち、人を斬ることに快楽を得る狂人でありながら、それは不釣り合いなほど子供じみた笑い方だった。
 波翅は目を細め、不思議なものでも見るように、座っている人斬りを見つめていた。
 事実、不思議だった。
 ほんの少し前までは殺し合いをしかねない雰囲気を作っていたにもかかわらず、今はその相手と酒を酌み交わそうとしている。
(変わった者もいるものよ……)
 そう思い――瞬時に波翅は視線を鋭くした。感覚を鋭敏にし、かすかな物音も逃さぬよう聴覚に意識を集中させる。
 そして彼と同様に、無光もさっきまでの笑みを忘れたような真顔で、開けたままの戸口を睨むように見据えていた。
「最近の忍は気配を消さないのが流行りなのですか?」
「今までいたクサは、気配を見せる策をとっていただけだ」
 無光は唇の端を釣り上げて、ゆるりと立ち上がる。酒瓶を腰紐に縛り、コキンと首を鳴らした。
 立ったままだった波翅は、すでに鈴白を肩に担いでいた。
「なるほど。それと、飛び波翅さんは、そんな状態でも人を殺せるんですか?」
「殺せる奴ならな」
「あぁ、まったくもってその通りでしょう」
 的を射た、とばかりに無光はうなづき、
「で、今回のお客人は殺せるんですかね?」
 歯を見せるほど深く笑みを刻んでいた。
「無理だな」
 鼻から溜まった息を吹き、波翅は無光の黒い瞳を真っ正面から見つめた。
「だが、腕のいい人斬りが協力してくれるなら話は別だ」
「都合よくいればいいんでしょうけどねぇ……くくっ」
「殺し合いが望みなら、後にいくらでも斬り捨ててやる」
「私はね、見た目より長く生きてきた。それでも貴方ほど奇妙なお人は目にしたことがない。人以外でこんなに斬りたいと思ったのは初めてですよ。無理やりでも相手をさせていただきます」
 一度、無光は言葉を区切った。
「ただ、今は向こうで我慢しましょう。待てば待つほど、機は熟すものですしねぇ」
 波翅はよく表情を変える無光と違い、まったく感情の映らない目で狂人を見つめたままだった。
「いずれ斬り殺す相手だ。礼を言う筋はないが……すまぬ、無光」
「おや、名乗った覚えはないですが?」
 一礼すらせず、詫びの感情すらこめられていない声だったが、無光はたいして気にした様子もなく眉をひそめていた。
「里のクサを斬った時に聞いていただけだ」
「なるほど……そろそろ、ですか」
「頃合いだな」
 小屋を囲んでいたクサの気配が遠退いていた。代わりに感じるのは、濃密な敵意だ。
 それを敏感に感じ取り、波翅は珍しく舌を打ちそうになった。
 三六人のクサを下がらせてまで、自分と戦おうとする霧実の刺客。
 足音から、里の誰か、まで判断できるほど生ぬるい相手ではないようだ。
「菜っ葉程度と思わぬことだ。腕のたつシノビが追っ手になった」
「菜っ葉ですよ。飛び波翅に較べれば」
 そう無光が言った瞬間だった。屋根を砕いて球形の塊が土間に落下する。それが、火薬を詰めた炸裂弾だと視界の隅で確認にした時には――無光は肩から小屋の壁を突き破り、その後を波翅が跳んだ。
 轟音が鼓膜を震わし、荒れ狂う猛火が小屋を朱に包む。夜を引き裂くような炎が闇を照らし、二人の背に熱波が降り注いだ。
「アアアァァァッッ!」
 そして甲高い雄叫びが響き渡り、疾風と化した影が爆風とともに襲いかかった。
 とっさに地面を蹴って波翅は距離をとる。が、小柄な影は棒手裏剣を放ち、彼の行き先を牽制した。
「くっ……」
 影の動きはさらに速くなり、波翅が苦鳴を漏らした時には、土煙を巻き起こしてすでに背後にまわっている。
「抜け忍、波翅……斬らせてもらう」
 強い意志のこめられた声とは裏腹に、炎に照らされた氷冴の瞳は揺れ動いていた。
 着地しながら独楽のように旋回し、無光はふり返った。
 襲いかかってきた背丈の低い影は、女のようだ。
「女のシノビ……クノイチというやつですか」
 それだけ呟くと彼は音もなく刀を抜いた。相手がシノビであろうが、ましてや女であろうが、敵対する者を斬り殺すのに理由など必要ない。波翅もそうであろうが、無光は特にそうだった。相手より強くなることに躊躇するようでは、明日の自分が危うい。そういう世界で生きてきたからこそ、判断も早い。
 しかし――だが――と、無光は自問する時があった。
 いつから生きるためにではなく、楽しむために殺すようになったのであろう。
 ただ、悩むようでは生きることも楽しむこともできはしない。
「くくっ……」
 長く生きすぎたのかもしれない。そう自嘲気味に笑っているかのように喉を鳴らし、無光は疑問も感情も背後の闇に捨てるように歩を進めた。狂気を瞳に宿したサムライは滑るように間合いをつめ、波翅と忍刀で打ち合うクノイチの背後に迫った。
「ヒュ」
 短い息吹を残して、大上段から隙だらけの背中に白刃をふり下ろす。
 だが、キィィィン……と、夜闇に冷たい音が響き渡った。
 クノイチを中心として動いた旋風が、刃を弾いていた。
 苛立たしげに、無光が吐き捨てた。
「なんのつもりですか、波翅さん……」
 刀を受けたのは、波翅の足に付けられた脛当てだった。正面から止めれば斬られる恐れもあるため、横から回し蹴りの要領で受けながら弾いたのだ。
 ただ、それをクノイチの斬撃を躱し、同時に実行する体術は驚愕に値する。
 普段ではあれば無光もその動きに口笛の一つでも吹き、感嘆の言葉を漏らしたかもしれない。
 しかし、今は状況が違う。
 彼は目の前で獲物を奪われたのだ。人を斬ることで快楽を得る狂人は、歯軋りしかねない表情で波翅を睨んでいた。
そしてそれは、自分の危機を救われたクノイチ――氷冴も同様だった。
 殺そうとしていた敵から、逆に命を助けられたのだ。侮辱以外のなにものでもない。
 軽やかに跳んで一度距離をとった波翅は、担いでいた鈴白を地面に置くと、一言だけ口にした。
「氷冴の相手は俺がする」
 それだけだった。二人の感情はまったく顧みず、自分の目的だけを言ったのだ。
「納得が、いきませんね。あなたは、私に、敵を斬れと命じた。獲物を奪われるのは……不愉快なんですよ」
 無光の飄々とした雰囲気が一変していた。焔に巻かれた家屋から吹き荒れる熱風に混じり、彼の殺意が場に充満していく。
「俺と斬り合いたければ言うことをきけ」
「それはその傀儡を助けるための口実でしょう。別に私は今ここであなたを斬ってもかまわない、そうは考えられませんか」
「考えられないな。そう思っているならば、小屋で始めていたはずだ」
 波翅と無光が剣呑な視線を交差させる。突けば破裂するような緊張感が膨張していき――。
 そして、それを打ち破ったのは、
「波翅ェェェッ!」
 甲高い、悲鳴じみた声だった。
 氷冴は雄叫びを尾のように引き、身体全体で突進する。はた目からは無策に突っこんでいるようにしか見えないが、踏みこむ速度は尋常でなく、波翅はすでに忍刀の間合いの内だ。
袈裟斬りに刃が走り、波翅は抜き打ちの直刀でそれを受け止める。だが氷冴は忍刀を受けられたのを見た瞬間、空いて左手がすでに動いていた。
 引き抜いた棒手裏剣で喉元を狙う。
 波翅は半歩引いて刄先から逃れるが、直後、首をひねっていた。先ほどまで彼の眼球があった空間を、棒手裏剣が貫く。
氷冴が、手首だけで棒手裏剣を放っていたからだ。
常人の目には弾ける金属の輝きしか映らぬ斬撃が幾度となく交錯し、照らされた闇が鈍い音色に打ち震える。
 氷冴の瞳には鈴白も、無光も、波翅以外の誰一人として映っていなかった。眼前の波翅だけが自分の全てであるかのように、刄を向けていた。
 それを、無光を呆れたように見つめていた。彼は完全に毒気を抜かれていた。
 シノビとクノイチは互いに相対する者しか見えず、刄の先のように集中した意識は崩れることがない。
 蚊帳の外とはまさにこのことだ、と奇妙なほど納得してしまった。静かに溜まっていた憤怒は、放出されることなく霧散していく。
「まぁ……元々、人間以外を斬るのは好きじゃないんですよ」
 負け惜しみにしか聞こえない台詞を口にし、無光はその場にあぐらをかいた。握っていた刀も、帯から抜いた鞘とともに投げやりに草地に捨てる。
 代わりに腰にかけていた酒瓶を手に取ると、喉が鳴るほど勢いよく飲み始めた。
 飲まなければやっていられない――態度が雄弁に言葉を語っている。
 だが、無光の視線の先で繰り広げられる戦闘は、
「……たまには、こういうのもいいかもしれませんね」
 酒の肴としては最高級であることは彼の目にも明らかだった。
 同じ年に生まれ、同じ師の下で鍛練を積み、似たような子供たちが次々と脱落する中、二人はシノビとしての道を歩んでいた。
 幼なじみであり、友情もあった。戦友でもあり――選ばれた存在であるシノビを目指す、好敵手でもあった。
 だからこそ、いつしか淡い恋心も生まれていた。
 二人とも、シノビとしての移植手術を受けられると決定した時には、共に喜んだ。
 そして移植手術で亡くなっても構わぬよう、子を成すために、氷冴は波翅に抱かれた。
 シノビになることを選ばれた者の、優秀な子を残すためだけの行為。
 霧実の里に生まれた運命だ。一生、結ばれることはないと思っていた。絶対に届くことのない思いだった。
 だからこそ、感情を伴わない子作りだけの作業でも――誰にも言うことのできない氷冴の思いは、喜びに満ちた。
 そして……。
 波翅も同様の思いを抱いていた。
 氷冴は今でも鮮明に思い出すことができる。彼女だけではなく、波翅にも秘めた思いがあったことを告白された夜を。
 初めて身体を重ねる時に言われた。
 何度も抱き、抱かれた。飽きることなくお互いに身体を求め続けた。
 波翅以外の子を孕まぬよう、氷冴は彼にしか抱かれなかったが、波翅は何人もの里の女を抱いた。少しでも優秀な子を残すためだと理解していても、頬を涙が濡らす日があった。
 期限付きの蜜月は、子ができないという結果だけを残して終わった。
 そして二人は移植手術の拒絶反応も現れず、シノビとなった。
 シノビは里の重要な収入源であり、敵対する名代同士に派遣されることもある。
『子ができなくて良かった』
 波翅はそう言った。
『もし子ができていたら、敵であっても……お前を殺せなかったかもしれない』
彼なりに、子ができなかった氷冴を慰めているのでない。情愛の証が残ると、刄が鈍るという意味だ。
 波翅は過去を捨て去り、シノビとなったのだ。
 しかし、氷冴は捨てきれなかった。
 別々の任務につき、三年がたち、偶然、波翅と同じ炎津の銅帋重幸の下で働くことになった。
 久々に会った波翅は、有名を轟かせるほどのシノビになっていた。
 なにより――変わっていた。
 少ない口数が、前以上に減った。
 瞳から感情の輝きがほとんど消えていた。
 以前ほど……笑わなくなった。
 波翅ではなく、彼は「飛び波翅」だった。
 ただ、それでも波翅と敵対しないでいいことに、彼女は安堵した。
 安堵していたのだ。
 まさか波翅が里を裏切り、抜け忍になるなど、氷冴は夢にも思っていなかった。しかも抜けた理由が、捕らえるはずの傀儡に、逆に誘惑されたというものだ。
 彼女とて、いつまでも一人の男に思いを寄せるような生娘ではない。任務のため、何十人もの男に身体を預けてきた。それが、クノイチとして存在する者の役割だからだ。
 しかし、波翅が傀儡に誘惑されて裏切ったと聞いた時には、奈落の底に叩きつけられたような絶望を感じた。心臓を鷲掴みにされ、呼吸ができないような息苦しさを覚えていた。
 氷冴は、悔しかった。
 傀儡に誘惑などされた波翅が。
 なにより、今だに波翅を求めていることに気づいた自分が許せなかった。
 それが悔しく、口惜しく、ただ感情だけが荒れ狂いそうだった。
 そして銅帋重幸に依頼された、幸正の護衛を兼任した内部の諜報任務を放棄し、氷冴は波翅を追った。
 里の誰かが波翅を討ったならば、その者を殺してしまいそうな自分が恐ろしく、そんなことを考えてしまうことが惨めで仕方なかった。
 氷冴の瞳には、もう……波翅以外は映らなかった。
 氷冴は躱されるのを覚悟で棒手裏剣を二本放った。
 案の定、波翅は二本の棒手裏剣の間に身体を移動させ、一気に間合いをつめようとする。
 ――が、彼女は躱されるのを予期して投げていたのだ。
 波翅は一瞬、二つの刄の間で何かが炎を照り返したのを見、とっさに直刀を顔の前に立てた。
 金属のこすれ合う耳障りな悲鳴が響き、刀が何かを受け止めた。
 黒く塗られた刄鋼線が棒手裏剣の間に伸びていたのだ。彼が気づかなければ、今頃は波翅の首が転がっていただろう。
 しかし、クノイチの連撃はまだ終わっていない。
 刄鋼線を止めたのを確認すると同時に肉迫し、脇腹を狙って短刀を突きこむ。
 波翅は身体をひねって直撃だけは避ける。が、刃先は衣服を切り、皮膚を裂いた。
 傷が痛みを脳に伝えるが、彼は引くことよりも反撃を優先した。手にした刀の柄を、氷冴の眼窩に打ちこむ。
 しかし彼女も致命傷だけは避けるため、頭を振って一一鈍器となった柄が頬骨を打つと同時、二人は互いに跳躍して間合いを離していた。
 波翅の脇腹には血が滲み、氷冴の頬には早くもあざが浮かんでいる。
 一度だけ大きく息を吐き、波翅は直刀を鞘にしまって構えた。
 居合いだ。
「腕を上げたな」
 久方ぶりに氷冴に向けられた声は、それだけだった。
 それが、
「……ふざけるな」
 余計に彼女を苛立たせた。
「名が売れた程度で自惚れるな! お前より下だと思ったことは、私は一度もないッ」
「そうだな、腕の差はほとんどない。だが……負ける気はしない」
 波翅の言葉に、氷冴の怒りは頂点に達した。整った顔が憤怒に歪む。
「馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
「馬鹿になどしていない。事実を述べただけだ。《飛び波翅》の由来を……見せてやる」
 口調そのものは抑揚がなく、淡々としたものだ。しかし氷冴に見つめる視線は鋭く、さながら刃先のようだ。
 氷冴は思わず、音を立てて唾を飲みこんだ。
 飛び波翅の名は、周辺の国にまで知れ渡るほど勇猛を馳せている。だが奇妙なことに、その由来まで知っている者はいなかった。
 背筋に冷たい汗が流れる。
 同郷の忍にすら恐れられる波翅の本領が、今、発揮されようとしていた。
 それでも彼女は、引く気はなかった。波翅と別れてから氷冴も鍛練を積んだ。実戦でしか学べぬ技と、知識を得た。
「私を……昔のままだと思うな」
 氷冴の唇からこぼれたのは、飛び波翅への畏怖ではなく、自信。
 彼女は両手の先を背中に隠す奇妙な構えをとり、波翅と対峙した。
 視線を絡めるシノビとクノイチは物音一つなく身構え、お互いに必殺の瞬間を待つ。炎の勢いが弱くなりつつある家屋から、時折、火の弾ける悲鳴が聞こえた。木々の間を、ふいに一陣の風が吹き抜ける。
 何が起きようとも微動だにせず、二人は刹那の感覚でしかないであろう時を待ち続けた。
静かだが、焼け付くような攻防の脇で、草むらに倒れていた娘がぴくりとまぶたを動かしたのを、無光は見逃さなかった。
「そんな風に寝っころがっていたって、空しか見えないでしょう」
応えは無い。気にする風もなく、男は酒瓶を傾けた。勢いで、酒の飛沫が草にぱらぱらと散る。
「私はねえ、人間斬るのが好きなんですよ。……斬った手ごたえでね、分かるのです。ああこりゃ木偶だわい、と。私ほどの腕になるとね。威張るつもりはありませんが、謙遜するのも意味がない」
三間ほど先の、ぴりっとした空気の中で対峙する二人を眺めながら、無光は半ば独り言のように低い声で続ける。
「サムライもシノビも分かります。何処と無く硬い。人は違いますよ、生身はね。刃を肌に食い込ませた瞬間に、ええ、分かるんですよ」
がさ、と音がした。そちらに顔を向けることも無く、無光は酒を飲む合間に、実に楽しげに話す。
「ふにゃあ、とね。もち肌とでも言うんでしょうかね。刃の先が、こう抵抗無くつるりと入り込んで、それで大事なものをぶつりと斬るわけです。木偶は壊れる。サムライも壊れる。シノビも壊れる。人は、死ぬ。はは、悪趣味だと思いますか。ですが、こんな時世では、珍しくも無いでしょうねえ。」
「ひとでは、無いと…」
かそけき声が返るのに、男は驚きもしなかった。娘は体を樹にもたせ掛けるようにして、対峙する波翅と氷冴を見つめ、無光へと視線を戻す。その瞳の中には、先ほどまでの狂気は見当たらなかった。
「・・・この場に、ひとでないものは、おりましょうか」
「いますなあ」
無光は笑って、おや酒が切れた、と言った。
「まずあなた。木偶の体で人を名乗るのは、おこがましくはないですか」
「私は……」
「木偶ですよ」
鈴白は、言葉に詰まって視線を落とした。途端に眼に飛び込む、鮮やかな右腕の切り口に眉をひそめて眼をそらす。
穏やかな口調の無光は、それを見ているのか見てないのか、また、呑気な調子で酒が切れたなあと繰り返した。
「……私はひとではございませぬ」
「はいそうです。そしてあちらのお二人も、人ではないです。シノビです」
示す先の二人は、先ほどから微動だにしない。こちらの声も聞こえぬほど、お互いに気を張り詰め、刹那にも満たぬ隙を待っているのだ。
「ひと…です」
「違いますなあ。ああそれと、私も人ではないと言われます」
ははあ、とどこかだらしなく無光は笑った。
「人でなしとはよく言われますが、まああれですな、私にとっては褒め言葉みたいなものです。――つまるところ、ここには人がいない」
「いない…」
「いません。私が斬りたいと思わないのが何よりの証拠です。私は伊達や酔狂で刃奮っているんです。やりたくなきゃあ、やりません」
鈴白は、ぞくりと震えた。何だか、酷くここから逃げ出したい。逃げ出したい。
「駄目ですよう」
鈴白の考えを読んだように無光は言って、未練がましく振っていた酒瓶を放り出した。
「あなたは私にとっていい餌なんですから。言葉は陳腐ですがとても大事ですあなた。行かせやしない」
それよりほらどうですか、こちらに来てあの二人見なさい、と無光はひらひらと手招いた。
半ば幻術にかかったような心持で、鈴白はずるりと身体を無光に寄せた。無光が初めて鈴白に視線をやる。
それは鈴白が今まで覗き込んできたどの眼とも違う色だった。
ぼんやりと霞がかっているような目の色の奥に、鋭い氷の針のような輝きが時折ひらめく。
違和感の正体は、直感的に分かった。
この人は、私に情欲を欠片も覚えてはいない。
「いい仕事だ。私は職人という者は尊敬することにしています。人は凄いなあこんなに凄いものを作るんだから、やっぱりすごいなあ」
無光はそういいながら、鈴白の頬をなでるそぶりをした。だが、そのては実際には鈴白に触れることはなく、空気をなでて引っ込んだ。
「こういう人を殺すのが楽しい」
「……」
狂っているのだ。そして、自分の狂気を自覚している。
改めて鈴白が震えたとき――対峙していた二人の間の空気が、ついに弾けた。
それは、熱せられた炭が弾けるに似ていた。一瞬の半分に、無数の駆け引きが対峙する忍の間で激突し、あるいは受け、あるいは流し、あるいは仕掛け、あるいは騙した一撃が火花となって、昼に近い陽光の下で血なまぐさく輝いた。
音はない。
だが、すべての駆け引きが終わった後、二人の位置はものの見事に入れ替わっていた。
大きく一拍をあけ、ずっ、と一方が倒れ伏す。
どこかの樹の中で昼寝していた鳥が、けたたましく鳴きながら飛び立った。
波翅は大きく息をついた。草むらに伏し、かすかに震えるクノイチを眺めやり、大またで近づく。
「……ちくしょう」
右手をおかしな方向に捻じ曲げたまま、見下ろす男を見上げることも出来ず、氷冴はうめいた。
波翅は無言で刃を振り上げる。
「畜生、ちくしょう、ちくしょう、馬鹿波翅っ…!」
絞り出す声に、泣き声のようなものが混じった。高々と刃を振り上げたまま、波翅はしばし動きを止める。
「あんたは馬鹿だっ…あ、あんな木偶のために裏切って、仲間を殺して、逃げて逃げて・・・逃げて…」
「木偶じゃない。…鈴白だ」
波翅の言葉に、氷冴は何故か酷く――腕を折られたときよりも酷く、痛そうな顔をした。
「……何処へだっていっちまえ、波翅。私を殺して、どこかへいっちまえ…あの木偶をつ、連れて地獄に落ちちまえ…!」
「言われなくともお前は殺す」
「……」
びゅんっ、と刃が空を斬った。
「……どうして私じゃ」
言葉は宙に浮いて、続きを語られることはなかった。
深々と、刃のみねで首筋を打たれ、氷冴は昏倒した。
波翅は不思議そうに手の中の刃を見た。いつ刃とみねを返したのか、自分でもよくわからなかった。
「……」
気を失っているクノイチと刃を交互に見て、再び刃を振り上げようとして――波翅は気付いた。
思わず、振り向く。

先ほどまで、酒を飲みながらこちらを眺めていた無光――それに、鈴白の姿が、いつのまにか忽然と消えていた。
転がっているのは、空になった酒瓶のみ。

「……!」

笑い声が頭の中にこだました。ものも言わず、波翅は瞬時に地を蹴った。
「死んで…」
「そう」
ざざざっ、と生い茂った茂みを掻き分けて駆け抜けながら、無光はうなずく。
鈴白は後ろを振り仰いだ。日は既にほぼ沈み、薄闇が迫っている。
人の気配はないが、そこかしこに野の獣の気配がした。山中深い。
鈴白は、ひとつため息をついた。
「無光様…何をお考えになっているのか存じませんが、お降ろしください」
「嫌ですよ。降ろしたら逃げるでしょうあなた」
「……逃げませぬ」
「逃げない?」
逃げないのだろうか?
自分に問いながら、鈴白は首を振った。

だが、きっと自分は逃げないだろう。逃げて、逃げて、そしてどこへ?
誰かが待っているわけでもなく、どこかにたどり着きたいわけでもない。
どうにでもなれ、という心持が正しいのだろうか。
正しいことなど、何もないような気もした。ともかく――確かに地に足をつけて歩かねば、自分が命あるものでなく、本当にただの人形のような――そんな揺らぎを感じたのである。

「ふうん」
愉快そうな声で、無光は唸って、いきなり立ち止まった。
山深く、たたずむ場所は道なき道である。緑の匂いが濃く立ち込めているすぐ横の斜面は切り立った崖で、何故このような場所を恐れ気もなく走れるのか、鈴白には理解しかねた。
多分――死が近いのだろう。
どこかで、どうどうと水が流れる音がした。滝でも近くにあるのだろうか。
「無明の滝」
鈴白の気配を読み取ったように、無光が呟いた。
え、と問い返す間もなくぐるりと世界が廻って、すとん、と足が地に着く。
じわりと湿った土の感触だった。
「有音無形の滝、というのが正式な名称らしいですなあ。どこぞの俳人が気取ってつけたんでしょうが、近くの猟師やら農民は、ただ音滝、あるいは無明の滝、とだけ呼んでいるのです」
「……どこにあるのですか」
「それが、見たものがほとんどいないと言われるほど深い山奥に」
どうどう、と音が山に、かすかに鳴り響く。あっというまに――日は沈み、夜が忍び寄っていた。
「好んで探すものもおりませんしね。なんでも出るそうなんですよ。いや、棲んでいる、と言った方がいいのかな…」
「……」
なにやら楽しそうに、思わせぶりな口調で話す無光は、酷く場違いに幼く見えた。
掴めぬ人だ、と後ろについて歩きながら鈴白は思った。
「何が、と聞き返してくれなけりゃ始まらないのになあ」
「す…すみません」
いつの間にか、この男に飲まれている自分がいる。
「竜ですよ」
焦らしたわりにあっさりと無光は言った。
「竜が棲んでいるとか」
「……竜」
「竜神ですからねえ。地元の人間は、そりゃ近づきませんよ」
急勾配を登る男の足取りは、いささかも衰えない。
鈴白は、噴きあがる汗をぬぐった。心なしか――滝の音が近づいてきたような気がする。と、無光が急に立ち止まった。
「波翅さん、今どこを走っているでしょうねえ」
「……」
鈴白に分かろうはずもない。
「派翅さんはたどり着けるかなあ。音滝に」
「何を…」
「そこまで追ってきますかね」
振り返った無光の顔が見えない。顔があるべき場所は、黒々とした影に覆われていた。
だのに、鈴白には、無光が笑っていることが分かった。
「それこそ修羅ですよねえ。そんな化け物の巣まで追って来るなら、もう忍じゃあない。修羅だ」

忍としての派翅さんは、あなたのために『死に』ますかねえ。

笑って、黒い影が手を伸ばした。鈴白は、魅入られたようにその手を見つめた。
とん、と軽く突かれた。とても軽く。ただ、バランスを失うには十分だった。
娘の身体は崖から宙に舞った。足元から、確かな地面の感触が消えた時、何故だが酷く不安で泣きそうになった。
ぐるぐると廻る視界の隅で、無光があとから続いて飛ぶのが見え、ああ一人じゃないと安心して、そうして、安心した自分に驚きながら、鈴白はゆっくりと気を失った。

チイ、とどこかで蟲が鳴いた。夜は深く、人の気配はいまだ無い。
麻間藩、薬ノ沢山中。大登峠を南に下り、山中に深く分け入った場所に、大きな滝があることを知るものは多いが、実際に見たものはいない。というのは、滝にいたるまでの道のりがひどく険しく、熟練の猟師ですら行くことを拒む深山であるためである。それでも、滝の存在を知らしめているのは常に山を渡るどうどうという滝の音である。音はすれども姿は見せず、というわけで、その滝の名を「有音無形(ゆうおんむぎょう)の滝」という。地元では単に「音滝」とだけ呼ばれているのだが。
その滝の流れ落ちる下には、深い淵がある。その淵に、人の名づけた名は無い。見たものがほとんどいないからである。
深みにとろりとにごった緑の淵は、木々の間を抜ける太い川――下流へいくにしたがって幾重にも分かれ、麻間の領地の大半に広がる川の源に、常に豊かな水を注ぎ込んでいる。その淵をして竜が淵、あるいは麻間水源とも言ぶ者がいる。呼んでいるのは人ではない。淵にはるか昔から棲み、息づいてきたモノである。
そのモノ達を、人は怖れと幾分かの敬いの念をこめて、竜と呼ぶ。

男――無光は、中空に立っていた。その隣に、まるで見えない地面でもあるかのように鈴白が横たわっている。
二人の足元、深々とした闇の下に、渦巻く水が見える。水面ぎりぎりのところに、二人はいるのだった。
水飛沫が時折、無光の足を濡らす。その度に、彼の足元できらりときらめく糸のようなものがある。
否、それはまさしく糸であった。男は闇の中、細く張られた糸の網のようなものの上に立っている。
上を振り仰ぐと、崖は黒々と高く、たった今落ちてきたその場所ははるか遠くにそびえていた。
「存外衝撃がありましたね」
全くそんなことを思っていないかのように呟くと、ごきり、と首を鳴らす。
「全くだ。冷やりとしたよ」
ぶっきらぼうかつ不機嫌そうな声音が、いきなり無光の後ろから投げられたのに、男は驚きもせずに笑った。
「や、お目覚めでしたか」
「起きないわけがあるか。人の家に派手に血でもぶちまける慮外者が降って来たと、泡を食って顔を出してみれば、お前か無光」
「おや恐ろしい。お怒りを買ったようで」
「ふん」
鼻を鳴らす、その声は若い青年のものである。ゆっくりと振り向いた無光の視線の先、今度は正真正銘の中空にふわりと浮かんでいるのは、果たして、一人の青年であった。
足元の水が小さく渦を巻いている。薄い紗の、碧を基調としたすその長い祭衣をまとった青年は、腕を組んでややむっつりとした風情で男を見やった。風もないのに緑の巾が優雅にたなびいている。
肩に触れるほどの長さの、黒と見まがうほどの濃い緑髪にすらりとした長身の体。
細く眠たげな、同じく濃い緑の瞳。年の頃は18、9、一見してどこぞの商家の箱入り息子といった風情の、どこか浮世離れした雰囲気の青年であった。
もっとも、獣も通わぬ深い山奥の淵に浮かんでいるという情景が、その雰囲気をして醸し出させる要因であるのかも知れないが。
「やあ、随分と大きくなりましたね!人身に変化するのがお上手になられましたな。ご機嫌麗しく、竜神…森羅様」
仰々しく手を上げてみせる無光を、青年――森羅はじろりと睨んだ。
「麗しく見えるなら目玉を取り替えたほうがいいぞ、無光。お前はいつも血なまぐさい。そんななりで僕の寝所に踏み込むなと、何度言えば分かる。しかも、なんだそれは」
寝転がった鈴白を指差して、森羅は更に言い募った。口を開くと、それまで発せられていた神々しさのカケラのようなものが吹っ飛んで、ただの駄々っ子のようになる。
「いつもいつもいつもおかしなものを連れ込むなといっているはずだぞ!本来ならここは由緒正しく霊験アラタカなところなんだ、うかうかと人を連れ込むんじゃない!」
「人ではないですよやだなあ森羅様。これは木偶です、くぐつですよう。くぐつってのは確か木霊が元じゃなかったかなあ」
「同じものだ、そんなの。僕らからしてみれば、人と何が違う」
「ふうん…?」
無光は眼をぱちくりさせた。
「僕は人は嫌いだ。生贄だとか捧げものだとかで、淵にやたらいろんなものを放り込む。そのたびに水が濁る。ここは奴らのゴミ捨て場じゃないんだぞ!?」
「まま、落ち着いて落ち着いて。それもこれもあなたを尊敬するが故の」
「放っといてくれ!」
きいい、と擬音がつきそうなくらい髪をかき回して、森羅はやっと一息ついた。
その間、無光はにやにやと笑いながら若き竜の化身を眺めている。
「…で」
一通り叫んで気が済んだのか、森羅はため息をひとつついて無光を見つめた。
「……一体、何のつもりだ?」
「ははは」
無光は笑って暗い空を仰ぎ見る。
「何、ちょいと待ち合わせですよ。来るかどうかは……わかりませんがね」
目覚めた鈴白が見たのは、なんとも珍妙な光景だった。
水飛沫が時折濡らす、苔むした巨岩の上に彼女は寝かされていた。とろりとした緑色の淵には、どうどうと音を立てて滝から水が流れ込んでいる。
その、淵の中央辺りに、二人の人間が中空にあぐらをかいて晩酌しているのだった。
当然、地面のようなものは見えない。だが、二人のどちらも、そこが中空であることに対して何の感慨も抱いていないかのように酒を酌み交わしている。
一人はやけに楽しげに(もちろん、こちらは無光である)、もう一人はむっつりと(緑衣が古めかしい青年のようだった)杯を空けている。
(……?)
「ん」
目覚めるべきか、もう少し眼を閉じているべきか悩んだ鈴白を、前触れなく青年が振り向いて見つめた。思わず、びくりとしてしまい、鈴白はおずおずと身体を起こす。
「やあ眼が覚めましたか。それにしてもよく気絶する人ですねえあなた」
あははは、とそぐわぬ明るい笑いを響かせて、無光は軽く手にした杯をあげて見せた。
「どうですか一杯」
「無光」
むっつりとした声で遮ると、青年は立ち上がった。まるで透明な床でもあるように、滑るように鈴白の元へと歩いてくる。
鈴白は、知らず姿勢を正していた。音滝。この世ならぬ風情の青年。空を滑る足取り――
「お前、」
「竜神殿であられますか」
青年が口を開くのと、鈴白が深々と頭を下げるのはほぼ同時だった。詰まった青年に被せるように、鈴白は続ける。
「此度は、知らぬとは申せ御寝所に踏み入った非礼、何卒ご寛恕下さいませ。償う術とてありませぬが、この通り」
「おい」
「私は身一つの木偶人形、くぐつでございます。人の言葉にて暫し御耳を汚しますこと、お許し下さいませ。道さえお示し頂きますれば、疾くこの場より立ち去らせて頂きますゆえ」
「おい、お前」
青年――森羅は、呆れたように手を広げて、やっと鈴白の言葉を遮った。うつむいたままの鈴白の前に、苔を踏んでふわりと降り立つ。
「よく口が廻るな。その通り、僕はこの淵の主、森羅だ。しかし、なんだそのざまは。顔をあげろ。僕はかしずかれたり持ち上げられたり敬われたり祈られたりするのが嫌いなんだよ」
「……」
「何だよ」
うつむいたまま動かない鈴白に、森羅は早くもイライラと足を踏み鳴らした。
「恐れ多く」
「だぁっ、だからやめろって!全く、お前らクグツってのは、どうしてそう他者に頭を下げるのが好きなんだ」
森羅は鼻を鳴らした。
「僕には理解できないな。いいから顔を上げろって。無光!お前も笑ってないでどうにかしろ、お前が連れてきたんだろう?」
「いやいや、あたしはその子に嫌われておりまして」
無光はにやにやと二人の様子を眺めている。
「くそっ、嫌な感じにかたくなだな。ともかく来いって」
森羅は無造作に鈴白の細い腕をつかみ、ぐいっ、と引っ張った。同時に、巨岩を蹴って飛ぶ。
「あ」
声を続ける間もなく、娘の身体は青年と共に淵へ落ちる。とぷん、と水はやわらかく二人を受け止めた。
「…っぷはっ!」
鈴白はあわててもがき、顔を水面に突き出す。さほど身体を動かしているわけでもなく横に並んで顔を出した森羅が、くんくんと鈴白の首辺りのにおいを無遠慮にかいだ。
「しぶといな。お前、血の匂いが強すぎる。よく洗え」
「は…それは」
「洗えって。血の匂い嫌いなんだよ」
森羅は幼い口調でぶすっと告げた。鈴白はぱちぱちと瞬く。
「…すみません」
「女なら気づけよ。全く」
「…失礼を」
「いいから!もう、お前、頑固!」
「は…」

二人の頭上でそんな様子を眺めていた無光は、杯を傾けつつ、
「ああ、まだかなあ…もうすぐだと思うんだけどなあ……」
と呟いた。


一方、その頃。

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