ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

美少女戦隊メイド7コミュの陸奥斬鬼帖 帖の一「さくら」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
エセ江戸時代を舞台とした茜のご先祖様の話、第一話です。

コメント(41)

一段目

 桜が薄紅に咲く理由をご存知ですか、それは根元に死体が……。
(なんてのは血を見たことのねぇ女子供の戯れ歌だよなぁ)
 あんな小汚い色は無い……そりゃ出たばかりは綺麗か知らんが、生臭いし直ぐにどす黒くなり赤土の泥と大して変わらん物に成り下がる。
 しかしまぁ、どっちにしろ枝と縄を伝っては血は吸えないだろうな。
 些か皮肉っぽい事を考えながら六兵衛は桜の枝からぶら下がったそれに目を向けた。
 手頃な手段だが、自分で自分の始末を付けるやり方としてはあんまりお勧めできねぇよなぁ。
 と言うより、お勧めできる始末の付け方なんてのは実は無い。
 釣瓶になれば縦に伸びて出来損ないの見世物の化け物よろしく舌がべろりん、土佐衛門さんは膨れて魚と蟹の餌になるし、何処刺せば死ぬかも知らん連中の匕首の刺し合いなんてのは狂乱沙汰で目も当てられない。
 綺麗に死にたければ、家族に看取られて畳の上で死ぬのが一番だ……。
 仏の確認をする時の親の嘆きが目に浮かぶぜ、全く。
 何を儚んだか知らんが若い連中が不見識な真似しやがってよぉ。
 この八百八町、徳川(とくせん)のお膝元は悲恋の芝居が当たると実際の心中も当たる。
 面倒だなぁと思いながら巡らせた視線の先で、仏二人をジロジロ眺める若者の姿が映った。
「何をぼやぼやしてんだ、俺に言われねぇでも仏さんをさっさと下ろしてやれ」
 六兵衛は手下として使っている半七に、威厳に満ちた−と本人は思っている−声を掛けた。
「へい、里中様の到着は待たなくて宜しいので?」
「旦那が仔細にご覧になるまでもねぇよ、ありふれた心中じゃねぇか」
「判りゃした、与一っつあん、手伝ってくんねぇ」

(ホントに大丈夫かねぇ……)
 半七にはどうもこの心中−と六兵衛親分が思い込んでいる件−に腑に落ちない物を感じていた。
 仏さんを下ろしてやりながらもその思いは強まるばかり。
 先ず着ている物。
 あまりに普段着過ぎる。
 男の方に至っては肩に継ぎが当たってるし、ぱっち(股引)も穴が開いてて、草鞋も半分擦り切れたシロモノ……普段着ならまぁこんなもんだが、親分の見立てた芝居に酔って心中気分で死ぬ連中なら、覚悟の上と言われる為に、白装束を用意する程度の洒落っ気一つ位は持ち合わせて居ると考える方が自然。
 それに、男女ともに直近に湯に入った形跡も無い。
 貧乏で白装束が揃えられねぇでも、せめて身奇麗にして死ぬ程度は気が回りそうなモンだがなぁ。
 それに普段着と言うには男の服装が薄すぎる……。
 まるで……そう、屋号の入った半纏を持ち去ったような服装。
「半さん、仏さんってのはどいつもこいつも重いねぇ」
「仏ってぇのは大概金物だからな」
「違ぇねぇ……っと」
 陰気になりがちな作業中だからこそ軽口も飛び交う。
 不謹慎と言われようが、こっちの健康の為にこの程度は許して欲しいもんだ。
 などと思いながら、さり気なく下ろした仏の首の辺りに手を回す。
 娘の首は折れていない。
 ぶら下がる拍子に首はかなりの場合で折れる事を、半七はこの仕事を手伝うようになってから知っていた。
 ちょいと里中様のお耳に入れて置いた方が良いんかなぁ……親分の頭越しに動くと、ばれた時に色々五月蝿いんであんまりやりたく無いんだが。
 里中の旦那は良い人だし、頭も切れなさるが、手下が自分の頭越しに動く時の六兵衛の臭覚は中々鋭い事もあり、半七としては迂闊に動けない所ではある。
(どうするかは、この二人の事を調べてからにすっかな……ん?)
 娘をおろしてやる時に揺れた枝から雪が落ちて、淡い薄紅の色が見えた……。
(こいつはまた……)
 この時期に桜花とはねぇ。
「半さんどしたい、らしくもなくぼっとして」
「……見ねぇ、季節外れな物が咲いてやがるぜ」
「こりゃ驚いた……後で熊にでも教えてやるか」
(しまった……余計な事言っちまったな)
 物見高い連中がわらわらと此処を踏み荒らす様を想像して半七は自らの失言を悔やんだが、今更遅い。
 出した言葉を引っ込められる物なら、人生の苦労って奴はどの位軽くなる事か。
 仏さんをコモに包んでやって、与一と一緒に用意してきた大八車に乗せる。
 普通ならコモに棒でも通して運ぶんだが、知らせを聞いた半七が、冬の早朝では人手を集めるのが大変そうだと気を利かせて持ってきた物。
「しかしまぁ、粋に心中なら目の前の川にドボンってもんだよなぁ、この二人も何を好き好んでわざわざぶら下がったやら」
 この与一はいつもは言う事が的外れで、同名の弓の名人を草葉の影で泣かせる事が多いが、今日の言い種は悪くない……。
 今小屋で架かってる芝居も、『今聞く鐘は七つ(午後8時頃)の鐘、七つの鐘を六つ聞いて、残る一つは未来の手向け、お花覚悟はよいか、南無阿弥陀仏ぅ〜』の声と共に二人は大川(隅田川)に身投げして終わる。
 まさか、死ぬ時間を七つに合せた訳じゃないだろうけど……。
 何でわざわざ川を前にして首を括ったのか。
「さて番所に運んで、仏さんの身元捜しだ。どっかから名乗り出てくれりゃ楽で良いんだがな」
「そうですねぇ親分」
 楽……ね。
 親分と与一の言葉を聞きながら、半七は口元に浮かんだ皮肉な笑みを気付かれない様に顔を背けて、大八車の後に付いた。
 簡単に得られる答えってのは、往々にして手痛い竹箆(しっぺ)返しを用意して待っている物だという事を、半七はしたくも無かった経験から学んでいた。
 親分は恐らく番屋で待ちだろう。
 では、少し自分が勝手に動いてもどうにでもなるか。
 手弁当になっちまうが、このままじゃどうにもすっきりしねぇし……まぁ良いか。


「お嬢様、墨堤(どて)で心中があったそうですが、昨晩のお出での折に何かご覧になりませんでしたか?」
 伸し餅の追加をお盆に載せた女中が、礼儀正しさの中に微量の気安さを練りこんだ声を掛けて寄越す。
 隅田川の堤防は八代様(徳川吉宗)が桜や梅を植えてからは、花見と散策の名所となって久しく、墨堤(ぼくてい、どて)と言えばそれで通じる程に知られた場所である。
 春に沿岸の桜を愛でながらの川下りなどすれば、桃源郷の風情すら醸し出す。
「知らぬな……」
 みー。
 傍らの黒猫と共に、仄は火鉢の上で膨れる御餅に視線を釘付けにしたまま生返事を返した。
 狐色にかりっと焼きあがった表面に亀裂がはいってきており、そろそろ食べごろの様子であった。
 外見に似ない大食漢のお嬢様の為に、伸し餅がでんと載った大皿を置きながら、白くふくふくと搗き上がったそれに心を奪われている主の横顔に目を向ける。
「若い二人の首括りだそうですよ、何が有ったんでしょうね」
「死にたくなるような事であろうよ」
 ふみゃー。
「それは……左様で御座いますが」
 そっけなく断ち切られる会話は、半年ほど前に祝言を挙げた友人から愚痴と共に聞かされた旦那のそれに近い気がする。
 自分の主は若い乙女だというのに、噂話には碌々興味も示さない為、この種の話題が娯楽の大半であるみのとしては実に困る。
 仄は気が乗れば諧謔も洒落も飛ばすし、基本的には無口では無いのだが……話が合わないというのは如何ともしがたい部分である。
「醤油(したじ)を用意いたしましたが、砂糖などもお持ち致しましょうか?」
「当面は醤油のみでよい、それより黄粉砂糖を塗した餅と野良丸の昼餉の用意をせよ」
 みゅー。
 お願いします、と言うようにこっちを見て小首をかしげる黒猫に微笑を返して、おみのは盆を手にして膝立ちになった。
「畏まりました」
 障子を開けて、おみのは廊下に出ようとした。
「ああ、おみの」
「はい?」
「用意して参ったらそなたも一緒に食せ……好きな付け合せを用意して来て構わぬぞ」
 背中を向けたままのそっけない主の声。
 でも、こんな人だから私みたいな人間をここに置いてくれる。
「……ご相伴に与ります、お嬢様」
「由蔵さん、お手間を頂きまして恐縮です」
「いえいえ、半七さんもお役目ご苦労様です」
 紙問屋の陸奥と言えば、一般の小売はしない知る人ぞ知る格式の名店……。
 諸大名や公儀……果ては御所にすら繋がりが有ると噂される家に、一介の下っ引風情が聞き込みに回るなど狂人沙汰に近い……が、半七はちょっとした縁で、この家には顔が利く。
 便宜を図ったというよりは図られた側ではあるが……。
「実は昨晩のうちに墨堤の方で人死にの騒ぎがありまして、この辺りのお店で行き方知れずの奉公人など居ないか伺って回っております、こちらは大丈夫かと思いましたがお心当たりなど御座いましたら……」
「通いの番頭小僧、住み込んでいる、みのに手前、全員無事でございますよ」
「それだけ伺えれば十分でございますが、何かお気付きの事などありましたら」
 伺いたく……そう言いながら顔を上げた半七の前で、由蔵は軽く首を捻った。
「大した事ではないかも知れませんが、丁度七つ時分(4時頃)の雪の降り始めに主の共で土手の散策など致しましたな……六つ半(7時頃)には家に戻りましたが、その間では特に何も見ませんでした」
「そうですか……堤を歩いて居たのは五つ半(5時)から六つ(6時)時分という見当で?」
「浅草寺の六つの鐘が聞こえてから帰りましたからそれで間違いないですなぁ……そうそう、途中にある一番の老桜が一枝ですが花を付けておりましたよ、冬だというのに珍しい事も有ると思いましたが……いや、このような事はお忙しい半七さんに申し上げる事では御座いませなんだな」
「花……ですかい」
 思わぬ言葉に、被っていた猫が少し剥がれて地の言葉が飛び出してしまったが、半七はその事には気が付かなかった。
 ただ通りすがったというだけではなく、あの花まで確認したという事はその言葉の重みが違う。
 あの近辺では五つ半から六つには何事も無かった、とはっきり言えるのは考える上で随分と違ってくる。
 雪は七つ半時分(9時頃)には既に降り止んでいたが、二人の足跡は雪に埋もれたのか残っていなかった……と言う事は五つ半から七つ半の間に起きた事となる。
 雪の振りからみて、足跡を隠すほどの雪が降り積もる間と限定すれば七つまで位は絞っても良いかも知れない。
 あれが自害にしろ……そうで無いにしろ……。
 七つの鐘に合せて死んだ……なんて馬鹿な事を朝方考えたが、意外に的外れではなかったらしい。
「半七さんどうされました?お疲れなら少し休んで行かれたら」
「いえ、少々思わぬ話でしたので」
 要領を得ない様子の由蔵に、半七は軽く頭を下げた。
「仏さんはその木のところで見つかったんで御座いますよ」
 
 
「というのが半七さんの語る所でございまひてな、お嬢様」
「食すか喋るかどちらかに致せと言うに……ってそれは我が楽しみに取っておいた黍餅では無いかっ!」
「陸奥の当主としては油断大敵にございましたな」
「……覚えて居れよ」
「最近頓に物覚えが悪くなりましてな」
 しれっとした顔で、由蔵は明るい黄色に輝く黍餅の最後の一つの欠片を口に放り込んだ。
「これにて私め、お嬢様の忠実な家来にございます」
「黍団子を貰って、退治される側の家来になってなんとする……全く」
 仄がぼやきながら、こちらは黄粉と和えた餅を口に放り込む。
「お嬢様、切り餅と砂糖醤油も美味にございます、代わりにお一つ如何です」
「見よ、この主人思いの姿こそ奉公人の鑑じゃぞ……ふむ、これも中々に美味だの」
「いやいや、主人に食べすぎを諫言するも奉公人の務めと思えばこそ……はふはふ」
「やれやれ食い意地の張った家来じゃの……おみの、では我の分を取るが良いぞ」
「ありがとうございます、それではお嬢様の黄粉餅を頂戴致します」
「許す」
 みゃーん。
 主と番頭と女中と猫が火鉢を囲み餅を突きあうとは、何とも珍妙な光景。
 だが、この陸奥家の奥では、ごく普通の光景であった。
 しばし、伸し餅の争奪戦が続いた後、お茶の用意にみのが台所に立った所で、二人の表情が若干鋭い物に変わった。
「仄様……此度の事は?」
「偶然であろうよ」
 黒猫の喉を白魚のような指でくすぐりながら、仄は空いた手で火箸を手にして火の勢いを多少落とした。
「では、特に動く事は?」
「せぬ」
 きっぱりと答えた仄は、庭に面した障子を僅かに開いて、雪に彩られた庭に目を向けた。
 温まった部屋の中に清冽な空気が流れ込む。
「畏まりました……ではそのように。ところで失礼して一服点けさせて頂いてよう御座いますか?」
「許す、しかしお主も好きじゃの」
 呆れたような顔をして、仄は濡れ縁に煙草盆を引っ張り出した由蔵の顔を上から見下ろした。
「雁首を新たに誂えましてな……如何なる味に変わるか楽しみで楽しみで」
「ふむ……丸まった猫を彫った銀の細工か」
「根付が鼠で御座いましたので、ちと遊んでみました」
「喧嘩を始めるのでは無いか?のう野良丸」
 にゃーん。
「……左様ですな」
 二人の見ている前で、野良丸が物珍しそうに白い雪の上に降りようとするが、その冷たさに慌てて前肢を引っ込めて、ぺろぺろと舐め出した。
 にゃう……。
 何処と無し恨めしそうに白い雪を見ていた野良丸だが、それ程遊びたくも無かったのか、部屋の火鉢の前にとてとてと近づいてから丸くなった。
「やれやれ、軟弱だの……」
「猫は炬燵で丸くなると申しますでな」
 ふーっと旨そうに煙を吹きながら、由蔵が空を見上げる。
 昨晩の曇天が嘘のような快晴。
「そなたも炬燵で丸くなりたい口ではなかったか?」
「そうしたいのは山々ですが、私はこれから仕事で御座いまして」
「茶を飲んだらもう一頑張り頼む……頼りにしておるぞ、番頭殿」
 誠意の無い声を出しながら、仄は寒そうな野良丸を抱き上げた。
「お任せ下さい、お嬢様」
 こちらも最前吹いた煙より軽そうな誠意のない返事を返して、由蔵は煙草の灰を落として立ち上がった。
「では、仕事に戻ります……茶は表に運ぶようにおみのにお伝え頂けますかな」
 袂に手を入れて歩き出した由蔵の背中を見るともなしに見ていた仄が何かを思いついたように口を開いた。
「由蔵」
「如何されました?」
 その場で立ち止まるが、それに続く主の声が無い……。
 珍しく躊躇う様子の主に目を向ける。
 仄は空を見上げていた。
 その先に……彼には見えない何かを見るような目で。
「……花が咲いて居った事、人の知るところと成って居ったのだな?」
「左様です」
「そうか……」
 ごろごろ。
 喉をくすぐられてご機嫌な野良丸の喉声がかすかに響く。
「静かに……散らせてやりたいの」
「……全ては成り行きにございます」
 由蔵の声が僅かに硬くなる、それを聞いて仄は我に返った様に静かな笑みを浮かべた。
「そうであったな……つまらぬ事を口にした、忘れよ」
「……はい」
二段目
 
「例の仏の身元が判った、呉服商いの和泉屋の次女お初と出入りの魚屋の芳次って男らしい」
「へぇ、左様(さい)で……」
 意外に早かった……等と思いながら、娘に取り縋って泣く母親とその後で沈痛な顔をしている父親の姿を半七はぼんやりと眺めていた。
「……男……えーと芳次の方の身寄りは?」
「いねぇそうだ」
「左様ですか」
 妙齢の女性の絶対数が少ない江戸では、男の一人暮らしなど珍しくも無い。
 現に半七も与一も独り身である。
 しかし、大家も来てないって事は、芳次の話は何処から……。
「そういう事でしたら、芳次の身元は何処から知れましたんで?」
「和泉屋の二番番頭……ほれ、あの主人に従ってるひょろっとした……えーと松吉さんからだ」
 ふぅん……番頭が出入りの魚屋の身元をねぇ。
 暇なのか、しっかりしてるのか。
 そんな事を思いながら松吉という番頭の顔にちらりと目を向ける。
 気の弱そうな顔をした、女形でもやらせたくなるような白い肌をした男だった。
 几帳面そうな顔が落ち着き無くあちらこちらを行き来している……こりゃ落ち着きのねぇ奴だ。
 大店の番頭としちゃ重みが足りねぇなぁ……算盤は得意かも知れんけど、あんまり出世はし無さそうだ。
「で、二人は恋仲だったんで?」
「まだあの有様なんで聞いてねぇが、多分そうだろう」
 多分か。
 事を心中で納めたい六兵衛親分も居るし、ここに居ても碌な情報は拾えなさそうだ。
 呉服の和泉屋、魚屋の芳次……。
「芳次の塒(ねぐら)はどこです?」
「四谷の玄兵衛店だってよ……何でそんな事聞くんでぇ?」
「ちょっくら行って近所のかみさんに弔いの手伝いの一つも頼んどいてやろうかと思いやして」
 いきなり仏さん担ぎ込まれちゃ、大家さんもお店の連中も驚くでしょうしね、そう言いながら半七は肩を竦めた。
「おう気が利くな、ついでに玄兵衛さんには若いの連れて引き取りに来るように言ってくんねぇ」
「へい」
 早速駆け出そうとする半七を、六兵衛は慌てて止めた。
「おおい、ちょっと待ちねぇ……お前なら心配は要らんかもしれんが、くれぐれもまだ余計な事を言うんじゃねぇぞ」
 心中ってのは立派に犯罪で、今回みたいな場合は流石に死者に鞭打つような真似こそしないが、心中の死に損ないは人通りの多い場所で三日の間晒し者にされたり、女なら剃髪されたりと、中々厳しい刑罰が待っている。
 娘の死とは別に、和泉屋としては暖簾に付く傷は軽くしたいところだろう……
 その意味では、人目が立つ前に亡骸を回収してきて、里中の旦那に事を預けてしまった六兵衛親分のあしらいは正しかったとも言える……これで里中の旦那が扱いに手心を加えれば−大概そうなる−六兵衛親分の手元には重い菓子箱でも届く事になるんだろう。
 まぁ、この程度で済ませている六兵衛など立派な方で、親分衆なんてのは下手をすると取り締まる側だか取り締まられる側だか判らない連中も多い。
 そもそも金が無ければ半七や与一みたいな下働きを使う事も難しい訳で、必要悪の範囲内だろうとは半七も思うし、そんな事で綺麗事を言うほど初心でもない。
 いや、寧ろ世間的には人の情けを弁えた良い親分と評価される行動なんだろう。
 それに引き換えれば、自分のしようとしている事は血も涙も無い行動なのかもしれない。
 だが、この件は心中で片付けてはいけない……そんな予感がする。
 とはいえ、そんな思いは表に出さず、半七は若干渋い表情を六兵衛に向けた。
「人の口に戸は立てられねぇようで既にある程度広まってるようでござんすが……へい、心しやす」
「やれやれ……それが終わったら今日はもう良いぜ」
「承知しやした」
「そなたも災難であったな……」
 人に話しかけるような言葉が、件の老桜に手を添えた仄の口から白い息と共に零れる。
 そして、目を閉ざす。
 僅かな時間……だが、おみのはこの時間が嫌いだった。
 この陸奥仄という少女は人には見えないものが見える……そして、時折はこうして語りかけ、彼らの言葉に耳を傾ける。
 そんな時の主の姿は、火鉢を囲んで餅を使用人たちと取り合う元気一杯の少女とはまるで違う……。
 このまま霞のように消えてしまう……そんな錯覚を覚える位淡くて儚げな姿。
 うにゃ……
 抱く手にすこし力が入ってしまったが、おみのの気持ちを察したのか、野良丸は嫌がりもせずにその腕の中で身を丸くした。
「……ごめんね、野良丸」
 軽く頭を指先でくすぐってやると、野良丸はその指に手を絡めて甘噛みした。
 可愛らしい様子に、みのの口元が自然と綻びる。
 この子は……随分お嬢様の慰めになっているんだろうな。
「済まぬな、寒い中を待たせた」
「いえ、では野良丸をお返しします」
「おお、よしよし……しかしこやつも拾ったときから比べると丸く、毛艶も良くなったの……」
 ごろごろ。
「家に入ったのもありますが、冬……で御座いますから」
 晴れ渡った空に目を向ける。
 樹上に降り積もった雪の白さとの対比が鮮やかな青は、澄んだ空気をそのまま映したような色だった……。
「そうだな、寒くて難儀な季節よ」
「ふふ、でも夏は冬に焦がれ、冬は夏に焦がれるんですよね」
「違いない……今無い物を望む、それもまた人情と申すもの……まぁ、自然な人情に従って汁子など食して帰るとするか」
 そう言いながら野良丸と一緒にこちらを見上げた顔は……14歳の少女の顔。
 あの時、みのの心を救ってくれた笑顔。
「はい……お供致します」
「お嬢様と芳さんがなんてねぇ……あたしゃちーとも知らなかったわよ」
 芳次に関しての長屋での事情の説明は、大家の玄兵衛が良く出来た人物だったお陰で大過なく済んだが、慌ただしく葬儀の準備を始めた長屋で聞き込みをする訳にもいかず、成果無く和泉屋に回った半七だったが、こちらでは良い的に当たったらしい。
「そうかいそうかい、お前さんも知らないとは上手く隠して忍び会ってたってこったねぇ」
「やだよ半ちゃんたら、あたしゃ見る目嗅ぐ鼻じゃないんだから」
 閻魔大王の手下として、人の生前の罪を監視していると言われる見る目嗅ぐ鼻たぁ上手く言い当てやがった……大方この家の事は、この少し太った米(よね)という女中頭の閻魔帳に細大漏らさず記載されてるんだろう。
「話が集まるって事は、姉さんが人望あるってこったよ、今回の件が心中だった事を既に知ってる訳だしね」
「あら嬉しい事言ってくれるねぇ、金棒引きだとかいやな事を良く言われるけど、半ちゃんは良く判ってるよ」
 良く判ってるよ……家の中の事はお前さんみたいなのに聞くのが早いってな。
「でも、心中だったってのは直に家中に広まってたからねぇ」
「へぇ……誰が言い出したんだい?」
「あたしゃお鈴ちゃんから聞いただけだし……お鈴ちゃんは飯炊きの権ちゃんから聞いただけだって言うし……良く判らないね」
「噂なんてのはそんなもんだよ」
 問題は、だれがそんな噂を口にしだしたか……だが、そんな事はもはや追いようが無い。
「それよりよ、お嬢さんたって次女だろ……心中しなきゃいけないほど追い詰められるもんかねぇ」
「そこよそこ、変なのよ」
 半七の言葉に興奮したように身を乗り出してきた米の歯に、昼のおみおつけの物と思しき若布がへばりついているのを見て、この和泉屋の古狸が他所に片付かない理由の一端が半七には判った気がした。
「何が変なんだい?」
「それがねぇ半ちゃん、よっぽど変な相手じゃなきゃお嬢様はどこかにお嫁に片付いちゃった方が旦那様にも奥様にも良かった筈なのよ」
「待ちねぇ、んじゃ親に反対されて心中なんてなりそうもねぇじゃねぇか」
「そうなのよ、芳ちゃんなら身上は大した事無いけど真面目だし、旦那様たちからしたら反対する理由なんて無いと思うんだけどねぇ、だからあたしゃ……」
「……お米、忙しいんだから油を売るのも大概にして」
 台所の入り口から、陰気そうな娘が顔を出して、ボソボソとした声をこちらに掛けて寄越した。
 感じは不快なのだが、嫌味たらしいとか棘があるとかではない……強いて言えば憎まれすらしない感じの声。
(幽霊とか貧乏神ってのはこんな声してんじゃねぇかね)
「は……はい、失礼しましたお嬢様」
 お嬢様……って事はこれが長女の方か。
 この古狸がここまで慌てるって事ぁ、単なる“お嬢様”じゃねぇな。
 しかし、妙な娘だ……。
 着ている物も良いし、顔もまぁ十人並み、体つきも太すぎず細すぎず、なよなよした柔らかそうな感じは寧ろ男の保護欲をそそる部類に入る……と思うんだが。
 乾いてる。
 瑞々しいのは貝が吹く幻(※注、蜃気楼の事、蜃気楼は巨大な貝が発生させる幻影と考えられていた)……幻が無くなれば、この娘はからっからに干乾びている……そんな感じが拭えなかった。
「相すみません、手前六兵衛親分の下で御用を勤めます半七と申します。お米さんはあっしの聞き込みに協力してくれてただけで御座いまして……へぇ」
「そうですか、この度は妹がとんだ事を仕出かしまして……御造作をお掛けします」
「とんでもございやせん……お悔やみが遅れましたが、この度は御愁傷様で」
「御丁寧にありがとう御座います」
 何だかな……この態度は。
 確かに今は一時とは言え主が不在なのだから、この娘がしっかりしていなければならない……大店の娘としては立派なもんだ。
 でも、もう少し妹の死を悼む顔くらいしたって良いだろうに。
 お米がお役に立つようでしたら何なりとお聞き下さい、それでは、お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした、私はこれで」
 表情も変えずに娘は台所から離れようと歩き出した。
 米が露骨にほっとしたような表情を浮かべる……。
「そうそうお米……」
 それを見透かしたように娘は歩みを止めて、こちらに向き直った。
「はっ、はい?」
「親分さんに嘘を教えては駄目ですよ」
 それだけ口にして、陰気な姿に相応しい足音も立てない歩き方で彼女は去って行った。
 意図的かどうか知らねぇが良い所で上手く釘を刺しに来やがったもんだ。
「中々しっかりしたお嬢様じゃあねぇかい、名前は何て言うんだい」
「香代お嬢様ですよ、商売の方はお出来で現に今のこの店の算盤はお嬢様が弾いてますよ……半ちゃんわたしゃそろそろ」
「ああ、忙しいところ済まなかったな……所で、もうちょっと後で色々聞かせて貰えねぇかな?栗ぜんざいや甘酒位はご馳走するぜ」
「あら、娘みたいな誘い方して貰って嬉しいわねぇ……でもあたしゃコッチの方が誘われやすいんだけど」
 そう言いながらお米は猪口を傾けるような仕草をして見せた。
「そりゃ、おいらも御相伴しやすくて良いや……でも、あんまり良い所じゃ呑ませられねぇぜ」
「やだよ半ちゃん、憚りながらこの米、あんたの懐の中身位は察しもつくよ、とは言え今日はお通夜があるから駄目だしねぇ……その内蜆屋で呑ませて貰うって事で良いかい?」
 蜆屋は名前の通り蜆で呑ませる店で、今の時期なら寒蜆に良く泥を吐かせてから軽く鉄鍋で炒って塩を振った物なんかを出してくれる、おまけに主人の舌が利くのか、酒も安いが中々良い物を呑ませる店だ。
 そして蜆屋と言えば、最後に出てくる味噌吸い。
 塩三、味噌七位の汁で作った蜆汁を酔い覚ましに出してくれる、コイツを呑むと悪酔いしないと専らの評判である。
(こいつぁ……呑み慣れてやがる)
「蜆屋たぁ恐れ入谷の鬼子母神……しかし、話聞かせてもらう時間は取れねぇか……」
「取り合えずお通夜が始まっちゃえば、旦那様達と奉公人は別になるから抜け出すのはどうにでもなるからねぇ、半ちゃんが出てこれるなら台所裏ででも話せるけど」
「そうして貰えるとありがてぇ、じゃお米さんは何時(なんどき)が良い?」
「約束は出来ないけど九つ(午前0時)時分ならなんとかなると思うよ」
 通夜の晩の夜更けたぁ出来すぎだ……もう少し待って丑満つ時分に御本尊が化けて出るなら有り難い位だが。
「そうけぇ、すまねぇな」
 木戸で騒がれるのも下手な話しだし、帰り際に木戸番の久作夫婦にでも話を通して置くか。
「ふふ、男に忍んで来られるなんて久しぶりだよ、じゃまた後で」
 別の意味でぞっとするような流し目をくれてからいそいそと仕事に戻った米の後姿を見ながら、半七は僅かに天井を仰いだ。
 話は早ぇし、さっぱりしてて良いけど……どうせ呑ますなら、もう一寸粋な姐さんと呑みたかったぜ。
 もしくは陸奥のお屋敷にいるおみのちゃんなんか清楚で良いんだが……無理か、守りが堅いしな。
 願わくば、米が俺まで呑んじまう類のウワバミでは有りませんように。
 その日の夕刻暮れ六つ時分、夕闇の早さに追い立てられるように墨田の堤を足早に歩く娘の姿が、夜目が利く人間ならかろうじて見えたかもしれない。
 堤の人通りは本来この時間でも少なくは無いのだが、少し外れのこの辺りになると人通りは絶えて久しい。
 友人宅で歌留多に興じていた内に随分と遅くなってしまった……先方から提灯でも借りてくれば良かったが、日の有る内に家に帰りつけると思って辞去してきた……その目算の甘さに心で泣きながら彼女は足を早めた。
 長く伸びる影が周囲の闇と溶け合っていく。
 やだなぁ……早く街の明かりの中に帰りたい。
 からんころん。
 普段は可愛らしく聞こえるぽっくりの音がうるさい。
 周囲の闇に潜む、この世ならざるモノ達を刺激しそうな……そんなうるささ。
 からんころからんころ。
 足を早めると音が増す、音を気にすれば足が止まる。
 かくもこの世は儘(まま)ならぬ……などと思う余裕も無い、闇を騒がせながら娘は足を早めた。
 世界が闇に染まっていく……その世界の中で白くぼんやりとした何かが見えた気がした。
「えっ……」
 思わず足を止めて目を凝らすけど、今は何も見えない。
「ゆ……雪に光でも当たったのよね……きっとそう」
 その光が何処から出たものか……などとは敢えて考えずに、娘は再度歩き出した。
 からころからころからころ。
 一際太く立派な桜の木の脇を通り過ぎる。
 黒々として節くれだった木が今にものしかかってきそう。
 やだなぁ……怖いなぁ。
 そんな事を思いながら娘は足を早めた。
 からころからころからころ……。
 白い手が娘の後ろから伸びて、その口を押さえた。
「き……」
 からん。
 そして、それっきり。
 

 ぴょろー。
 静かな夜にかすかに響く笛の音に、お嬢様とその膝に抱かれている猫の耳がぴくっと動いた。
「冬の夜長に二八蕎麦など手繰る(たぐる)も乙よな……」
 みゅー。
 夜長も夜長……四つ時分(午後10時頃)に起きているなど夜更かしも良い所である。
 尤も、このお嬢様とお供はどれも宵っ張りな生き物ばかりだが。
「あの、お嬢様……僭越ですがお蕎麦でしたら少しお待ち頂ければみのが打ちますが」
 おみのの打つ蕎麦は蕎麦と小麦の比率が良いのか、長く腰の強い物を打つ。
 これは最近流行の茹でてから冷やした物をつけ汁で食べるやり方でも、昔ながらの汁で暖かく頂く場合も喉越しの良い、中々の逸品である。
「屋台で売り歩く物をこの時間に食べるのが乙なのでございますよな、お嬢様」
「良く判りません……夜鳴き蕎麦ってあんまり美味しくないのに」
 腰が無いし、付けあわせだってごまかし物が多いし出汁だって良い物で取ってないし……ちくわぶは結構好きだけど。
「おみのよ、夜に屋台の麺を食す……これは旨い不味いや理性の問題では無いのだ……由蔵よ、面倒を掛けるが七人前ほど誂えて来て貰え」
「畏まりました、花巻としっぽくのどちらで?」
「花巻じゃ」
「しっぽくお願いします」
 みゃ
 花巻五つとしっぽく二つ……と、カマボコでも貰って来るか。
 自分とみのが一人前で、残りは主人が食べる……毎度の事である。
 陸奥の当主は代々大食いである、先代当主……弦士郎様もそうだったなぁ。
 幾ら食べても太らないというより……その位は食べないとあの力は維持出来ないんだろう。
 その力を、恐らくこの世で最も知っている自分には良く判る。
 そんな事を思いながら由蔵は腰を上げた。
 袂には一分と四文、十文等の小銭が少々……流石にこれで夜鳴き蕎麦を買いに行くのは上手くない。
「お嬢様、当百(とうひゃく ※注 100文相当の貨幣)などお持ちではないですかな?」
「ああ、投げつけるに手頃な重さと形ゆえ袂落とし(たもとおとし ※注 着物の袂の形を綺麗に整える為に入れる重り)代わりに常備しておるぞ……一枚で良いのか?」
 物騒な事を言いながら、何時袂から抜き出したのか……仄は無造作に由蔵に楕円形の貨幣を放った。
 無造作に放ったと思われた銭だったが、空気を引き裂き、凄まじい勢いで由蔵に迫る。
 それが、ひょいと由蔵の指先に摘まれて、何事も無かったかのように袂に放り込まれた。
「結構で御座います、では小僧ならぬ由蔵がお使いに行って参りますので少々お待ちを」
「おみの……今宵は一段と冷え込みがキツイのぅ」
「左様で御座いますね、お嬢様」
 ふみゃっくしょ。
「おう、一杯くんな」
「おや半さん、遅くまでご苦労様……いつもので良いんですかい?」
「おう、ちょいと汁は熱めにたのまぁ」
「へい、今晩も冷えやすからねぇ」
 丁度四つ時分、今日の商いは不調だったのか、汁がまだ結構残っているのが半七には判った。
「今日はどうしたんだい親爺さん」
 ちょいちょいと鍋を指差す半七の意図が判ったのだろう、蕎麦屋の親爺は浅黒い顔をつるりと撫でてから苦笑した。
「へへ、お恥ずかしいところを……いつもなら和泉屋さんの若い人が買って下さるんですが……今晩はほれ、例の心中騒ぎの通夜でさっぱりでさぁ」
 ……既にこの親爺さんまで心中という前提で話をしてやがる。
「親爺さんの蕎麦がわざわざ群がる程美味いたぁ、一度も思った事ぁねぇんだがよ」
「へっへ不味くても腹は膨れますんでねぇ」
 親爺の方も半七の口が悪いのには慣れた物で、気にもしない。
「どうやらお店が随分吝(しわ)いらしくてねぇ、若い人は身が持たないってぼやいてましたよ」
「へぇ、和泉屋なんて傍目には繁盛してるように見えるがねぇ」
「半さんらしくもねぇ、人間金が貯まればもっと貯めたくなるもんでござんしょうに……乾いた雑巾絞るようにしないと、あそこまでお金(たから)は貯まるものじゃござんせんよ」
「ちげぇねぇな……しかしそこまで締める辺りはおかみさんも中々強(きつ)いねぇ」
 そんなに吝嗇(りんしょく)な人にゃ見えなかったが。
「いやいや、あそこの台所を締め上げてるのは墓場の柳、もといお香代嬢らしいですぜ……へいお待ちどお」
 なよなよしてる割に色気を感じない辺り、墓場の柳たぁ上手く付けやがった。
 大方和泉屋の若い連中の悪口を拝借したんだろう、実(げ)に食い物の恨みは恐ろしい。
「ありがとよ、ここの蕎麦は暖けぇのが取り柄だな」
 パキっと小気味良い音を立ててから割り箸を手にして、半七は出来上がった暖かい蕎麦を勢い良く手繰り込んだ。
 ここの蕎麦は汁も付け合せも今一だが、蕎麦に腰があるのが良い。
「いつも思うんだがよ、カケで十二文位で売ったらもっと売れるんじゃねぇかい?」
「……考えときやす」
 二六蕎麦になったら提灯を張替えねぇとなぁ、等とぼやきながら親爺は食器を洗い出した。
「へへ、安い分受けるかもしんねぇぜ」
 その時、蕎麦を手繰る半七の後ろに人の立つ気配がした。
「今晩は、そこの屋敷の者ですが、後で花巻五人前にしっぽく二人前お願いできませんか?」
「へぇーい、大丈夫ですんで少々お待ちを」
 急に機嫌が良くなった親爺が、鼻歌など唸りながら蕎麦を茹でだしたのを見て、由蔵は先客に声を掛けた。
「隣を失礼します」
「……由蔵さん、随分食べなさいますねぇ」
「半七さんじゃないですか、遅くまでお役目ご苦労様で」
「いえいえ……しかし量は兎も角、つましいお夜食でござんすね」
「いや、手前も御相伴に与りますが、その何ですな……例のお方の分ですよ」
「あーぁ、成程」
 あのお嬢様か……あん時は命の代(しろ)にみたらし団子二十本とあんころ十本奢らされたっけか。
(まぁ、菓子は嗜む程度が良いな。おみの、帰ったら昼餉に饂飩でも打ってくれ)
 そう言いながらケロリとした顔で帰っていった姿を呆然と見送ったものだ。
「お屋敷の皆様お元気で?……と聞くまでもござんせんようで」
「当家の主が風邪を引いたりしたら、恐らくお江戸は流行り病で死の町になって居りましょうな」
「御尤もで、へぇ」
 そんな事を言いながら半七は蕎麦の最後の一本を口の中に放り込んで、席を立った。
「あったまったぜ、ご馳走さん」
 その、袂に入れた手が止められた。
「半七さんの分は私の方で持ちますので、親爺さんお願いします」
「へいー、毎度あり」
 由蔵の身なりを見れば、およそ食い逃げを働くような人間には見えない。
「良いんですかい?」
「構いませんよ……所で」
 そこで由蔵は声を潜めた。
(これから和泉屋さんで聞き込みですか?)
(……お察しの宜しい事で)
(寒さ凌ぎでしたら、当家にいらしてはどうです?お茶位はだしますよ)
(いえ、夜分にそんな御厄介を掛ける訳には)
(その辺りは御気になさらず……私も今回の話は気になる事が有りますので、少々半七さんとお話がしたいと)
(……承知しやした)
「夜分遅くお邪魔致しやす」
「半七殿か、かような刻限まで大変じゃの……しかし由蔵、煮ても焼いても食えなさそうなつまみを提げて来たの」
「まぁ、たまさかには言の葉のつまみも良う御座いましょう」
「言の葉か、半七殿ではちと苦味が強そうじゃの、我はいま少し甘やかな方が良いが」
「前回の見合いの席では、甘やかに囁いた殿方を軟弱者と張り倒した方のお言葉とも思えませんな」
「あれは甘すぎた、甘味も辛味も何事も過ぎたるは下品と申す物よ」
 ふぁ……みゃ〜……ぁふ。
 お嬢様の膝の上で夢心地の野良丸が寝言で挨拶を寄越して再度丸くなる。
「お茶をどうぞ……半七さんも大変ですね」
「頂戴しやす」
「では、我らは蕎麦を手繰ると致すか……半七殿も食すならついでに当家で持つ故、頼んで参るが良い」
「いえ、あっしは先に頂きましたので」
「左様か、では遠慮なく」
 そう言うが早いか、仄は目の前の蕎麦に箸を入れた。
 つるつるっ、すーっ。
 よく食べ物の方が口に飛び込むなんて言うが、これが正にそうだろう。
 上品に食べている……食べているのだがその口に入っていく勢いが半端では無かった。
 一杯食べるのに殆ど時間を要さない。
「おみの、食べ終わった後でよいから、花巻のお変わりを貰って来てくれぬか」
「いえ、只今お持ちします」
 苦にした風も無く箸をおいたみのが立とうとするのを半七が制した。
「いや、あっしが行ってめぇりやす、おみのちゃんは伸びないうちに蕎麦を食べて下せぇ」
 言うが早いか、仄の前の丼を手にして半七は裏木戸に向かっていた。
 生涯独身の心算は更々無い彼としては、細かいところで点数を稼いで置きたい所である。
 しかしつくづく変な家だ……大店、それも単なる金持ちではない格式の店なのに、自分のような下っ引きをこうして奥に通すし、その事に対して微塵も構えた所も衒いもない……家族がそこに居る位、自然体。
 住み込んでいる使用人と言えばおみのちゃんと由蔵さんだけ。
 ……多分この家が変わってるのは、あの“お嬢様”が当主だから。
 あの力の前では、人間とその格式なんて彼女が懐に抱いている猫と大して変わらない物でしか無いんだろう。
 だから、こんな風にざっくばらんな家が出来る。
 その一端に触れた自分だから……それが何となく判る。
 潜り戸を抜けると、親爺がほくほくの恵比須顔で待っていた。
「いやぁ、半さんも良い家と知り合いだねぇ。今後もちょこちょこ食べてくれないかね」
「どうかねぇ……おやっさん、花巻お替り」
「あいよう、しかし早いねぇ」
「ああ、おいらが持ってったら次茹でてた方が良いぜ」
「……早すぎねぇかい」
「そういうお人なんだよ……」
「あぁ〜ら半ちゃん今〜晩〜はっ」
「……丑満つ刻に出るなぁ幽的と相場は決まってるぜ」
 結局約束の刻限である九つ時分にはお米は現れず、半七の前に彼女が潜り戸を抜けて姿を現したのは、さしもの半七が諦めて帰ろうと思い出した八つ(午前2時頃)を少し過ぎた後だった。
「ごめ〜んねぇ、うちの吝いお嬢様も流石に妹がああなっちゃったら悲しいみたいでねぇ〜、随分豪勢にお弔いを出すつもりらしくて、料理もお酒も上等なのが出ちゃってさぁ……これでもお銚子一本空けただけなんだけど、変よねぇ」
 けらけら笑いながら、猫の置物よろしく手を振っているお米を見ながら半七は複雑な表情を浮かべた。
 葬式ぐらいは豪勢にか……それは肉親の情として頷ける話ではあるが、あの時見たお香代の様子からすると、半七としては素直に受け取れる話では無かった。
(自分の勘に引っ張られるのは、どうも悪い癖だな……)
 だが、この勘がかなりの部分で自分の道標になってくれる事が多いのもまた事実。
「そうけぇそうけぇ、羨ましいこったな」
「流石に精進だったけど、凝ったお料理ばっかりだったわねぇ、またお酒も口当たりの良い物が多くてもうねぇ……」
「で、中では宴会の真っ最中ってワケかい」
「いやねぇ、普段呑みつけない良いお酒がピーンと頭に来ちゃったみたいで、みんな河岸(かし)上がった魚みたいにゴロゴロしちゃってるよ、あたしゃ食べる方に忙しかったから、気が付いたらお酒独り占めだったワケよ、あっはっはっは」
「おそれいりやした……で、色々聞きてぇんだけど」
「は〜い、何でもこの米に聞いてちょう〜だいっ」
 ……こりゃ駄目だ、聞きたい事を絞って聞かないと、あと四半刻も保たねぇな。
「なんか、お初さんが他所に嫁いじまった方がこの家には良かったとか言ってたじゃねぇか、どうなんだい」
「それはねぇ半ちゃん、その可愛いお耳を拝借」
 あんまり粋でもない年増ににじり寄られるってのはあんまりしたくねぇ経験だな……
「なんでぇ」
「外聞を憚る話らからねぇ……ひっく」
 そう言いながらお米は半七の耳に口を近付けた。
 ヘベレケのお米の様子に反して、その息があんまり酒臭く無いのが若干奇異に感じられたが、半七はお米の話のほうに注意を向けた。
「お初様はれぇ、お香代ひゃまの正反対のお人らったんらよ」
 判るでしょ、と言いたげなお米の顔を半七は見返した。
 何となく判る気もするが、もう一寸具体的に聞きたくて、半七はわざと察しの悪いような顔をお米に向けた。
「正反対ってぇと?」
「わかんらいもんかねぇ、お香代ひゃまが東照宮しゃま(徳川家康)なら太閤ひゃん(豊臣秀吉)みらいな人よ、陽気で楽天家で美人で派手好き……で浪費家らんらよ」
 この女中はたまに耳学問か知れないが、中々気の利いた物言いをする。
「なるほどねぇ……そりゃ正反対だ、けどよ」
「女の道楽じゃさほど金は要らないとか思ったぁ」
「違うのかい?」
「打つ(博打)と買う(買春)とは無かれども〜、女食道楽、着道楽〜、和泉屋の蔵ぁをぉ〜傾けるぅ〜べんべん」
 妙な講釈師みたいな調子で唸りながら、上機嫌のお米。
 なるほどねぇ……和泉屋の旦那、そういやあんまり家の重石の効きそうな顔はしてなかったな。
「……そりゃ確かに片付いた方が好都合だな」
「そそそ、自分の財布の紐を管理する事になれば、早々遊んでられないだろうからねぇ……尤もさ、ほら同業者にはお初様の噂は広まっちゃっててねぇ、何処も嫁になんて欲しがってくれないわけよ、だから芳ちゃんなら多少の持参金つけて商いに道筋付けて上げれば、良い片付き先だったと思うのよねぇ」
「そりゃぁ尤もだ」
 夜風に当たったせいか、若干素面に戻ってきたお米に同調しながら半七は袂に手を入れた。
 お米の話を補強する聞き込みは必要だが……これが本当なら、こりゃ心中じゃねぇ……。
 殺しなのか……それとも別に自殺せねばならない理由が有ったのか。
 何れにせよ、事は単純ではない。
 ぐぅ〜。
 その時、考え込む半七の腹が結構な音で不平の声を上げた。
 考えるにしても空きっ腹じゃ良い知恵も出ねぇか。
「そういや料理がまだ残ってたねぇ……半ちゃん何か食べないかい?」
「……良いのかい?」
「美味しいお豆腐やがんもどきが残ってるよ、芋膾や胡麻団子もあったっけね」
 我ながら卑しいと思ったが、晩飯代わりの二八蕎麦一杯じゃ冬の夜風が身に凍みる。
「すまねぇなぁ、残ってるなら少し御相伴に与りてぇな」
「あいよ、ちょっと待っててね」
 潜り戸の向こうに消えたお米が戻ってくるのに、煙草一服つける程度の時間しか必要無かった。
「はいよ、半ちゃん……考えてみりゃ半ちゃんがお初様運んでくれた訳だし、この位食べたってバチは当たらないよ」
「そう言って貰えると助かるぜっと……こりゃ確かに旨いなぁ」
「でしょ、はい般若湯(はんにゃとう ※お酒の隠語)もあるよ」
「おっとっと、茶碗酒たぁ結構な」
「やだよ半ちゃん、これは酒じゃなくて、知恵の付くありがたい水、般若湯だよ」
 けらけら笑いながらお米が差し出した茶碗を半七もにやりと笑って受け取った。
「知恵なら丁度今欲しいところだよっ……とくらぁ」
 寒さ避けにくっと半分ほど流し込む、喉越しが良く雑味が無い……こりゃ良い酒だ。
 確かに普段呑んでる安い酒と違って、腹にガボガボじゃなく、スーッと酔いが回ってくる感じがする。
 と言うか、世界がふわーっと明るくなるような感じすらする……良い酒ってのはこんなモンなのかねぇ。
「吝い家だと聞いてたけど、これだけの料理と酒を手配できるたぁ中々道楽してる奴がいるねぇ」
「そういや、松さんったら何処でこんな酒の味を知ったんだろねぇ」
「……松さん?」
「この料理と酒を手配したのは二番番頭の松吉さんだよぅ〜ひぃっく」
三段目

 何故かお米への聞き込みの後、泥酔したような状態でフラフラと家に帰り着いてから床に倒れ込むように寝てしまった半七は、若干痛む頭を押さえて六つ半時分(午前7時頃)に番屋に顔を出した。
「おう、半さん遅かったなぁ……どしたい、顔色が良くねぇけど」
「呑みつけねぇ物を入れたせいで、体が驚いたらしくてな」
「おいおい、呑みならおいらも誘ってくれよ」
「丑満つ時分に葬式の残り物を振舞ってもらうのでよけりゃ、次辺り誘うぜ」
「……御免蒙りてぇな、そりゃ仏さんに祟られたんじゃねぇかい」
「祟られるような事ぁしちゃいねぇんだが……」
 頭痛をこらえるように、水瓶からひしゃくで掬った水に口を付けた半七の後で、与一が手を打った。
「そうそう、親分と里中様に伝言頼まれてたんだ、例のお初芳次のありゃ心中じゃねぇかもしれねぇってよ」
 意外な言葉を聞いて、半七は慌てて与一の方に向き直った。
 あの親分が一晩で考えを変えたって事は余程の事が判ったって事か。
「心中じゃ無いとすると殺しかい?」
 自分が調べている線と親分の線が一致すりゃ後がやりやすい、僅かに意気込んだ半七に短い与一の言葉が返ってきた。
「祟りだよ、半さん」
「……へ?」
 ……今、この阿呆は何つった。
「祟りだよ、あの桜の木のな」
「……へぇ、もしかして別の首括りでも出たんかい、与一っつぁん?」
 適当な事を口にした半七だったが、直にその軽口を悔やむ羽目になった。
「よく判ったねぇ、半七さん」
「……冗談の心算(つもり)だったんだけど、本当かよ」
 流石の半七が呆然として、突っ立ったまま暫く動けなかった。
「若い娘の首括りで、今親分と里中様が現場に行ってるんだがよ、変な坊主まで来てて結構大変なんだ、おれは半さんが来たらその事を伝える為にここに戻ってたのよ」
「変な坊主?なんでぇ、手回し良く弔いの売り込みか?」
「違う違う、この桜は人に仇なす妖怪だから拙僧が法力で払ってくれるかなんか言って、胡麻団子……なんだっけ?」
「護摩壇だろ、坊さんがなんか粉みたいなのを火にくべてむにゃらむにゃらと祈祷する」
「そうそう、その胡麻団子を作り出したとか、木を切ろうとしてるとかで、里中様が止めてるんだが聞きゃしねぇんだよ」
「食い物から離れろよ、意地汚ねぇ……しかし妖怪ねぇ」
 笑い飛ばそうとした半七だったが、ふとあの桜の木に咲いていた花の事を思い出した。
 少なくとも……普通の木じゃ無かったな。
 そして、半七はそういう人に害をなす化生の物がこの世に存在する事も知っていた。
「で、親分は里中様と一緒にその変な坊主に手を焼いてるってワケさ」
「へっ、二本差し(武士)は怖くねぇが坊主と女子供の相手はしたくねぇな」
 護摩祈祷って事は真言、成田山あたりから出張してきたのか……にしちゃ早いもんだ。
「そりゃ大丈夫、俺たちゃ死人の身元捜しだってよ、特徴を書いて貰ってあるから行こうかい」
 下駄を突っかけてこっちに向かってきた与一から仮名文字の書かれた紙を受け取ってしげしげ眺めた。
 ふんふん、身なりの良い町家の娘風、鼻の脇に小さな黒子ね……
「与一っつぁんは大川の下流に向かって当たってってくんな」
「へっへ、そのまま今夜は吉原(なか ※幕府公認の遊所)に繰り出しちまうか、喜瀬川も待ってるし」
 好色そうな顔で朝から鼻の下を長くしている与一の顔に苦笑しながら半七は肩を竦めた。
「まぁ、夜中も聞き込みで走り回れたぁ親分も言うまいしよ、後は懐の重さで決めりゃ良いさ」
「へへ、俺くらいもてると女の方で遊ばせてくれるんだよ、今度俺のモテっぷりを見に一緒にいかねぇかい?」
 この素寒貧がここまで言うなら嘘じゃ無さそうだが……金なし、醜男の野暮天で、取り柄と言えば大飯、大酒、馬鹿力のこいつがもてるとはねぇ、随分と珍獣を愛でる趣味の姉さんも居るもんだ。
「へっ、そいつぁご馳走様だが、朝っぱらから大門(吉原の入り口)の内側みてぇな惚気(のろけ)言ってねぇでさっさと行くぜ」
「はいよっ」
「美味いか野良丸」
 みゃー。
 今朝上がったばかりの鰯を丁寧に解して骨をとってやった奴を、お嬢様手ずから猫に食べさせていた。
「昨夜はカマボコ、今朝は鰯、やつがれも猫になりとうございます……」
 ……に゛ゃー。
「……由蔵、なにやら当家が碌な食事を奉公人にさせて居らぬ様な言い種は止すがよい」
「碌(ろく)な物を食わさぬ陸奥(むつ)の家とは申しませんが、魚(とと)など口にしたいと思ったまでにございます」
 ひぅ〜。
 なにやら暖かい部屋の中を寒気が通り過ぎた気がして、仄と野良丸とおみのは軽く身震いした。
「晩には鰤や鮭を出して居るではないか……朝は体に優しいものを食すべきなのだ、おみの、豆腐とご飯、おみおつけのお替りじゃ」
「はい、只今」
 豆腐丸々一丁とご飯に葱を刻んだ物と若布の味噌汁が返される……ちなみに、豆腐三つ、ご飯六杯目。
「その量は体によう御座いますので?」
「我にとってはな」
 しれっとした顔でその豆腐に軽く塩を振って、仄が箸を入れる。
「佐吉の豆腐はまこと逸品じゃ」
「豆の味が良く出ておりますよね、仄様」
「うむ、美味美味……おみのの作る味噌汁もまた良い味じゃ」
「冬の朝はちょっと塩辛いおみおつけが、体が温まって美味しゅうございます」
「この中につみれ団子でも入っていればなお良いのですが」
「やれやれ、未練がましい年寄りじゃ……ほれ野良丸これで最後じゃぞ」
 みゃん。
「……」
 敗者の視線をはくはくと美味しそうに鰯の生つみれを食べる野良丸に向けていた由蔵の目が、豆腐やお浸しに戻る。
 なぜか知らないがこう寒いと鳥か魚が食べたくなる。
 薬食い(※猪、熊、鹿等の獣肉を滋養強壮の薬として食す事)までしたい訳じゃ無いが、後で用事に出かける振りをして外で柳川(泥鰌鍋)でも食べて来るかな。
「……来客のようじゃな」
 そんな不埒な事を考えていた由蔵の耳に、箸を置いて半眼の状態になった主の声が聞こえた。
「誰でしょうか……手前が見て参ります」
 そう言って席を立った由蔵の背中に見るとも無しに目を向けた仄が微かに微苦笑を浮かべた。
「おみの、朝餉をもう一膳用意せよ、どうやら昨夜と同じ来客が腹を空かせて参っておるようだ」
「はい、畏まりました」
 おみのと由蔵が立って一人になった仄は、食事を終えて毛繕いを始めた野良丸の小さな頭を撫でながら、僅かに憂いを帯びた顔で呟いた。
「……人とはせわしない生き物じゃの、野良丸」
 ごろごろ。
「とまぁ、そんな訳でござんすが……仄様、これはモノノケの仕業ではございませんので?」
 半七の話を聞き終えた一同は、食後のお茶を啜りながら何とも微妙な沈黙を保っていた。
 主が明らかに不穏な空気を湛えて押し黙る。
 膝の上で丸くなる野良丸を機械的に撫でながら、常に泰然たる様子を崩さない仄が、珍しく眉間にしわを寄せて、何かを思い悩む様子であった。
 飲み終えた茶碗を置き、まだ無言。
 珍しい主の様子に、いささか居心地悪そうに、おみのは主人の茶碗をとり、淹れ換える為に台所に立った。
 障子を開ける時に朝の澄んだ空気が部屋の中に入り込む。
 それに誘われるように仄は立ち上がり、濡れ縁に立って大川の方に顔を向けた。
「昨日の昼まではモノノケでは無かった。それは我の……陸奥仄の名をかけて断言いたす」
「それでは、モノノケの仕業では無いと?」
「判らぬ、我に言えるのはあの桜の木は昨日の昼に我が見た時は無害なモノだった……それだけだ、それ以上何が聞きたい?」
 その声は穏やかで、顔は庭に向けたままだったが、仄の声に底冷えがするような怒りが篭もったのを二人は感じた。
 何故そっとしておいてやれぬ、異類には静かに暮らす事も許されぬのか。
 人は……人とはどれだけ他者の存在を脅かすのだ。
 たかが己の心の不安を取り除くために、どれだけの闇を排除すれば気が済むのだ。
 夜を明かりで照らし、闇を落とす木々を切り開き……異類を追いやり、住処を奪われ人里に取り残されたそれを駆逐する……。
「仄様……」
 由蔵の声に、ふと仄が我に返ったように視線を部屋に戻した。
「……そなたらに当たる話では無かったな、済まぬ」
「いえ……」
「こちらこそ、朝早くに押しかけて失礼な事を伺いやした……申し訳ござんせんでした」
 頭を下げた半七に、仄は穏やかな目を向けた。
「気に致すな、そなたは役目柄聞くべき事を、知っていそうな者に問うたまでの事よ」
「恐縮です」
 半七が顔を上げると、仄が僅かに寂しそうに笑っていた。
「所で半七殿……坊主が参っておると聞いたが、如何なる坊主じゃ?」
「へい、それがあっしもまだ御本尊を拝んでは居りませんので何とも」
「まぁ、あれですな……護摩を焚くと喚いているという事は真言ですかな」
 困った様子の半七に助け舟を出すような由蔵の言葉に、仄は顔をそちらに向けた。
「成田山あたりから参るにはちと早かろう、江戸の真言坊主に左様な仕事熱心が居るとも聞かぬし……いずこの乞食坊主か修験者か……もしくは」
「騙り坊主……という事もありますかな」
「少なくとも、アレを調伏だの護摩壇だの言っておるようでは碌な代物では無かろうよ……どうじゃ由蔵、ちとその坊主の見物に付き合わぬか?」
 仄の声に些か不穏なものを感じた由蔵が、些か警戒する様子で主に言葉を返した。
「……お嬢様、あまり陸奥が表に出るのは拙かろうと思いますが」
 由蔵の言葉に仄が笑い声を上げた。
 十四歳の少女に相応しい……少し悪戯っぽい響きの篭もった華やかな笑い声。
「だからお主を連れて行くのではないか、よろしく頼むぞ由蔵」
 にゃ。
「大方そんな所かと思いましたが……まぁ良う御座います、それでは里中様や親分さんを助けに行きますか」
「そうじゃな……朝餉の後のよき散歩となろうよ……それに」
 足袋にじゃれ付いてきた野良丸を抱き上げながら仄は再度大川の方に目を向けた。
「あの桜の木の現在(いま)を確かめねば……我にも確かな事は言えぬしな」
 ボサボサの蓬髪(ほうはつ)に髭面を深めに被った破れ傘が覆う男の前に立って、同心の里中は溜息を付くのと怒鳴りだすのを同時に堪えていた。
 雑巾のような匂いを漂わす墨衣が、辛うじてこの男が僧侶らしいと思わせる印になっているが、乞食と言う方がどう見ても適切な気がする。
(このご時勢に糞雑衣とは、釈尊の弟子として見上げたもんだ)
 かつての仏弟子は死衣やボロを繋ぎ合わせて衣にしていたと言う、その事を皮肉ってやろうかと思ったが、結局里中は言葉を飲み込んだ。
「拙僧は江戸庶民の難儀を払わんが為に、この身命を賭けて怪しの木を除かんとしておるに、何故ゆえにお止めなさるかぁ」
(いよっ、成駒屋)
 この坊主が連れてきたと思しき鋸や鉞を手にした男を止めながら、六兵衛は舌を出したくなる気分を抑えて、胸の中だけで交ぜっ返した。
 それほど過剰に芝居がかりという訳ではないんだが、六兵衛の商売柄、何となく胡散臭い輩に共通の匂いを感じ取れる。
「加持祈祷を止めて居るのではない、勝手にこの桜を切り倒す事と、当方のお調べが終わる前に護摩壇を築く事を止めよと申して居るのだ」
 江戸の三男の名に恥じない、粋な形に細い髷を結った、まだ若いが理知的な細面が吹き付けられた口臭に僅かに歪む。
「お役人、拙僧とても心苦しい……だがそなたには判らないだろうが、この木は今除かねば後に大いなる災いをもたらすであろう」
「その事なれば寺社方に諮って正式に事を進めると申しておる、決して住職殿の言を軽んじておる訳ではござらぬ」
「住職ではない、わしは寺を守る事に汲々(きゅうきゅう)として仏道を忘れた堕落した坊主ではなく、我が身を鍛錬し仏になるべく俗塵(ぞくじん)の中を漂白する事に修行の場を求めたる者、雲水とお呼び下され」
 成程、少なくとも屋根のある所に住んでいる風体でないのは確かだ。
(寺に入れなかったってだけじゃねぇのかね……)
 旅の坊主も弘法大師ならご利益もあるだろうが、この大将じゃ何処かの家に転がり込んで、鼠の動きでも見ながら即興の念仏を唱えて飯を食わせてもらうのがお似合いだ。
「失礼した雲水殿……なれど役目柄、この里中もこの木を切らせる訳には参らぬ」
 口調はあくまで丁寧だが、里中は内心で舌を出した。
(雲水と言えば禅宗の僧の筈、禅僧が護摩壇……てっ、この偽坊主が)
 まぁ、もう少し調子に乗せて喋らせておけば化けの皮も剥げるか……
「お役人、そこをちと目を瞑り、これも八百八町の安寧の為と思し召せ」

 そんな珍妙な坊主と同心のやり取りを眺める見物人の輪から少し外れた所に、どこぞの駄洒落好きな老人と偉そうな小娘の姿が有った。
「如何ですか仄様、あの坊主は」
「見事な物じゃな……ここまで生臭い匂いが漂ってきそうな坊主も寧ろ珍しいわ」
 ふみゃ。
 いつものように懐炉兼友人を胸に抱いた仄が、感心したように一人頷く。
「……妙な感心をされますな」
「うむ、ここまで典型的なれば感心も致すが……さて由蔵、如何致す」
「さようで……まぁ適当にからかえば良いのではありませぬか」
「そうじゃな、あの程度をからかうにさほどに凝った仕掛けも要るまい……なぁおじいちゃん」
「おっ、おじい?!」
 仄の言葉に由蔵が目を白黒させる。
「左様、我が孫でそなたが爺じゃ……自分がそういう年である事にいい加減気付くが良いぞ」
「口の悪い孫を持ってしまいました……うくくく、これが悪い孫(馬子)に当たるという物ですな」
「馬子から言わせて貰えば愚痴ばかり多い脚(客)に嘆きたい気分じゃがの……」
「……仄様も駄洒落道に開眼されましたか?」
「……気の迷いじゃ、忘れよ」
「残念にございます、さて参りましょうか」
 そう言いながら由蔵は僅かに腰を曲げ、口元を弱弱しく開いた。
 服装も普段は着ない老人風にしてきたとは言え、いつもは厄(大厄、42歳)そこそこに見られる由蔵が、立派に還暦過ぎの老爺になった。
「うむ、頼むぞお爺ちゃん」
 にゃうー。
「やめてよ、お爺ちゃん」
「ええい、黙らんか」
 妙に騒がしくなった人垣の方に目を向けた里中は、その輪の中から飛び出してきた、まぁ顔見知りと言っても良い二人の顔を見つけた。
(……あれぁ、陸奥のお嬢と由蔵さんじゃねぇか)
 その里中の視線に気付いたのか、仄は軽く目配せをして寄越した。
(ははぁ、半七に言われて助っ人に来てくれたって訳かい)
 何をする気か知らないが、少なくとも自分の邪魔はしないだろう……この膠着した状態を何とかしてくれるなら、何にせよ大歓迎である。
 この辺の察しの良さと、町人の手助けを別に何とも思わない捌けた性格が、半七辺りが「出来たお方」と評する所以であろう。
 騒ぎの元に乞食坊主の目も自然に向く。
 その眼前に由蔵が走り寄った。
「お坊様、どうぞワシの連れ合いが今どうしているか教えて下さいませ」
「ななな、何事じゃいきなり」
 どうかどうかと手を合わせて拝む形になった老人の袖に孫と思しき身なりの良い少女が縋る。
「お爺ちゃん、偉いお坊様の邪魔しちゃ駄目だよ……御免なさいお坊様」
 可愛らしい娘にこんな風に言われて悪い気はしない。
 それに……随分と羽振りも良さそうではないか。
 金の匂いを嗅ぎつけた目が蓬髪の間で光る。
「うおっほん、如何なされた御老人……この慈円がそなたの悩みを聞いてつかわそう」
(ふむ……自演に通じるとは上手く付けおったな)
 皮肉っぽい事を思いつつ、それを表に出さずに仄は顔を上げた。
「そんな勿体無い……」
 何か言いかけた孫を押し退けるように老人がまくし立てだした。
「おお、お坊様はお情け深いのぅ……実はこの間からワシの連れ合いが夢枕に立つようになりましてのぉ、恨めしそうにじーっとワシの事を見ておりますのじゃ……婆さんは何が不満なのかのう」
 年に似ぬ健康な歯が見えてしまわないように、もごもごと喋る辺り、芸が細かい。
(由蔵さんも達者なもんだなぁ……どう見ても立派なもうろく爺さんだ)
 妙な感心をしながら里中は一歩下がって三人のやり取りを傍観する構えに入った。
「御老人、冥界を見る事、その住人と話すなどは生半出来る事ではござらん」
(ほう、控えめだの……)
 ここで、成仏していないなどと吹くかと思ったが、中々どうして騙りの場数は踏んでいるか……。
「だが御老人、お気を静めて聞かれるが良い……お主の妻は冥界に行かずにそなたに取り憑いておりますぞ」
 仄と由蔵が思わず吹き出しそうになり、慌てて呼吸を静めた。
 それが傍目には衝撃的な言葉を聞いた動揺に見えたのは不幸中の幸いだったが……
 なんとまぁ、この乞食坊主……予想をはるかに飛び抜けて間抜けらしい。
「何といわっしゃる、わしゃ婆さんに恨まれるような事はしておらん」
「それがいかぬのだ御老人、先ずそこもとが悪いことをしていない心算でもお内儀にはお内儀なりの受け取り方が有るという物じゃ」
(なるほど尤もらしい事を申すものじゃな)
「そして供養とて、その辺の法力の無いなまくら坊主に頼んだのであろう……かような経には人を成仏させる力など有りはせぬ」
(そもそも経に人を成仏させる力など有りはせぬわ……全く)
 成仏、仏になると言うのは輪廻の輪を外れる事であり、それは己の徳功の如何であって、後で坊主が読んだ経だの戒名でどうこうなる話ではない……まぁ、それも徳功を積んだ事にしてる宗派も多いが、仄に言わせれば坊主が生きていくためと、残された者の気休めにやっている事に過ぎない。
「あ、あのお坊様……」
 何か言おうとする仄を上手い拍子で由蔵が遮りながら返事を返す。
「では、婆さんは何を不満に思って居るんじゃ」
「まぁ、ワシは忙しいでな、後でじっくりとそなたの背中に取り付いた婆さんの話を聞いて進ぜよう、家は何処じゃな?」
 ありがたやありがたやと拝む形になった由蔵の横で、仄がおずおずと顔を上げる。
「あのう……お坊様……大層申し上げ難いんですけど」
「なんじゃな娘御」
「おばあちゃん……元気に生きてますけど」
 みゃん。
 少女と猫の声に一拍置いて、首くくりがあった現場とは思えない馬鹿笑いが、冬のどこか重苦しい青空の中に束の間木霊した。
 慈円と名乗った乞食坊主が顔を赤や青や白に変えながら、周囲の嘲笑を浴びつつ退散したしばし後、番屋の片隅でお茶と菓子を御馳走になる祖父と孫……由蔵と仄の姿が有った。
「いやー助かった、正直あの口臭には辟易してたんだ、しかし、二人ともいい役者になれるぜ」
「我が役者になったら、里中様に捕まってしまうな」
「違ぇねぇ」
 かつて、大いに助平心を煽って流行った女役者の為に、風俗紊乱を憂いた公儀が禁令を発布して随分経つ。
 まぁ、お陰で歌舞伎では女形という新しい役者の形が生まれて芸の深みがでたのだから、何が幸いし何が災いになるかなどはこの世では紙一重という、良い実例なのかも知れない。
「お役人様の助けになれば幸いと申すものでございます……しかし、私め随分な三枚目でしたな」
「いやいや、見事な物だったぜ由蔵さんよ」
「かたじけのうございます」
 静かに茶を啜る二人の様子をちらりと見ながら、里中は奥で足を伸ばしている六兵衛に目を向けた。
「六兵衛、済まねぇがちょいと俺の用事を頼まれてくれねぇか?」
「へい、畏まりました」
「ちょっと遠方なんだが、俺が懇意にしてる品川の和尚に例の桜の木を見て貰いたいんでな、今から書状を用意するからそいつを届けてくれ」
 そう言いながら、里中が慣れた様子で筆を走らせる。
「御用でしたら我々はこの辺で……」
「まぁ良いじゃねぇか、もうちょっとゆっくりしてきねぇ」
 ある意味庶民の生活に密着せざるを得ない同心、与力の旦那方は江戸の三男に数えられる位の粋な人が多いが、里中は中でも伝法な方であろう。
「……ふむ、そういう事なれば、いま少し茶菓の供応に与ろうかの」
 里中の言葉に何かを感じた仄が由蔵に目配せして座り込み、落雁を割って口に運んだ。
 それ程待つことも無く書状を認(したた)め終わった里中が六兵衛にそれを渡す。
「こいつは手間賃だ、向こうで泊まりの心算でゆっくり用事を済ませて来てくれ」
 書状に添えて、紙に包んだ物をさり気なくその手に握らせる。
「こんなに頂戴しては……」
 等と言いつつ、なんとを1分銀2枚を握らされた六兵衛の顔が自然に弛む。
「なぁに、いつも良く働いてくれてるからな、取っておきねぇ」
「へ、ありがとうごぜぇやす」
 恵比須顔で表に飛び出していった六兵衛を見送っていた里中が肩を竦める。
「さて……所でお二人さん、あの乞食坊主を尾行(つけ)て行った半七はそろそろ戻るかな?」
 成程、この同心の旦那の目ってのは流石に節穴じゃない。
 その話をしたかったから六兵衛親分を使いに出したか……
 二人の表情を読んだのか、里中は軽く頷いて見せた。
「書状には、向こうで適当にもてなして六兵衛を足止めしてくれと書いて送っておいた、あいつの事だから品川で日帰りする気遣いもねぇだろうから、半七に迷惑が掛かる事ぁねぇよ、安心して話してくれ」
「品川……へへ、ご尤もで」
 由蔵が妙な笑いを浮かべてお茶を啜る。
 品川宿と言えば、岡場所(吉原以外の遊所、幕府非公認)でも有名な土地である。
 二人の言葉の意味が判ったのか、仄が微苦笑を浮かべながら口を開いた。
「さて、件の坊主の塒(ねぐら)の距離次第よな、半七殿は奴の巣を確認したら取り合えずは当家に参る手はずになって居る、我か由蔵を帰した方が話は早いが」
「尤もだな、で、半七は最初から前の件は心中じゃ無いと見込んで動いてたって事かい?」
「心中では無いとすると、里中様は祟りとか言う話は?」
 由蔵の言葉に里中は苦笑を返した。
「そりゃ法力だのが無い俺が悩んでどうこうなる話じゃ無いんでな、考えても無駄な事は考えねぇ事にしてる。第一、花の狂い咲きなんてのは珍しくはあるが無い話じゃねぇからな」
「賢者の言じゃの……考える材料も無いのに思い悩む阿呆の何と世に多き事よ」
「禅でも妄想する莫れという言葉がございますな、わざわざそういう言葉が残っているのが答えのような気もしますが」
 肩を竦めた仄と由蔵の言葉に、里中が僅かにほろ苦い表情を浮かべる。
「まぁ、立派な事を言っちゃ居るが、そうでも思わないと色々考えちまうんで自戒してるだけだがな……で半七も祟りだとは思ってねぇし、心中だとも思ってないって事で良いのかい」
「……左様でございますが、その」
 言いよどむ様子の由蔵に、里中は判っているというような苦笑を向けた。
「六兵衛は悪い奴じゃないし、俺の手下(てか)の中じゃ多分一番優秀だけどな……チョイと自分の思い込みに固執する所と、要領が良すぎる部分が有るから、自分で仕切りたがるんだよな。
 なまじ六兵衛より切れる半七だと、あいつの下はやり辛ぇだろうよ……」
「半七殿なら十手を預けても良い様に思えるがな……」
 判っているなら何とかしてやって欲しいという思いを若干込めつつ、仄が呟く。
「そうすると十五歳以上年長の六兵衛と半七が同格って事になるし、奴さんも面白くねぇだろうよ……俺以外の同心に預ける手も有るが、まぁもうちょい様子見だな」
「そもそも、それは我らの口出しする事では無かったな……差し出た事で有った、許されよ」
「気にすんな、町の人間に愛されてる部下ってのはありがてぇ存在さね……さて、長々引き止めて悪かったな、半七が戻ったら俺の屋敷のほうに回るように伝えてくんねぇ」
「承りました、それでは手前どもはこれで」
「流石に旦那は切れなさる……」
 草鞋(わらじ)も脱がず、縁側に腰掛けながら二人から番屋での話を聞いた半七が舌を巻いたような表情で鬢(びん)の辺りを軽く掻いた。
「私やお嬢様が出張って来たのがきっかけだったかも知れませんな……些か軽率でした」
「いえいえ、遅かれ早かれ里中様にはお話しなければならなかった事ですので……へぇ」
 感に堪えた様子で、おみのの淹れたお茶を口にして半七は腕組みをした。
「して半七殿、例(くだん)の慈円大僧正殿は如何なる蓮台(れんだい)に御帰還あそばしたのだ?」
 人の悪そうな表情を浮かべた仄の言い種に苦笑しながら、半七は湯飲みを下に置いた。
「俗塵の中も良い所な東本願寺裏の貧乏長屋でしたよ、入って暫くしたら脂っ気の多そうな魚を表で焼きだしたので、逃げる気遣いはねぇと踏んで一度戻って参りました。良い場所もありますんで、暫く腰を据えて張り込みたいと思ってやす」
 最後の言葉を口にした時、半七の目が微かに何かを掴んだように光ったのが由蔵には見えた気がした。
「あの乞食坊主と今回の件は関わりが有ると?」
「立て続けの人死に祟りの話が出てきた拍子に胡乱(うろん)な坊主……ちょいと平仄(ひょうそく)が合い過ぎですんでね」
「違いないな……」
 みゃう。
 もっともらしい顔で頷いた仄と彼女の膝の上の友人に半七は真面目な顔を向けた。
「所で仄様……あの桜の木は?」
 その半七の言葉に、仄は僅かに表情を硬くした。
「……取り合えず、現在は祟るような事は無いし、人を殺すような力は持っておらぬ……お主が欲しい話はこの程度で良いか?」
「……へい、あっしとしては祟りや妖怪の仕業で無ければそれで結構でござんす」
 奥歯に物が挟まったような口調は、この偉そうでさっぱりした少女に似つかわしくない物だったが、前回の事も有って、半七はそれ以上何か聞くのを止めた。
「では、手前は里中様のお屋敷に伺ってから張り込みに入りやす」
 そう言いながら腰を上げた半七に付き合うように由蔵も立ち上がった。
「仄様……手前も少々外出してきてよう御座いますか?」
「紙問屋の仕事はそなたに任せてある、仕事に障りが無いなら好きに致せ……少々などと吝(しわ)い事を言わずに、泊りがけで半七殿の手伝いをしても構わぬぞ」
「……お察しの宜しい事で」
「伊達に陸奥の当主に収まっておるわけではない、退屈の虫が騒いでおるのだろう?」
「かたじけのう御座います、お店の事でしたら文左衛門が取り仕切っておりますので」
「左様か、では半七殿の足を引っ張るでないぞ」
「御心配なく、お邪魔そうでしたら帰って参りますので」
「ちょちょ、一寸待ってくだせぇ、流石にそこまでして頂いては申し訳がござんせん」
 それまでポカンと二人のやり取りを聞いていた半七が流石に慌てた様子で割って入る。
「気に致すな、寧ろ素人の手伝いなど迷惑ならそうとはっきり言って貰いたいが、由蔵なればそなたの足を引っ張る事もあるまいよ」
「そりゃぁ……由蔵さんでしたら……へぇ」
「では半七さん、御迷惑かとは思いますが一人よりは二人の方がよう御座いましょう?お手伝い致します」
「……へい、ありがとうごぜぇます、でしたら里中様のお屋敷に寄った後に、もう一箇所回りたい所が有るんですが」
 ごろごろ。
 うるさい男二人が着替えを済ませ、妙に楽しそうに駆け出した後の静かな部屋に、仄に喉をくすぐられてご機嫌な野良丸の喉声が響く。
「お嬢様と野良丸と私だけだと、このお屋敷は一層広いですね」
 主にお茶と豆大福を差し出しながら、おみのが柔らかく微笑むのに、仄は苦笑を返した。
「そうだの……だが由蔵もかような小娘の巣窟(そうくつ)にばかり居っては身が持つまい、たまさかには暴れに行った方が良いのだ……」
「左様でございますね……殿方は何時までもやんちゃですから」
「まったくの、今宵の由蔵と半七殿の夕餉は柳川(やながわ)か軍鶏(シャモ)鍋辺りであろうかな」
 朝餉に文句を言っていた由蔵の姿を思い出したのだろう、おみのが口元に袖を当ててくすくすと笑い出した。
「ふふ、由蔵さんはお若いですから」
「駄洒落好きな年寄りの上にやんちゃ者など始末に負えぬがな……父上も妙な男を鍛えた物よ」
 後の言葉は仄の口の内だけの呟きで、おみのは元より、彼女の膝の上で丸くなった野良丸にも聞こえなかっただろう。
「下手人を追って見張りに寝ずの番、半七さんの仕事は面白そうで良う御座いますね」
「ふ、たまさかには楽しかろうがの、度重なれば肌は荒れるし髪の毛も艶を無くす、それでも良いならそなたも二人の手伝いに行っても構わぬぞ?」
 意地悪く笑う主人の顔に、おみのも釣られたように微苦笑を返しながら、次の間に続く襖に手を掛けた。
「それは遠慮したいところに御座います」
「であろうな、ところでおみの」
「はい?」
「うるさい年寄りも居らぬ事だし、二人で玉池にでも食事に行かぬか?」
「お供致します」
 食事も楽しみだが、この間主の供をした時に誂えた銀の簪も付けてみたいし。
「ふふ、まだ若い娘なのだから、そなたも由蔵を見習って、たまさかには着飾って羽を伸ばしたが良いぞ」
 みゃう。
 自分より5歳は若い娘の言葉だが、仄の口から出るとあまり変には感じないのは貫禄の所以か。
 主人の気遣いを感じながら、おみのは軽く主に頭を下げた。
「私は……この家が一番寛げますから……」
 寂しそうなおみのの言葉に、仄はそれ以上何も言わずに豆大福を手にした。
「出立は七つ(午後4時頃)辺りで良かろう、済まぬが駕籠辰に人を回すようにだけ手配を頼む」
「承知いたしました、お嬢様」
四段目

「ふぇっくしょい」
「寒ければ窓を閉めますよ、由蔵さん」
 くさめを慌てて手ぬぐいで押さえた由蔵に顔を向けながら、半七は障子の桟に手を掛けた。
「いえ大丈夫です、大方お嬢様が手前の悪口など並べて居るので御座いましょう」
「へへ、こうして張り込みながらとは言え軍鶏鍋なんて突いてるワケですからねぇ……悪口の一つや二つは甘んじて受けましょうや」
 今二人が居るのは里中の贔屓にしている小料理屋の二階であった。
 いや、ここだけではなく里中はあちこちに“ここは”と目星をつけた信頼できそうな店に対して顔を繋いでいる。
 里中は、あまり大名家や旗本の屋敷には出入りしたがらない類の人間の為に、お世辞にも裕福とはいえないが、彼のような“うるさい”旦那が贔屓にしている店と言うのは、流石に土地の破落戸(ごろつき)や顔役といった連中もちょっかいを掛け辛いらしく、真っ当な商いをしている店からは歓迎されている。
(俺は魔除けのお札みたいなもんさ、安物だが、貼って置けば多少の御利益はある……な)
 そんな事をかつて里中は笑いながら言った事が有るらしい。
 そして、もうちょっと柄の悪い店などは半七や六兵衛等が繋ぎを付ける。
 
 主人は大分に話のわかる人間らしく、里中の書状を一読すると二人の張り込みに対して最大限の便宜を図ることを約束してくれた……その言が嘘では無い証の一つが、今二人の目の前で湯気を上げている訳である。
 当初、半七が目星をつけていた安宿とは待遇が……従ってからだの楽さが全く違ってくる。
 それに加えて由蔵が居てくれるという事は、交代で寝ずの番が出来るので、気分としても随分楽である。
「すみませんねぇ、むさい男の酌で」
 それとなく外に気を配りながら、半七が由蔵に酒を注ぐ。
「呑む事自体を楽しむなら、男同士が気兼ねが無くてよう御座いますよ」
 鍋を突くと、どうしても口の中をサッパリさせたくなる。
 旨そうに茶碗に汲まれた酒を干しながら、由蔵も外に眼を向けた。
「雪にはならなそうですが……少々冷えて参りましたなぁ」
「左様で……障子を開けておくのが不自然なのが辛い所で御座いますよ」
「まぁ、鍋を突いていると外の寒さがありがたい事もありますでな、気にする人も少ないでしょう」
「へい、それより由蔵さんは寒く御座いませんで?」
「先代に大分寒稽古で絞られましたでなぁ……この程度は何とも有りませんよ」
 ……弘前で雪女郎退治に付き合わされた時は死に掛けたっけなぁ、ありゃ寒かった。
「お見それいたしやした」
 今日の由蔵は品の良い商家の楽隠居といった姿をして、半七はそのお供と言った拵えをしている。
「ところで半七さん、差し支え無かったら、どんな目星をつけておいでなのか聞かせて頂きたいんですが」
 由蔵がさり気なく茹で上がった肉を小皿に取って、窓際に陣取った半七に渡してから徳利を手にした。
「すいやせん、頂戴します……」
 こちらも茶碗酒に口を付けながら、半七は茶碗の表面に目を落としていた。
 昨日呑んだ酒……あれは尋常な物じゃ無かった。
 里中の屋敷から和泉屋に回った半七は、自分と同じ様な顔色のお米の顔を見出した。
 ……そして、使用人はじめ、昨晩は酒など口にしていなかった筈の主夫婦まで妙な頭痛に悩まされて居るという話をお米から聞き取って、半七の頭の中には一つの確信が芽生えていた。
「まだ確かな事は言えないんですがね……」
 そう言いながら、半七は考えを纏めるように言葉を切って、まだ中身が半分ほど残っている茶碗を置いた。
 刻限はそろそろ暮れ六つに近い……冬の残光が部屋の中に濃い影を落としていた。
「今回の人死には三人、和泉屋の次女お初、魚屋の芳次、そして今朝方の娘……」
 由蔵は匙で灰汁を掬いながら静かに頷き、半七に続けるよう促した。
「この件が最初から不自然な代物だったのは昨晩由蔵さんにお話申し上げた通りでござんす……心中に桜の木の祟り……どちらかだけなら偶然も有るかもしれやせんが、芝居掛りが二つも重なるってぇのは」
 柚子の風味を軽く効かせた付け醤油に軍鶏肉をちょっとつけて口にした半七の言葉が僅かに途切れる。
「確かに妙な話ですな」
 由蔵の言葉に、半七が皮肉な笑みを浮かべて頷く。
「ですからこうして“役者”を張ってれば、この芝居を仕立てた“座頭(ざがしら)”が出てくるんじゃねぇかと、そう思った訳で御座いますよ……」
 そう言いながら、半七は茶碗酒の残りを干した。
 素人芝居が見苦しいのは、力の加減を知らず、無駄に力んだ動きがギクリバッタリして見えるせい……。
 この事件もそう、全体に力みかえった馬鹿共の姿が透けて見えるような気すらする。
 芝居なら指でも指して笑ってやれば良いが……この座頭だけは許せねぇ。
「成程……では、半七さんは誰が……」
 由蔵の言葉が途中で切れた。
 半七が表に向けていた目が細く鋭い光を湛える。
「へへ……立て続けの小細工をするから性急(せっかち)だと思ったがやっぱりだ……由蔵さんも見なせぇ」
 由蔵がさり気なく立ち上がって、いかにも酔いを醒ましてでも居るような顔で桟に手を掛けて外を覗く。
「由蔵さんは和泉屋さんには?」
「手前はさほどのお付き合いは御座いませんな、みのが以前帯を誂えたとか聞きましたが」
「じゃぁ、ちょっと判らないでしょうかね……と言うより本人を知ってても中々それとは気がつかねぇかもしれやせんね」
 そう言いながら半七が皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「見なせぇ、向こうから来る若旦那風の大将」
 手入れの行き届いたぞろっとした着物に羽織を付けた色白な若者が歩いてくる。
「誰です?」
「あれぁ和泉屋の番頭の松吉さんでございますよ、御丁寧に歩き振りまで変えてやがる……」
 半七の言葉に、由蔵の目が鋭く光る
「ふぅむ番頭さんですか……あれが」
 二人が見ている事も知らず、松吉は件の乞食坊主が住んでいる長屋に入っていった。
「心中もどき、怪談もどき、坊主もどきに若旦那もどき……妙な趣向でござんすよ、全く」
 そう言いながら半七は羽織を手にして立ち上がった。
「ちょっくら覗いてきやす、とは言え長屋内までは入り込みませんが。それより、あっしは場合によってはそのまま尾行に掛かっちまいやすが」
「では、手前はここで見張りを続けております……半七さんが誰かの後を尾行(つけ)て行くようでしたら、手前はここに残って、人の出入りを見ておりましょう」
「お願ぇしやす」
「美味であったな」
「左様で御座いますね」
 みゃー。
 暮れ六つを僅かに過ぎた頃、玉池から満足そうな二人と一匹が姿を現した。
「御満足頂けたようで何よりにございます、駕籠も待たせてございます、またの御贔屓を」
「うむ、また参る」
 玉池の主の見送りに、にっこり笑った仄が急速に暗さを増した表に顔を向ける。
「よい頃合か……」
 そう呟きながら、仄は野良丸を抱き上げるとおみのに差し出した。
「仄様?」
「ちと所要を思い出した、野良丸を連れて先に駕籠で帰るが良い……御主人、済まぬが提灯を拝借したい」
「それは勿論構いませぬが……夜道の一人歩きは危険でございます、手前どもの若いのをお付けしましょう」
「お心遣い忝い、だが近間で済む用事故な、そこまでお手を煩わす事も有るまい」
 仄の言葉に、人の良さそうな亭主の顔が曇る。
「そう仰るのでしたら……くれぐれもお気をつけ下さい、清や、仄様に提灯を差し上げて」
 下女から玉池の屋号の入った提灯を借りた仄が主に笑いかけて、紙に包んだ物を手渡す。
「駕籠を待たせて置いて貰って済まぬな、駕籠かきには酒手を弾んでやってくれ」
「恐れ入ります、確かにお預かり致しました」
 そう言う主人に頷きかけておいて、仄は若干表情を強張らせたおみのに目を向けた。
 おみのは知っている……これから彼女が何をしようとしているか。
「部屋を暖かくしておいてくれ、直ぐに戻るゆえな」
「……畏まりました」
 そうか……仄様は“仕事”をされるのか。
 それでは、自分如きが何かを言える事ではない。
 無いが……辛い。
「野良丸、私と帰ろう。それでは仄様、お先に」
 ……にゃうーにゃー。
 おみのに抱かれた野良丸が、何かを感じたのかいつもと違う鳴き声を上げて主に手を伸ばす。
「案ずるな野良丸、我の座布団でも温めて待っておるがよい」
 ……うにゃ。
 小さな頭を軽く撫でてやって、仄は踝を返した。
 その、小さな背中がすっと闇に消える。
「……お嬢様、大丈夫でございますかね」
 心配そうな玉池の主に、おみのは固い表情を向けた。
「大丈夫ですよ……」
 大丈夫に決まっている。
 あの方は……
 半七の視線の先で提灯の明かりが揺れる。
(やれやれ、風が強ぇな……)
 自身は提灯を点けずに、相手の明かりだけを頼りに尾行していけば、この夜闇はむしろ尾行する側に味方してくれる。
 由蔵が付いて来ているかは判らないが、元々自分一人で事を進める心算だった半七にとっては、それは余り重要な事では無かった。
 目の前を歩いている筈の松吉と慈円と名乗った二人の足は意外に早い。
 そして方角は……まだ確かではないが、墨田の堤に向かっている。
(目当てはあの桜か……)
 何をしようというのか……夜陰に乗じて朝方阻止されたように木を切ろうと言うのか、それとも……
(また……誰かを手に掛けようって言うのかい……)
 暫く歩いたところで、二人は近在の農家が共同で休憩に使っているような粗末な藁葺きの家に入っていった。
 家の中に明かりが灯る。
(ふぅん……こんな所に巣を作ってやがったか……しかし、ここで見張りは勘弁して貰いてぇなぁ)
 身を隠すような所が殆ど無い……幸い近くに地蔵堂が有ったのでその影に身を潜めて居たが、寒さが身に凍みてくる。
 そんな半七の願いを聞いてくれた訳では無かろうが、四半刻も経たずに農家の明かりが消えて二人が再度表に出てきた。
 提灯の明かりの中に僅かに浮かび上がった姿だが、松吉ももう一人も、まるで旅にでも出るような足ごしらえになっているのが、半七には見て取れた。
(……まさか江戸を売る(出る)気……いや違うか)
 直ぐに二人が動き出したため、しかとは判らなかったが二人はそれぞれ斧と木挽きを手にしていたように見えた。
 向かう先は、やはり墨堤。
(てっ、執念深ぇ……何をそんなにあの桜に拘るんでぇ)
 腹立たしさはある……が二人が桜の木を切るだけだったら、半七はそれを見届けて、里中に報告するだけで今夜は済ませるつもりだった。
 多少の捕縛術の心得は有るが、半七一人では凶器を持った二人を取り押さえるのは難しい。
 片方、あるいは双方を逃がす事になる位なら、二人を確実に押さえる手を取りたかった。
 だが、あの二人が誰かを殺すつもりだったら……その時は。
 懐に忍ばせた1尺七寸程の樫の木に鉄の輪を幾つもはめ込んだ代物に手を添える。
 これは由蔵が小太刀の鍛錬用に使っていた物を譲り受けた物で、鉄条剣と呼ばれ木刀や竹刀の変わりに用いるそうだ。
(まぁ、丈夫さは保障しますよ……そこいらの鈍ら(なまくら)刀相手なら、打ち合っても勝てます)
 そして、由蔵の言葉が嘘では無かった事は、何度かの事件で半七の命を助けてくれた事で証明済み。
 十手を持てない半七としては、これが最後の頼みの綱……。
 とはいえ、出来たら使いたくねぇなぁ。
 刃物沙汰を恐れている訳では無いが、事が自分一人の喧嘩沙汰では収まらない以上は、半七は安易な暴力に頼る気は毛頭無かった。
 だが、望まずしてその状況に陥る事もある……それもまたこの仕事の真実である事を半七は承知していた。
(頼むから、今夜は穏やかに済んでくれよ……)
 玉池に程近い根岸にある陸奥家の寮。
 普段は無住の部屋に手燭(てしょく)の微かな灯火が揺らめいて、障子に小柄な影を映し出していた。
「全く、面倒な事よ……」
 眉を顰めながら仄は手燭を下に置き、戸棚の奥の隠し部屋の鍵を開けた。
 部屋と部屋の間に巧妙に作られた細長い隠し部屋。
 その中に、何振りかの太刀や脇差、槍、長巻、長刀が掛けてあった。
「我が家から持ち出せれば苦労せぬに」
 ぶつぶつ言いながら刀を物色する仄の姿は、いつもの街娘の姿では無く、小袖と袴、髪を後で無造作に括っただけという物に変わっていた。
 この姿になると、仄のきつめの顔立ちと相俟って、まだ元服前の少年剣士のようにも見える。
「今宵はこれに致すか」
 青い柄糸に銀の鍔、下げ緒は青と白の組紐という変わった拵えの打刀と脇差を無造作に落とし差しにする。
 肥後守正国……戦国の風を残す、些か無骨で実戦的な重厚な造りの刀。
 今日日の鈍ら武士では差した拍子に腰でも抜かしそうな代物だが、仄の腰にはそれが見事に据わった様が見る人が見たら判っただろう。
「……」
 手燭を柱に掛け仄は両手をだらりと下げた。
 軽く呼吸を整えつつ刀の鯉口を切る。
 右手が柄に掛かる……その刹那、鞘から流水が迸る様な光芒が走った。
「ふむ」
 火影を映しこむ抜き身の刃を右手にした仄が二三度峰を返して、その刀身を吟味する。
「流石に良い砥ぎだ」
 満足そうな息を吐きながら、仄は抜き出した時の速度が嘘のように、白刃をゆっくりと鞘に納めた。
 鞘の内の滑りが違う、すっと音も無く鞘に収まった刀を上から押さえる。
 僅かな物だが、この違いが生死を分ける時も有る。
 道具に頓着しないのは美徳でもなんでもない、いい仕事といい道具は車の両輪なのだから、仕事に責任を持たない輩だけが道具に無頓着で居られる、と言うのが仄の信念であった。
「さて、半七殿や由蔵が来る前に片を付けるとするか」
 手燭の明かりを手にして隠し部屋から歩みだした仄が濡れ縁から外を見やる。
 何時の間にか、冬の月が雲間から顔を出して、冴えた輝きを放っていた。
(提灯は無用のようじゃの)
 畳んだ提灯を袂に仕舞い、仄は手燭の明かりを吹き消して銀色の明かりに目を向けた。
「しかし、月読命(つくよみのみこと 三貴神の一人、月の神)に罪咎は無いとはいえ……」
 そう呟きながら仄は溜息を吐いた。
「モノノケが騒ぎ出すのも無理からぬ輝きよな……」
 そう言いながら伏せた仄の瞳は、僅かに血の色を透かしたような真紅に染まっていた。
(参ったな、こりゃ)
 雲が晴れて顔を出した月が、煌々とした輝きを地上に落とし、それを受けた道端や樹上に残る雪がえもいわれぬ幻想的な光を辺りに放っていた。
 雪月花を愛でるなら良い夜だが、尾行する側にしてみるとたまった物ではない。
 暫くすると、身を隠す事もできない田の中の道に出る。
 前の二人は余程に気が急いているのか、振り向く気配も見せずに足早に道を歩いているが、それをあてにしてひょこひょこ付いて行くのは危険が大きすぎる。
(えい、仕方ねぇ)
 腹を決めた半七は、ひょいと道の脇に入って息を整えながら羽織を脱いで小脇に抱えた。
 羽織姿という事で、ちょっと上等の草履と足袋という足ごしらえを若干後悔しながら、草履を脱いで懐に入れる。
 奴らの目的は十中八九あの桜の木。
 ならば、そこに先回りする。
「腹括れ、半公!」
 ぱんっ。
 自分に気合を入れるように小声で呟きながら張った頬が小気味の良い音を立てる。
 どうせ二度や三度は死んだ身じゃねぇか……今更何を恐れる必要が有るってんだ。
 一つ頷くと、半七は覚悟を決めて走り出した。
 
 
 半七が騙り坊主と偽若旦那を尾行して行った後も通りを眺めていた由蔵は、酒と軍鶏が無くなった所で障子を閉めて立ち上がった。
 結構な量を呑んでいる筈なのに、梯子段を下りていくその足取りには些かも危なげが無い。
「お世話になりました……手前も出かけてまいりますので、上の片付けをお願いできますかな」
「承りました、お役目ご苦労様です」
 頭を下げる亭主に会釈を返しながら、由蔵は篠竹の杖を手にした。
「美味な軍鶏鍋でした……次回は単純に客として来たいですな」
「ありがとうございます……提灯などはようございますか?」
 ……なるほど、里中様が目を付けるのも判る、丁寧な物腰ではあるが卑しいところが無い。
 それに浮ついたところが無く、客が必要としている事をぱっと見極めて余計なことを言わない。
 柔らかい物腰だが、通っている芯がしっかりしている……これは信頼できる。
「提灯なら手前で持参しておりますし……」
 そう言いながら由蔵と亭主が扉を開け、暖簾を潜りながら、由蔵が天を仰ぐ。
「この月ですからな」
 濃い影を落とす冴えた光に驚いたように、亭主も由蔵に倣う様に青白い輝きに目を向ける。
「これは見事な月でございますな」
「そうですなぁ……」
 月……か。
 今日の月は優しい黄金の色ではなく、どこか死人を思わせるような蒼白く冴え冴えとした輝きを放っている。
(由蔵、金の月に浮かれて騒ぐような奴には大して悪い奴は居ない、だが赤い月と青い月に心が騒いで悪さをするような奴はな……危ないぞ)
 ……弦士郎様、今宵の月に狂うような輩は、やはり危険で御座いましょうかな。
「では、ご亭主……またいずれ」
「はい、お気をつけて」
 気をつける……か。
 そう、気をつけるとするか……人間が相手とも限らない事だし。
「松ちゃんよぉ、どうしてもやるんかい?」
「やる……やらなきゃいけないんだよ、久ちゃん」
 件の慈円大僧正こと、乞食坊主の久助が、雁頭(がんどう 伐木用の鋸)を持ったのとは逆の手で襟元を詰めながら、傍らの生っ白い旧友の顔を複雑な目つきで眺める。
 こわばった口元から漏れる荒い息と据わった目つきを見て、久助は心の中で肩を竦めた。
(こりゃ駄目だ……やれやれ、付き合うしかねぇのかなぁ)
 彼の旧友は普段は借りてきた猫みたいに大人しいくせに、こうと思い込んだら、何をしでかすか判らない。
 昔、飼ってた猫を苛められた時に、2歳上の近所のガキ大将に包丁を突きつけた時の目つきと今の松吉の目つきは全く一緒だった。
 あんときゃ寺子屋の宗佑先生が取り上げてくれたけど……そうでなければ刺してたな。
 ま、今回はあん時と違い人を殺すってワケじゃなし、墨堤の桜を切るなんて江戸っ子としちゃ無粋の極みだが、ま仕方あるめぇ。
 それにしても、あの爺と孫さえ居なけりゃ、こんな寒い中でコソコソした真似をせずともあの場で円満に切れたのに……余計な所に出てきやがった物だ。
 この辺り、自分たちが後ろ暗い事をしている自覚が有るだけに、どうも他者への八つ当たり的な発想に流れるのは人情と言うものか。
 余計と言やぁ、この月もそうだ。
 妙にぺかぺか光りやがって……
 まるで、これから自分たちがやろうとしている悪事を、全部見てるぞと言われているような、そんな月。
「それにしても松ちゃん、おめぇにそんな鉞振り回せるのか、自分の足を切る羽目になりゃしねぇかい?」
「平気……だよ……ふぅふぅ……私だって男だ」
 必死に強がる松吉の様子を、こちらは日頃から走って逃げるのも日常茶飯の久助が、呼吸一つ乱さずに皮肉っぽく横目で眺める。
(鉞を持って走ってるだけでそのザマじゃ、説得力もねぇってもんだ)
 鼻を一つ啜りこんで、久助は僅かに早足だった足を緩めた。
 目的地まではもう直ぐ……桜一本切り倒してトンズラするだけなら、さほど慌てる事も無いだろう。
「それにしても、こう明るいと仕事がし易いようなし難いような、微妙な感じだねぇ、松ちゃん」
「……そう……だねぇ、久ちゃん」
 あ……こりゃ、あんまり話しかけねぇ方が良いかな。
 せいせいという荒い息に、脇腹の痛みをこらえるような仕草……
(何を焦ってやがんのかね)
 気は先に進むが足が付いていかないのだろう。
「おい、松ちゃんよ少し足を緩めねぇ、着いた先で動けなくなっちまっちゃ、意味ねぇだろ」
「そ、そうだね、でも急がないと駄目なんだよ久ちゃん」
「急ぎねぇ、なんでそんなに急ぐ必要が有るんでぇ?」
「……」
 ……やれやれ、まただんまりか。
 さっきからこうだ……何故急ぐのか、何故あの木を切らなきゃ駄目なのか……
 その問いかけをすると決まってこうだ。
 水臭いと思うが仕方ねぇ。
 奴がやりたい、やらなきゃいけないと思ってるなら……何も言わずに付き合ってやるか。
「おい、松ちゃんよ……」
「……なんだい」
「……疲れたから、明日は鰻でも奢ってくれや」
 それ以上は聞かない……そんな旧友の気遣いを感じたのだろう、松吉は僅かに安堵した様子で頷いた。
「鯉こくも付けるよ、川魚の美味しい店を知ってるんだ」
「へへ、そいつぁ楽しみだ……さて、片付けるかい松ちゃん」
 大川の土手が見える……見上げると青白い月、黒々と拡がる桜の木……そして。
「なんでぇ、夜鷹(よたか ※通りで客を拾う私娼)かぁ?」
 その桜の木に寄り添うように立つ、華奢な女の姿があった。
「てっ、間の悪ぃ……どうするい松ちゃん、金でもやって追っ払うか?」
 そう言いながら松吉の方に振り返った久助はぎょっとした。
 血の気を失い強張った松吉の顔が、目だけを爛々と光らせて土手を見上げていた。
「……お嬢……様」
 その口の間から、かすれた声が漏れる。
「あんだってぇ?!」
 その言葉に慌てて久助が土手を見上げる。
 あいつがお嬢様ってぇことは……ありゃ和泉屋の娘か。
 二人居た筈だけど……まさかに大店のお嬢が夜歩きするわきゃねぇし……ってこたぁ、まさか死んだ方か?
 考えてみれば、ココは彼女が死んでた場所……
 そう思い至った久助の背中に、なにやら嫌な物がぞろりと這い回った。
 じょじょ、冗談じゃねぇ、幽的は夏場に柳の下が定位置だ、冬に桜の下たぁ舞台が違うぜ。
 普段は偽坊主と詐欺で生計を立てている久助だが、法力は愚か経文一つ読めはしない。
「何故……出てこられたのです」
 そう言いながら松吉は堤を登りだした。
「ままま、待てや松ちゃん、逃げようぜ」
 そう言いながら手を伸ばそうとして、久助は足がもつれて転んだ。
 転んだ久助を振り返りもせず、何かに憑かれたように、松吉はその女の方に歩いて行く。
「……松……ちゃん?」
 天には、嘘みたいにまん丸な青白いお月様。
 高く真っ黒な堤の上に、一枝だけ花を咲かせた老桜が、青白い世界に黒い影を落とす。
 その下には一対の男女。
 それはまさしく一幅の絵であった。
 そして、それを見上げる久助にはなんとなく判った事があった。
 松吉は、彼の旧友は、この影絵みたいな世界に行ってしまったんだ。
 彼の知ってる生臭く泥臭い、でも楽しい世界じゃなくて、美しいけど、無味無臭の静謐の裡に全てが終わってしまった世界に。
「松ちゃんよう……おいらに鰻奢ってくれるんじゃねぇのか?」
 喉が詰まるような声しか出ない。
 気が付けば、両の頬を十年このかた忘れていた涙が濡らしていた。
 だが、その声も届かない。
 二つの影絵が見つめあい……そして重なった。
「やっと……来てくれたね、松さん」
 女の手が松吉の背に回される。
「……申し訳ございませんでした、お嬢様」
「……水臭いよ、松さん」
 その手が徐々に背中を上がっていく。
 柔らかく、滑々した手の感触も着物越しに感じられそうな……それでいて、蜘蛛が這い上がるような。
 背反する快楽が、じんわりと背中を上がって行き、彼の首筋にたどり着いた。
「そうだね、お香代」
 そう言いながら松吉は、女の首に手を掛けた。
「愛しているよ……」
 どういう事だ……こりゃ。
 堤下でへたり込む偽坊主に、堤上で女の首を絞める偽若旦那。
 半七の想像していた物とは微妙に違う、だけど、想定していた中では一番切羽詰った状況。
「待て!待ちやがれっ、与力里中様配下、六兵衛親分方で働く半七だ、その手を離しやがれっ!」
 良く聞けば「俺は全然大した事もない下っ端だ」と大声で言ってるだけなのだが、こういう時は呼吸が肝心である。
 相手がこちらを察知しないうちに大声で御用を務める身である事を名乗ると、どれだけの無法者でも多かれ少なかれ怯み、逃げる奴が多い。
 逃がすのは不味いが、自分ひとりしか居ないこの際は、人死にを出さない方が肝心だ。
 腹の据わった大声を発して、半七は一気に堤を駆け上がった。
 その上に広がっていた世界に、思わず息を飲んだ。
 青白い光の中に大きく枝を拡げた老桜、その下には幽鬼のような男女が立つ。
 芝居小屋でも見たことが無いほどに、それは幻想的な光景。
 だが、それに囚われるには、半七は余りにも現実的な人間だった。
「和泉屋番頭松吉!その手を離しやがれっ」
 自分の名前をずばりと言い当てられた事に、流石に動揺したのか、松吉の手が弛む。
 その手を、半七の振るった鉄条剣が強かに打ち叩いた。
「い……っつ」
 妙に甲高い女みたいな悲鳴を上げて松吉が手を離す。
 その襟首を、空いた手が掴みさま、足を裏から払いひっくり返す。
 ぴぃぴぃというような泣き声に些かげんなりしたが、半七はそのまま引き倒した松吉の腕をねじ上げた。
「お前には色々と……お初芳次の心中から今朝の首括りまで色々聞きてぇ事が多いんだ、神妙に縛に付け」
 その半七の声をどう聞いたのか……松吉は急に泣きやんだ。
 その事をいぶかしく思う間もなく、松吉は妙に落ち着いた顔を半七に向けた。
「そこまでご存知でしたら手向かいは致しません……どうぞお縄を」
「お……おうよ」
 なんだ……こいつ。
 急に腹が据わりやがった。
 何度かこういう場面に出くわした事は有るが、大胆な事をしてのける泥棒や強盗でも、捕まった時など、哀れな程に見苦しく泣き喚く物だ。
 今や、松吉の目は涼やかで、一片の悔いすら感じていない様子に見えた。
「……お初芳次を殺した事や、今朝の娘の死もおめぇの仕業と認めんのか?」
「はい」
 迷いの無い即答を聞いて、半七の頭に何かが走った。
 ……違う、こいつじゃねぇ。
 こいつは……。
 松吉の顔を睨みつける、こいつが隠そうとしている何かを見透かす為に。
 その顔が急に歪んだ。
「お香代っ、いけない!」
 その声に、慌てて振り向いた半七の目に、あろう事か、般若のような形相で、庭の敷石に出来そうな程に大きな石を頭上高く持ち上げて、半七に迫るお香代の姿が映った。
「邪魔しないでっ!」
 異様な光景に真っ白になる頭のまま、松吉の手を離し、慌てて半七が身構える。
 だが、膝立ちの状態からでは避けられない、腕だけ上げてお香代から身を守ろうとする。
 その石が叩きつけられようとする。
 こりゃ……腕の一本は覚悟しねぇと駄目か……。
 歯を食いしばって痛みと衝撃に耐えようと身構えた半七の眼前で、お香代の手から石が弾き飛ばされた。
「……へ?」
「だ……誰?」
「陸奥仄、一介の町娘じゃ」
 響きの良い少女の、だけどその年では絶対に持てないような、凍える殺気を帯びた声が横合いから響く。
「ほ、仄様」
 彼女の手元を見ると、当百が握られている。
 ……って事は、アレを投げつけて、あの巨大な石を弾き飛ばしたってか?
 合いも変わらず尋常じゃねぇな。
 彼女の力を知っているだけに、安心感がどっと押し寄せ、その拍子に不覚にも腰から力が抜けた。
「やれやれ、そなたも勘が良いのか目端が効くのか知らぬが……間の悪い事だの」
 お香代を睨みつけながら、仄が半七の傍らに歩み寄る。
「……仄様はご存知だったんでやすか?」
 些か非難するような目つきになってしまったのは許して欲しいものだ……。
 その半七を見返しながら、仄は苦笑した。
「まぁの、その老桜が教えてくれた故な」
「何故、あっしや里中様に教えて下さらなかったので?」
 それには直接答えず、仄は刀の柄に手を掛けて、お香代に向き直った。
「我のようなのらくら者がわざわざ出向いてきたのが答えじゃ……見よ」
 仄の指差す方を見て、半七は息を飲んだ。
 お香代の髪の生え際が盛り上がり、そこから血が溢れ出していた。
「誰にも……私と松さんの事は邪魔させない……誰にもぉ」
 眦(まなじり)がありえない角度で釣りあがり、切れた目じりから涙のように血が溢れた。
「お……お香代」
 松吉の何とも言えない声が後ろから響く。
「鬼女じゃ、己の心の裡で育てて参った鬼に食い荒らされたなれの果てよ」
 爪が鋭く伸び、腕が盛り上がる。
 そういう事か。
 もう人が片付ける問題じゃねぇって事かい。
 半七の表情を見ながら、仄は頷いた。
「左様……これは我が家業の範疇よ、そなたらは離れておれ」
 そう言いながら、仄は肥後守正国に手を添えて、今や完全に鬼女に成り果てたお香代に向き直った。
 
 これは、一人の人が生き、そして辿りついた姿。
 哀れなどとは口が裂けても言うまい。
「世に理を乱すモノあらば、それを正すモノあり……」
 ただ、我はその姿に辿りついたモノは、定めにより斬らねばならぬ。
 そなたには恨みも憎しみも無いが……許せ。
「なれば……」
 仄は青い柄糸の愛刀に手を掛けた。
 お香代が……いや、鬼が走り寄る。
「我ら鬼神陸奥」
 僅かに左足を引きながら、鞘に添えていた左手が、僅かに鍔を押し上げる。
 鬼が、腕を振り上げ、それが風を巻いて振り下ろされた。
 それを静かに見つめていた仄の口から、凄烈な声が迸った。
 
「神殺し仕る!」
 
 後ろから見ていた半七の目に、地上に大きな三日月が見えた気がした。
 それは……仄が抜き放ち、そして瞬時に腰に納めた肥後守が弾いた月明かりの軌跡。
 その三日月はお香代の腕と体を通過し……その体を両断した。
 次の足をお香代が踏み込む。
 その拍子に腕が落ちた……。
 勢いが衰えないまま、次の足を踏み込む。
 体がずれ……そして半分が地に落ちた。
「終わりじゃ」
「お、お香代っ!なんて事を、人殺し」
 半七の隣で事の成り行きを見守っていた松吉が、仄に掴みかかろうとする……その伸ばされた手に仄が白い繊手を添えたと見えた拍子に、その体を逆に放り投げられた。
「落ち着くが良い」
「こ、これが落ち着いて……」
「そなたらは、心中する心算でおったのだろう?」
 仄の言葉に松吉が弾かれたように顔を上げた。
「今からでも……遅くはあるまい」
 松吉が見上げた仄の顔は……どこか優しく、どこか突き放したように残酷で、そしてどこか哀しそうだった。
 だが、仄の言葉に松吉は大きく頷いて……そして莞爾とした笑みを浮かべた。
「左様でございました」
 しゃんとして松吉が立ち上がる。
「私事でお手を煩わせましたこと、お詫び申し上げます。事情はあらましご存知のようですが……その」
 言いよどむ松吉を制して、仄は脇を向いた。
「……お主らは二人で駆け落ちするのじゃ、その行き先が冥府か他国かなどと詮索するは無粋と申す物だろう」
 その仄の呟きに、松吉は改めて頭を下げた。
「忝のうございます」
 その言葉に、仄は特に答えず踝を返した。
「迷わず娘の手を引いて行ってやるが良い……」
「はい」
 
 松吉は仄に背を向けて、今や鬼に変じた娘の亡骸の傍らに膝をついた。
 カッと開いたままだった目を閉ざしてやる。
 他人には般若に見えるかも知れない……けど私には、お前が心をむき出しにした顔は……美しく見えたよ。
 その手を握る。
 ごつごつした肌に変わってしまったそれを愛おしげに撫でる。
 こんな心を抱えて生きていたんだね……お香代。
 刃のように長く鋭く変じた爪を、額から現れた鋭い角を、悲しげに見る。
 誰も、その角を丸くしてくれる事は無かったのかい……。
 お前はただ、お店の事を。
 いや、お店の事を良くする事で両親が喜んでくれるのが嬉しかっただけ。
 でも、私が何をやっても、お金を一杯稼いでも……お店はどんどん暗くなっていく。
 どうにかしないと、何かしないと。
 そうして、どんどん人の心は離れていって……彼女は孤独になった。
 どうして……何が悪いの。
 そう……彼の胸の中で呟いた娘の顔を思い出す。
 そして、答えが出せないまま抱え込んで、深く淀んだ思いは、妹という最も身近で、それで居て最も無理解な存在に向かってしまって……。
 何が間違っていたんだろうね。
「お香代……」
 彼は愛しい娘の手を、彼の首筋に添えた。
「私は一緒に居るよ」
 その手を僅かに……引いた。
 パッと影絵の世界に一輪の花が咲いて、二つの影は寄り添うように地に伏した。
「……これで良かったんですかい?」
「良い解決とは何じゃ?半七殿」
 反問を返しながら、どこか疲れたような顔で、仄が二人を見下ろす。
「この二人がした事は……許される事じゃござんせん」
「死ぬ以上の刑罰は確かにあるかも知れぬが、あまり現実的でもあるまい」
 そう言いながら、仄は二人の上に手をかざした。
 その手が青白く光ったかと思うと、二人の体が青い炎に包まれた。
「こ……これは?」
「鬼火……鬼となり果てしモノを弔う、まぁ我らの手向けのような物じゃ」
 熱さは感じないのに……二人の体が徐々に灰になって行く。
「お香代は仕方なかったかもしれやせん、けど松吉は……死なせるべきだったんですかい?」
「さぁの、生きておればいつか立ち直ったかも知れぬし、そのまま堕ちて行ったかも知れぬ……左様な事までは我には判らぬ」
「だったら生かしておくべきだったんじゃねぇですかい?」
「どの道、あのままでは、お香代とやらの罪を背負って行ったであろうよ、そうすれば死罪は免れまい?」
 取り押さえた時の松吉の様子を思い出す。
「……そりゃそうかもしれやせんが」
「もし、全てお香代の罪として自分だけ逃れようとするなら……我が生かして置かぬしな」
「そいつは……しかし」
 どうにも得心が行かない様子の半七から目を逸らし、仄は青い炎の中で静かに灰になって行く二人の姿に視線を落とした。
「鬼と変じた娘に殉じようという、その気持ちが変わるのは……見とうないわ」
 その呟きは静かな……青白い月の光に消えそうな位か細い物だった。
「仄様?」
 聞き返す半七の言葉を無視して、仄は青白い炎が消えて行く様を指差した。
「どの道手遅れじゃ、あの二人はもう、誰にも引き離す事ができぬ世界に行ってしまったわ」
 そこには、真っ白な灰が固まっているだけだった。
 骨も何も残さず……不思議に地面には焦げ跡一つ残さず……。
「……そうでござんすね」
「あの二人はな、駆け落ちしたのじゃ……残された者の嘆きは有ろうが、それで良かろう?」
「……へい」
 確かに、あの二人は死んで罰を受けたし、世間体はともかく和泉屋の暖簾にもさほどの傷は残るまい。
 多くの人の事を考えれば仄のあしらいは悪くない……悪くないんだけど。
「いやはや、全て終わった後ですかな?」
 暢気そうな声に二人が振り向く。
「お主か、半七殿を危険な目に合わせておいて何が手伝いじゃ、柳川に舌鼓でも打っておったか?」
「いやいや、今宵は軍鶏でございましたよ、美味でございました」
 そんな太平楽を並べながら、由蔵が土手から姿を現す。
「土産を持参いたしましたので、不手際の方は平にお許しを」
 その由蔵が手にしたものを見て、二人が吹きだした。
「なんじゃ由蔵、その煮ても焼いても食えなそうな土産は?」
「かの霊験あらたかなる慈円大僧正さまですよ、そこの影でこっそりこちらを見ていたので、こちらにお連れしました」
 ……あ、そういや、こんなのも居たっけな。
 そんな事を思いながら半七は鬢のあたりをぽりぽりと掻いた。
 あんまり滅茶苦茶なことが立て続けに起こったから忘れてたぜ……。
 仄が薄く笑みを浮かべながら、腰を抜かした慈円の脇に屈みこむ。
「今朝方は稼業の邪魔をして失礼したの、して、そなたは何処まで見届けた?」
「いいいいいええ、あっしはなな、何も」
「嘘はいかんな……閻魔に成り代わりて舌を引き抜いても良いが」
 仄が指で何かを摘んで引っ張るような仕草を見せながら、猫又が行灯の油を舐める時にはさもあろうという様子でニマリと笑った。
「ひえぇぇぇぇ、お許しを、ああああ、貴女様が鬼を切ったのも、松ちゃんがその鬼の爪を使って自害したのも全部見てましたぁ」
「やれやれ、全部見ておったか……」
 そう言いながら仄が半七と由蔵の方を振り向きながら目配せを寄越す。
(あ、こりゃ脅かしてから追っ払う心算だな……)
 半七と同じ事を由蔵も思ったのだろう、真面目くさった顔で顎を撫す。
「仕方ありませぬなぁ、では口でも封じますか、仄様」
「可哀想じゃが、これも何かの因縁じゃ……苦しませはせぬゆえ迷わず成仏いたせよ、南無阿弥陀仏」
 そう言いながら、仄が芝居がかりの大仰な姿で刀を抜き放つ。
「妙法蓮華経、てんつくてんてん」
「オンアボキャーベーロシャノー」
 後ろで由蔵と半七が半畳を入れる(はんじょうをいれる ※茶々を入れる)が、久助にしてみればからかわれてると気付く余裕も無い。
「おおおおお許しを、手前には七つの寝たきりの母に六十を頭に4人の子供が」
「逆じゃ逆……少しは腹を据えて騙りをせぬか、そんなだから騙りの技も三流なのじゃ」
「恐れ入りまして、では騙りの技を磨くために、いま少しの猶予を」
「戯け、他の道に精進するならともかく、何故我が騙り道を究める片棒を担がねばならぬ」
 そんな久助と仄の様子を見ながら由蔵が半七に耳打ちする。
(中々大した物ですな……)
(へい、この状況で律儀に返事ができるだけ、中々腹が据わってやすね)
 仄も面白がっているらしい、抜き放った刃を音高く鞘に納めて久助の傍らに屈みこんだ。
「まぁ、場合に拠っては助けてやっても良い」
 仄の言葉に久助がその場に平伏する。
「へへぇっ、仰せに従います」
「芝居がかりは止せ、むずがゆい……約束してもらいたいのは二つだけ、今宵の事を他言せぬ事、後は江戸を離れることじゃ」
 そう言いながら、仄は懐の紙入れから一分金を数枚、全部で三両分はあっただろうか……取り出した。
「手持ちはこの程度じゃが、旅費程度にはなろう、取れ」
「では、ありがたく」
 最前までガタガタ震えていたくせに、妙によどみなく差し出され、金を握り締めた久助の手を、仄の手が締め付けた。
「痛っ」
「ただし……今宵の事を他言せぬように呪いだけは掛けさせてもらう」
「ままま、マジナイ?」
「左様……我が家に伝わる秘術よ、今宵の事、我の事、他言したら全身から血を噴出して3日3晩苦しみぬいて死ぬ呪いじゃ」
 空いた仄の右手が青い炎を帯びた。
 その炎がホンの僅かな間に人間二人を跡形も無く灰にした様を見ていた久助は肝を潰した。
「あわわわわあわ……」
「案ずるな、今死ぬ訳ではない」
 そう呟きながら、仄は久助の眉間を刺し貫きそうな勢いで、人差し指を突き出した。
「ひぃっ!」
 喉が詰まったような悲鳴を上げて、久助はぱったりと倒れた。
「ま、コレで良かろう」
「仄様、まことに呪いを掛けたのですか?」
「こやつは今、そう信じ込んだ……その意味では呪いに掛かったと言えような」
「えーと……つまり」
「つまりは虚喝(きょかつ ※コケオドシ、ハッタリ)にございます」
 実も蓋もない由蔵の言い種に眉をしかめた仄が久助を見下ろす。
「しかし、このまま放っておくと凍死しかねぬな……由蔵、手近な農家の軒先にでも放り込んで参れ」
「ははぁ、手前がですか?」
「此度の件では一番楽をしておろうが、横着者め」
「承知いたしました」
「では、帰ると致すかな……ん?」
 歩き出そうとした仄の足が止まった。
 その視線の先で、季節はずれの桜花がはらはらと散って、二人の灰の上に、まるで手向けるかのように舞い降りた。
「散ってしまいましたなぁ」
 由蔵の言葉に直接は答えず、仄は空を仰いだ。
 空には死衣を纏ったような青白い月。
 降り注ぐ光が積もった雪をぼんやりと輝かせる。
「狂い咲き……であったな」
 それだけ呟いて、仄は瞑目するように目を伏せた。
終幕

 あの件から二日後、陸奥家の奥では面倒がりのお嬢様と番頭と下っ引きの三人が、不景気な顔で漬物をおかずにお茶を啜っていた。
「まぁ、そもそもはお香代がお初とやらを衝動的に絞め殺してしもうた所から、何かが狂ったらしいの」
 膝の上の野良丸をくすぐりながら、仄が興が乗らない様子で口を開いた。
「その理由なら判る気がしやす」
 お初の浪費癖とお香代の倹約振りを半七が手短に口にする。
 それが全てでは無いだろうけど、二人の間に何かの確執があり、それが一線を越えてしまったという事なのだろうか。
 人ってのは……案外簡単にその線を越えてしまう物だし……な。
「なるほど、東照宮さまと太閤様……となってしまったわけですな」
「へ、左様で」
 お互い不敬な事を言ってるとは思ったが、図らずもあの女中頭のお米の言葉は図星を指していた訳だ。
 あ……そういやお米と蜆屋で呑みの約束してたっけな……桑原桑原。
「で、そこに芳次はどう絡みますんで?」
「通りすがりに見てしまったというだけのようじゃな……慌てて逃げようとした彼を、天秤棒で殴って殺したのは松吉の方じゃが」
 お店の事で話が、という事でお初を外に呼び出し、松吉も立会いの下でお香代が妹に浪費の件を問い詰めて……といった所か。
「で……心中仕立てにしたと」
「らしいの」
「ははぁ、面倒な事をした物ですなぁ」
 そう言いながら由蔵は一服つけながら、少し天井に視線を彷徨わせた。
 あの二人が今回の件を芝居がかりにしてしまった理由は……あの桜の花を見てしまったせいかも知れない。
 どうもあれは……あまりに現実感が無さすぎる光景だった。
「よくわからねぇのは二度目の殺しでござんすよ……あれは?」
「さての……この先は起きた事からの我の推量じゃ」
 そう前置きした仄が、ほうじ茶に口を付ける。
「お初を殺した時にな……お香代は血に酔うたのだ、血に淫するとも言うて、剣を執る者には必ず戒める事じゃが……人殺しは癖になる、ましてあのような鬼を心に飼っていた者は……な」
 お初を殺した事で、今までの抑制の箍が外れたのかもしれない。
「へ、その話は聞いた事がござんすが……何故あの桜の木の下で?」
「手前が思いますに……おそらくあの花と殺しの印象の結びつきが強すぎたのでございましょうなぁ」
 その由蔵の言葉に、仄も浮かない表情で相槌を打つ。
「ありそうな事じゃな……尤も今となっては詮索もできぬが……あの桜の木から伝えられたのは、その後に松吉と申す者がやってきて、あの娘を吊るした、というそれだけじゃ、精の声は人とは違う故、何が有ったか知ることしか出来ぬ」
「あっしらにしてみると、涎が出そうな力ではござんすがね」
「何とか声を聞けるのはごく一部の物だけじゃ、さほど便利でもあるまいよ」
 仄が肩を竦めながら野良丸の喉をくすぐる。
「こやつの声も聞いてみたいが、まるで判らぬしな」
 みゃ。
 その仄と野良丸の言葉に、僅かに笑いが起きる。
 だが、すぐにそれは収まり、半七が再びこわばった顔で口を開く。
「その時、松吉も何故そこに行ったのかは、判らないんでございますね?」
「恐らくじゃが……罪の重さに耐えかねて二人で死のうとしたのだろうよ」
 恐らくと言ったが、仄には確信があった。
 だから、仄はあの夜に二人が心中するなら、それを黙って見届けようと思っていた。
 あの時、半七が出てこなければ、恐らくお香代を殺した松吉も自害して……お香代が完全に鬼になってしまう事も無かっただろうに。
 だが、それは半七の力を見くびった自分の手落ちでもある。
 あの時、自分が手を下したのは……仕方無かったのだ。
「なるほど……それで松吉は二人を邪魔しないように、お通夜の料理に一服盛ったって訳か」
 一人納得した様子の半七に、こちらはその辺の事情を弁えない仄と由蔵の顔が向く。
「いえね、あの晩のお通夜の料理にはどうやら眠り薬らしい物が入っていたようでして……なんでそんな真似をしたのかが気になっていたんでございますよ」
「心中を邪魔されないようにした心算が、お香代の外出、ひいては第二の人殺しを糊塗する結果になったと……皮肉な物ですな」
「小細工を弄するとそういう事になるのじゃ」
 野良丸の小さな頭を撫でながら、仄が目を細める。
 因があれば果が生じる……その全てを見通す事は、人の手には余る。
 なれど足掻くが故に歪みが生じ、理を乱すモノが現れ……それを正すモノが居る。
 人の世で完結していれば、その歪みは里中や半七が正す。
 だが、そこから道を踏み外したモノが出た場合は。
 やれやれ、我らの稼業は絶えそうも無いの……。
 
「小細工と言えば……なんで松吉はあの桜の木を切りたがったんでしょうねぇ」
「……祟り……そう信じたかったのではないかな」
 そう言いながら仄は目の前の胡瓜の漬物をつまみ上げて、一口含んだ。
「人は何か悪いことを他者のせいにしたがる物じゃ、お香代が狂ったはあの娘が永きに渡り育ててきた鬼のせいじゃが、松吉がそれを認めたくなければ……どうする?」
「成程、桜の木の祟りと思えば」
「心の平安は得られますな、珍しくもない事です」
 あいつが悪い、自分は悪くない。
 珍しくも無い人の心。
 まして、それを一本の木が引き受けてくれるなら、それはそこに縋りつきたくもなるだろう。
「そうじゃの、ただ、あの狂い咲きがお誂え過ぎた……という一点は間が悪すぎたとしか言いようが無いがの」
 仄の言葉に、一同の間に沈黙が落ちる。
 ごろごろごろ
 野良丸の喉声に妙に気分が安らぐ思いを感じながら、半七は目の前の湯飲みを手に取った。
「今回の事は、里中様にはまだ何も報告してやせん……乱暴な話ですが何が有ったかを把握しないと」
「偽報告も出来ませんな」
 由蔵が苦笑しながら灰を落とす。
「随分と実感が篭もって居るな、身に覚えでも有るのか、番頭殿?」
「とんでもございません、手前は誠実が服を着て誠実を広めて歩いているような人間でございましてな」
 人を食ったような番頭の返事に呆れたように、お嬢様は肩を竦めた。
「昨日の慈円大僧正殿ではないが……おぬしの舌も引き抜いてやろうか?」
「その儀は平にご容赦願います、味がわからなくなってしまっては、人生これほどつまらない事は有りませんからな」
 そう言いながら、由蔵が蕪の味噌漬けを旨そうに口に運ぶ。
「口腹の楽しみは人生の華よな……さて半七殿、本日の話で里中様を誑かす自信は付いたか?」
 仄の人の悪い言葉に半七が苦笑を浮かべる。
「旦那を騙し果せる自信はござんせんよ……この件は有耶無耶にしようかと思ってやす」
 半七の言葉にクスリと笑った仄が胡瓜の漬物の残りを口に運ぶ。
「それが良かろう、先ほども申したが、小細工をすると歪みが生じるでな……しばし骨休めを兼ねて、軍鶏鍋でも突いて張り込みの振りでもするが良いさ」
「へ、そうしやす」
 仄の言い種に半七が苦笑を浮かべる。
「では、手前もお手伝いの続きをば……」
 そう言う由蔵の顔をちらりとみて、仄は人の悪い笑みを浮かべた。
「こやつの食い扶持は後で請求するよう先方の亭主に伝えよ。給金より差し引いておく」
「……お嬢様、最近私めに随分と辛く当たる事が多くございませんかな?」
「人は鏡と申す、行いはお主に跳ね返るのじゃ」
 にゃ。
 真面目くさった主と猫の声に……重苦しかった部屋に、穏やかな笑いの気配が戻ってきた。
「お嬢様……宜しいですか?」
「おみのか?話は済んだ、入れ」
「はい」
 すっと襖が開き、姿を現したおみのが膝をつく。
「如何したのじゃ?」
「その……妙な方が裏口に参られて、こちらに仄様はいらっしゃるかと」
「……我を知っておって、そなたには見覚えが無い輩じゃと?」
 仄の顔がしかめられる。
 自分の知己は大概がおみのが把握している。
 それ以外など……陸奥の事を知るごく一部の人間……まさか陸奥の仕事の急用か?
 だとすると、公儀か朝廷の密使……。
 面倒じゃのう、今の時期だと雪女郎でも出たか、はたまた狼神か。
 口の中で愚痴をつぶやきだした仄に変わり由蔵がおみのに水を向けた。
「妙とはどんな様子の人ですかな?」
「あの……お坊さんと言いますかおこもさん(※乞食)と言いましょうか……そんな人です」
 そのおみのの言葉に一同の表情が奇妙に歪む。
「あ……あ奴か」
「やれやれ、牛小屋に放り込んだ事に文句でも言いに来ましたかな」
「それにしても、よくこの店だと判りましたな?」
 三人三様の苦い顔を不思議そうに見ていたおみのに、仄は苦虫を噛み潰したような顔を向けた。
「……放っておけぬな、庭伝いでよいから案内せよ」
「はい」
 そう言いながらおみのが立つ。
 その後姿を見送った三人が、不景気な顔を向け合う。
「まだ江戸を立っていなかったとは……仄様の呪いも験が落ちましたかな?」
「……験が落ちたかどうか、試してみるか?」
「滅相もございません」
 機嫌が悪そうな主の気配を感じたのか、野良丸の喉声が止まる。
「お連れしました」
 庭に通されたのは、紛れもない件の慈円大僧正殿だった。
 もっともあの時のもったいぶった顔ではなく、どちらかと言うと幇間(ほうかん たいこもち ※宴席を盛り上げる一種の芸人)に近い表情を浮かべていた。
「へ、どうも自己紹介が遅れに遅れておりやしたな、久助と申します」
「久助でも九官鳥でもよい……江戸を立てと我が申した言葉は聞こえなかったのか?」
 不穏な仄の目つきに、いつぞやの記憶が蘇ったのか、若干顔色を青くした久助だが、それに耐えて庭に膝を付いた。
「呪いはあの事を喋るな……という事だけだったと思いまして……へぇ」
 ……言われてみれば。
(今宵の事、我の事、他言したら全身から血を噴出して3日3晩苦しみぬいて死ぬ呪いじゃ)
 一同の脳裏に、昨晩の仄の言葉が蘇る。
 確かに江戸を立たねば死ぬとは言ってない。
 それにしても、律儀に解釈して来た物だ……。
「手前生まれも育ちも江戸でございます……ここを離れる位なら」
「死んだ方が増し、と言うなら、希望通り今すぐ引導を渡してくれるぞ」
 ジロリと剣呑な目つきで睨む仄の目線を避けるように、久助は頭を低くした。
「いいいいいえ、そうでは無くてですな……如何でしょう、手前をこちらで使っていただけませんか?」
「……なんじゃと?」
 流石の仄が、久助の言葉の意味を図りかねて由蔵や半七に目を向けた。
「お隠しになっても判ります、こちら公儀の御用のしかも裏の仕事を務める方でございましょう?手前は中々後ろ暗い方面に通じておりますので、色々お役に立てることも有るかと思いまして」
 その言葉に半七の眉が何かに思い当たったように跳ね上がる。
「ははぁ、てめぇか、松吉に眠り薬を周旋しやがったのは」
 その半七の言葉に久助はにやりと笑い返して、暗にその言葉を首肯した。
「つまり何じゃ……えーと何と申した?」
「密偵ですな」
「それじゃ……密偵になりたいと申すか?」
「左様です」
「ふむ……」
 成程、この店を探り当てた事といい、中々どうしてこの久助、全く駄目な騙り坊主では無いらしい。
 それに、確かに陸奥の稼業は公儀と宮廷の裏仕事、久助のような存在が居てくれれば役には立つ。
「手前はどうも騙りには向いておりませんようですので……仄様に言われましたように、別の道を究めてみようかと思いましてまかり越した次第、それに、裏仕事にお誂えに、この仕事の事を口外できない呪いも掛かっております、何卒」
 そして……この怖いお嬢様に、松ちゃんの思いを貫かせてくれた事への恩返しを。
 良くは判らなかったけど、松ちゃんのあんな笑顔を見た以上、あの結末が松吉の幸せだったと久助には信じることが出来たから……。
 そんな思いが伝わったのかどうなのか。
 仄は溜息を一つ吐いて、野良丸を抱いて腰を上げた。
「久助とやら……密偵をやりたいなら好きにせよ、我は面倒事は嫌いゆえ、給金や仕事の相談は由蔵と半七殿と致せ」
 仄の言葉に久助が無言で頭を下げ……そのまま暫く顔を上げなかった。
 それを見ずに、仄は自室に通じる襖を開き、その向こうに消えた。
「……やれやれ、手前どものお嬢様は照れ屋でございますな」
「そこが良い所ですけどね」
 由蔵の言葉におみのが微笑を浮かべる。
 どうもこの家は……変な人間を呼び込む効用でもあるらしい。
 私が今ここに居られるように……
「では只今濯ぎ(すすぎ 足を洗う水)をお持ちしますね」
 おみのの明るい声が、晴れた冬空に抜けていった。


             陸奥斬鬼帖 帖の一「さくら」 閉幕

ログインすると、残り1件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

美少女戦隊メイド7 更新情報

美少女戦隊メイド7のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング