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超流派・ヨーガコミュの母なる神

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「母なる神」(抜粋)

 
※この作品は、シュリー・オーロビンドの作になるものを、山口泰司氏が日本語訳したものを、さらに私が独断で抜粋・リライトしていますので、ご了承ください。





 1

 私たちの努力の目標である、かの大願が成就するのは、下から求める揺るぎない不退転の切望と、それに応えてくださる至高の恩寵とが、一つになって働いたときである。

 しかし、至高の恩寵が働くのは、「光」と「真理」を通してのことであり、「誤り」と「無智」が押しつけた状態を通して至高の恩寵が働くことはない。

 まさにこれが「光」と「真理」の実態なのであって、これより他の状態のもとにあって至高の力が下ることは決してない。
 しかし、「自然」を余裕の態度で扱って、そこで障害をことごとくなきものにしてのけられるのは、上から下り、下から開かれる、まさに超精神の至高の力だけである・・・・・・。
 だがそのとき、必ず必要となるのは、私たちの、心からなる、余すところのない明け渡しの態度であって、神の聖なる力能に向けて己を一途に開いた、ひたすらな態度である。

 この「明け渡し」は、全面的なものとして、自分のありとあらゆる部分を差し押さえたものでなければならない。
 自分の、最も外面的な部分をも含めた一切に、いささかなりとも、ためらいがあったり、疑いや混乱やごまかしなどの陰に隠れる卑怯な未練があったり、はたまた反抗や拒絶の態度があったりしたのでは、断じてならないのである。

 たとえ自分の一部が明け渡しを決めていても、別の部分がためらって、自分流の道を歩んだり、自分流の状態を打ち出したりしたのでは、人はそのたびに、神の聖なる恩寵を、自ら退けることになってしまう。

 献身と明け渡しの陰にこっそりと自分の欲望や自分の利己的要求などを忍び込ませたり、これらをもって嘘偽りなき真の切願の代わりとしたり、混ぜものとしたりしたのでは、それらを「神の聖なるシャクティ」の前に差し出したところで、神の聖なる恩寵を招来して自らを変容させていただくことは、不可能である。

 たとえ「真理」に向けて自分の一面や一部を開いたところで、別の面では、あまたの非真理に向けて、諸々の門を常に開け放したままというのでは、神の聖なる恩寵が自分と共にあることを期待しても、始まらない。そこに神の生きた『お出まし』を望むのであれば、寺院は綺麗に片付けておく事が必要である。

 神の力が介入して「真理」をもたらしてくれても、そのたびにそれに背を向けて、いったん締め出した欺瞞をまた呼び込むというのであれば、非難されるべきは神の聖なる恩寵ではなく、自らの意志の欺瞞性であり、自らの明け渡しの不徹底さである。

 「真理」を求めているのに、自分の内の何かが、偽りと無智と神的ならざるものを選んでしまったり、自分の内の何かが、それらを拒絶しようとしないのであれば、神の聖なる恩寵は、あなたから遠のいていってしまうだろう。まずは自分の内に潜む欺瞞的な点や曖昧な点を突き止めて、それらを絶え間なく退け続けることだ。そのときに初めて、神の聖なる力が降り、自らの変容を遂げることも可能になるのだから。

 神に捧げられた館に、真理と非真理が同居したり、光と闇が同居したり、明け渡しと利己心が同居したりすることが許されているなどと、ゆめゆめ思い描いたりしてはならない。自己の変容は、余すところなきものでなければならず、それ故に、自己の変容に逆らうものの一切の拒絶もまた、余すところなきものではくてはならないからだ。

 自分のエゴの明け渡しを、嘘偽りのないものにすることだ。そのときに初めて、それ以外の一切が叶うことになるのだから。

 至高者は、あなたに向かって自分の明け渡しを求めはしても、それを押しつけたりすることはない。言い換えるならば、あなたは、取り返しのつかない最終的変容がやってくるまでは、自ら神を否定するも神を退けるも、逆に己をむなしくすることも、常に自由なのだ。

 活力なき受動性は、真の明け渡しといつも混同されてしまうが、活力なき受動性からは、力強い真なるものが生まれてくることは、決してない。あらゆる曖昧な影響やあらゆる神的ならざる影響の手の内に易々と下るのは、活力なき受動性によるものである。
 「神の聖なる力」が働いてくださったり、「覚醒した真理の天使」や「曖昧と欺瞞を相手に戦う内なる戦士」や「神の忠実なしもべ」などが手をさしのべてくださるためには、喜んでその助けの手の中に入る「力強い柔順」が、こちらの側に求められるのである。

 まさしくこれが正しい態度なのだから、かかる態度をとってこれを堅持する者のみが、失意や困難に出会ってもめげることのない信仰を保って、至高の勝利と大いなる変成へと至る試練を、敢然と乗り越えることになるのだ。

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 2

 この世でどんなことがおこなわれようと、神は自らの聖なるシャクティを通して、あらゆる行為のかげにいらっしゃる。
 神はまた、自らのヨーガマーヤーのヴェールに包まれて、低次の世界においては、個々の生命体の自我を通して働いている。

 ヨーガ修行においても、サーダカ(修行者)となって働き、サーダナー(成就修行)となって働いているのは、他ならぬ神ご自身である。言い換えるならば、サーダナーを成り立たせているのは、他でもない、それ自身で光と力と純粋なる智慧と純粋なる意識と純粋なる至福をそなえて、精神・生命・身体を乗り物として、その乗り物にこれら聖なる力を注いでおられる、神ご自身の聖なるシャクティなのだ。とはいえ、低次の自然が活発に働いている間は、サーダカ自身の努力はやはり必要である。

 サーダカ自身の努力として必要なのは、切望と放棄と明け渡しという三つのつとめである。

 切望とはすなわち、油断することなく絶えず目覚めている不断の切望のことであり――つまりは、大いなる精神に基づく意志、神への愛から発する追求などのことである。

 放棄とは、すなわち、低次の自然の働き一切を放棄することである。
 つまりは、真智が、静まった精神の内に自由な居場所を見つけられるよう、精神に基づく諸々の観念、意見、好み、習慣、作り事などのすべてを放棄することである。
 またそれは、落ち着きと懐の広さをそなえ、強さと神聖さを併せ持ったエネルギーからなる自己の中に、真の力と喜びが上から注ぎ込まれるように、諸々の現世的な欲望、欲求、渇望、感情、情熱、利己心、プライド、傲慢、卑屈、貪欲、嫉妬、うらやみ、真理への敵意などの一切を放棄することである。
 またそれは、神的なものに向かって絶え間なく成長し続ける身体の中に、永遠なる光と力と至福が確立されるよう、迷妄、疑い、不信、不明瞭、頑迷、卑小、怠惰、変化へのためらいなどの一切を、つまりはタマスを放棄することである。

 明け渡しとは、すなわち、自己をむなしくして明け渡し、自己が自己としているもの、自己が我がものとしているもの一切を明け渡し、意識のあらゆる次元を明け渡し、瞬間瞬間すべてを明け渡すことである。

 自己の明け渡しと奉納が進むにつれて、サーダカは、実は神の聖なるシャクティが、自らサーダナーを行じて、自分の中に彼女自身の一部をますます多く注ぎ込み、自分の内に「神の聖なる本性」が持つ自由と完璧さを据え付けているのだ、とうことに気づくようになる。
 サーダカ自身の努力に取って代わって、このような気づきのプロセスが進むにつれて、そのプロセスはますます速やかなものとなり、いよいよ真実のものとなっていく。
 とはいえ、自己の明け渡しと自己の奉納が、頭のてっぺんから爪の先に至るまで、一点の曇りもない完璧なものとなるまでは、このような気づきのプロセスが、サーダカ自身の努力にすっかり取って代わることはあり得ない。

 忘れてはならないが、自分では諸々の条件を満たそうとせずに、ただ一切を神に肩代わりしてくれと求めるような、怠惰に発するたわけた「自己の明け渡しごっこ」などは、ただの欺瞞に過ぎず、そのような者が自由と完璧に至ることなどは、あり得ない。

 3

 人生における恐怖と危難と災厄から身を守ってくれるのは、常に相携えて進んでいく、ただ二つの事柄だけである。――つまり「聖なる母神の恩寵」と、あなたの側での「信仰と誠実と明け渡し」である。
 あなたの信仰を、純粋でけがれのない、完璧なものとしなさい!
 野心やプライド、見栄や知的尊大をはじめとした、低次の煩悩を満たそうとするエネルギーに基づく、片意地や個人的欲求や卑小な欲望などで薄汚れたものになってしまった利己的な信仰など、天高く燃え上がっていくことのできない、低次のすすけた炎でしかない。
 あなたの生命は、ただ神の道具として与えられたものであり、ひとえに、聖なる神の顕現を助けるためにのみ与えられたものであるということを、よくよく心得ておくことだ。
 神の意識が持つ純粋さ、力、光、大らかさ、落ち着き、至福のみをひたすら願い、あなたの精神と生命と身体を変容して、これらすべてを完全にならしめずにはおけないという、神の意識が示す熱意のみを、ひたすらに求めるがよい。
 超精神的なる聖なる真理のみを求め、その真理が、地上で、あなたの内で、そしてまた呼び出され選び出された者すべての内で現実のものとなることのみを求め、その「真理」が対抗勢力の一切に勝利をおさめることのみを、ただひたすら求めることだ。

 あなたの誠意と明け渡しを、混じりけのない、完全なものにしなさい!
 自らを差し出すときには、あなたの内の一切が「聖なる母神」のものとなり、自我に取っておかれたものなど何もないように、要求も条件も保留も一切なしに、余すところなく完全に自分を差し出すことだ。

 あなたの信仰と誠実と明け渡しが完全なものになればなるほど、恩寵とご加護はますます多くあなたに下るであろう。「聖なる母神」の恩寵とご加護があなたと共にあるとき、あなたを手荒に扱うどんなものが存在しうるというのだろう。その恩寵とご加護のほんのわずかがあるだけで、どんな難事も、どんな障害も、どんな危険も、すべて突破させてくれるだろう。
 あなたが「聖なる母神」の恩寵とご加護に深く包まれていれば、どんな脅威も気にせずに、それがこの世に発するものであれ、それが見えない世界に発するものであれ、どんなに強力な敵意にも一切動かされることなく、自分の道を無事に渡っていけるのは当然である。その道は、実は「聖なる母神」ご自身の道なのだから。
 彼女の恩寵とご加護がひと触れしただけで、ピンチがチャンスに、失敗が成功に、弱さが強さに変貌してしまうのだ。
 「聖なる母神」の恩寵は、至高者からの認可と同じものであり、その成果は今日も明日も永遠に確実で、いったん下された決定はどんなものも、避けることも抗することも叶わぬ不変の決定であるからだ。
  




 4

 お金や富というのも、普遍的な力が目に見える形をとったものであり、本来は神のものである。しかしそれが地上にゆだねられると、他の例に漏れず、低次の自然が陥っている無智を通して、自我のご都合主義のために不法に使用されたり、阿修羅の影響の手に落ちて、悪しき目的に沿うようにゆがんだものにされる危険がある。
 権力、富、セックスは、自我にとって最大の牽引力を持つがために、間違って手にした人にとって、ごく簡単に濫用されてしまう力である。
 単に富を所有する者より、富を追求したり、「保管」したりする者の方が、よりいっそう富にとりつかれていることが多い。
 阿修羅が長いこと握りしめて間違った使い方をしたために、富に刻印されることになってしまったある種のゆがんだ影響を、完全に免れている人はわずかである。だからこそ、修行の道は、ほとんどどんな道であれ、富への完全な自制と無欲を強く説き、富への一切のとらわれの徹底した放棄を強く説き、富を所有することへの利己的な欲望一切の放棄を強く説くのである。
 そのために、お金と富は一切ダメだと言って、貧しい無一文の暮らしこそがただ一つの神聖な状態なのだと宣言する者さえいるが、これは極端な間違った考えである。
 権力を、本来の所有者である神の手に取り戻して、これを聖なる暮らしのために恭しく用いることこそが、サーダカたる者にとっての超精神的な道なのである。
 「富」とは、「母なる神」のために取り出されるべき一つの力であって、彼女にお使いいただくよう供養されるべきものなのだと、ただそのように心得るがよい。

 一切の富は神のものであり、それを手にしている者は、富の所有者ではなく、富を預かっている者に過ぎない。富は今日は彼らの手にあっても、明日になればまた別のところに行ってしまうかもしれない。
 一切は、富が彼らの手に来たときに、その託されたものをどう扱うかにかかっている。つまりは、それを使うときに、どのような精神で、どのような意識を持って、どのような目的のために使用するのかにかかっているのだ。
 お金を個人的に使用するときにも、それによって自分が手に入れたりするものは、すべてが「母なる神」のものだと心得なさい。彼女に何一つ要求することなく、与えられたものを受け入れて、それを、正しい目的のために用いるのだ。神の富の良き預かり手として、どこまでもとらわれなき態度を維持しながら、なおかつ細部に至るまでどこまでも厳正なる態度を貫くように。自分が扱っているのは、自分のものではなく、彼女のものなのだということを、片時も忘れないように。何一つ、自分のものとしたり、彼女の意思に反する目的のために用いたりすることが、あってはならない。

 偏りのない平等の精神、無欲、持つものや手に入れたもの一切を捧げてやまない献身、母なる神のためならばどんなものでも力の限り手に入れて見せるのだという心意気。――これらは、あなたが二つの悪しき極端に染まっていないことの、何よりの印である。

 このように、理想的なサーダカは、神から「貧しい暮らしをせよ」と命令されれば、貧しく暮らしながらも何の不満も覚えず、貧しい暮らしが神的意識の内なる豊かな働きの障害になることはない。
 また逆に彼は、神から「豊かな暮らしをせよ」と命令されれば、豊かに暮らしながらも、富や所有物への欲望や執着に駆られたり、我を忘れた放縦に陥ったり、贅沢な習慣の奴隷に陥ったりすることは、一瞬たりともない。
 彼にとっては、神の聖なる意思こそがすべてであり、神の聖なる至福こそがすべてであるからだ。

 

 5

 神の聖なる御わざの真の道具になろうとするならば、あなたの第一の目標は、欲望と自己中心的な自我からの全面的解放でなければならない。
 人生全体が至高者への捧げ物となり、生け贄となることが、必要なのだ。
 あなたが行為を通して目指すべき事柄はただ一つ、神の聖なるシャクティご自身が自らの営みを営むときの、その顕現の道具につかえ、また自らもその顕現の道具となることである。
 あなたは神の聖なる意識を通して自ら成長を遂げて、ついには、あなたの意志と神のご意思の間にはどんな違いもなく、もはやあなたの内で働く神ご自身の衝動以外にはどんな動機もなく、あなたの内で、またあなたを通して働く神ご自身の意識に基づく行為以外にはどんな行為もない、というところまで達することが、必要なのだ。

 このように力強い「神の聖なるシャクティ」との完全なる合一が可能になるまでは、あなたは自分のことを、彼女に、つまり神の聖なるシャクティご自身に仕えるために創造されて、彼女のために一切を行うようにできている、霊と物質の統一体なのだと心得ておくことが大切である。
 利己的な選択を迫ってやまない緊張、個人的利益をひたすら求める思い、自己中心的な欲望に満ちたギブアンドテイクの意識、そんなものは、すべて根絶やしにしてしまうがよい。実りを要求したり、報いを追求したりすることがあってはならないのだ。あなたにとって実りとは、ただひとえに「聖なる母神」の喜びであり、その御わざの成就であり、そしてあなたにとって報いとは、神の聖なる意識と、寂静と、強さと、至福の内にあって、変わることなく不断に進んでいくことにこそ、あるのだから。
 私心なき働き手にとっては、奉仕の喜びと、行為を通して内なる成長を遂げていく喜びとが、すでにそれ自体、十分な報いになっているのである。

 

 いつか必ず、自分はあくまでも神の道具であって、働き手ではないのだと、強く感じるようになるときがやってくるはずだ。というのも、あなたの献身によって、「聖なる母神」との接触がきわめて親密なものとなるため、いつであろうと、ただ心を集中して一切を彼女の手にゆだねるだけで、何をどのようにしたらよいのか、またその結果どうなるのかについて、彼女からの導きが即刻与えられたり、彼女からの命令や衝動が直々に与えられたり、彼女からの指示がハッキリと疑う余地のない形で与えられたりするようになるからである。
 またその後、神の聖なるシャクティは、単にあなたの行為を鼓舞し、導いているだけではなく、あなたの行為を自ら開始し、自ら遂行してもいるのだと、あなたはハッキリと気づくことだろう。
 つまりあなたの活動はすべて彼女から始まっているのであり、あなたの力はすべて彼女の力なのであり、あなたの精神・生命・身体は、物理的世界の中で彼女の行為を自らおこなう、喜びに満ちた意識ある道具なのであり、彼女の戯れを自ら戯れる、喜びに満ちた意識ある手段なのであり、彼女の顕現を自ら成就する、喜びに満ちた意識ある鋳型であるのだ。
 このような統一と依存の状態にまさる幸せな状態は、他にはない。
 このステップは、あなたが無智ゆえの緊張と苦難に満ちた人生を脱して、自らの真の本性へと立ち返り、その深い安らぎと至福へと立ち返るときの、その境界線を越えさせてくれるからだ。

 こうした変容が遂げられている時に、いつにもまして必要になるのが、自我の倒錯を示すどんなけがれにも染まらぬよう、厳しく自己の身を律することである。そこに何かエゴの要求や主張を忍び込ませることによって、せっかくの純粋無垢な献身と犠牲に、シミをつけたりすることがないように。
 自らの行為やその結果には、一点の執着もあってはならず、あなたを我がものとしてくださる神の力を逆に我がものにしようと求めたり、プライドや虚栄や高慢にとらわれたりすることは、いささかたりともあってはならない。
 あなたの信仰と、あなたの誠実と、あなたの純粋な懇願は、存在のどのような次元においても、どのような層においても、常に絶対的で滞りなきものであるように。そうすれば、混乱をもたらすどんな要因も、歪みをもたらすいかなる影響も、あなたの本性から次第に脱落していくはずである。

 こうした完成の最後の段階がやってくるのは、あなたが「聖なる母神」に完全に同一化して、もはや自分は、「聖なる母神」とは別の一個の独立した存在であるとは感じなくなって、自分のことを、「聖なる母神」の真の子供にして永遠の分身なのだと感じるようになった時である。
 「聖なる母神」はどんなときにもあなたの中にいらっしゃり、あなたはどんなときにも「聖なる母神」の中にいる。自分が考え、眺め、おこなうことの一切、自分が吐く息・吸う息の一切、自分の一挙手一投足が、実は「聖なる母神」からやってくるのであり、実は「聖なる母神」ご自身のものであるのだというのが、あなた自身の、一貫して変わることのない、単純で自然な経験となるはずである。
 あなたは自分が、「聖なる母神」ご自身の内から「聖なる母神」ご自身によって形成された人物にして力なのだということを、自ら悟り、眺め、感じるようになるはずであり、そしてまた、自分が、彼女の内から、神ご自身の遊戯(リーラー)のために取り出された存在でありながらも、彼女の存在から生まれた存在、彼女の純粋意識から生まれた意識として、また彼女の力から生まれた力、彼女の至福から生まれた至福として、彼女の内にあって常に安全に守られているのだということをも、自ら悟り、眺め、感じるようになるはずである。
 このような状態が完全なものとなって、「聖なる母神」の超精神的エネルギーがあなたを内側から自由に動かすことができるようになった時、あなたは初めて、神の聖なる御わざを通して完璧な存在となるのである。叡智も、意志も、行為も、すべては「至高者」からの流出として、「永遠の存在」ご自身の聖なる運動として、確実にして単純な、のびのびとしてキズのない、どこまでも光り輝くものとなるはずである。


 6

 母なる神は、唯一者であるが、様々に異なった様相をもって、私たちの前に立ち現れる。どんなに俊敏な精神をもってしても、唯一者である彼女の動きを追うことは不可能である。母なる神は、至高の至福者の意識にして力であり、自らが創造したもの一切を遙かに凌駕している。とはいえ、彼女の様々な具現者を通して、彼女のたどる道をいささかなりともうかがい知ることは不可能ではない。また、彼女のたどる道は、彼女自身が自らの被造物に向かって自分を明らかにすることに同意しているところの、女神という形態が示す気質や行為が、それだけ狭く限定されたものとなっているために、その分だけ把握しやすいものとなっている。

 母なる神には、超越・普遍・個別という三つの存在の仕方があるのであるが、それらについては、私たちが、私たち自身と世界を等しく根底で支えている「意識ある力」に、まざまざとした一体感を覚えるようになった時に、初めて気づくようになる。
 
 一つ目は「超越的な存在の仕方」である。母なる神は、至高の根源的シャクティとして、諸々の世界を超えて存在し、天地万物を至高者の神秘に結びつけている。

 二つ目は「普遍的な存在の仕方」である。母なる神は、普遍的かつ宇宙的なマハーシャクティとして、すべての存在者を創造し、無数のプロセスと力のすべてをその懐に収めながらそれらの中に入り込み、それらすべてを支えながらそれらすべてを指揮監督している。
 
 三つ目は「個別的な存在の仕方」である。母なる神は、上記の二つの存在の仕方が持つ力を一身に具現したものとして、私たちに身近な生命あるものとして現れることによって、神の本性と人間との仲立ちをしている。


◎超越的な存在の仕方

 母なる神は、唯一の根源的・超越的な聖なるシャクティとして、諸々の世界を超えて存在し、自らの永遠の意識の内に至高者を抱えている。
 彼女は唯一者であって、自らの内に「絶対の力」と「言語を絶する威厳」を宿している。
 彼女は、顕現すべき諸々の真理を自らの内にふくんだり、自らの内に呼び寄せたりしながら、それらが隠されている神秘の領域から、自らの永遠の意識よりなる光の領域へと、それら諸々の真理を引き下ろして、自らの全能の力と永遠の生命を通して、それらに力の何らかの形態と身体を与える。
 至高者は、彼女の内にあっては、不朽のサチダーナンダとしての姿、すなわち「真理の実在にして純粋智性、純粋智性にして至福なるもの」としての姿を永遠に明かしつつも、諸々の世界の内にあっては、彼女を通して「イーシュワラ・シャクティ」という一にして二なるものたる意識として、また「プルシャ・プラクリティ」すなわち「超自然的主体にして自然的客体なるもの」という二重の原理として顕現され、かくして至高者は、彼女によって諸々の世界と諸々の次元の内に、またすべての神々とそのエネルギーの内に具現され、彼女の故に、諸々の既知なる世界と諸々の未知なる世界の内に存在するすべてとして形象化されるようになる。
 一切は彼女と至高者の戯れなのであり、一切は「永遠者」が示す神秘と「無限者」が宿す奇跡の、彼女自身による顕現なのである。一切万物はすなわち彼女自身であり、神の聖なる「意識ある力」の一部なのだ。一切万物は、彼女が至高者に動かされて感知した後、自らの創造の行為を楽しむ「至福(アーナンダ)」を通して種子の中に投げ入れて形成したものなのである。
◎普遍的な存在の仕方

 普遍的な「母なる神」たるマハーシャクティは、己の超越的意識を介して至高者から引き継いだものならどんなものでも現出させては、自らの作った諸々の世界の中に分け入っていく。彼女は、自らのおのずからなる威厳を支えにして、それらの世界に、それら自身の存在理由たる、神の聖なる魂と、一切を維持する神の聖なる力と喜びとを、みなぎらせる。
 私たちが「自然」とか「プラクリティ」と呼んでいるものは、彼女自身の最も外側にある執行的局面のことである。マハーシャクティは、己の繰り広げる諸々の力とプロセスが織りなす調和を自ら陣頭指揮しては、「自然」の諸々の営みに命令を下し、時には密かな、時には明らかな姿を取って、およそ目に見えるもの一切、およそ体験されるもの一切を通して、それらの間に分け入っていく。諸々の世界のどの一つも、世界や宇宙のそれぞれのシステムを巡って営まれる、マハーシャクティご自身の戯れでしかない。そこにあってマハーシャクティは、超越的な母なる神ご自身の、宇宙大の魂および人格として存在しているのである。それらのどの世界も、彼女自身が自らのヴィジョンを通して眺めた後、己の心の美と力の核心へと取り集めては、自らの至福(アーナンダ)を通して創造したところのものに他ならない。

◎個別的な存在の仕方

 しかし、マハーシャクティの創造には多くの次元が存在し、神の力には多くの歩が存在している。私たちがその一部を占めているこの顕現の頂点には、無限の実在と無限の意識と無限の力と無限の至福をたたえた様々な世界が存在していて、母なる神ご自身が、ヴェールを脱いだ永遠の力として、そこに君臨している。そこでは一切が、言語を絶するほどの完全性と、不変の統一性のうちにあって、生命あるものとして活動しているのであるが、それは、彼女がそれら一切を己の腕に抱きかかえて、永遠に守っているのである。
 また、私たちにいっそう身近なところには、超精神に基づく完全な創造を示す諸々の世界が存在しており、そこでは母なる神が、自ら超精神と化したマハーシャクティとして、完璧な自在さをたたえながらも決して誤ることのない営みを通して、神の聖なる全智の「意思」と、神の聖なる全能の「叡智」とから成る自らの力を、一挙手一投足ごとに、間断なく明らかにしている。そこではすべての動きが真理の歩みとなっており、一切の存在が、神の聖なる光の、魂にして力、力にして身体となっており、一切の経験が、強烈な絶対的至福の、海にして海流、海流にして波となっている。
 しかしここ、私たちの住むところは、精神と生命と身体が意識を通してそれぞれの源泉からバラバラに切り離されてしまった世界として、迷妄が支配する多元的な世界となっており、この地球が一つの重要なセンターとなり、そこにおける進化が一つの決定的なプロセスとなっている。
 とはいえ、この地球もまた、自らに固有の暗さと戦いと不完全性を抱えているにもかかわらず、やはり普遍的な「母なる神」は、迷妄が支配するこの精神と生命と身体の世界をあまねく統べるマハーシャクティとして、自ら一つの中間的次元を介して、二つの次元を仲立ちしている。その一つは、ここ地上にひきおろされるべき、超精神に基づく光、真の生命、真の創造の次元であり、もう一つは、いったんは「物質」の無智の中に消えた後、やがて生命と魂と精神の開花をたどって、再び魂の無限性へと立ち返っていくはずの、降下と上昇の二重のはしごで構成されているように見える意識の階層的次元である。
 そこで彼女は、これら低次の世界に、自らの多様な力と精神の一部を流出させて、そうした世界の循環に、介入と支配、戦いと征服、指導と転換を重ねて、様々な力からなるそうした世界の、全体的な方向と個別的な方向の両方を指揮・監督するのである。
 これらの「流出」の多様な様相は、古来人々が様々な名前で「母なる神」を崇拝してきたときの、神の聖なる多様な形態と人格に相当している。
 母なる神はまた、主・イーシュワラのヴィブーティを明らかにすべく、超物理的世界において神々の様々な精神と身体を準備し、また形作っているときにさえ、物理的世界の中でも、人間の意識にこと寄せて、自分の力と性質と威厳とが放つ威光を少しでも明らかにしようと、こうした力とその流出を通して、己のヴィブーティから諸々の人間的精神と身体を準備し、また形作っているのである。

 母なる神は、高みから一切を治めるだけではなく、この、よりささやかな精神・生命・身体の世界にまで、自ら下っても来られるのである。
 非人格的側面に限っていえば、ここでは一切が、迷妄の働きまでもが、シャクティのヴェールをまとった彼女自身なのであり、縮小された質料となった彼女自身の創造物なのであり、彼女自身の「自然という名の身体」なのであり、彼女自身の「自然という名の力」なのである。そして一切が実在するのは、彼女自身が、そこ、「無限者」の諸々の可能性の中にあったものを成就するようにという「至高者」の厳命を受けて、自ら大いなる犠牲を払うことに同意したからに他ならず、自ら迷妄の魂と形を仮面のようにまとうことに同意したことに他ならない。
 しかしまた同時に、人格的主体としては、「大いなる母神」は、闇を光に導こうと、自ら身をかがめてこの闇の中に下り、「偽り」と「誤り」を「真理」に転換しようと、自ら身をかがめてこの「偽り」と「誤り」の中に下り、己自身の崇高なる至福の、一切を変容させる恍惚を通して、世界の苦しみに終止符を打とうと、自ら身をかがめてこの苦しみと悲しみと苦難の中に下ってこられたのである。
 彼女は、己の子供たちへの深く大きな愛を通して、この定かならざる暗闇という衣をまとうことに自ら同意し、闇と偽りの勢力からの攻撃と試練に耐えることに自ら同意して、それ自体が死である誕生の門を自ら苦しみに耐えてくぐり抜け、天地万物の苦悶と悲しみと苦難を自ら身をもって引き受けたのである。
 そのようにしてこそ、天地万物は初めて「光」と「喜び」の世界へと引き上げられ、「真理」と「永遠の生命」の世界へと引き上げられるからだ。
 これは、時として「プルシャの犠牲(生け贄)」と呼ばれることもあるが、より深い意味においては、これはまさしく「プラクリティの生け贄」に他ならず、「聖なる母神の犠牲」に他ならない。
◎母なる神の四つの偉大な相

 母なる神がこの世を導き、地上の遊戯(リーラー)を扱うに当たっては、ご自身の四つの偉大な相が、その主要な力および人格として前面に立ってきた。
 その一つは、悠然とした落ち着きと、一切を包み込む懐の深い叡智と、物静かで穏やかな優しさと、尽きることのない深い哀れみと、超然たる威厳と、あまねく一切を支配する偉大さを併せ持った、その叡智あふれる相である。
 二つ目は、輝かしい強さと抗しがたい情熱とに満ちた力と、戦士としての気概と、圧倒的な意志と、風のごとくに迅速な動きと、世界を震撼させるほどの力とを一身にそなえた、その毅然たる相である。
 第三には、美と調和と微細なリズムとをたたえたその深い神秘と、複雑にして微妙なる華麗さと、人を感動させずにはおかない魅力と、えもいわれぬ気品とが醸し出す、生き生きとして調和ある見事な相である。
 そして第四は、何事につけても、詳細な叡智と、周到にして非の打ち所のない仕事ぶりと、控えめながらも厳密無類の完璧さを示さずにはおかない、その綿密にして深遠きわまる完璧な技量である。
 これら「叡智」と「力強さ」と「調和」と「完全性」が、「母なる神」の主要な力と相に見られる属性の一例で、まさしくこれら主要な力が、それぞれのヴィブーティを通して、人間の姿にこと借りた神格としてこの世にもたらされると、今度はその同じ力が、母なる神の生きた直々の力に向けて己の地上的本性を開くことのできる人たちのうちで、それぞれヴィブーティが下った聖なる程度に合わせて、揺るぎなきものとして確立されていくのである。
 私たちはこれら四つの属性に、マヘーシュワリー(偉大なる自在な叡智の女神)、マハーカーリー(偉大なる力の女神)、マハーラクシュミー(偉大なる美と調和の女神)、マハーサラスヴァティー(偉大なる完全性の女神)という、四つの偉大な名前を与えている。


◎マヘーシュワリー(偉大なる自在な叡智の女神)

 至高にして最大なる叡智をそなえた女帝、すなわちマヘーシュワリー(偉大なる自在な叡智の女神)は、思考を持って事とする精神や意志を超えたところに泰然と構えて、精神と意志を高貴なるものたらしめることで、これらを度量の大きな叡智へと育て上げたり、これらの上に自らの栄光をなみなみとそそいだりしている。
 それもそのはず、このお方は、力強くも叡智あふれるお方として、私たちを、超精神の光彩陸離たる無限の世界と、広大果てなき宇宙大の世界とに向けて開きたまい、私たちを、至高の光が放つ壮麗無類の輝きに向けて、また奇跡に満ちた叡智の住まう館に向けて、さらには母なる神の永遠の力が繰り広げる無限の運動に向けて、広くあまねく開きたまうお方であるからだ。
 このお方は、驚くべき落ち着きをたたえて、悠然とした態度を、変わることなく永久に保持している。いかなるものも彼女を動かすことができないのは、彼女がありとあらゆる叡智をそなえているからだ。彼女が知ることができないものなど何もない。彼女は一切の事柄と、あらゆる存在と、それらの本性とを、ことごとく熟知し、それらを動かすと共にこの世の法則とこの世の時間をも動かしているものが何であり、それら一切が過去においてどのようであったか、そして現在どのようであるのか、さらにはそれら一切が将来どのようなものとなるはずなのかを、ことごとく熟知している。
 彼女の内には、一切に対処し一切を支配する力があるため、彼女自身の広大にして触れることさえかなわぬ叡智に逆らい、彼女自身の気高くもその落ち着き払った力に抗しうるものなど、結局のところ皆無である。
 彼女は辛抱強く偏りのない、その不退転の意思をもって、人々をそれぞれの本性に従って扱い、物事と出来事をそれぞれの力と、それらの内に潜む真理に応じて扱う。
 彼女は、偏愛とは一切無縁なところで、ただ至高者の命のみに従って、ある者は引き上げる一方で、ある者は投げ倒し、ある者は闇の世界に投げ捨てる。
 叡智ある者にはより大きな叡智とますます光り輝く叡智とを与え、神のヴィジョンを抱く者にはこれを己の顧問団に取り立て、神に敵対する者にはその敵意の帰するところを身をもって知らしめ、迷妄にして愚かなる者は、その迷妄の度合いに応じてこれを導く。
 彼女はいかなる人にあっても、それぞれに異なる諸々の要素に固有な要求および衝動に応じて、それぞれに相応しい扱いをし、それらに相応の緊張を負わせたり、それらの無智を増大させるような繁栄に導いたり、それらを絶望の淵へと導いたりする。というのも、彼女は一切を凌駕し、いかなるものにも縛られず、この世の何ものにも執着を持たない存在であるからだ。
 だがそれでいて彼女は、他のいかなる者にも増して、あまねく一切に及ぶ普遍的な「母なる神」の心根をそなえている。彼女の慈愛は絶えることなく、汲み尽くすこともできない。彼女にとっては一切が彼女自身の子供であり、唯一者の互いに異なる部分でしかない。彼女が拒絶を示すときも、それは一つの延期に過ぎず、彼女の与える罰でさえ、それは一つの恩寵でしかない。
 とはいえ、彼女の慈愛が、彼女の叡智をくらませたり、彼女の行いを外させたりすることは決してない。それは「真理」こそが彼女の関心であるからであり、「叡智」こそが彼女の力の原点であるからであり、私たちの魂と本性をもろともに真理へと建て替える事こそが、彼女の使命にしてつとめであるからだ。

◎マハーカーリー(偉大なる力の女神)

 マハーカーリー(偉大なる力の女神)は、また別の性質を持っている。広やかさではなく高さこそが、叡智ではなく力と強さこそが、彼女に固有な力である。
 彼女は自らの内に圧倒的な強靱さを蔵し、成就されるべき力への強大な情熱を秘め、あらゆる限界と一切の障害を怒濤のごとく粉砕してやまぬ、神の聖なる暴力を隠し持っている。
 彼女の神格はすべて、栄光の嵐のように激しい行為を通してほとばしる。彼女はそこにあって、迅速さを目指し、速効的プロセスを求め、素速く直接の一撃を目指し、眼前に立ちはだかる一切を一蹴してのける正面攻撃を求める。
 彼女のお顔は阿修羅にとってさえ恐ろしく、彼女は神を憎む者どもすべてに対して容赦ない。というのも彼女は、戦うことにかけてはひるんだりすることの決してない、諸々の世界を守護する戦士であるからだ。
 彼女は、どんな不完全をも容赦せぬ者として、人間の内に潜む意気地なさにはどんなものにも手荒く当たり、迷妄と不明瞭の内に頑迷に立てこもる者には厳しく当たる。裏切り、欺瞞、怨みなどに対する彼女の怒りは、間髪を入れぬ、陰惨にして苛烈なものである。悪意などは、瞬時にしてたたきつぶされてしまう。神の使命を遂行するに際して、無関心、投げやり、ものぐさなどが見られようものなら、黙ってはいない。寝ぼけ眼のうっかり者や、やる気のない怠け者には、必要とあらば鋭い痛みをもって直ちに強打する。
 歯に衣を着せぬ迅速にして率直な衝動こそ、遠慮のない絶対的な運動こそ、炎となって燃え上がる高く切なる願いこそが、マハーカーリー(偉大なる力の女神)の身上なのだ。彼女の毅然たる精神は、決して懐柔することのできぬものであり、彼女の高く遙かなヴィジョンと意思は、大空を飛ぶ鷲の飛翔のごときものであり、彼女の歩みは足早に高みを目指す。
 そして彼女の両手は、衆生を打ち据え、助けださんと、いっぱいに広げられている。というのも彼女は「母なる神」でもあるからであり、彼女の愛は強烈なものであり、深く情熱的な優しさを、一人胸に抱いているからだ。
 彼女が力をもって介入するときには、障害や、道を求める者に襲いかかる敵などは、あっけなくバラバラにされてしまう。
 彼女の怒りが、敵対者達には恐ろしく、彼女の激烈な励ましと強制が、軟弱な臆病者達には苦痛なものであっても、彼女は、偉大な者たち、強靱な者たち、高貴な者たちからは、愛され、あがめられている。それは、彼らが次のように感じているからに他ならない。すなわち、彼女の強打こそが、自分たちの不完全な真理を激しく打ち据えて、それを力強く完全な真理へとたたき直してくれるのであり、彼女の強打こそが、ねじれてゆがんだものをまっすぐに打ち直してくれるのであり、彼女の強打こそが、不純なものや欠陥のあるものをたたき出してくれるのだ、と。これらが彼女にとってそれらは一日でなし得るものであっても、私たちの力だけでは何世紀もの年月を要したであろう。 
 彼女は、叡智には揺るぎのない圧倒的な力を与え、美や調和にはそれらをより高める動きをもたらし、時間のかかる難しい作業にはそれを短縮してくれるような弾みを授けてくれる。至高のエクスタシーはこの上もなく高まる。
 彼女と「至高者の勝ち誇った力」は常に一体であり、後からではなくまさに今ここで、偉大な業績が成し遂げられるのだとしたら、それは他でもなく、彼女すなわちマハーカーリー(偉大なる力の女神)の、瞬時にしてメラメラと燃えさかる、炎のような情熱のおかげなのである。
 聖なる母神は、まだ他にも、偉大なる相をそなえておられるのではあるが、それらを地上に引き下ろすことはいっそう難しく、それらがこの世の魂の進化を通して際立った姿をとって前面に出たことも、まだない。こうしたその他の相の内には、超精神が地上に顕現するのに不可欠な威風が存在しており――特に、至高者の愛から流れ出す、かの神秘的で強烈な至福(アーナンダ)という名の性格こそが、その一つである。
 そしてまた、超精神が支配する世界の至高の高みと、物質界の最低の深淵との間にまたがる亀裂を癒すことができるのも、この至福(アーナンダ)をおいて他にはなく、まさしくこの至福(アーナンダ)こそが、素晴らしくも、神のこの上もなく聖なる命に至る鍵を握り、今でもそれ自身の奥処から、この世のその他諸々の力の営みを支えているのである。
 しかし、自我にとらわれた、暗く不透明で、限界のある人間性には、そうした大いなる威風を受け入れたり、それらの力強い行いを受け止めたりするだけの資格はない。それどころか、母なる神の四つの偉大な相、つまり四大女神が、変容を遂げた精神と生命と身体のうちに、神々に相応しい調和と自由をたたえた働きを基礎づけた時に、その他の力たちも、地上の運動を通して姿を現すことができるようになって、超精神に基づく行為も可能になるのだ。
 言い換えるならば、母なる神の様々な相が、彼女を通して一つに集められてハッキリした姿をとり、それぞれのバラバラだった営みが調和のある統一に変じて、それらの相が彼女を通して超精神に基づく独自の神格たちにまで高まった時、母なる神ご自身も、超精神そのものたるマハーシャクティとしての姿を明らかにして、自らの光り輝く超越的性質たちを、その形容を絶する世界から、地上にそそぎもたらすのである。
 そしてそのとき、人間性もまた、神の聖なる力動的性質へと変貌することが可能になるのだ。それは、超精神に基づく「真理の意識」と「真理の力」を芯から支える弦が、欠けることなくすべて張り渡されて、生命のハープが「永遠なるもの」のあらゆるリズムを刻むに相応しいものとなるからである。

 もしもあなたがこのような変容を切に望むのならば、アラ探しをしたり抵抗したりするのはやめて、自分を母なる神の手と力にゆだね、彼女がその御わざをあなた自身の内部でのびのびとされるにまかせることだ。
 そのとき、あなたが心に止めておかねばならないことが三つある。それは、十分に意識していること、柔軟であること、そして一点の保留もない全面的な明け渡しとである。
◎十分に意識していること

 というのも、あなたは、自分の精神と、魂と、心と、生命と、まさに体の細胞そのものを通して、意識を十分に保ち、母なる神の存在と力と御わざに、いつも気づいていることが必要であるからだ。

◎柔軟であること

 あなたの本性は、彼女からの接触に対してはどこまでも柔軟であることが必要で、自らに自足して悦に入っている迷妄なる精神が、疑問と疑いと論争にふけって、己の開眼と変化を目の敵にしているときのように、いたずらに疑問を呈することがあってはならない。
 また、あなたの本性は、人間の内で働いている生命なるものが、神の聖なる威光のことごとくに対して、自らの手に負えない欲望や悪意をもって一貫して対峙しているときのように、それ自身に固有な運動に闇雲に固執することがあったりしてはならない。
 また、あなたの本性は、人間の物理的意識が自ら障害となって、狭い暗闇の歓楽にしがみついては、魂を欠いた決まり仕事や、緊張を欠いたものぐさや、無気力なまどろみなどをすべてかき乱してしまう神の聖なるひと触れに、いちいち反逆の叫びを上げているときのように、自らが障害となって、行為不能と、惰性と、タマスの中にむなしくはまり込んでいることがあったりいしてはならないのである。
 
◎全面的な明け渡し

 あなたの内面・外面を含めた存在全体をあげての一点の保留もない全面的明け渡しこそが、その柔軟性をあなたの本性のあらゆる部分にくまなく浸透させてくれるはずで、意識は、上から下る叡智と光とに向けて、力と調和と美と完全性とに向けて、常に開かれたままでいることを通して、あなたのいたるところで、自ら目覚めに至るはずである。身体でさえもが自ら目覚めて、ついには己自身の意識を超精神の支配する超意識的な力にまで結びつけては、かの力が自分の上からも下からも、そして周辺からも、様々な形で一斉に浸透してくるのを覚えて、至高の愛と至福に触れる喜びに打ち震えるはずである。
 

 しかし、超越的な事柄さえをも、自分の規範や基準に従わせたり、自分の狭い思索や誤った印象に従わせたり、自分の底なしの攻撃的な迷妄に従わせたり、自分のつまらない知識に得意になって従わせたりすることが大好きな、あなた自身のささやかな地上的精神によって、「聖なる母神」勝手に理解したり判断することがないよう、くれぐれも気をつけることだ。その半分にしか光の射していない薄暗い牢獄に幽閉された人間の精神には、神の聖なるシャクティの歩みがそなえている多面的な自由についていくことなど不可能である。彼女のヴィジョンと行為の、迅速で複雑な様々が、人間精神のよろよろとしたおぼつかない理解力をうわまっている上に、彼女の運動を支える尺度も、人間精神をさせる尺度とは別のものであるからだ。
 彼女の多くの異なった人格が目にもとまらぬ速さで次々に入れ替わっていく様に当惑し、彼女が様々なリズムを刻む一方でそれらを乱していくさまに当惑し、彼女がスピードを次々に上げる一方でスピードを次々に遅らせていくさまに当惑し、彼女があれこれの問題を多様な仕方で次々に扱っては、今この方針を取り上げたかと思うと次にはまた別の方針を取り上げ、さらに気がつけば今度はそれらを一緒に取り上げているといった様子に当惑して、自分が迷妄の迷宮を抜けて天上の光の世界に向かってくるくると旋回しながら押し上げられているときにも、人間の精神は「超精神の力」のやり方を認識することがないのである。
 彼女に対しては、あなたの精神ではなくむしろあなたの魂を開いて、魂の本性によって彼女を感じ、魂のヴィジョンで彼女を眺めるべきである。ただそうした態度のみが、真理に対して素直に反応できるのだから。そうすれば、母なる神ご自身が、あなたの心と、あなたの生命と、意識を、すべて目覚めさせてくれ、それらに対しても、彼女自身のやり方と本性を顕わにして見せてくださるはずである。

 また、どんなときにも、神が全智・全能であることについてのお粗末な表面的疑念を持ってはいけない。
 私たちの迷妄なる精神は、およそ奇跡的な力や、簡単に得られる成功や、目もくらむような栄光などがないと、この場における神の存在が信じられない。しかし母なる神は、自ら迷妄の場に身を置いて、迷妄に対処するのであって、彼女は今もここにすでに降り来たっているのである。彼女は自らの叡智と力に一部ヴェールをかけたり外したりしながら、地上の自然の方法にあえて従うことで、逆にそれらを変容させようとするのである。
 私たちの人間的自然は、それを遙かに超えた領域にまでいきなり引き上げてもらうには、あまりにもか弱く、あまりにも自覚に欠けているのである。
 「神の聖なる意識」と「神の聖なる力」はすでにここにあり、今なすべきことをひたすら行い、定められたステップを常に踏んでは、不完全性のただなかにあって、完全性を形作っていくのである。
 しかし母なる神は、超精神があなたの内に降りたそのときに限って、自ら、超精神の支配する「聖なるシャクティ」ご自身として、様々な超精神的自然に直々に対処することができるのである。
 あなたがただ自分の精神に従うのならば、母なる神があなたの前にハッキリ姿をあらわしても、あなたの精神が彼女を見分けることはできないだろう。だから、あなたの精神にではなく、あなたの魂に従うのだ。表面的な見かけに飛びつく精神ではなく、真理に応える魂に従うのだ。あなたの内なる「神の聖なる力」を信頼するのだ。そうすれば、母なる神があなたの内なる神のごとき要素をことごとく解放して、それらすべてを「神の聖なる本性」の一つに仕立て上げてくれるはずだ。
 
 超精神に基づく進化こそが、我々に定められたことである。しかし、そうした進化がやっと始まって形をとり、さらに持続していくためには、いざ「光」がやってきたときに、それを拒むのではなく、かえってそれを「光」と認めて行こうとするような、下から呼び求める声が必要なのであり、そしてまた「超精神」による上からの認可が必要なのである。
 この認可と懇願を仲立ちする力こそが「聖なる母神」なのだ。母なる神の力のみが、蓋をもぎ取ったり、覆いを引き裂いたり、器を形作ったりすることで、曖昧と誤りと死と苦難からなるこの世に、神の聖なる真理と光と命と、不死の甘露の至福とを引き降ろすことができるのである。

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