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戦国軍記研究コミュの伊束法師物語注解・2

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   参州岡崎与駿府一味の次第

 徳川四郎源廣忠公と申奉り、三河国岡崎の城に居住し玉ふなり。然るに御一門の内に松平蔵人亮は大身にて我侭の人也。以後に於ては果して逆心有べきかと見へ申に依て、駿河の今川義元へ御名代に越され、其後吉田邊まで帰路の所に御使者を以てかさねて岡崎へ入り申まじくと訴也。依是下等下々の者、日ごろ懇志の輩まで岡崎をこえ出ける。然るに針崎の勝萬寺は乱好不入の寺なれば、これへ皆々引篭る也。去間蔵人亮は駿河へ参り、義元を頼み岡崎へ毛頭逆心なき通り被申に付、駿河より右の旨趣岡崎へ再三使者あり。廣忠公より御返答には蔵人亮舎弟両人迄病死致し、名跡いかが有べきと存る砌、某に是非の沙汰もなく私に支配致し、其跡を絶し申に、此うへは重て岡崎へ帰参の事はなる間敷きと有ければ、義元も此上はとくとく取合なくは、夫より蔵人亮は尾張国へ牢人して織田備後守を頼みて本意を遂べきとて、平手中務大輔を以被申旨趣は、西参河に於て覚の士共数多召具し牢人申也。あはれかかへ置るるに於ては三河国は所生の義なれば輙く切取御手に入申べしと云々。織田備後守聞て此度参州よりの牢人みな相拘らるべきとて五十余騎召出し、扶持方馬の飼料以下迄給はる也。それより岡崎の城に差向ひ方々に附城を拵へ右の牢人衆を先手として働なり。岡崎の砦には松平蔵人亮、上和田の砦には松平左衛門尉、此両人に備後守古参の衆を相加へ在番致さしめて岡崎領分方々へ押入、或作毛をなぎ捨、或民屋を放火致す事日夜の境もなく尾州より取詰らるる也。去程に岡崎にては僧俗百姓に至る迄難義に及び、各さし集りて評談有けるは、かやうに取詰らるるに於ては岡崎一分として戦ひ叶ひ難き儀也。駿河へ申寄、今川義元より加勢を申受、上和田、岡野の両城を討破り、其上に尾張の国へ先手を出し、丹下、中嶋、其外の城々を攻破申に於ては岡崎領分全かるべしと各評談有る也。廣忠公聞召御納得有て駿河へ石川安藝守、天野甚右衛門を御使者として被遣ける。両使則義元の家老葛山播磨守、岡部次郎兵衛、泰源和尚三人に右の旨趣を申渡しける。則義元へ被遂披露ける処、各評談有て返答には岡崎より承る如く駿河より加勢の事は不及申、領内三ケ国の軍勢を以て尾州表へ出張すべし、岡崎衆尾参の境目等兼て案内の義なれば最先手有べし、於其義は此当方へ證人を可給と有ける。両使承て岡崎に帰参申。義元よりの返答の通り委細に申上る也。然して竹千代殿六つの御とし、駿河へ證人として天文十六年丁未八月二日岡崎を出させ給ひける。御供の衆には平岩七之介、平岩助右衛門、阿部善九郎、同新四郎、榊原平七郎、天野又五郎、村越平三郎、江原孫三郎、其外雑兵五十余人にて西の郡より船にめし、吉田に着せ玉ふ処に塩見坂に仮屋を立、戸田弾正待申、御馳走申。扨又某が館へよせ可申とて頻りに申され、田原へ御供申、戸田弾正処へ着座なされける。此処の城主は弾正は廣忠公の今の御舅にてましませば、御餉残所なき次第也。爰に森の平太とて、父は元来岡崎のもの成しが事の子細有て牢人致し、いまは尾張国に参り林佐渡守を頼み居けるが、古主の筋目を存じ、今度竹千代殿御供衆へ黄昏に忍び来て申は、いかに各駿河へ證人と有て御供なされ候や、乍恐申上たき事あり。戸田弾正御縁者の好みを忘れ逆意を含み、尾州の織田備後守方へ内通被申越趣は西参河岡崎の城主廣忠の子息を駿河へ證人に被〔指〕越也。義元領内、駿河、遠江、参河、三ケ国の軍勢を以て尾張国へ出張し、所々の城郭を攻亡すべしと駿河へ被申合しを田原に留置申也。無左右駿河へ参着申たるに於ては、忽御領分へ難義出来可申也。扨又此證人を尾張国へ引きとられたるに於ては参河国は程なく御手に入べし。於其儀は東三河[吉田]は戸田が私領に預るべし。納得しましまさば計策を以て件の人質を尾州へ可相越と弾正方より申来るに付て、織田備後守願ふ処の幸と悦び、忽引取べきとて、林佐渡守、岩室長門守両人を田原へ遣はしける。戸田弾正方へは五百貫の礼物を贈らるる。是当座の祝儀也。果して参州安堵の上は東三河残らず被相渡べきとの兼約也。それに付て尾州よりの両使は当城二の丸に宿居申也。明日未明には船にて熱田表へ送り可申とて大船二艘迄用意致し候也。一艘には證人を供奉してめさせ申べし、一艘には尾州より参られたる使衆、林佐渡守、岩室長門守御跡に乗られ警固有べしと議定申也と密かに告知らせて其身は佐渡守が宿所へ帰る也。御供の衆、此由を聞て戸田弾正殿は既に御舅にて御息女は岡崎にましませば如何で歟左様の逆意は有べき、告知らする事の虚言たるべしと皆一同に申ける処に漸五更の天も明ゆく頃、戸田弾正は中の亭に出られ、いかに供の衆波風も閑なる也。船にめされよと有ける処に榊原平七郎申けるは、岡崎より吉田迄は船にて参り、夫より駿河迄は陸地を供申せと岡崎にて命を受る処に是より船にてとの仰は如何有べきと辞退申ける。弾正被申は御供の面々聞給へ是より駿河の路次は各存のごとく大河数多あり、就中此頃は水かさ増して中々陸路は自由ならざれば何れの湊までも船にめし、若も追手の風替りなば上らせ玉へ。斯る波風閑なる折から急ぎ船にめされ候へ。某あしくは斗らひ申まじきと真しやかに被申ければ、兎角可申様なくして四方の躰をみわたせば、三町斗跡よりも警固の船と見へて弓鑓を取双べ飾られたり。池鯉鮒、鳴海も近くなり、むかひに森の見へぬるは熱田にはなきかと船頭に問ければ、とかう返答申内にろかひを早めて漕行ば、程なくあつ田に着給ふ。舟より上らせ給へば御迎にいざ知らぬ士達爰やかしこに並居たり。はや跡舟の衆も着て陸に上る也。大将と見へし人、御供の衆に向て申けるは、岡崎の事は尾張と御一味あるに依て御證人の御方をも爰〔爰〕許へ引取申儀也。各御気〔遣〕なく御供なされ着座あれとて熱田の宮大宮司が処へ入れ奉り、供の衆一人も洩さぬ躰に非番当番油断なく有ければ、供奉の衆、前後更に不弁十方なき躰は筆勢に盡すべき様もなし。于時天野又五郎、十一歳郎等を近づけ密かに申けるは、汝はいかにもして忍び行岡崎へ参れ書札隠べきようのあらざれば見たる如く申せ迚遣はしける。翌日、件の又五郎が郎等、岡崎へ参着致し右の旨趣言上致す。廣忠公被聞召有無の御挨拶もなし、所存の次第かなと仰ける。良有て家老の面々に仰けるは、北の方へ参り、めのとに弾正逆意の通り語て聞せよと有ければ、則家老衆両人御すへまで伺公申処に御前より女房達二三人ひとま所え出られければ具に申侍る。乳母申けるは竹千代殿御母は刈屋の水野殿の御息女なり、高も賎も継子継母の御中なれば御ぞんじ有ての事也と人と推量を廻らさんも恥か敷事にて候也。其趣可申上とて奥に入るなり。御臺所はきこしめし、如何なる親の御扱ぞや竹千代殿敵方へ参らせられたるうえは岡崎とは手ぎれ也。左あれば自らを敵方に捨置るるにてはなき歟、左様の分別参らぬ歟。昨日は人の上、今日は我身のうへ。因果は車の輪の如くとは能こそ申侍べけれ。親ながらも筋に違ひたまふ御計らひかなと仰ければ、御前の女房達もはや歟左様には有まじきと皆一同に申ける。廣忠公はいかに面々駿河へ此旨何とか有べきと仰ければ、各被申は時刻を移さず義元え注進申度と何れも申上ける。則石川安藝守を以て被仰遣候処に義元聞て驚き玉ひ、仰には如何廣忠心中令推量畢。義元に於ても無念の尽口惜き次第也。早速告来候段誠以真実の尽り心庭不斜感ぜらるると有て、駿府よも御届として朝比奈孫太郎を岡崎へ被遣なり。今度廣忠公御所存又は家老衆思ふ処は是非とも出陣有べきとの義也。

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