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DAVE VON RONKコミュのデイブバンロンクの自伝から、

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デイブ・バン・ロンクの自伝本を読んでたら、
ボブ・ディランのマネージメントも引き受けてた、
アルバート・グロスマンから、
”3パートのグループを組まないか?”と聴かれたそうです。
それで、”あとの二人は?”を聴いたら、
彼は、”ピーヤーとマリーなんだが、、”と応えたということです。
2,3日考えて奥さんとも話し、
”やっぱり一人で歌いたい”と断ったそうです。
その後、ノエル・ストーキーがメンバーになって、
PPMとしてのデビューレコードは、
7兆コピー(7 trillion copies)の大ヒットになったわけです。

ちなみに、そのレコードに入ってる、
”BAMBOO”という曲は、
彼が、ギター練習用に書いた曲西をつけたもので、
彼のフォークウェイ2枚目のレコードの入ってる、
”RIVER COME DOWN”で、
彼の作った曲の中で、唯一つ、お金になった曲だそうです。

ボブ・ディランが、彼のアパートに居候してたことは、有名ですが、
その頃は、デイブの奥さんが、マネージメントも手伝ってたそうです。

昔々(1960年頃)のお話でした。

コメント(3)

あの、”朝日の当たる家”について、、、

この曲、日本では、ザ・ベンチャーズの
インストルメンタルでのヒットで知ってる人も多いとは思いますが、、

もともとは、アメリカのトラディショナルで、
その曲を、よく知られてるパターンにアレンジした人が、
このデイブ・バン・ロンクです。

ボブ・ディランが、彼のビレッジの家に居候してたときに、この曲を覚え、ボブのコロンビアでのデビューアルバムに吹き込み、その後、デイブに合ったときに、『”朝日の当たる家”を入れさせてもらったよ』、と事後報告されたそうです。
その後、イギリスのアニマルズが録音して、この曲は世界的なヒットをしたのですが、ボブ・ディランは、コンサートなどで、
『あのアニマルズの”朝日のあたる家”』とリクエストされてイヤにななり、1970年代になって、ディランの伝記が出版され、その中で、デイブのアレンジがそのまま使われたことが知れ渡ると、
今度は、デイブのライブなどで、ファンが、『ボブ・ディランがアレンジを盗んだのは本当か?』と聴かれることが多々あり、うんざりしたそうです。

ちなみに、アニマルズでのアレンジ表記は、リーダーであり、キーボード奏者だったアランプライス名義で、実際あのギターのアレンジは、
ギター奏者のヒルトン・バレンタインだったということです
1950年代のブルース・リバイバルについての項で、
ミシイッピー・ジョン・ハートの再発見について書かれてた。

ハリー・スミスのアンソロジーで、ミシシッピー・ジョン・ハートの演奏を聴き、すっかりファンになった。1928年の録音だったから、すっかり昔の人で、もうすでに死んでると、僕たちは思ってた。 
1963年、ブルースファンの、トム・ホスキンスが、
”アバロンブルース”のなかで、
”アバロン、私のふるさと、心の中に、、”と歌ってるのを聴き、
ミシシッピーのアバロンだと思い場所を調べて、行って見た。
そこは、広大な土地に道が抜け、雑貨店と郵便局があるだけの街だった。
周辺にいた人に、
”ちょっと人を探してるんだけど、、
1920年代に、レコードを出した、ミシシッピー・ジョン・ハートという名前なんだが、、”と聴くと、
”あー、オールド・ジョンのことだね、その右角にいるよ。”
ミシシッピー・ジョン・ハートの発見のくだりだ。

デイブにとって、ジョン・ハートは、見てのとおり、ジェントルマンだったそうで、たとえ彼を踏みにじった人へも、悪口を言ったとこを、見たことがないという。

ある夜、皆が集まって話してたときに、
彼を再発見した、トム・ホスキンスの話になり、
 ギャランティーの大半をせしめ、
 版権を取り、仕事を決め、親指の先で指図をするなどと
 悪口が飛び交い、
デイブも彼を罵ったりしてたときに、
ジョン・ハートは近くに黙って座ってた。 
それで、彼のほうを見ると、
”でも、彼がいなかったら、今でもミシシッピーで、綿つみをしてたんだよ、、”と話した。


チャンピオン・ジャック・デュプリーは、
僕の大好きな、ブルース・シンガー・ピアニストだ。
彼は、ニュー・オリンズの出身だけど、
1950年代後期に、ヨーロッパに移住し、最後は、ドイツに移り住んだ。




『キング・カーティスとのライブ映像、、』


1980年代、僕は何度もトゥアーで訪れたけれども、
彼とは、タグを組んで大陸を廻ってるようだった。、
僕が町へ行くたびに、
『一夜限り、チャンピオン・ジャック・デュプリー見逃すな!!』
と書かれたポスターで覆われてたり、
『ジャンピオン・ジャック・デュプリー一夜限りだけど、
君は、その日デュッセルドルフで演奏だろう。』といわれた。

それで僕は彼に会うことはできなかったが、
ジャック・デュプリー物語を聞かずして、
ヨーロッパでブルースミュージシャンとはいえない。

1960年の初期に、彼は、ハンブルグに住んでいた。
そこで、エージェントから電話を受けた。
『ジャック、君のトゥアーをやろうと思うんだが、
 ストックホルムからはじめて、リスボン、
 そして、レニングラードに 行くんだけけれど、、、』 
よい話だったので、ジャックはサインをした。
彼は小編成のバンドと旅をした。国から国へと、町から町とへ廻った。
そして、KIEV(だと思うんだが、、)まで行った。
そこは、ソビエト連邦で、冷戦のさなかのことだ。
当時そこへ、どんな方法で入ったのか、
誰も想像すらできなかった位だ。 
いずれにせよ、彼らはそこにいた、
そして、突然、トゥアーは消滅されてしまった。
ジャックと、バンドの3,4名のメンバーは、お金もなく、家に帰る事ももない状態で、ロシアに立たされた。
その立場から、どのようにしてかえったのか、神のみぞ知ることだが、
でもミュージシャンは、そのようなことに非常に長けてる、
(我らミュージシャンの即興の腕前は、こと音楽に限ったことではないのだ。)
どうにか、こうにかして、彼は、傷を癒せるドイツに帰ってきた。

時がすぎて、ある晴れた日に、
彼は同じ男から、同じ条件の電話を受けた。
『ジャック、トゥアーに出ないか?
 ストックホルムからはじめて、リスボン、そして、
 Keiv のマラけヒに 行くんだ。』
ジャックは行った、
『ああ、ちょっとまってくれ、、覚えてるよ、、
 最初にトゥアーのすべての航空券が用意されてないと
 トゥアーに出ないんだ。家をでる前にポケットの準備するんだ。』
そして、ジャックは付け足した。
『それも、ファーストクラスだよ、、』
その男は応えた、『よし、OKだよ、ジャック』
ジャックは、
『オーライ、明日の朝、君の事務所に行くよ、
それまでに全てのティケットを準備しておいてくれ、
そしたら、すべての条件について話せるよ。』

次の朝、ジャックは、そのエージェントの事務所に顔を見せた。
エージェントの男は、その手に、グーテンゲルグのバイブルのような、
彼と、彼のバンドのティケットの束を持っていた。
ジャックは、注意深くそれら、トゥアーの最初から、最後までの航空券が揃ってることを確かめると、言った。
『よし、これで揃ってる。』そして、事務所をあとにすると、
ルフトハンザ航空の事務所に行って、それらを全て、換金し家へ帰った。、

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