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東淀川ウォーカーコミュの東淀川区の地名 −その2−

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☆淡路(あわじ)
 菅原道真が太宰府へ左遷されて淀川を船で下った時、この辺りを古歌で知られる淡路島と間違えて上陸したので、淡路の地名がついたといわれている。
 真偽はともかく、淡路は淀川下流域の島々の総称である中島に含まれ、中世後半に島が連結して干潟となり陸化された地帯である。
 天養2年(1145)10月、『台記』に藤原頼通が一条殿から淡路庄を贈られたとの意が出ていて、その少し前から荘園になったようである。
 淡路本町1町目に「天満宮旧跡」と刻まれた石碑(大正8年建)がある。ここが道真の上陸地と伝えられている。その後に淡路天満宮が建立された。(淡路天満宮は明治43年に中島惣社に合祀されたが、跡地に愛宕神社が勧請され、天満宮跡碑が建てられた。)
 道真は藤原時平の画策により、延喜元年(901)に太宰府に左遷された。「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘するな」と詠んで京を出発した。太宰府に行く途中、淡路の地域が島影に見えたので、「あれは歌枕で名高い淡路島かね」と尋ねたことから、地名「淡路」がおこったといわれている。(東淡路商店街にはこのことに因んだのか、今でも鳴門餅という店がある。)
 784年(延暦3)に長岡に都が遷されたことは、淀川に接するこの地域に変化を与えた。当時、淀川は上流からの土砂で難波への船の出入りが困難になったので、785年(延暦4)、三国川(現在の神崎川)と淀川を江口でつないだ。その結果、流域の江口・加島・神崎・大物などは港として発達した。特に江口については、1159年(平治元年)に、平清盛が平治の乱の起こる前に、熊野参詣の途中に泊まっている。また、1167年(仁安2)に、西行法師が天王寺参詣の途中、江口の里で遊女妙(江口の君、平資盛の女)と、歌問答したとの話が平家物語に書かれている。
 淡路本町1町目に「天満宮旧跡」と刻まれた石碑(大正8年建)がある。ここが道真の上陸地と伝えられている。その後に淡路天満宮が建立された場所である。(もともとは永春寺の境内にあり、現在石碑のある場所に移設された。その淡路天満宮は明治43年に中島惣社に合祀されたが、跡地には愛宕神社が勧請され、天満宮跡碑もある。)
愛宕神社の住所は淡路1丁目12−5である。もっとも愛宕神社自体が1945年6月の大阪大空襲で全焼しており、現在では神社というより「祠」ほどの規模である。また、淡路にまつわる道真伝説は大阪では割に知られているが、その道真の「上陸地」にしては、石碑背面の消えかかった碑文の他に、解説看板の類は何もない。
 中世には、天王寺庄・乳牛牧庄・淡路庄などの荘園があった。江戸時代になると、氾濫した土砂のため、淀川の河床が高まり、逆に悪水を排水するのが思うようにいかず、いつも低湿で困っていた。

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