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東淀川ウォーカーコミュの乳牛牧と草刈散所

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乳牛牧と草刈散所
平安時代、区北東部の淀川沿岸には典薬寮に属し、朝廷に牛乳や乳製品を献上した味原牧(乳牛牧)があり、後期には区南東部の淀川沿いに摂関家の散所である草苅散所が成立しました。
 『続日本紀』に安閑天皇2年(532)九月、勅令を出して乳牛を難波大隅と媛島松原に放たせたとあり、平安時代には牛乳を朝廷に献上し、「乳牛牧荘」という荘園になっていました。
 大隅小学校(大隅通2丁目)は、大正十五年に改称するまで乳牛牧尋常小学校といいましたが、この名残をとどめたものです。
 昔は日本では牛乳を飲まなかったとする人もいますが、とんでもないまちがいです。
 牛や羊の乳汁を煮詰めたものを酥(そ)といいます。正月に飲む屠蘇の蘇です。
 濃厚で甘く滋養のあるこの味を古代人は醍醐味と呼んで珍重しました。
 また近辺の大宮神社に安閑天皇が祀られているのは、この縁起によるものです。
 乳牛牧荘は『類聚三代格』元慶8年(884)9月項に「味原牧乳牛課法」と出ているのが初見で、ここには当荘にある乳牛院の繁殖が不良で牧子の逃散したものが多く、ひきしめて旧に戻さねばと誌されています。
 『延喜式』巻三七典薬寮の項に、父牛は薬園の耕作に、母牛は乳をとり、死牛は皮を売って寮の修理に当てよとも誌しています。
 乳牛牧の所在については、『宇治関白高野御参詣記』に江口の淀川上部とあるが、『遊女記』には淀川が分流する江口の下流部と出ています。
 その他の古書に照らし、上限は摂津市の味生の地に、下限は当地区に分布していたと見られます。
 牧畜といえばのんびりしているように思いがちですが、当時の牛馬は交通農耕の最重要機関として、厩牧令等の法律があって大変力を入れられていました。
 淀の牧畜がどんなに有名だったかは、諺に「遅牛も淀、早牛も淀」というのがあるのを見ても明らかです。
 東淀川区から淀川区にかけてかつて牧畜が大阪市中で一番盛んだったのは以上のような歴史があるわけで、戦前までは乳牛を飼っている風景がよく見られたそうです。
 現在の都会では牛と人間が共存することは難しいらしく、ほとんど姿を消しました。
 西大道町1丁目に太田牧場という牧場が残っています。
 昭和31年の資料では、東淀川区の牧場数23ケ所、飼育牛計418頭、酪農経営者9とありますが、現在では太田牧場の他には岡崎牧場(淀川区新北野1丁目、明治三十年創業)があるばかりです。
 南西部の淀川沿いには白川寺喜多院(跡地は現京都市左京区)並びに東宮御領柴島庄が、北西部の現淡路〜西淡路一帯には藤原頼長領から八条院領となった淡路庄があります。
 中世になると淀川流域は荘園によって覆われるようになりました。
 それらの荘地は互いに入り組んでいました。
 荘園は私的な土地経営の一形態であるため排他的な性格を持ち、灌漑水利における権利関係を複雑にしたので、新しい用水元の獲得が不活発となり、多くの荘園に用水の共同利用水に対する権利の程度にしたがって、それらの均衡の上に協定規約を立て分水を行ったので、用水利用の権利が私権として土地から遊離し、売買・譲与・寄進されることにもなっていきました。
 領主の支配する用水を領民の田に引く時には、「井料」という名で農民から財物を使用量として徴収する場合もありました。
 そして、河川から取水する河川灌漑の法が発達していった結果、水田稲作に必要な灌漑用水がより得やすくなり、水田の単位面積あたりの収穫量は増えていきました。
 味原牧は鎌倉時代以降開墾が進み、荘園化した。室町時代には摂津守護により欠所とされる地もできました。
 この欠所分は嘉吉2年(1442)足利義教の菩提を弔うため建立された崇禅寺に寄進されています。
 草苅散所では次第に摂関家以外の荘園領主や武士の支配が浸透し、複雑な支配関係となりました。
 また、淡路庄は鎌倉時代には大覚寺統に伝領され、後に後宇多上皇によって山城国石清水八幡宮に寄進されて、室町時代まで同宮領として続くが何度も武士の侵略を受けています。
 「天下第一之楽地」(遊女記)と称された江口の里は鎌倉中期以降、次第に衰退し、南北朝期日宋貿易や瀬戸内海交易の進展によって兵庫津(現神戸市)や堺(現堺市)などにその繁栄が奪われました。
 しかし室町時代には経済的に重視され関所が置かれています。
 室町時代後期、管領細川晴元から離反した三好長慶は、天文18年(1549) 3月、細川晴賢・三好政長(宗三)の拠る柴島城を攻め、城の西方の浜(旧浜村付近か)で政長方を破り、榎並城(現城東区)へ退却させました。
 同年六月、榎並城を出た政長は江口城に拠ったが再び長慶の軍に敗れています。 東淀川区にはこの2城のほか、16世紀後半、旧下新庄村に摂津茨木城(現茨木市)城主中川清秀の出城・新庄城(現明鏡寺)があったと伝えています。

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