ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

チベット死者の書コミュのチベット死者の書

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
チベットに古くからあるボン教は日本の神道と近い世界観を持ち、
精霊崇拝、呪術的な要素を内包し、輪廻転生する生命を信じていました。
仏教的な世界観が八世紀頃チベットに流入すると、
両者は習合し「チベット死者の書」を誕生させました。

それによると、死者は49日間バルドゥと呼ばれる、生の中間的な状態に留まりますが、
その間に死者は、死の瞬間に眩しく輝く光(クリヤー・ライト)を体験します。

最初の一週間で死者は平和の様相(寂静尊)の神々の、
次の一週間で怒り狂った神々(憤怒尊)の来迎や襲撃を受け、
ついには閻魔大王の前に引き出され、人によっては灼熱地獄に投げ込まれたりします。

そして死者はそれぞれのカルマに従い、六つの世界のいずれかに再誕生していくのです。

コメント(10)

チベット死者の書の曼荼羅に現われる神々は、男女の交合した姿で描かれています。
これはしばしば歓喜仏(ヤブユム)と呼ばれていますが、
この神々の合体の姿の中に、究極的な境地の至福の状態である『大楽』が
保持されているからだといわれます。

父なる普賢は男性性、方便の象徴であり、
母なる普賢は、女性性、空の智慧(般若)の象徴なのです。
この両者の融合から、完全な法身の状態、つまり悟りが得られるのです。

この考え方は、私達の生命現象そのものの他に宇宙真理があるのではないという考え方と結びついて、
性的な結合状態の中に、悟りの姿を見るようになっていきました。

日本の理趣経の中にもその顕著な影響が見られ、これこそが密教の最も密教的な部分なのです。
チベット死者の書は繰り返して、神仏は私達の心臓や脳のセンターの投影であり、
彼らは私達の意識の中に存在するのだと強調しつづけます。
死後の世界の存在もこの視点から見られなければなりません。

この私達の堅固な存在感を持っているように思われている世界もまた、意識の投影です。
ただそこに「永遠不滅の絶対のようなものは存在しない」ということです。

真に存在しているものは、世界を映し出している〈意識〉であり、
意識の包まれる〈真如・本性として光り輝く心〉だということです。

そして「死者の書」のいうバルドゥでの解脱とは、光を見ることでなく、
光と一つになること、光に溶け入ること、
死者の意識が〈本性として光り輝く自覚〉それ自身となることです
カルマ・カギュ派で頂いた法名をそのまま使うランジュンです。

光とスンジュク(統合)、溶け合うのですが、この光明に心を開き、委ねるのは、かなり怖いのです。 逃げたくなるほど畏怖してしまうのですが、それでも受け入れるとすごく甘美な感覚が全存在を包み、恍惚な状態になります。

チベット死者の書ので書かれている事柄は、どこまで信憑性があるんだろう?


ユングクラブ(日本ユンギアンの組織した団体)の会長を務めていた友人は
トランスパーソナル学会においてもよく、コメンテーターとして顔を出しているよ
うですが、チベット死者の書を世間に公表したのは、ユングです。

座右の書として死者の書を絶賛していたそうですが、余り知られる事がないこ
とですが、心理治療のユング派の人達の中では、公にはしませんが、アビダル
マコーシャ(倶舎論)−世親(唯識派を創始した兄弟の次男−ヴァスバンドゥ)
の熟読が必要だと言われているようです。 会長談によると・・・


死者の書は、人間の心理構造理解に大きな貢献をしてくれます。


しかも、単に創作されたフィクションではなく、追体験できると言います。

バルドゥ・トェドル(中有における聴聞による解脱を導く書)は、我がニンマ派
の師であるニチャン・リンポチェと川崎信定監修によるCDも発売されておりま
すが、これは体験できると言いながら、極めて困難な修行階梯を経なければ
難しいことで、更に、難しさを助長しているのは本格的なゾクチェンやマハーム
ドラーの修行や、ナローパの六ヨーガを修めるか、クンダリーニ・ヨーガでクンダリ
ーニの本覚醒させないと、バルドゥの知覚は難しいのです。


そこで考えました。
このバルドゥ・ヨーガの体験や、クンダリーニの覚醒を促す為のコミューンが出来
たら、望む人には願ってもないことだよなぁ・・・と思い。
コミュを立ち上げました。 そのお手伝いができるかな?と、思い。
つい先日、コミュを立ち上げました。
興味のある人は覗いて下さいませ。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=4175472
「たましいの寺子屋」です。

チベット仏教系の人は少ないと思われますので、良かったら皆さん来てくださいね。




リュウジュといいます。はじめまして。

このコミュニティーを見つけました。

学ばせてください。

キリスト教でも、イスラム教でも
またその両方の原典でもある
ユダヤ教の教典の中にも
「絶対神は純粋な光として見える」
という表現があります

また、ヒンズー教や
バリ島で見た原始宗教の表現にも
「神の真実の姿は、眩い光だ」
と記されています

アミターバも
これらの宗教で表現されている
「絶対神」も
ひょっとしたら
人間が臨死の際に見る強烈な光を
表現しているのではないでしょうか

阿弥陀如来の来迎は
実はアッラーでもあり
「わが主」でもあり…

というのは
民俗学的にも
宗教的にも
興味があると思います
でも、その光に惹かれ、その光にとらわれ、その光に執着してはいけない

という教えまで『バルドゥ・トェドル』は含んでいるのではないでしょうか?
なるほど…

そこから先は
全部の宗教で言うことが違ってますね

イスラムは「ひれ伏し従え」だし
キリスト教は「その中に進め」だし

”執着するな”というバルド・トドルは
一番ラジカルな考え方でしょうね
「汝の脳の作用によるものだ」
という一節がすごい
どこまで宗教的で
どこからが科学的なのか
よく分からんところも魅力的です

いずれにしても
近親者の臨終には
これを読んであげたい気がします

あれ?これは在家の人間が
読んではいけないのでしたっけ?
ンガッパにならないと
まずいのかな?
ハムバッカーさん

>近親者の臨終にはこれを読んであげたい気がします

そうですねえ。そういう気持ちになりますよねえ。
せめてその内容をしっかりと学び、生きている間に自分の修行を深めたいものですねえ。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

チベット死者の書 更新情報

チベット死者の書のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。