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紀勢本線コミュの神倉神社

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 新宮駅の西方約1km。吉野熊野国立公園内。
 https://www.google.com/maps/@33.7242732,135.9840219,19z
 天照大神(アマテラスオオミカミ)と高倉下命(タカクラジノミコト)を祭ります。標高120mの権現山(神倉山)〔史跡〕山頂の巨岩ゴドビキ岩を御神体とする神社で、周囲は100m近い断崖絶壁となっています。
 『日本書紀』等によれば紀元前662年に神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト;神武天皇)が東征の際に上陸したのは当地付近だとされています。神日本磐余彦命一行は熊の姿をした悪神の毒気により倒れてしまいますが、天照大神(アマテラスオオミカミ)の命を受けた高倉下命(タカクラジノミコト)が天磐盾(アマノイワタテ)の山で神日本磐余彦命に神剣を奉げると一行は息を吹き返し、天照大神の遣わした八咫烏(ヤタノカラス)の道案内で大和へ軍を進めたとされます。その天磐盾こそがゴトビキ岩の事だと伝えられているのです。
 ゴドビキ岩付近からは弥生時代の遺物も発見されており、太古から磐座(イワクラ)信仰の地だったと推定されていますが、後に熊野権現の熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)と熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)が最初に降臨した場所であると説かれるようになりました。熊野速玉大神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)、熊野夫須美大神は伊邪那美命(イザナミノミコト)の事だとされ、人皇第12代景行天皇58年(A.D.128)にゴドビキ岩から熊野河畔に遷座して熊野速玉大社が創建されたため、ゴドビキ岩の社は神倉神社と改名、元宮と呼ばれる事になりました。そして、速玉大社が新宮と呼ばれる事になったのが、新宮の地名の由来です。
 また、人皇第41代持統天皇〔位;687〜697〕の時代に裸行上人(ラギョウショウニン)が神倉山の社殿・伽藍を整備したとの伝説も残ります。
 平安時代以降、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野三山詣の際には神倉神社にも参詣する場合が多かった様です。『平家物語』巻十によると寿永3(1184)年に敵前逃亡した右近衛権中将平維盛(タイラノコレモリ)が参拝しており、鎌倉幕府を開いた源頼朝が急勾配の鎌倉積み石段538段を寄進したと伝えられています。建長3(1251)年2月14日には火災によって焼失してしまいましたが、執権北条時頼の助成も受けて再建されました。上述の様に鎌倉時代には神倉神社の造営修理を担う神倉本願として妙心尼寺等の四寺が指定されていました。
 南北朝時代の動乱で荒廃しましたが、室町幕府第3代将軍足利義満の側室だった北野殿が応永34(1427)年に「神の蔵」へ参詣した記録が残っており、参詣は続行されていた模様です。
 江戸時代に入ると新宮城主浅野忠吉の崇敬を集め、慶長7(1602)年には社領として63石を与えられ、次の新宮城主水野氏も正保2(1645)年に一年の祈祷料として米3石6斗と燈明料米1石8斗を与えています。
 天保10(1839)年に完成した『紀伊続風土記』によると、当時の境内には社殿と並宮の外、崖上に懸造の拝殿があり、大黒天を祀る御供所(ゴクウショ)・満山社・子安社・中の地蔵堂等がありましたが、明治3(1870)年の台風で倒壊して荒廃してしまったため、由緒ある神社であるにも拘わらず村社の社格しか与えられず、明治40(1907)年には熊野速玉大社に合祀されてしまったのです。
 しかし、大正7(1918)年に至ってゴトビキ岩下に祠を再建したのを手始めに、昭和初期に社務所・鳥居等も再建されました。現在は社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外社の扱いとなっています。
 平成14(2002)年に熊野三山の一角として国指定史跡となったのに続き、平成16(2004)年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一環としてUNESCO世界文化遺産に指定されてからは欧米人の参拝客も増えています。
 神橋右手前の「下馬」標石〔史跡〕は寛文12(1672)年銘のある物で、刻銘によれば、陸奥国盛岡藩領志和(シワ)郡の人物が、子孫繁栄を祈念して熊野参詣七度を達成した事を記念した物です。

★熊野参詣道
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★熊野三山
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コメント(9)

ここのお燈祭(火祭り)は、熊野那智大社の火祭りとならび、知られていますね。↑のサイトにあるように新宮市内の眺望がすばらしいようです。
20歳の時に行きましたが、石段はかなりキツカッタです。今では無理でしょうなあ…。
 10月8日金曜日に入口まで赴きました。
左;表参道
中;神橋と下馬標石〔史跡〕
右;境内の滝
左;神武天皇顕彰碑
中;摂社三宝荒神社・猿田彦神社
右;紫紺野牡丹(シコンノボタン)
 既に1600時を過ぎていましたし、538段もの石段を登るのは40年前の20歳の時でもキツかったので、今回は上まで行くのは断念する事にしました。

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