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紀勢本線コミュの阿須賀神社

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 和歌山県新宮市阿須賀1-25-25
 新宮駅の東北約800m。
 https://www.google.com/maps/@33.7278532,135.9973009,18z

 阿須賀(アスカ)神社〔村社〕は事解男命(コトサカオノミコト)・熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)・熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)・家津美御子大神(ケツミコノオオカミ)を祭ります。
 熊野川河口近くにある蓬莱山〔和歌山県指定史跡〕と呼ばれる小丘陵の南麓に鎮座する古社で、社伝によれば人皇第5代孝昭天皇〔位;475B.C.〜393B.C.〕の代の創建と伝えられ、古くは飛鳥社とも称されました。蓬莱山は南北100m・東西50m・標高48mの椀を伏せたような山容で、元来は島だったのが熊野川の堆積作用で陸地に取り込まれたと推定され、神奈備(カンナビ)の典型とも言うべき姿をしています。
 熊野速玉大社伝の「新宮本社末社総目録」に上御備・下御備の祭祀遺跡が描かれているように、古くから信仰の対象となっていたと見られ、西暦紀元前210年に徐福が上陸した地だとの伝承もあり、境内には徐福を祭る摂社徐福宮があります。
 熊野権現はまず神倉神社に降臨し、それから61年後に阿須賀神社北側にある石淵谷(イワブチダニ)へ勧請(カンジョウ)されて、その時に初めて結早玉家津美御子(フスビハヤタマケツミコ)と称したと伝えられており、当地は熊野権現の具体的な神名が初めて現れた場所と見なされていた事が判ります。
 また、境内からは弥生時代の遺跡が発掘されており、熊野に於ける歴史と信仰の最も古い層に関わる地だと考えられています。阿須賀神社境内弥生式竪穴住居跡〔新宮市指定史跡〕からは弥生時代から古墳時代にかけての円形3・隅丸方形1・方形6の合計10基の住居跡、及び掘立柱建物跡4基が確認されている外、弥生式土器・土師器(ハジキ)・臼玉(ウスダマ)・管玉(クダタマ)等が出土しています。
 当時、沼沢地状態だった熊野川河口に於いて、農耕漁労集落が蓬莱山麓一帯の僅かな微高地に成立していたと推定されています。
 神社境内だけでなく周辺一帯の相当に広い範囲から出土品が見られる事から、大規模な集落が存在していたことが推定され、熊野神邑(クマノカミノムラ)の原型だったとも考えられます。
 平安時代に熊野権現の本地が確立してからは、大威徳明王を本地仏として祀る事となり、11〜12世紀の熊野参詣では、阿須賀神社にも参詣する事が常であったと見られ、『中右記』の天仁2(1109)年10月27日条に「参阿須賀王子奉幣」と記され、熊野九十九王子の一つ阿須賀王子としての扱いを受けていた事が判ります。
 また、『平家物語』巻十には寿永3(1184)年に敵前逃亡した右近衛権中将平維盛(タイラノコレモリ)が新宮で「明日社ふし拝み」と記されており、阿須賀神社への参拝が一般的な事象であった事が明らかです。従って、阿須賀神社は熊野参詣道中辺路(ナカヘジ)の一環としてUNESCO世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」指定地の一つとなっています。
 明徳元(1390)年、3代将軍足利義満が阿須賀神社の造替に際して奉納した神服・調度品等の工芸品類70点余は「阿須賀神社伝来古神宝」として国宝に指定されていますが、昭和26(1951)年に文化財保護委員会(文化庁の前身)が買い取り、現在は京都国立博物館に所蔵されています。
 天保10(1839)年刊の『紀伊続風土記』には、近世の阿須賀神社には並宮・拝殿・御供所(ゴクウショ)・鐘楼堂・四脚門・鳥居・社僧行所等などがあったと記されています。明治40(1907)年に政府の神社統合策により、熊野速玉大社の末社であった建角美命(タケツネノミコト)を祭る八咫烏(ヤタガラス)社や黄泉津道守命(ヨモツミチヌノミコト)を祭る宮戸社等を合祀しました。黄泉津道守命とは伊邪那美命(イザナミノミコト)の別名です。
 阿須賀神社には速玉神坐像・夫須美神坐像・奇御食神(クシケミノカミ)坐像が神宝として伝わっており、国宝に指定されていましたが、昭和20(1945)年7月17日のB29による焼夷弾攻撃で焼失してしまいました。この三像の写真は残されておらず、鬼畜の所業によって貴重な文化財が失われてしまったのです。
 昭和35(1960)年、東京国立博物館の発掘作業で社殿裏側に於いて蓬莱山経塚が発見されました。出土遺物は200点余を数え、隣接する岩室からも400点以上の御正体(ミショウタイ)が出土しました。御正体の製作年代は平安時代4点・鎌倉時代119点・室町時代42点・不詳数点と分類されており、鏡像・懸仏の両方を含みます。描画技法は墨彩・毛彫・線刻・針書・金銅鋳出等の多岐に亙り、描かれているのは半数以上が阿須賀神社の本地仏である大威明徳王(ダイイトクミョウオウ)ですが、熊野三山の本地仏である阿弥陀如来(熊野本宮大社)・薬師如来(熊野速玉大社)・千手観音菩薩(熊野那智大社)や、神倉神社の本地仏である愛染明王(アイゼンミョウオウ)像等も出土しています。これら出土物はすべて東京国立博物館で整理・調査・研究されましたが、昭和51(1976)年に神社へ返還された後、新宮市立歴史民俗資料館に保管されており、「和歌山県阿須賀神社境内(蓬莱山)出土品」の名で令和元(2019)年7月23日付で国の重要文化財に指定されました。指定物件は御正体193点・銅鏡2点・銅仏像残欠2点・銅銭7点・金銅飾金具残欠9点・一字一石経136点・土師器皿残欠1点・御正体等残欠多数です。
 阿須賀神社の手水鉢〔新宮市指定有形民俗文化財〕は、紀州藩新宮城第2代城主水野重良が寛永8(1631)年に寄進した物で、黒雲母花崗斑岩(クロウンモカコウハンガン)の巨大な一枚岩を刻んで仕上げられています。 
 蓬莱山の社叢〔新宮市指定天然記念物〕は境内地後背の蓬莱山にある暖帯照葉樹林です。
 高木には楠・胆八樹(ホルトノキ)・椎(シイ)等、亜高木には蚯蚓灰(ミミズバイ)・白新木薑子(シロダモ)・大明橘(タイミンタチバナ)、低木には犬柘植(イヌツゲ)・馬酔木(アセビ)・鎌柄(カマツカ)・梔子(クチナシ)、更に林床には千両・万両・藪柑子(ヤブコウジ)や暖地性羊歯(シダ)類が繁茂しています。市街地の中にありながら、豊富な植物相を持つ点で貴重な森です。
 阿須賀神社のテンダイウヤク〔新宮市指定天然記念物〕のうち、社殿脇の徐福の墓と称する塚の上の個体は樹高3mにも達しています。本来は低木の天台烏薬としては稀有な例です。天台烏薬(Lindera strychnifolia)は徐福が求めた不老不死の妙薬の正体とされるため、徐福上陸地の伝説がある阿須賀神社に植栽されています。
 阿須賀神社境内には新宮市立歴史民俗資料館があります。昭和54(1979)年の開館で、入館料は210円です。
 一階展示室では「和歌山県阿須賀神社境内(蓬莱山)出土品」〔重要文化財〕を中心とした展示が行われています。
 二階展示室では新宮の歴史や民俗に関する展示が行われています。

★熊野参詣道
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★熊野古道
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・阿須賀神社境内弥生式竪穴住居跡
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=97949723
+蓬莱山
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=97949879
・蓬莱山の社叢
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=320240&id=97949766

コメント(7)

左;摂社徐福宮 祭神;徐福
中;右;阿須賀神社の手水鉢〔新宮市指定文化財〕
左・中;阿須賀神社のテンダイウヤク〔新宮市指定天然記念物〕
右;神武天皇聖蹟熊野神邑顯彰碑
 阿須賀神社境内弥生式竪穴住居跡〔新宮市指定史跡〕
 蓬莱山〔和歌山県指定史跡〕・蓬莱山の社叢〔新宮市指定天然記念物〕

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