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チベット密教コミュのチベット仏教の学習

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皆さんと真面目に学ばせていただけたら嬉しいです。


6世紀の末に諸氏族を統合して全チベットを統一しようという動きが現れ、ついに古代チベット王国が設立された。
7世紀中頃のほぼ同時期に、中国系仏教とインド・ネパール系仏教がチベットに入り、その後、仏教は国教化された。
しかし次第に中国禅の徒とインド仏教の徒との間で厳しい対立が起こるに至り、
中国から来た禅僧、摩訶衍とインドから来たカマラシーラによってサムイェー大僧院にて王の御前で宗論が戦わされることになった。

摩訶衍の教えは、
「人間には本来、仏性が具わっているが、それが妄想分別により覆われている。何も考えず何も分別しないなら、仏性は顕現し、すぐ仏に成る。六波羅蜜の行も戒も、妄想分別に基づくものであるから成仏の妨げになる」
というもの。
カマラシーラの主張は、
「単に何も考えない(不思不観)というのは気絶の状態と同じで、仏教の理想である無分別知とは異なる。一切法は無自性であるという正しい分別知を長い間、修習してこそ漸く無分別知は達成される」
というものだった。

(参考 松本史朗著『チベット仏教哲学』)

コメント(7)

>>[001]、どうもありがとうございます。
ぼくには頓悟か漸修かという宗教にとってとても深い問題がとても鋭く対立した象徴的出来事のように思われます。
中国禅宗の主流となっていった頓悟の考えと、毎日毎日の生き方を重視する漸修の考えは、
チベットに限らず、仏教にさえ限らず、宗教的人間なら深く直面させられることになる問題の一つだと思います。
一瞬に悟るか、長い長い修行を必要とするか。
さまざまな宗教理論はこの間で常に揺れているようにも思われます。
>>[003]

そうですね。頓悟か漸修かという問題は、もちろん二項対立的に説明したならわかりやすいし、極めて単純な図式化がなされてしまいますが、
もしこの二つが人間の心に両方不可避的に具わっている聖なる衝動だと考えたなら、より複雑な関係性を二つの間に見ることができるでしょうし、
どれだけ複雑で不可避的に関係し合うものと見れるようになるか、ということ自体が私たちの宗教的認識の発達であると言えるかもしれません。
カマラシーラとその師シャーンタラクシタ、さらにその師バーヴィヴェーカの中観思想は9世紀前半の前伝期のチベットで最高のものとされた。
しかし11世紀になってから、それまで翻訳されずにいたチャンドラキールティの『プラサンナパダー』が翻訳され、そこでチャンドラキールティがバーヴィヴェーカを批判している議論が明らかになると、中観思想における自立派と帰謬派の区別が浮上してくる。
チベット仏教ニンマ派ドゥジョムテルサルで正式な僧籍を
取得しているDD927と申します。

私は大正大学で梵文学(インド哲学)を学び、
チベット仏教と縁が付いて現在に至っている者です。

話の流れとは違ってしまいますが、
私なりの考え方を書かせて頂きたいと思います。

このサムイェー宗論については

カマラシーラと摩訶衍(大乗和尚)と論争は
チベットにおいてはカマラシーラが勝利した事になっていますが

頓悟か漸悟と言う問題が単純に修行上の問題ではなく

この「頓悟」が功徳(積善)など一般的な社会生活を
ないがしろにするかも知れないと言う政治的な不安を
引き起こす可能性があると言う事も「頓悟」が避けられた理由の一つと
考えられます。

カマラシーラの「漸悟」は二資糧(智慧と福徳)を
積む事が前提となっており、
それが治世上の安定をもたらすと考えられていた事は確かの様です。

また、カマラシーラ(インドの考え方)として、
現実の修行としては
二資糧(智慧と福徳)を積む事を行いますが、

悟るその瞬間においては

「頓悟」であると考えられていたようです。

例えて言うなら

大量の水にインクを一滴ずつ落していきます。
当然、最初の内はインクの色など全く分かりません。

一滴、二滴、三滴と次第に数を増やす内に
ある瞬間突然インクの色を認識します。

一度認識すると二度と無色透明であるとは認識しません。
「量」が「質」に変化する瞬間があるのです。

インクは二資糧です。

これにより基礎知識と理解や洞察・観察力は
確実に深まりますが、
直接的な決定的な「悟り」には到達しない訳です。

しかし、それがなければ「悟り」は決して訪れません。
この悟りもいわゆる「小悟」「大悟」の別が
少なからずあると思いますが。

数学の「○○の定理」「○○の予想」と言われるものが
ありますが、当然、加減乗除はもちろん、
それを更に発展させた因数分解や微分、積分、虚数など
数学の「基礎」がなければ絶対に解けません。
計算能力のみならず、発想力も必要となります。

これら全てを知っていたとしても
誰もが自力で「証明」出来る訳ではないので、
未だに未解決のものが数多くあるのです。

話が脱線しましたが、

「頓悟」「漸悟」と完全に「分けて」考えられる問題では
ないと私は考えています。
私は「漸悟」を基礎とした「頓悟」だと思っています。

そして、両方を持つカマラシーラの考え方が
政治的にも宗教的にも当時のチベットに
より合っていたのでしょう。

つたないモノではありますが、
私自身の瞑想や修行体験では、

ある日突然、自分の中で今までの
「知識」として知っていた「点」が
「線」となり、その線が「立体」になり、
風景などの活き活きとした「輝きとして現る」

と言う経験があります。
いつのまにか自分の中で
何かが少しずつ変わったのでしょう。

そして、その事自体は自分では気付かないまま
その瞬間が訪れ、気付いて初めて変化に気付くのです。

実際には様々な要因が複雑に絡み合って
その時が訪れるとは思うのですが、

努力したから必ず報われる訳ではありません。
しかし、報われた場合は
必ず陰に努力があると言う事は間違いないと思っています。

DD927謹拝
>>[6]

おっしゃるように、頓悟と漸悟をそれぞれどの時点を見て、どう定義するかによって、必ずしも二項対立的に簡単に定義づけられるものではありませんね。
また、しばしば指摘されるように、そもそも何をもって悟りの指標とするかの考えようによっては、悟りを達成したといいながら悪事を繰り返すということがあっていいのか、という問題も鋭く問われてくる。

こういう問題は、どっちの看板が正しいかというような論じ方よりも、中身をより丁寧に考えることこそが実りのある向き合い方だと思います。

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