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チベット密教コミュの中観帰謬論証派の学びのススメ

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トピックの作成、誠に失礼致します。ツォンカパ論師の中観思想を本格的に学ぶためにこれまで龍樹論師以来の中観思想につきまして、ある程度の概略を学び終えることができました。これからいよいよツォンカパ論師の中観思想に本格的に取り組んでいこうと存じております。是非、皆様方からのご指導を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・

現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

このことを解決するのは、龍樹論師以来の中観思想にあり、特にチャンドラキールティ論師からツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

一つは、中論にございます

「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』・・中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用

ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身ながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないと考えております。

コメント(3)

>『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』

もろもろの仏陀は「我=実体=アートマンがある」と仮に説かれることもあるし、「我=実体=アートマンは存在しない」と説かれることもあるし、「我=実体=アートマンは存在しない。また無我=無実体=アナートマンなるものも存在しない」と説かれることもある。
>大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

チベットにおいても仏教のさまざまな時期と段階の教えがいっぺんに流入して来たために最初は大きな混乱があったようですね。
その混乱の解決のためにチベットでは、インドからアティーシャを招き、アティーシャの明らかにしたラムリムの教えによって、仏教のさまざまに大きく異なるように見える時期ごと段階ごとの教え相互の関係が統合的・調和的に理解される道筋ができたと言われていますね。
>とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。


とってもその通りだと思います。

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