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哲学・思想 読書ノートコミュのHeidegger ” Sein und Zeit”  

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コメント(49)

平均的で漠然としたアル・の・理解は,アルについての様々な〔学的な?〕諸理論によって歪曲され,しかも,その歪曲の起源がそのような学的理論に起源することがわからなくなっているかもしれない.
とはいえ,結局はアルへの問いで問われているとこのものは,漠然とではあるが我々に既に知られているのである.

定式化・洗練化が求められている<問われているもの>はアルである. つまり「アルものがその都度其処へ向かって<且つそれに基づいて>理解されているところのもの」である. 
アルもののアルはそれ自体は最早一つの<アルもの>ではない.
アル・の・問題について哲学がすべきことは,まず,アルが可能なアルものの一つであるという〔存在論的〕性格をもっているかの如くに語ることを止めることである.

よって,アルの提示はアルものの提示とは異なった独自の様式を必要とする. 問いだされるもの(das Erfragte)すなわちアルのジンも,〔アルもののジンとは異なった:といっていいのだろうか?〕独自の概念規定を要求する.
アル・の・問いに属する<問い掛けられている>ものとして現れてくるのは,アルものそれ自身である. アルものがアルことへ向かって問われるのである.

アルものからそのアルが明るみへ取り出されるためには,アルものへの正しい通路の仕方をあらかじめ確保しておかねばならない.

ところが,様々なものが様々な意味において「アルものでアル」といわれる.
我々が,斯く斯くの仕方で関わっている凡てのものはアルものであり,また,我々自身のアルやそうアルという事もアルものである.

この―がしかじかでアルということ( im Daβ-),斯くアルこと(Sosein),実在性(Realitaet),直前的にアルこと(Vorhandenheit),存立(Bestand),妥当(Geltung),そこにアル(Dasein),「与えられてある(es gibt)」,これらのうちにはいずれもアルが存している. 

では,それらのうちの如何なるアルものに即して,アルのジンは読み取られるべきであるか? 即ち,問い掛ける対象として何が選ばれるのが適切であるのか? そもそも,何を選ぶかは随意であるのか,それともアルへの問いへの答えを洗練するにふさわしい優位を持つものがあるのか? それは何であり,また,いかにして優位を持つのか?
アルへの問いが,表明的( ausdruecklich )に立てられ,かつ,その問いそれ自身が十分に透見的に遂行されることが要求される場合の,問いの仕上げのための要件
(�顱縫▲襪肪輒椶垢觧妬�とアルの謂を概念的に把捉する仕方との解明
(�髻鉾藁磴箸気譴襯▲襪發痢福‖┐繊じ修縫▲襪發痢 砲鮴気靴�選択することを可能ならしめる準備
(�鵝鉾藁稘�なアルものへ近づく適正な思惟の道筋の設定
これらは,問うことを構成する諸々の態度である.
よってまた,問いつつある我々が各自そうであるようなアルものの,アル・の・諸様態である.
よって,問いの仕上げはまた,問うもの彼自身をアルに於いて( そのアルの様態について の義か )明るみにもたらす.
* Ausarbeitung der Seinsfrage besagt demnach : Durchsichitigmachen eines Seienden --des fragenden--in seinem Sein. 不詳
この問いを問うことは,それを問うところの或るアルもの( 人 )の様態である,したがって,その問いの関心対象であるところのアルそれ自身からすでに規定されてしまっている.
そこで,この問いを問うところの,或るアルもの,すなわち我々である人を,ハイデガは>現にアルもの<*と名づける. 
ここで,アルへの問いを適切に設定するためには,現にアルもの( 人 )を彼のアルに即して,それが如何様であるのかをあらかじめ解明しておかねばならない.−−なぜ??

* まさにアルもの,ここにアルもの の方がいいかなぁ??
アルものをそのアルことについて予め規定しておかねばならない一方で,他方その規定を根拠にそれからアルへの問いを立てようとすることは,循環ではないのか? と反論を仮構する.

「この議論のような諸々の形式的反論は,研究の諸々の具体的な道に関する考量に際しては,常に不毛である」――開き直った言い方ですね,もう少しましな言い方はできないのかな? 問いとその問いの暫定的な規定とは解釈学的循環に常にあるものなのだ,とか.
しかし,このアルの問いに関する構造は,循環を事実上含んでいない. なぜなら,およそアルものはそのアルことにおいて,そのアルの謂についての明瞭な概念は未だ形作られていなくても,漠然と既に規定されえるからである. 

従来のオントロギーにおいても,アルは前提されているのである. たとえ,その前提がアルが現に問い求められている場合でのアリ方において前提されているのではないとしても.

アルを前提すること( 従来の不十分なオントロギーでのアルの前提か,ハイデガー的なアルの前提か? )は,およそのアルものに先行的にアルことに着眼するということを含む. 

このアルへの着眼は,我々が日常的にそれにあって生きてアルところの平均的な・アル・の・理解から生じてくるのである,そして,この平均的な・アル・の・理解は,此処にアル(者)(人)が此処にアル者であるための本質的な体制に基づいている.

アルの謂についての問いには,循環論証というものはそもそも存在し得ない,なぜなら,その問いへの答え方は,根本命題から演繹的に導出するのではなくして,すでに漠然と与えられてアルものを明瞭化しつつ提示するという根底の露開だからである.
§ 3. Der ontologische Vorrang der Seinsfrage
     アル[へ]の問いの有論的優位

(1)
アル・への・問いの性格付けは,その問いの独自的問の性格の明瞭化・洗練化・及び解決に,一連の基礎的諸考察を要求する,事が第二章までで明らかにされた. アル・への・問の[ 他のアルモノへの問に対する ]卓抜性は,それらの諸問からその問が機能と意図と動機に関して明瞭に区別され限界付けられた時にはじめて,その卓抜性をもって十全に明らかにされるであろう.

(2)
[これまでは=bisher 不詳]アル・への・問が繰り返し問われ続けて来た理由は,(i)アル・への・問の由来の高尚さ故に,(��)その問の明晰な答えの欠如ゆえに,(��)設問それ自体の不鮮明さ故に,である. では,アル・への・問を今なお問うことは,単なる哲学史的権威の慣習に従順な「最も普遍的な普遍性( allgemeinste allgemeinheiten )」についての空虚な思弁であるのか,それとも,最も原理的かつ最も具体的( konkreteseten)な問であるのか,その何れであろうか( 勿論,後者である. )

* ハイデガが普遍性を空虚とほぼ等値に扱っている理由は何か?
(3)
アルは,常に或るアルもののアルである( 存在者から独立した抽象的な存在そのものが想定されてはならない. )
従がって,およその諸アルものは,' nach seinen versieden Bezirken zum Feld '(不詳: ),[ そのアルもののアリ方に従がって ]各々の諸アルものからなるアルもの領域を構成し,他の諸アルものどもの諸領域との相違を,[ それらのアリ方に基づいて ]既に確立してしまっている. このアリ方の相違に基づく諸領域の相互独立は,学的諸探求の際に,[ すでに暗黙裡に相違していたものが]「対象として主題化」され,明るみに取り出される. 但し,諸学がなす学の領域確定は,半=有論的でしかなく,粗放なものに留まってはいるのだが. それでも,それらの日常的で半=有論的な[ 学的に有論的に未だ反省されざる ],[ 各諸学問における ]「根本諸概念」は,各個学問領域のとりあえずの展開における導入的手がかりとして,現に機能しているのである. ただし,有論的に学的=反省的な探求においては,個別諸学問の発見結果の集積とその類別集成であるよりは,それらの学的営為が導くところの各々の<事象>諸領域の根本的諸体制を問うというメタ的な問が遂行される.
(4)
諸学問の本来の[ かつメタ的な ]意味あいでの学的遂行>> Bewegung << は,各諸学問の根本的で徹底的なかつそれを見渡す*という仕方での[ メタ学問的 ]再検討という為され方で行われる.

* 辻村・ブフナーの注釈に従がって, ' nicht 'を削除して解釈した.
(5)
一見最も厳密な数学は,所謂「基礎危機」に陥っている*.

* 19世紀末から20世紀初頭の数学の危機.

形式主義と直観主義の論争は,数学の対象への第一次的な接近法についての議論である*.

* 両者とも数学的対象の措定を前提としているところに,この対立の不毛さがあるのではなかっただろうか?

物理学における相対性理論は,自然それ自身の固有な連関性を「それ自体に於いて」存するとおりに明るみに齎す*,という傾向の産物である−−即ち,運動諸法則の不可変性を他の何事をも犠牲にしても固守しているのである.

* そうでない(ハイデガによれば)誤った手法とはいかなる接近法であるのか?

生物学では,機械論と生気論とに代わり,生きているものそのもののあり方を問題意識の遡上に取り上げている.

歴史学的な精神諸学問においては,純粋な文献学が問題史に転換する事により,史的現実それ自体への接近がより試みられてきている.

神学では,神へと関わる人間のそのアルことをより根源的かつ信仰それ自体の意味から規定しつつ,しかもあくまで信仰の内部に留まるという仕方で解釈する事を求めている.
すなwち,神学の教義学的大系が基づく基礎は,信仰しつつ問うことによってではなく[ 非実存的で,アルの通俗了解を無批判に前提した上で立てられた哲理的体系であるが故に ],むしろ神学の根本問題を隠蔽してしまうのである,ということに神学者は気づきつつある.

* 宗教史学派に代わる危機神学の登場を意識しているのか,あるいは実存神学を意識しているのか?
根本諸概念とは、ある一つの学の主題とされる全ての諸対象の根底に存する(zugruendeliegende)事象領域が,〔その学の実証的研究に〕(1)先行し,かつ(2)一切の実証的研究へと導く理解へ,〔その諸概念の内で当該の学的探求の成果が〕もたらされてくるような,そのような諸規定である.

だから,これらの根本諸概念のまっとうな仕方での〔その本性・源〕を示すことと理由付けを得る事は,当該の学の根底的事象領域を,〔その学の実証的研究の産物に沿ってではなく,むしろその学的探求そのものに〕先行しているその在りかたにおける探究によってこそなされるのである.

さて,何れの学の根底的事象領域もが,全て,有るものの範囲に属している〔即ち,有るものが扱われている〕のだから,実証的諸学に先行し且つより根本的な諸概念それ自身を知ろうとする探究は,諸学が扱う有るものを有るものの有るという事それ自体の根本的な有り方を問うことである. 〔 当然ながら 〕この探究は,個々のの実証的諸学に先行することになる. そして,この探究が実証的諸学に先行することは可能である. プラトンとアリストテレスの存在論的研究は,実証的諸学に有論が先行可能であることを例証しているのである. 
(6)
根本諸概念とは、ある一つの学の主題とされる全ての諸対象の根底に存する(zugruendeliegende)事象領域が,〔その学の実証的研究に〕(1)先行し,かつ(2)一切の実証的研究へと導く理解へ,〔その諸概念の内で当該の学的探求の成果が〕もたらされてくるような,そのような諸規定である.

だから,これらの根本諸概念のまっとうな仕方での〔その本性・源〕を示すことと理由付けを得る事は,当該の学の根底的事象領域を,〔その学の実証的研究の産物に沿ってではなく,むしろその学的探求そのものに〕先行しているその在りかたにおける探究によってこそなされるのである.

さて,何れの学の根底的事象領域もが,全て,アルものの範囲に属している〔即ち,有るものが扱われている〕のだから,実証的諸学に先行し且つより根本的な諸概念それ自身を知ろうとする探究は,諸学が扱う有るものを有るものの有るという事それ自体の根本的な有り方を問うことである. 〔 当然ながら 〕この探究は,個々のの実証的諸学に先行することになる. そして,この探究が実証的諸学に先行することは可能である. プラトンとアリストテレスの有論的研究は,実証的諸学にアルについての学(有論)が先行可能であることを例証しているのである.

〔実証的学に先駆してその事象領域の根本諸概念事態を蹴訣抉するという〕このような仕方での諸学の根底を定める〔という学のある筈の姿をその根源から探り抉り出す〕ことは,ある特定の学が<現在偶々このようになっているという>偶然的現状を「その学の「方法に従がって」」〔すなわち,現にその学が採用している方法に哲学的には無批判に追従的に〕研究する「論理学」――「学〔が現に成立して行われているその〕の後から〔その学が現に採用している方法を〕調べ探す,というやり方の「論理学」――とは,全く異なったものである.

〔我々がなそうとしている〕<学の>根底を定める〔根本原理と根本諸概念をあるべき様に明るみに齎す〕事は,以下の意味で「先導的な〔即ち,既に特定の姿でアル学のアリ様を記述するのではなく,アルの学的にアルべき学のアル姿を定める〕論理学」である. それは,「或る一定のアル・の・領域のうちへいわば<学より>先に飛び込み,その領域をそれの有・の・体制に於いて〔其れまでは漠然としていたのであるから〕初めて〔哲学的に明瞭に〕開示し,〔こうすることによって〕得られた<その領域の>有の諸構造〔についての理解〕を,〔諸学の〕問を導く諸々の透見的な指図として,実証的な諸学に〔それがあるべき姿を規定することによって〕役立たせるのである.

* すると,ここでいわれている「論理学」とは,じつは規範的学問方法論,科学(各学の)哲学のことではないのだろうか?

歴史学を一例にあげて説明する. 歴史学についての哲学的に第一次的な営為は,歴史学がなしている概念形成についての理論ではない,「歴史学の客観としての歴史についての理論でもなくして」(意味不詳) 本来的に歴史的にアルものをそのアルものの歴史性に向かって研究的に解釈することである. だから,純粋理性批判においてカントがあげた哲学的な主要業績(意義)は,「認識の「理論」というようなことに,存するのではな」く,「自然全般に何が属するかを,明るみに取り出すという仕事に着手したということに,存する」のである. カントが超越論的論理学と呼ぶものは,「自然というアル(もののアル)・の・領域についてのアプリオリな事象論理学」( Seine transzendentale Logik ist apriorische Sachlogik des Seinsgebietes Natur. )である.  
(7)
ただし,前述の仕方で問うこと――すなわち最も広義で解される限りでのオントロギー――は,一つの手引きを必要とする.
確かに,オントローギッシュに,つまりアルことのアルのジンを問うことは,実証的諸学がなしているアルものの諸関係・諸成立をとうオンティッシュな問いに対して,より根源的である.
ただし,オントローギッシュに問うことは,アルもののアルことそのものに関する諸々の探求である. だから,それらの探求がアルものがアルことのジン一般を明らかにしないで放置しておくとするなら,このようなオントローギッシュな問い方というのも,オンティッシュな諸学と同様に〔アルのジン一般を不分明なままに個別的問いへの探求に走っている点において〕素朴かつ不透見である.
だから,オントローギッシュな問いは,あるオントローギッシュな課題に答えることを必要とする. その課題とは,アルということがおよそ可能である限りでの様々なアリ方の「演繹的に構成されるのではない系譜学*( einer nicht deduktiv konstruierenden Genealogie)」であり,それは「アル」というこの表現でもって我々は何を本来的に( eigentlich )に言っているのか?という事柄に対するある一つの前=理解を必要とする.

* 非演繹的な系譜的研究 が何をさすのか,報告者には不分明.
(8)
従がって,アル・の・問が目指すことは,
(1)実証的でオンティッシュな諸学を可能ならしめているア・プリオリな制約を明るみに出すこと
(2)諸アルもの〔の関係と成立・非成立〕を探求するオンティッシュな諸学に〔権利上〕先立って存在しながら,それらの諸学を基礎付ける諸々のオントロギーを可能ならしめている制約を明るみに出すこと.

全てのオントロギーは,仮に以下二つの条件が満たされていないならば,すなわち
(�顱縫�ントロギーが前もってアルのジンを十分に明らかにしていること
(�髻砲海痢魅▲襪離献鵑髻猷鯡世垢襪箸いΣ歛蠅鬟�ントロギーの基礎的課題として把握していること
この二つの条件が満たされていないときには,そのオントロギーの営為は根本的には盲目であり,「それ自身の最も独自な意図の錯倒( Verkehrung )である]. たとえ,そのオントロギーの営為がいかに豊富かつ堅牢に固められた範疇体系を使用していても 〔――その根本が失念されているのだから〕である.
アル・の・問が〔他の諸問・諸学に〕優位に立つのは,他のいかなる諸学に対しても基礎的なオントロギーこそが先立つからである. 
その優位は,〔少なくとも第一義的には〕単にアル・の・問が高貴な〔哲学的〕伝統の〔継承と〕再現であるからでも,今まではよくわからないでいた一つの問題〔の理解・解明〕を推進するからでもない.

しかし,この事象的―学的な優位( sachlich-wissenschaftliche Vorrang )が〔 アル・の・問の他の諸学の諸問に対する 〕>唯一の<優位ではない.
第四節 アル・の問のオンティシュな優位

(1)
諸学問は――完全な定義でも学の持つ意味において的中してもいないが〔とりあえず〕――真な諸命題の理由付け連関の総体である.
<哲学と諸科学とを含めて>諸学は,人間のとる諸行動の〔あるもの〕として,人間というアルもののアリ方の性格を持っている〔もしくはアリ方によって性格づけられている〕. この人間というアルものを,ハイデガは述語として現有と名付ける. 学的探求は,この現有の唯一のアリ方ではない〔学以外の人間の諸営為が存在するから〕し,最も身近な可能的なアリ方でもない(? 最も日常的生活に於いて慣れ親しんだアリ方ではない の意か?). 更に,現有それ自身は,他のアルものから際立った卓抜なアリ方をしている. この現有の卓抜なアリ方を明らかに見せることが重要である. それゆえ,後に本来的に提示する現有のアリ方についての書分析を,とりあえず先どっていかに述べる.
(2)
現有は或るアルものではある,但し,他の諸或るものと同様の特別目立たぬ一つのアルものではない.
現有は,オンティッシュには「このアルもの〔=現有〕にとっては彼のアルことにおいてそのアルことそれ自身が肝心である」という点に於いて卓抜的である. 〔 いいかえれば,他の諸アルものはアルことそれ自身が特別肝心でないのに対し,現有のみはそれが肝心なのである〕. つまり,現有のこのアル・の・体制には,以下のことが意味されている,先ずは,現有は彼のアルにおいてこのアルこと〔それ自身〕へと関わる,或るアル・の・関わりを持っていること. ついで,現有は彼がアル〔その〕ことにおいて何らかの仕方と表明とをもって,〔自らのアルことのアリ方〕それ自身理解している. この〔現有という〕アルものには,彼がアルことと共に且つ彼がアルことそれ〔自身〕を通じて彼がアルそのアリ方が現有自身に示されてアル,という独自性が属する. アルこと・の・理解は,それ自身現有〔が,他の諸々のアルものどもとは異なって,卓抜にかつ本質的な〕アルこと・の・明確な一特徴( Bestimmtheit)である. 現有のオンティッシュな〔すなわちアルものとして他の諸アルものどもに対する〕卓抜さは,現有はオントローギッシュにアル〔すなわち,自らがアルことのそのアリ方を了解しつつアル〕ということに他ならない.
(3)
〔凡そ〕現有は〔特徴的に〕オントローギッシュにアルといっても,ここではまた,現有が形成され終えたオントロギーを有している,という意味ではない. だから,仮にオントロギーという名称をアルものの〔アルというそのことの〕ジンを明確且つ理論的に問うことを言い表す名称にのみ使おうと考えるならば,その場合には,現有が常にオントローギッシュにアルという意味での「オントローギッシュ」は,「前=オントローギッシュ」という名称で置き換えられ〔現有は常に前=オントローギッシュにアル,と特徴づけのいい直しがなされ〕ねばならない. 但し,現有が前=オントローギッシュにアルということは,現有が単にオンティッシュにアルということを意味するのではなく〔つまり「前=」という前綴でオントローギッシュな了解がもたれていることが否定されるのではなく〕,〔たとえ学的に仕上げられていないにせよ凡そ〕現有は〔自らが〕アルことを何らかの仕方で〔常に既に〕理解している,というそういうアリ方でアルのだ,という事を意味している.
(4)
そのアルことそれ自身を,つまりダーザイン(ココニアル〔もの〕)が自己自身を何らかの仕方で関わらしているその当のアルこと〔のアリ方〕を,ハイデガはイクシステンツと名付ける. そして,この〔ここにアルもの〕というアルものの本質規定は,或る事象の実質を含んだ何であるかということを述べることによってはなされえず,このアルもの〔である,ここにアル〕がその都度〔常に〕アルということを自らのアルこととしつつアルのでなければならないという事によってなされる. だから,この常に自らのアルことを自らがアルこととして了解しつつアラねばならない,という特質の故に,人のアリ方の表現として,純粋にアルことを表現する「マサニ/ココニアル〔もの〕」という名称が選ばれたのである.
(5)
マサニ/ココニアル〔もの〕は,自らを常に自ら自身のイクシステンツから理解している,つまり,彼が自己自身でアルのかそれとも自己自身ではなくアルのか,という自己自身の可能性から理解している.
〔彼の現状が彼自身でアルのかそうでなくアルのかという〕その諸可能性〔の中の現実〕を,マサニ/ココニアル〔もの〕は,彼自身で選んだか,それらの可能性の内へと陥ったか( 意味不詳 ),もしくはその都度既にそれらの可能性の中でおい育ってきたか,のいずれかである.
イクシステンツは,<それを>〔マサニ/ゲンニアル〔もの〕自身が〕掴み取るか取らないのかを,各々のマサニ/ゲンニアル〔もの〕自身によって,〔しかも彼自身によってのみ〕決断されるのである.
イクシステンツの問は,〔単に空想的思弁の中で答えうるのではなく〕常にただイクシステンツすることそれ自体を通じてのみ答える(=決着をつける)しかない.
この〔現にイクシステンツすることによってイクシステンツへの問に自分なりにその時々において答える〕この場合に,<イクシステンツすることの内にあってそのことを>導いている〔マサニ/ゲンニアル〔もの〕の,自己が如何でアルのかという〕自己理解を,ハイデガはイクシステンツィエーレと名付ける. イクシステンツの問は,マサニ/ゲンニアル〔もの〕のオンティッシュな<すなわち,アルものに関する>一つの「関心事」である. 〔従がって,イクシステンツの問に答える〕このためには,イクシステンツのオントローギッシュな構造が理論的にはっきり見通されている必要はない. 
〔対して〕イクシステンツのオントローギッシュな構造〔が如何であるかに関する〕の問は,イクシステンツを構成しているもの*<すなわちその諸構造>を,分析し解明することを,もくひょうとする. これら〔イクシステンツを構成する〕諸構造の連関をハイデガはイクシステンツィアリテートと名付ける. イクシステンツィアリテートを解明する分析の議論は,イクシステンツィエールな理解という性格をではなく,イクシステンツィアールな理解という性格を持つ. マサニ/ゲンニアル〔もの〕のイクシステンツィアールな分析論という課題は,その可能性と〔それがなされるべき〕必然性との何れに就いても,マサニ/ゲンニアル〔もの〕のオンティッシュな体制<すなわちマサニ/ゲンニアル〔もの〕はオントローギッシュ乃至前オントローギッシュに有るというその体制>,〔いいかえればマサニ/ゲンニアルものは前オントローギッシュな了解を持ちつつアルというオンティッシュな性格をもつということ〕の内に,その輪郭が先行的に〔即ち学的且つ有論拠的にではなくではあるが〕規定されている.

*「かくして実存哲学ではない.」との訳者の評言.
(6)
イクシステンツ〔というアリ方〕がマサニ/ココニアル〔もの〕を規定している限り,この〔マサニ/ココニアル〔もの〕〕という〔特異な〕アルもののオントローギッシュな分析論は,それがなされるたびごとに常にイクシステンツィアリテートへの或る先んじての着眼を必要とする. 〔つまり,Daseinのイクシステンツィアリテートへの何らかの判りと注目なしに,Daseinのオントローギッシュな分析はなされえない. 〕

ハイデガは,このイクシステンツィアリテートということを,イクシスティーレンするアルもののアル〔こと〕・の・体制〔アリ方〕として理解している. そして,そのようなアル〔こと〕・の・体制なる考え(Idee)の中には,既にアルということ一般の考えが含まれている. だから,マサニ/ココニアル〔もの〕を分析する論考が徹底的になされえるその可能性は,アルということのジン一般〔は何であるかということ〕の問を予め仕上げておくことにかかっている.
(7)
諸学は,マサニ/ココニアル〔もの〕の様々なアリ方のいくつかである〔 つまり,学的営為以外のDaseinのあり方も多数アル. 〕 その諸学へと関わるココニ/マサニアル〔もの〕のアリ方において,ココニ/マサニアル〔もの〕は,〔関わる相手もココニ/マサニアル〔もの〕にも関わるのと並んで〕〔それ自身は〕必ずしもココニ/マサニアル〔もの〕ではないアルものにも関わっている. 然るに,ココニ/マサニアル〔もの〕は,本質的に,>>ある【世界】の中にアル<<という特性を持つ. 
だじゃら,ココニ/マサニアル〔もの〕が〔必ずや持っている〕アル〔ということが何であるか〕・の・理解は,何か【世界】というものの理解と,この【世界】の内部に於いてそれへと近づくことが可能になるようなアルものの理解と〔の両方に〕同じく根源的に関わっている. 其れ故,ココニ/マサニアル〔もの〕ではないアリ方の性格をもつアルものを主題とする〔すなわちDaseinとしての人間以外を主題とする〕諸学のオントロギーは,その学の基礎と動機を,ココニ/マサニアル〔もの〕自身が持っているオンティッシュナ構造:即ち,自らが自らの内に前=オントローギッシュなアル〔とはいかなることであるのかということへ〕の・理解〔を必ずや持つという〕規定性を判っているというオンティッシュな構造の内に,持っているのである.
(8)
其れ故,基礎的オントロギー〔というもの〕は,そこから他の全ての諸オントロギーが派生し得てくるものであるのだから,マサニ/ココニアル〔もの〕〔が持っている判り〕のイクシステンティアールな分析論に求めねばならない.
(9)
従がって,マサニ/ココニアル〔もの〕は,他の一切のアルものに対して,一つの三重になった優位性を有する.
第一の優位は,オンティッシュな優位である: すなわち,マサニ/ココニアル〔もの〕というアルものは,自らがアル〔そのアリ方〕においてイクシステンツに規定されてアルことである.
第二の優位は,オントローギッシュな優位である: すなわち,マサニ/ココニアル〔もの〕は,彼がイクシステンツ〔というアリ様〕によって規定され〔つつ〕アルが故に,彼自身に於いて「オントローギッシュ」〔な了解を持ちつつ〕アルという事である.
第三の優位は,マサニ/ココニアル〔もの〕ではない一切のアルものアル〔ということは何であるか〕を理解している事である.
この三つの優位性の性格は,等根源的である.
かくして,マサニ/ココニアル〔もの〕は,其の他の一切のアルもの〔についてのオントローギッシュな問を問うに〕先立って第一義的に〔即ち価値的にも手続き順序的にも先ず〕オントローギッシュに問いかけられるべきものである,ということが明らかになった.
(10)
 しかし,イクジステンツィアールな分析論は,それ自身としては,イクシステンツィエールに,つまりオンティッシュに根を張っている〔のであって,無条件にオントローギッシュなのではない〕. 哲学的に―探求しつつ問うことそれ自身が,イクシステンツするマサニ/ココニアル〔もの〕がアルことの可能性として,イクシステンツィエールに了握された場合にのみ,イクシステンツのイクジンステンツィアリテートを明るみに出すことが可能になるのである. この事によって,凡そのオントローギッシュな問題に十分に基礎付けられつつ着手する可能性が存立する. かくして,アルこと・への・問のオンティッシュな優位性も明らかになった.
(11)
 マサニ/ココニアル〔もの〕のオンティシュ―オントローギッシュな優位は,早くに認識されていた. しかし,マサニ/ココニアル〔もの〕それ自身が彼の純正なオントローギッシュな構造に於いて<主題的に>把握されるということはなく*,そのことを目指す問題になっていくということすらなかった.

* マサニ/ココニアル〔もの〕としてではなく,単に魂や人間として探求されたにとどまるということだろうか? 不詳

アリストテレス曰く「魂はある仕方で諸々のアルもの<一切>である」. 人間の魂は,或る仕方でアルものである. 人間がアルそのことを成している「魂」は,感覚と思惟という魂のアリ方に於いて,一切のアルものを,それらが=アルことそのもの(Daβ)とそうアル( So-sein )という事に関して,すなわち常にそのアルことにおいて露にする. この命題を,トマスは,取り上げて特徴的な手法で詳論した. アルものが持ち得る事象実質を含んだ類的な規定性のいかなる規定性をも超越して在るとともに,それが如何なるものであろうと必然的に属せずにはおかないアルこと・の・諸性格である「諸々の超範疇( Transzendentien ) 」を導出するという仮題の内部では,真( verum )ということもまた,そのような超範疇の一つとして論証されねばならない. その論証は,下記のアルものを根拠として引き合いに出すことを通じてなされる,すなわち,そのアルものとは,そのアリ方に従がって,それ自身が何らかの〔如何様な〕仕方で〔あれ〕アルところの如何なるアルものとも「合致する」という特性をもったアルものを通じて,である. このような卓越的なアルものとは,魂である. なぜなら魂は「一切の在るものと合致するように本性上生まれ着いている,アルもの」だからである. 〔かくの如き議論によって,トマスにおいては,〕その他の一切のアルものに対するマサニ/ココニアル〔もの〕の優位性は,オントローギッシュには明らかにされていないとはいえ,〔少なくともその優位性そのものは〕明るみに出されているのである. 〔しかも,トマスにおいて〕ここで明るみにたち現れているマサニ/ココニアル〔もの〕の〔たの諸アルものに対する〕優位は,アルものの一切の好ましくない主観化とは別個のものである.
(12)
 アル〔について〕の問がオンティッシュ−オントローギッシュな卓抜さ〔を有していることの〕の証示は,マサニ/ココニアル〔もの〕のオンティッシュ−オントローギッシュな優位を予め示しておくことに,基づいている. 但し,アル〔について〕の問そのものの構造の分析(§2)は,この問の設定自身の〔範囲〕内におけるこのアル物〔即ちココニ/マサニアル〔もの〕〕が持つ或る一つの傑出した機能に行き当たっていたのである. 問うことが,透見的に( druchsichtig)問うことであらねばならないならば〔そしてそうあらねばならないのだが〕,この場合ココニ/マサニアル〔もの〕は,それ自身〔が何であるかという了解〕を,前もってオントローギッシュに十分に仕上げられておかねばならない処のアルものとして,自らを露にした. いまや,次のことが示された,すなわち,ココニ/マサニアル〔もの〕のオントローギッシュな分析が,総じて基礎的オントロギーを構成している,ということであり,したがって,ココニ/マサニアル〔もの〕が根底から予め彼のアル〔ということが何であるかに〕ついて>問い掛け〔がなされ〕る<べき〔対象としての〕アルものとして機能する,ということである. 

(13)
 アルのジン〔について〕の解釈が課題になるならば,ココニ/マサニアル〔もの〕は,第一次的に〔=最初に/最も重要な〕問いかけ〔がなされ〕る〔べき〕アルものであるだけではない,それは更に彼のアル〔ということ〕に於いて常に既に>コレ<〔の問すなわちアルとは何であるかという問〕に関わって〔しまって〕いる,〔そのような〕アルものなのである. だから,まさしくアル〔とは何であるかということ〕の問は,ココニ/マサニアル〔もの〕それ自身に属している本質的なアル〔・ことの・〕傾向を,〔即ち〕前=オントローギッシュなアル〔とは何であるかについて〕の理解を,根本から徹底的に磨き上げる( Radikalisierung )ことに他ならない.
第二章 アル〔とは何であるかという事へ〕・の・問を完全に作り上げる営為における二重の課題( Doppelaufgabe )
〔アルとは何であるかということへ・の・問〕*1の研究の方法と,そ〔の探求〕の*2概略(=見取り図)

*1 der UntersuchungをSeinsfrageのととったが,或いはAufgabeか
*2 その(ihr )は,Untersuchungととった

§5 アル〔というコト〕のジン一般を,〔一つの仕方で〕解釈する為の,地平*1を露にせしめることとしての,マサニ/ココニアル〔もの〕についてのオンロトーギッシュな分析〔論〕

*1 Horizont 不詳
(1)
 アル〔とは如何なることであるのかという事へ〕の問の〔占める〕>>地位<<の中に存する諸課題が特徴付けられる際には,〔次のことが〕すでに示された,〔つまり〕それは,ただ第一次的に問い掛けられるものとして役割を果たすべきである,そのアルモノ>を<確定することが必要であるのみならず,またこのアルモノへと正しく近づいていく〔ための〕方法(=道筋)をはっきりと( ausdruecklich )入手し確保することが要求される. どのアルモノが,アル〔とは如何なることであるのかという事へ〕の問の内で,その卓越した(=特に目立った,特別の)地位を引き受けるのか,ということは,既に〔マサニ/ココニアル〔モノ〕である,と〕論じられた. しかし,如何にして,このアルモノ,〔すなわち〕マサニ/ココニアル〔モノ〕は,判り易くなり(=接近が自由になり zugaenglich )かつ〔マサニ/ココニアル〔モノ〕のアルがアルと如何なることであるのかという事への問において果たす役割を〕理解しつつ提示することの内で,いわば方向を定められる(=狙いをつけられる)べきであるのか.
(2)
 既に論証された( nachgewiesene )マサニ/ココニアル〔モノ〕のオンティッシュ―オントローギッシュな優位は,〔以下の様な〕誤解へと導くかもしれない,〔即ち〕コノ〔マサニ/ココニアル〔モノ〕という〕アルモノは,また,オンティッシュ―オントローギッシュに第一次的に与えられた*1ものでもあらねばならない,然も,そのアルモノそれ自身が》一つの非媒介的(直接的)に《手で取れる(手近にある)ものだというジンにおいてのみならず,そのアルの仕方が同様に*2》直接的《に〔一切のものに先立って:辻村〕予め与えられてしまっているという点においても〔マサニ/ココニアル〔モノ〕は他の諸アルモノに対して先んじてオンティッシュ―オントローギッシュに与えられている,という誤解にである〕.
マサニ/ココニアル〔モノ〕は,なるほどオンティッシュにはただ単に〔私に〕近いもしくは更に最も近い〔身近である・見慣れている〕ものであるのみならず,−−それどころか,我々が各々自身でそれ〔マサニ/ココニアル〔モノ〕〕で【 あ る 】. それにもかかわらず,若しくは,まさにその故に,それ〔マサニ/ココニアル〔モノ〕〕は,オントローギッシュには,最も遠い〔縁遠い・了解の外にある〕のである. なるほど,それ〔マサニ/ココニアル〔モノ〕〕の最も自己的なアル〔というコト〕には,それ〔マサニ/ココニアル〔モノ〕がアルとは如何なることであるのか〕についての或る〔一定の〕理解を持つという事,そして,その都度既に彼のアル〔というコト〕が一つの或る程度〔まで〕は解釈されているということ( Ausgelegenheit )の内に保持されている,という事が,属している. しかし,そのことをもってして,決して〔以下の事が〕いわれているのではない,〔即ち〕 それ〔マサニ/ココニアル〔モノ〕〕それ自身にとっての最も身近な前オントローギッシュなアル〔とは如何なることであるかについて〕の解釈が,あたかもこれ〔マサニ/ココニアル〔もの〕〕のアル〔こと〕の理解が〔マサニ/ココニアル〔モノ〕の〕最も本源的なアル〔ということの〕体制についての主題〔として扱われたものとして〕のオントローギッシュな意味〔を〕思惟〔されたこと〕から源を発してきたものであるに違いないかのように〔見做され〕,〔マサニ/ココニアル〔モノ〕がアルとは如何なることであるのかを明らかにさせるのに〕適宜な手引きとして了承されてしまい得るということが〔いわれているのではない〕.  マサニ/ココニアル〔モノ〕は,むしろ,彼に属する(=彼がそうである)アリカタに従がって,〔以下の〕傾向を持っている,〔即ち〕,〔マサニ/ココニアル〔モノ〕の〕自己(自身の)のアル〔ということ〕を,それ(=マサニ/ココニアル〔モノ〕)自身が本質的に絶え間なく*3そして今のところは(=さしあたって,当面は)関わりあっている>その<諸々のアルモノどもから,即ち》世界《(の方)から,(マサニ/ココニアル〔モノ〕である自分からではなく単なるアルモノから逆に),理解する,という〔その傾向を持っている〕. マサニ/ココニアル〔もの〕それ自身の内に,そしてそれとともに(に従がって),彼が固有に〔持っている〕アル〔とは如何なることであるかについて〕の理解の内に,我々が〔後に:辻村=後述するであろう〕,マサニ/ココニアル〔モノ〕についての世界理解のオントローギッシュな立ち戻りつつの反映( Rueckstrahlung )*4として,提示される事が,存している.

*1 「第一次的に与えられた primaer gegebene 」 不詳:おそらく,他のSeiendenに対してそのSeinsartが先んじて与えられ,知られている,との意か.
*2 「同様に ebenso 」単にそのSeiendが手近にあって直接的に掴まえやすいのみならず,そのSeiendのSeinsartまでが(前者とは全く異なるのに)同一のSeiendについてのものだからといって>同様に<直接に掴まえ易い,と考えてしまう,という誤解であろう.
*3 「絶え間なく staendig」 日常的にはマサニ/ココニアル〔モノ〕にとって恒常的・永続的にそうであり続けるが,オントローギッシュな問いかけにおいて,それとは別な了解の仕方( 即ち哲学的=存在論的に正当なアルのジンが開示される仕方)へ彼が変じることがあり得るからこそ,SuZの思索が可能なのであるから,「恒常的・永続的」ではなく(とりあえず,普通は の意を含ませて)「絶え間なく」とする.
*4 なぜ,単にStrahlungではなくRueckstrahlungなのか,つまりなぜ「立ち戻りつつの」反射・反映であるのか不詳.
(3)
 其れ故,ココニ/マサニアル〔モノ〕のオンティッシュ―オントローギッシュな優位は,ココニ/マサニアル〔モノ〕にとって彼の種族に特有な( spezifische )アル〔が彼にとって如何なるしかたであるかの〕体制( -verfassung )――彼〔ココニ/マサニアル〔モノ〕〕に属する》範疇的《構造のジンにおいて理解されている〔限りでの彼にとって如何なる仕方で彼がアルのかという体制〕――は,覆い隠されたままになっている. ココニ/マサニアル〔モノ〕は,彼自身に,オンティッシュには》最も身近《である*1, オントローギッシュには最も遠い*2,しかし,とはいうものの前オントローギッシュには疎遠なものではない*3.

*1 自己自身を常に選ぶ(もしくは等閑視している)というイクシステンツィエールな態度を常に既に選びつつある点において,最も身近なのであろうか. それとも第五節で述べられた,ココニ/マサニアルモノは我々自身ですらある点において,最も身近なのであろうか.
*2 確かに,ココニ/マサニアル〔モノ〕のアルということが如何なることであるかは,他の諸々のアルモノのアルということが如何なることであるかに劣らず,漠然としか,我々には今のところ了解されていない. とはいえ,なぜ他の諸々のアルモノに比べて(それ以外に比較が用いられる意味があろうか,それとも絶対最上級であろうか)「最も遠い」のか不詳. 仮令,ココニ/マサニアル〔モノ〕が,諸々の他のアルモノのアルから自己のアルを了解しがちであるとしても,この場合,他の諸々のアルモノのアルコトが如何なることであるかが不明(=遠い)であることを超えて,そのように了解されたココニ/マサニアル〔モノ〕がより不明(=最も遠い)のか説明できるとは思われない.
*3 自分自身と他の諸アルモノとを含めて,アルとは如何なることであるかについて,ココニ/マサニアル〔モノ〕は,彼自身がアルそのアルを通じてアルコトのジンが彼自身に開示されており,彼自身漠然とではあるがアルとは如何なることであるかについて了解を持っている故に,疎遠ではない(=一定の了解を持っている).
(4)
 これを以って,暫定的には,ただ〔下記のこと〕だけが告げ示されている,〔即ち〕,〔ココニ/マサニアル〔モノ〕という〕このアルモノの解釈は,独特な諸困難に直面している,その諸困難は,主題である対象と主題化する態度自身とのアル・の・仕方に基づいている,そして,我々の認識能力の何らかの資質的欠陥( mangelhaften Ausstattung )や一つの適切な概念性*1の一見しただけでは容易に埋め合わせられそうな(>取り除けそうな zu behehebenden )欠乏に基づいているのではない,〔という事だけが告げ示されているのである〕.

*1 意味不詳
第一篇

ヒト(Dasein)を了解するための準備としての基礎分析

 アル/イルとは何かという問いにおいて,先ずそして最重要に問いかけられる対象は,ココニ/マサニイル〔モノ〕という性格をもつもの,つまりヒトである. ココニ/マサニアルという性格を持つものとしてのヒトを主題とする,準備的な実存論的な分析論は,ひとつには要約的な内容紹介と,ヒトの実存論的な分析論と平行して営まれているように思われるが(存在論的には実は劣位な)他の諸分野の諸研究との差異付けとを,まずなさねばならない.(第一章) こうしつつ,ヒトのもつ世界の=内に=イル という基礎構造が明らかにされなければならない.(第二章) ヒトを理解するための先験的条件(アプリオオリ)としての世界の=内に=イル ということは,ひとつの根源的で全体的な構造であって,さまざまな諸契機の組み合わせから偶然的になる合成的派生的構造ではない. とはいえ,世界の=内に=イルという構造は,さまざまな諸契機から構成されてはいるのであって,その構造が諸契機を明るみに出す端緒ともなるのである. 世界の=内に=イルというこの構造を,常にその都度それを構成する諸契機に対し権利上先行する全体性を常に視野に納めつつという限りで,それらの諸契機が現象的に明らかにされる. これらの諸契機として探求の対象になるのは,世界性における世界(第三章),〜ト共ニイルことと,自らでイルという二つのアリ方で世界の=内に=イルこと(第四章),〜ノ内ニイルことそれ自身(第五章)である. これら三つ乃至四つの契機からなる基礎構造の分析に基づいて,はじめてココニ/マサニイル〔モノ〕のイルということの意味の暫定的な内容提示が可能になるであろう. そして,ココニ/マサニイル〔モノ〕が(ここに)イルということの実存論的意味は慮〔オモンバカリ〕なのである.(第六章) 
第一章 ココニイル〔モノ〕の取り敢えずの分析課題の簡単な提示

第九節 ココニイル〔モノ〕を分析する分析論の主題
 分析が課題になっている対象であるアル/イルモノとは,われわれ自身がおのおのそれであるところのイルモノ,すなわちヒトである. ヒトにおいてイルモノがイルそのことは,各人のイルことであって,漠然と一般的なイルことではない. ヒトは,自らがイルというそのことにおいて,自らを自らがイルということにかかわらしている. つまり,確認が自らとしてイルというそういう様態でのイルことにおいて,ヒトは,人それぞれがイルことそのイルにかかわらされているのである. このイルことは,ヒトそれぞれにとって重要である. ココニイル〔モノ〕のこの特性ゆえに,次の二重の規定が明らかになる.
1. ヒトというイルモノの「本質」は,ヒトがイナケレバ=ナラナイそのイルコトにある. ヒトが何でアルかという本質は,ヒトの現にイルこと(existentia)から理解されねばならないのであって,本質から存在へという方向で理解されるべきではない. とすると,オントローギッシュな課題として: われわれが,ヒトのイルことを<実存>という語で表すならば,この語は,伝統的な術語としてのexistenzia
がもつオントローギッシュな意味を持ち得ない,ということが立ち上る. なぜなら 従来の術語としての“existenzia”はオントローギッシュには目の前に(ごろんと/ただ)あるといった意味であり,他方,目の前に(ただ)あるということはココニイル〔モノ〕という性格をもつイルモノにはないアリ方だからである. したがって,ここからくる混乱をさけるため,本論では,従来の“existenzia”の意味では目の前にある性という語を用い,アルということを規定する概念としての”Exiztenz”はただココニイル〔モノ〕(のアリ方)にのみ割り当てる.
 ココニイル〔モノ〕の本質は,(定義上)目の前にアルこととしての存在(existentia)ではなく(彼がアラねば―ならないアル〔モノ〕であり,何らかでアリうるアルであろう〔モノ〕としての実存(Exiztenz)であることに存する.
 よって,ココニイル〔モノ〕の諸性格は,目の前にアルモノが持つ目の前に―ある諸性質ではなく,「その都度現有にとって可能な諸々の有り方であり,然もただそういう現有の可能な有り方」である. すなわち,それは,ココニイル〔モノ〕が,各々の今においてその都度あれやそれではなくこれを選びうるものであり,しかも現に選び取ってしまっている,といいうそういうココニイル〔モノ〕のアルの様態,すなわち可能性という様態である.
「この有るものに属する斯く有るということはすべて,第一次的に有である.」:意味不明.
「従って」ココニイル/アル〔モノ〕は,「机や家や樹木」といった名称がそれぞれの対象がナニであるかを分類し言い表しているのではなく,ココニイル/アル〔モノ〕のイル/アルを表現している.:後半意味不明
註を参照するならば,ココニイル〔モノ〕とは,どこかどうでもいいという意味で不定の乃至任意ののところに偶々アルのではなくして,他のいずこでもない私のココにイル事を「ココニイル〔モノ〕」という語は表明している.

 各々のココニイル〔モノ〕にとって「それが肝心である」(理由不明)ところのイル/アルは,他の誰の或いは他の何のイル/アルでもいいのではなく,まさにその本人各個の(各個にとっての)イル/アルである.( ちなみに目の前にアルモノについては,特段自らのイル/アルがこの種の特権的重要性を帯びるわけではない.)
 故に,ココニイル〔モノ〕は,オントローギシュには,目の前にアル/イル〔モノ〕としてのイル/アルものの一つの実例として扱うことは不適切である. なぜなら,両者のイル/アル仕方は根本的に異なるからである.
 目の前にアル〔モノ〕にとっては,自らが「アル」ということはどうでもいいのである.(無関心でありかつそれを自覚していることがイル/アル事の根本条件をなしてはいない)「直前的に有るものは,それにとってそれの有はどうでもいいという仕方で有り得るのでもなければ,どうでもいいのではないという仕方で有り得るのでもない,というように「有る」.」
 対して,ココニイル/アル〔モノ〕にとっては,>>自らが<<イル/アルことは根本規定である. だから,ココニイル/アル〔モノ〕を<・・・として>語り掛ける際には,ココニイル/アル〔モノ〕が自分が他のナニモノでもなく自分に他ならない各自性を根本規定とするが故に,「私はイル/アル」「汝はイル/アル」というように,(個別性に加え各自性をも際立たせる)人称代名詞を用いて語り掛けねば成らないのである.(論理不明:このところ,各自性が根拠であれば,アレ・コレという指示代名詞でも十分ではないか? )
¶5
ココニイル〔モノ〕は,常に瞬時瞬時に,或る何らのアルの様態であることにおいて(単に何らかのではなく)私がココニイル〔モノ〕としてイルのである.
というのは,ココニイル〔モノ〕は,「既に常に何等かの仕方で」どのようなアルの様態において(他の誰かではなく)私というココにイル〔モノ〕である事を,私というココニイル〔モノ〕が決めてしまっているのだから.
Das Seiende, dem es in seinem Sein um dieses selbst geht, verhaelt sich zu seinem sein als seiner eigensten Moeglichkeit.(意味不詳)
ココニイル〔モノ〕は,自らがアルその事こそが重要である,そのようなアルモノであって,そのアルモノすなわちココニイル〔モノ〕は,自らの固有な可能性として,(必ず何等かの或る仕方で)アルことに自らを関わらせている:即ち,ココニアル〔モノ〕は,アルの仕方の可能性こそを自らの固有な特性として持ちつつ,そのような特性を持つことをもって(目の前にアルモノが単にアルに過ぎないのと違って)アルことそれ自体と関わっている,との意だろうか?
ココニイル〔モノ〕は,常に瞬間瞬間毎に自分の可能性(の中から選び取られた或るアルの仕方でアル)のである. しかも,ココニイル〔モノ〕は,自分がいかにアルのかという可能性を,単に目の前にアルモノとして(意味不詳:おそらくは,自己決定性による選択の結果という動的可能性を欠いた静的な性質としての意か)単に性質的に有しているのではない.
 ココニイル〔モノ〕は,常に瞬間毎に自己の諸可能性の一つを選び取ってしまっていつつ次の瞬間へとの可能性の選択力を持っている,というのが,その(目の前にアルモノとの決定的な相違という意味での)本質である. 
 だから,ココニイル〔モノ〕は,自分がイルことにおいて如何なる自分自身でアルかを常に選び取りつつそうアラしめている(事がある). 或いは,ココニイル〔モノ〕は,自己を喪失し得る(意味不明),又「自己を決して獲得しなかったり,ただ「見かけ上」獲得するに過ぎなかったりする.」(意味不明) 前者が本来的な,後者が非本来的なココニイル〔モノ〕のアリ方である.
 但し,ここで留意すべきは,ココニイル〔モノ〕が自己自身を喪失してしまったり未だ獲得していなかったりすることが可能であるのは,ココニイル〔モノ〕が自らの本質からして可能的に本来的なココニイル〔モノ〕であるから,即ち常に既に選び取ってしまっていつつ選び取り得るアリ方のアルモノであるから,なのであ(って,決して非本来性は本来性と相対立する二つの別個のアリカタではない.)
 本来性及び非本来性という語は,凡そココニイル〔モノ〕がJemeinichikeit(各自性:意味不詳)によって規定されていることに基づいている(論理不詳). 但し,ココニイル〔モノ〕が非本来性的でアルとは,より少なくアルとかより低いアルの程度といった,アルの階層性を前提としその位階の低位を閉めているアルの仕方である事を意味しているのではない. (ネオプラトニズム的存在論ではないことの警鐘?)
 非本来性は(本来性と同じく),ココニイル〔モノ〕を彼の何ら欠けたところのない具体性によって規定することができる. 但し,その規定に用いられるのは「多忙さとか活気とか興味とか享受可能性とか」である点で,本来性が用いる規定性の内容とは相違するのではあるが.
¶6
 ココニイル〔モノ〕の上記の二つの性格
(1)本質essentia即ちwasに対する実存existentia即ちseinの優位
(2)各自性(おそらくは,その共通的特性によってではなく,まさにそれがそれであるその自体によって規定されていること――だとすると(1)と類似した意味にならないか?)
が,ココニイル〔モノ〕の分析論は(他のアルモノのそれとは異なる)独自の現象的圏域(それらが現象するその現象の限りを探求するその領域の意か)に直面して立てられる事を規定する. 他のアルモノは,本質が実存に優位するし,共通性においてアルモノの特定が規定されるがゆえに,そのような現象的圏域において探求がなされるべきものだからである.
 このココニイル〔モノ〕というアルモノは,世界内において>>単に<<目の前に=アルというアリ方を持たないし,決して持ち得ない. (この後者の理由不詳)あるいは,>>単に<<という制限が決定的に重要であり,ココニイル〔モノ〕も,同時に目の前に=アルモノとして扱われ得るにしても,(それを見る他者の視点においては単に目の前に=アルモノでありえるとしてもなお:奴隷に対する奴隷主やユダヤ人収容者に対する看守の了解を考えよ),アル論的には同時にまたそのココニイル〔モノ〕は必ずや既に=これからという構造を持つものとして同時に単に目の前に=アルというアリ方に留まり得ない,と考えるべきだろうか? ただ,そう解すると次の一文の解釈が困難である.
 「従って,このアルモノはまた,目の前に=アルモノを目の前に見出すという仕方では主題的に予め与えられ得ない."Daher ist es auch nicht in der Weise des Vorfindens von Vorhandenem thematisch vorzugeben."」 
 単にこの文だけに集中するなら,ココニイル〔モノ〕は,常に目の前に=アルモノというアリ方で有るのではないから,目の前に捜し求めてもココニイル〔モノ〕を主題的に探求する価値があるその諸特性・諸構造をは必ず探求から零れ落ちるのだ,と言うことだ.
 ココニイル〔モノ〕は,(その独自なアリ方の故に,少なくとも目の前に=アルモノの探求に専ら慣れたわれわれにとっては,そのアリ方の基でココニイル〔モノ〕を見ることがなかなか出来ないが故に)探求の題材として適切な仕方で探求に先立って対面することは困難である. だから,先与ということが何であるかを規定すること――それがあって初めて現にココニイル〔モノ〕に学的に対面し得る方途が明かになされるのであろうが――は,それ自体が,ココニイル〔モノ〕のオントローギッシュな分析の本質的な一部分をなす. この手順を飛び越えては,ココニイル〔モノ〕をココニイル〔モノ〕としてそのアリ方で分析することは不可能なのである. だから,このココニイルの先与において他の分析に先立ち予めココニイル〔モノ〕を適切に捉えているか否かが,ココニイル〔モノ〕のアルを適切に理解することが出来るか否かの条件である.
 従って,このココニアル〔モノ〕の先与の規定それ自体がは暫定的なものである(なぜなら,それに引き続いておこなわれるココニアル〔モノ〕のアルの仕方の具体的・内実的な分析こそが中核的なアル論の学的営為だからである). しかし,前者は後者の先行する必須な準備であるから「常に既に,正しい着手を確保」する必要がある.
¶7
 ココニアル〔モノ〕は,アルモノとしての自己自身が何であるかを,>その都度<次の可能性から規定する:その可能性は,ココニアル〔モノ〕が(他のなにかではなく)それでアル可能性であり,しかも,正に≪彼がアルということにおいて>>(どういう仕方でであるにせよ)それでアルということを理解しているという可能性である*.これが,ココニアル〔モノ〕の実存体制の形式的意味である. このことのうちには,[ココニアル〔モノ〕]であるこのアルモノをオントローギッシュに解釈するための指針が含まれている. その指針とは,ココニアル〔モノ〕のアルについてココニアル〔モノ〕が如何に理解しているかという問題全体を,彼の実存の実存論性を発祥地として展開して行く可し,というものである. 
 とはいえ,そのことは,実存についての何らかの具体的な〔即ち制約され限定された特定の〕具体的理念に基づいてココニアル〔モノ〕を構成せよ,ということであはない.〔具体的即ち被限定的な相においてではなく,無差別的な相において分析開始されるべきである.〕即ち,ココニアル〔モノ〕の分析の出発は,ある一定の仕方で実存しているその差別相に於いて解釈されるべきではなく,彼の無差別相すなわち「差当たって且つ大抵は」という在り方に於いて暴露されるべきである.
*解釈と暴露の使い分けは意味があるのか,そうすると四つの選択肢から一つが選び出されていることになる.
 さて,ココニアル〔モノ〕の日常性の一つの特性である無差別相は,無(ナイ)ではなく,ココニアル〔モノ〕というアルモノの或る特定の積極的な現象上の性格である.およそ実存する事は,実存する事のありのままのアルその仕方においては,[日常性に見出される無差別性という]この特定のアルの仕方が,その起源であり環帰先でもある.この起源であり還帰先であるところのココニアル〔モノ〕の日常的無差別相が,平均性と名づけられる.
*とすると,ココニアル〔モノ〕が,それでアルという事を理解していなかったり,その理解が彼がアルと言うことに於いてではなかったりしうるのか?

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