この―がしかじかでアルということ( im Daβ-),斯くアルこと(Sosein),実在性(Realitaet),直前的にアルこと(Vorhandenheit),存立(Bestand),妥当(Geltung),そこにアル(Dasein),「与えられてある(es gibt)」,これらのうちにはいずれもアルが存している.
歴史学を一例にあげて説明する. 歴史学についての哲学的に第一次的な営為は,歴史学がなしている概念形成についての理論ではない,「歴史学の客観としての歴史についての理論でもなくして」(意味不詳) 本来的に歴史的にアルものをそのアルものの歴史性に向かって研究的に解釈することである. だから,純粋理性批判においてカントがあげた哲学的な主要業績(意義)は,「認識の「理論」というようなことに,存するのではな」く,「自然全般に何が属するかを,明るみに取り出すという仕事に着手したということに,存する」のである. カントが超越論的論理学と呼ぶものは,「自然というアル(もののアル)・の・領域についてのアプリオリな事象論理学」( Seine transzendentale Logik ist apriorische Sachlogik des Seinsgebietes Natur. )である.
¶5
ココニイル〔モノ〕は,常に瞬時瞬時に,或る何らのアルの様態であることにおいて(単に何らかのではなく)私がココニイル〔モノ〕としてイルのである.
というのは,ココニイル〔モノ〕は,「既に常に何等かの仕方で」どのようなアルの様態において(他の誰かではなく)私というココにイル〔モノ〕である事を,私というココニイル〔モノ〕が決めてしまっているのだから.
Das Seiende, dem es in seinem Sein um dieses selbst geht, verhaelt sich zu seinem sein als seiner eigensten Moeglichkeit.(意味不詳)
ココニイル〔モノ〕は,自らがアルその事こそが重要である,そのようなアルモノであって,そのアルモノすなわちココニイル〔モノ〕は,自らの固有な可能性として,(必ず何等かの或る仕方で)アルことに自らを関わらせている:即ち,ココニアル〔モノ〕は,アルの仕方の可能性こそを自らの固有な特性として持ちつつ,そのような特性を持つことをもって(目の前にアルモノが単にアルに過ぎないのと違って)アルことそれ自体と関わっている,との意だろうか?
ココニイル〔モノ〕は,常に瞬間瞬間毎に自分の可能性(の中から選び取られた或るアルの仕方でアル)のである. しかも,ココニイル〔モノ〕は,自分がいかにアルのかという可能性を,単に目の前にアルモノとして(意味不詳:おそらくは,自己決定性による選択の結果という動的可能性を欠いた静的な性質としての意か)単に性質的に有しているのではない.
¶6
ココニイル〔モノ〕の上記の二つの性格
(1)本質essentia即ちwasに対する実存existentia即ちseinの優位
(2)各自性(おそらくは,その共通的特性によってではなく,まさにそれがそれであるその自体によって規定されていること――だとすると(1)と類似した意味にならないか?)
が,ココニイル〔モノ〕の分析論は(他のアルモノのそれとは異なる)独自の現象的圏域(それらが現象するその現象の限りを探求するその領域の意か)に直面して立てられる事を規定する. 他のアルモノは,本質が実存に優位するし,共通性においてアルモノの特定が規定されるがゆえに,そのような現象的圏域において探求がなされるべきものだからである.
このココニイル〔モノ〕というアルモノは,世界内において>>単に<<目の前に=アルというアリ方を持たないし,決して持ち得ない. (この後者の理由不詳)あるいは,>>単に<<という制限が決定的に重要であり,ココニイル〔モノ〕も,同時に目の前に=アルモノとして扱われ得るにしても,(それを見る他者の視点においては単に目の前に=アルモノでありえるとしてもなお:奴隷に対する奴隷主やユダヤ人収容者に対する看守の了解を考えよ),アル論的には同時にまたそのココニイル〔モノ〕は必ずや既に=これからという構造を持つものとして同時に単に目の前に=アルというアリ方に留まり得ない,と考えるべきだろうか? ただ,そう解すると次の一文の解釈が困難である.
「従って,このアルモノはまた,目の前に=アルモノを目の前に見出すという仕方では主題的に予め与えられ得ない."Daher ist es auch nicht in der Weise des Vorfindens von Vorhandenem thematisch vorzugeben."」
単にこの文だけに集中するなら,ココニイル〔モノ〕は,常に目の前に=アルモノというアリ方で有るのではないから,目の前に捜し求めてもココニイル〔モノ〕を主題的に探求する価値があるその諸特性・諸構造をは必ず探求から零れ落ちるのだ,と言うことだ.
ココニイル〔モノ〕は,(その独自なアリ方の故に,少なくとも目の前に=アルモノの探求に専ら慣れたわれわれにとっては,そのアリ方の基でココニイル〔モノ〕を見ることがなかなか出来ないが故に)探求の題材として適切な仕方で探求に先立って対面することは困難である. だから,先与ということが何であるかを規定すること――それがあって初めて現にココニイル〔モノ〕に学的に対面し得る方途が明かになされるのであろうが――は,それ自体が,ココニイル〔モノ〕のオントローギッシュな分析の本質的な一部分をなす. この手順を飛び越えては,ココニイル〔モノ〕をココニイル〔モノ〕としてそのアリ方で分析することは不可能なのである. だから,このココニイルの先与において他の分析に先立ち予めココニイル〔モノ〕を適切に捉えているか否かが,ココニイル〔モノ〕のアルを適切に理解することが出来るか否かの条件である.
従って,このココニアル〔モノ〕の先与の規定それ自体がは暫定的なものである(なぜなら,それに引き続いておこなわれるココニアル〔モノ〕のアルの仕方の具体的・内実的な分析こそが中核的なアル論の学的営為だからである). しかし,前者は後者の先行する必須な準備であるから「常に既に,正しい着手を確保」する必要がある.