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自由を考えるコミュの決定論と責任

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大庭健『「責任」ってなに?』講談社現代新書の第2章「責任と自由―責任の条件」では決定論と責任の関係が出てきている。
・行為の責任が問えるのはその行為と違う仕方で振舞えたときに限る。(他のようにもできたか否か)
・因果的な決定論が正しいなら「他のようにできた」とは言えない。因果的決定論を認めて、なお責任を論じるためには、「他のようにできなかった」としても、責任は問われうると主張する事になる。
・因果的な決定論と意志の自由について両立不能論と両立可能論がある。
・両立不能論の立場は2つ。
1つ目は意志の自由は幻想であり心の働きにおける因果連鎖の帰結にすぎないとする立場。
2つ目は意志は因果連鎖に縛られず自由に働くものであり決定論は偽であるとする立場。
意志の自由という感覚は否定しがたいが、決定論を偽とすると科学・技術の実践が説明困難になる。
人間の意志に関してだけ因果的な決定論が成り立たないとすると、世界は因果的に決まった出来事とそうでないがでもデタラメではない心の出来事という、全く異なる2種類の物事によって成り立っているという事になる。そうすると因果律に従う物体と自由な精神(霊魂)という二元論になる。
・両立可能論では、意志の自由は幻想ではないし因果的決定論とも矛盾しないとする。
・著者は個々のミクロな反応は物理的・化学的な反応で因果的に決まっているが、マクロな状態は因果的には決まっていない(非平衡の自己組織化という言葉を使っているが適当なのか?)とする。
心の働きは脳神経系の働きなしには生じないが、個々の神経細胞のミクロな働きは、因果的に決定されているがマクロな脳状態の変化は因果的に決まっていない、このときマクロには「決断する」という出来事が起こっている、自らの意志によって自由に決断する私がいる、とする。
このことは、脳において因果的に決まった物理現象が起きている、ということにも還元できないし、物理的な因果連鎖を超越した魂がある、ということをも意味しない、と言う。


茂木健一郎「脳とクオリア」から
 私たちが、主観的には自明のこととしている「自由意志」という「幻想」を打ち砕いたのは、人間の肉体は、私たちの心を司る脳を含めて、自然法則に従って動く「機械」に過ぎないという認識だった。すなわち、「人間機械論」である。
 
 現時点で、私たちは、人間機械論の前提を疑うような合理的な根拠を持っていない。私たちの心が、私たちの意志決定のプロセスが、世界の中で自然法則に従わない特別な例外であるということを示す証拠は一つもないのだ。つまり、心も、意志決定のプロセスも、自然法則の一部と見なされなければならないということなのである。

 <ニューロンの時間発展を支配している自然法則が決定論的→自由意志はない>
 <ニューロンの時間発展を支配している自然法則が非決定論的→自由意志はある>

 人間に自由意志が存在するということは、私たちが私たち自身について考え、人間的な価値観や、モラルを形成する上で、死活的に重要な前提だ。もし、人間に自由意志が存在しないとしたらどうなるだろうか?ある人間が将来どのような行為をとるかが、あらかじめ決まっているとしたら?私たちがどのような意志を持とうとも、そのような意志を持つこと自体があらかじめ決定されているとしたら?そのような世界は、私たちにとってかなり受け入れにくいはずだ。実際、自由意志がないとしたら、私たちの人間観、社会観の多くは、その根底から崩壊することになるだろう。
 外に選択肢がなかったのだとしたら、どうして犯罪者を責めることができようか?
 もし、自由意志がないのだとしたら、人間のあらゆる努力は意味のないものになり、人間の尊厳さえ、失われることになりかねない。
 このように、「自由意志」があるかないかという問題は、私たち人間の存在の根幹に関わる、重大な問題だ。もし自由意志がないのだとしたら、私たちの人間観、世界観はまったく変わったものにならざるを得ないのである。

コメント(5)

ドストエフスキー「地下室の手記」から

この世界には自然法則なるものが厳存しているから、人間が何をしてみたところで、それはけっして人間の恣欲にもとづいてなされるのではなく、自然法則によっておのぞとそうなるだけだ、とも悟らされるというのである。したがって、この自然法則さえ発見できれば、人間はもう自分の行為に責任をもつ必要がないわけであり、生きていくのもずっと楽になる道理である。

いつかはぼくらのいわゆる自由意志の法則も発見されるわけで、恣欲やら判断やらがほんとうに全部計算されつくしてしまうかもしれないんですから、してみると、冗談は抜きにして、実際に何やら一覧表のようなものができあがって、ぼくらはこの表にしたがって欲求するというようなことにもなりかねんのですよ。だって、たとえば、ぼくが親指をどこかの指の間から突きだして、赤んべえとばかりだれかを侮辱してやったとしても、それはこれこれの理由でそうせずるをえなかったのだ、しかも、ぜひともこれこれの指を使わざるをえなかったのだ、といったことが計算によって証明されるようなときがくるとしたら、いったいどんな自由がぼくのうちに残されることになります?
大澤真幸「戦後の思想空間」から
倫理的に責任を問えるのは、選択できることだけです。たとえば、僕がここを歩いていたら運悪く棚からぼた餅が落ちてきて僕にぶつかったとき、ぼた餅を責めるわけにいかないです。置いた人を責めることはできるかもしれないけれども、ぼた餅そのものを責めることはできない。ぼた餅には選択することができなくて、単なる物理法則に従って落っこちてきているだけだから、「お前、もうちょっと我慢してろ」とか言うことはできないです。
私はラディカルな決定論者です。自由意志は幻想だと思います。責任もないと思います。
ではあなたが街を歩いていると突然見ず知らずの人が殴りかかってきてもその人に責任がないと言えますか?
自分の損害を考えなかったり、自分の利益になる逸脱行為を肯定する理屈として、「自由意志がないから責任もない」と言う事になり、現実では説得力を持たないように思います。
私は現在飲んでいる薬の副作用で口が無意識の内にもぐもぐするのですが、もし「駅で口をもぐもぐさせるのを禁止。この規則を守らなかった者は罰金1000円」とかなっても、私は「自分の主体的な意思」で口をもぐもぐさせているわけではなく、「自分の意思でコントロールできないところで」口がもぐもぐするので「責任はない」と言えそうです。
「自分の主体的な意思でコントロール可能な行為」には責任を課す事ができるように思います。
でも「自分の主体的な意思」は存在するのか、どういう定義の時に存在する事とされるのか、が問題のように思います。

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