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絵本創作研究会コミュの絵本創作についてのスレッド

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折角なのでプチ絵本創作研究スレッドを立てました。
絵本創作についての話題で。

うーん、最初の頃はお話を作るのに苦労するよね。いや、今でも苦労しております。おまけに仕事となるとページ数の制限があったりしてね。製本も覚えるのに時間を要しました。これが出来ると楽しいです。

 そういえば、何年か前に校外展を見に行ったとき、こども向けを意識しているヒトはほとんどいなかったような気がします。自分も全然でした。美大ではあまり「こども」をテーマにするヒトがいないということでしょうか。でも絵本と子供って関係が深いです、とても。
 先日、児童文学の作家さん(David Almond)が講演会で良いことを言ってました。作品を仕上げるときはベストを尽くすことが大切であって、「その作品にとって良いかどうか」が「こどもの本として良いかどうか」の上にくるのだと。なるほどー、と思いました。

コメント(529)

【続・絵本ってな〜に?その85】

イメージをユニット化することで永遠の生命をもった書物=タロットカード。

タロットは、トランプのルーツとなったカード・ゲームです。
タロットは、もともとは一冊の本だったそうです。いろいろ説があるようですが、例えば、キリスト教の勃興とともに迫害されるようになった古代の秘教の司祭が、その奥義書をバラバラのカードにして流浪のジプシーに託した、とか、あるいは、アレクサンドリアの大図書館が炎上した後、諸国から集まった古代伝承を伝える人々が、共通の言語とするためにつくったシンボルの絵本が、その秘密を守るために、カードに寸断された。等々・・・。
いずれにせよ、興味深いのは、これ以上寸断されることのないイメージのユニットをつくることで、いつでも全体を復元することのできる書物であり、象徴というイメージを組み合わせることで、限定された要素による無限の文脈を可能にしていて、数少ない言葉で、変幻自在のイメージを語るという手法です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88

占いという文脈をつくるカード。

タロットの占いには、いくつもの種類があるそうですが、ここでとりあげたのは、大アルカナ・スプレッドという手法です。タロットカードは、普通は78枚で一組。そのうち22枚が絵札で大アルカナと呼ばれます。大アルカナ・スプレッドは、この22枚の絵札を使って占いますが、興味深いのは、占者が、様々な寓意を含んだ絵札をシャッフルして、所定の配置に並べながら、出たカードによって質問者の問いに解答していく点です。
まず、例えば、シャッフルする前に「彼女との恋愛は成就するでしょうか?」などという質問を想定し、十分にシャッフルする。そして、図の配置にカードを置いていきます。配置の持つ意味に対して、「?魔術師」から「0愚者」までの22枚のカードの方にも意味があります。例えば、?魔術師の場合では、正位置=よい変化、商才、商売のうまさ、アイデア、創造、独立、積極性・・・。逆位置=陰謀家、ペテン師、賭博師、ずるさ、意志の弱さ、不安定、悪い変化・・・。と言う具合です。正位置というのは、カードが正位置で出た場合の解釈で、逆位置は、カードがさかさまに出た場合の解釈を表しています。
占者は、このカードが意味するものと、その出た位置の持っている意味と、質問の内容を組み合わせて、占いの解答を生み出していきます。つまり、22枚のカードに象徴されている事柄を、その配置と質問の内容を照らしつ文脈化することで、質問の解答を得るというのが、大アルカナ・スプレッドの原理なのです。
やってみれば、お話の筋づくりにはもってこいの訓練になります。単独の象徴や意味が、文脈のあとさきのなかで、それぞれに意味を変え、総合的なイメージをつくりだしていく現場に立ち会うことになるからです。配置と質問の内容から、カードを用語として限定し、文脈をつくっていくノウハウがいっぱい詰まっているというわけです。

どうでしょうか、冒頭のタイトルを「イメージをユニット化することで永遠の生命をもった書物=タロットカード」とした理由を解っていただけるのではないでしょうか。まさに、変幻自在の絵本だと言っていいのではないでしょうか。
ジャワのワヤン・クリが絵柄のトランプ。

2011年9月6日〜24日で、開催された早川純子絵本原画展
「山からきたふたごスマントリとスコスロノ」
http://sikatuno.blog.so-net.ne.jp/
この展示会のお茶会の時に、早川さんがお客さんにジャワのワヤントランプを一枚づつ配りました。
これが、とっても面白かったので、紹介します。
早川さんの解説によると、ダイヤの絵柄は、
「ラーマヤナ」のお話の主な登場人物がならんでいます。
絵本の主人公のスマントリとスコスロノは残念ながらここには入っていません。
スペードのトランプは、
「マハーバーラタ」のお話の、コラワ100王子側(アスティノ国)の登場人物が並んでいます。(血縁関係の、5人の王子と、100人の王子が戦うお話で「バラタユダの戦争」)
ハートの絵柄は、
「マハーバーラタ」のパンダワ5王子側のの登場人物が並んでいます。(血縁関係の、5人の王子と、100人の王子が戦うお話。「バラタユダの戦争」)
クローバーの絵柄は、ラクササ(魔物、鬼)。魔物系のキャラがならんでいます。(ラクササの国は、アルンコ国。)
僕は、ハートのジャックを引き当てました。ハート11は、Arujuna/アルジュノ/ジャノコ/ダナンジョヨ(118):パンダワ5王子の3番目。かっこ良くて、強くて、女性にモテモテ。ウィスヌ神の化身。有名人気キャラの一人。お土産の、くるんとした武将の髪型をしたワヤンの図柄は、だいたいアルジュノ。早川さん曰く「一番人気のカードを引きましたよ!」。今、僕はこのカード定期入れにいれています。

てなわけで、早川さんの絵本「スマントリとスコスロノ」原画展は、とっても面白いイベントになっていました。
このトランプで遊ぶのも面白いでしょうね。インドネシアの空港の本屋さんなどで売られているそうです。
【続・絵本ってな〜に?その86】

遊びのすべては、空想が出発点。

ルールを楽しむのがゲームです。何を楽しむかといえば、ルールに基づいて想像力を楽しんでいるんですね。
どんな遊びでも、遊びの面白さは、ある「きまり」のなかで、想像の翼を限りなく拡げるところにあります。
これは、「きょだいなきょだいな」 長谷川摂子・作/降矢なな・絵/福音館書店です。
この絵本では、同じことばの繰り返し、形態という「きまり」を持ちこんでいます。
その「きまり」はシンプルで、それ以外の規制は一切ないので、想像力がどんどん拡がっていきます。
広い野原の真ん中に巨大なピアノやせっけんや電話など・・・、いろんな生活で目にするものが出てきて、そこに100人の子どもがやってきて、ここでおもいっきり遊ぶというお話で、長谷川さんらしいリズミカルな言葉が楽しく、文の繰り返しのなかに、もしも巨大なこんなものが、あったら?あったとしたら?と想像が膨らんでいきます。
「あったとさ あったとさ ひろい のっぱら どまんなか きょだいな ピアノが あったとさ」
と、キツネが案内役をつとめページを進めます。
「こどもが 100にん やってきて ピアノの うえで おにごっこ キラリラ グヮーン コキーン ゴガーン」
http://www.ehonnavi.net/ehon/646/%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%AA/
「あったとさ あったとさ ひろい のっぱら どまんなか きょだいな ○○○ あったとさ」
「こどもが 100にん やってきて・・・・・・・・・」という文は、どのページも同じです。
「あったとさ あったとさ」と呼びかかられると、読者は「もしあったとすると?」と、なんらかの現実をイメージします。
では、「せっけん」ではどうなるの?と、次の変化を求めてページを進めます。
「あったとさ あったとさ ひろい のっぱら どまんなか きょだいな せっけん あったとさ」
「こどもが 100にんやってきて せっけんやまに みずかけた つるり つるつる すべりっこ つりーり つるーっ アババババ」
巨大な電話、巨大なトイレットペーパー、巨大な瓶、巨大な桃等が次々と登場し、最後は巨大な扇風機。
さあ、子どもが100人やってくると、どんな事態が想像されるのでしょうか。
「あったとさ あったとさ ひろい のっぱら どまんなか きょだいな せんぷうき あったとさ」
「こどもが 100にん やってきて だれかが スイッチに こしかけた とぶよ とぶ とぶ みんな とぶ ひらひら ひらひら くるるるるるるる・・・・・・・・」ひらひらくるるるる落ちてきたところは、町の上。お母さんやお父さんがみんなを抱きとめる絵で締めくくられます。
この絵本につなげて、子どもと楽しい想像遊びをやってみるのも面白いのではないでしょうか。

長谷川摂子さんは10月18日、他界されました。僕ん家の本棚には長谷川さんの絵本が意外と多いのです。まだまだ、言葉のおもしろさ(特に言葉の響き)を見せて欲しかった・・・とても残念です。
【続・絵本ってな〜に?その87】

合体!!!。

「続・絵本ってな〜に?その58」では、何でも「反対にする」と、意表をついた素晴らしいアイデアが生み出されると述べました。
これは、その「反対にする」ことで、あるキャラクターをつくりだして、奇抜なお話を展開させたシリーズ絵本です。
「ねこざかな」 わたなべゆういち 作・絵/ルレーベル館 。
ネコがさかなを食べるというのは普通の話ですが、これは、さかながネコを飲み込んでしまい、驚いていると、さかなの口からネコが顔を出して、ネコと、さかなが一緒になって「ねこざかな」になるという衝撃のスタートで始まります。
でも、次のページでは、さかなの中にネコが入ったまま実に楽しそうに海を泳いでいるのです。鼻歌まで唄いながら!まさに「そんなバカな!」なのです。このあっけらかーんとした明るさが実に楽しい絵本で、「ねこざかな」というキャラクターは、13話にも及ぶ物語を生み出しました。
「続・絵本ってな〜に?その86」では、遊びのすべては、空想が出発点。ルールを楽しむのがゲームで、何を楽しむかといえば、ルールに基づいて想像力を楽しんでいると述べました。まさに、これは楽しい想像遊び絵本です。
http://www.ehonnavi.net/ehon/3419/%E3%81%AD%E3%81%93%E3%81%96%E3%81%8B%E3%81%AA/?utm_medium=kthc

下は、「What is this? なにかしら?」 ヨゼフ・ウィルコン/いなばゆう・文/セーラー出版。
ウサギ、ネコ、カエル、カバなど、いろいろな動物が頭・胴・足に3分割されていて、それぞれパラパラめくれるようになっている仕掛け絵本で、組み合わせると頭はライオン、胴はトラ、足はカエルといった具合に、奇想天外な生き物が現れるという仕組みです。 
http://www.ehonnavi.net/ehon/9493/Whatisthis%EF%BC%9F%E3%81%AA%E3%81%AB%E3%81%8B%E3%81%97%E3%82%89/
「頭を変えると、どうなるの?」「胴体を変えると、どうなるの?」と、次々と変化を求めてページめくります。
これで「へびかばぞう」という動物物語をつくった女の子がいるそうです。
【続・絵本ってな〜に?その88】

見開き完結型絵本。

本というメディアは、ダブルページ(見開き)という独自のフォーマットと、ページを束ねて一冊のパッケージにするという、この二つの様式をもっています。
ここで紹介したいのが「着物の絵本」高野紀子作・絵/あすなろ書房です。
http://www.ehonnavi.net/ehon/29775/%E7%9D%80%E7%89%A9%E3%81%AE%E3%81%88%E3%81%BB%E3%82%93/
どこを開いても、見開きで完結しているため、頁を飛ばして読んでも、どこから読んでも(見ても)、読む順番がでたらめでも、途中で読むのをやめても、読み物として成立しています。

はじめまして。わたし、クンちゃんのおばあちゃんです。
今日は、ツネちゃんの着物の着つけのお手伝いにきました。いとこのお姉さんの結婚式に出席するそうですよ。着物は日本の美しい伝統文化。着物の世界って、とても奥が深くて楽しいのです。これから、着物についてのあれこれ、ちょっとお話してみましょうね。・・・と、始まります。
着物の歴史から、どんなときに着物を着るのか、場面に応じて着るものを変えたり、その種類や正しい着方、日本の伝統行事と季節の楽しみ、模様一つにも、いろんな意味が込められていたり、着物を着たときの注意点や着物のたたみ方など・・・着物を着ているのは、擬人化されたクマさん、キツネさん、タヌキさん、ウサギさんたち。
小学生中学年用の絵本ですが、絵も、レイアウトも、文章の内容も丁寧で、子どもを馬鹿にしないで、きちんと説明されていて、大人が読んでも十分おもしろくて勉強になります。

エディトリアルデザインという観点から見ると、
複数の情報をまとめるレイアウトの基礎中の基礎で、一見、小技の集大成のようにみえますが、トータルなインパクトが要求されるので、「縦横無尽の構成力」が必要で、全体のイメージを、初めから、しっかり持っていないと成功しませんよね。切った貼ったの作業からは、決して生まれないデザインです。
レイアウトの仕方そのものが、この絵本のメインビジュアルの役割を果たしていて、それがこの絵本の品格というか、絵本の質です。この手法は、複数の情報にスポットライトを当てて、アート主導型でつくられますが、コピーライターとデザイナーが、仲よくつるんで楽しみながらつくらないと失敗します。

【続・絵本ってな〜に?その89】

言葉の複合感覚。

「その85」を書いて、思い起こすのが、言葉の複合感覚です。
日本で多くの人が新しい概念をつくり出す時に使っているものとして「KJ法」があります。このKJ法は文化人類学者・川喜田二郎さんがデータをまとめるために考案した手法で、情報をカードに記述し、カードをグループごとにまとめて、図解し、論文等にまとめてゆくという方法論で、1960年代から70年代の高度成長期に、ビジネスマンの間で広く用いられ、僕が大学を卒業すると同時に就職した広告会社(73年)の入社前研修で受けたのも、このKJ法でした。KJ法は、無秩序で雑然とした事実、意見、アイデアを一度カードに分解し、これを人の直観力で図解・文章に統合することで、意味や構造を読み取り、まとめていく方法(体系)で、漠然としてつかみどころのない問題を明らかにしたり、思いもしない解決策・新しい発想を得るために用いられる方法です。

KJ法の手順。
第1ステップ:まず、つくられたたくさんのカードをばらばらに順不同に広げて内容をよく読む。
第2ステップ:カードを印象として似ているもの同士で小グループをつくる。似たものがない「一匹オオカミ」は、無理にグループ化せずに、それ一つで一グループとして扱う。既成概念で分類するのではなく、直感で親近性のあるものを集める。集まった小グループに表札(見出し)を付ける。概念化・類型化するのではなく、カード群が言わんとすることを具体的に表現する。
第3ステップ:第2ステップで作った小グループの「表札」を眺めながら、互いに親近性のあるグループを中グループにまとめる。この作業を何度かくりかえし、10近くの大グループにまとまったら作業を終える。
大グループにも表札をつけますが、グループ分けがすべて終わってからというのでなく、カード全体の3分の2程度がまとまってきたところで、グループ分け作業と並行して表札づくりを進める。
第4ステップ:グループ間に論理的な関連性ができるよう大グループのカードの束を並べ替える。
⇒これを「空間配置」といい、配置の意味する内容を、ストーリーのようにつないでしゃべれるようにする。
第5ステップ:空間配置ができたら、カード束の間隔を広げ、それぞれ1段下の段階までほぐしていく。
第6ステップ:カードでつくった空間配置を、グループの関連を示す記号(――:関係あり →:原因・結果 ←→:互いに因果的 >――<:互いに反対・対立・・・等)を使って、空間配置の論理構造が分かるようにする。大グループの図解化を終えたら、中グループ、小グループの図解を行う。
第7ステップ:ラベルの束、あるいは図解から、時間的前後関係に展開することで、文章を書き起こす。
http://www.ritsumei.ac.jp/~yamai/kj.htm 

KJ法の作業で重要なのが「直感」です。
配置もグループ化も、あらかじめ仮定した理論に従って行なうのではなく、元になる情報であるカードから直接感じられることに基づいて作業しなければなりません。カード同志の関係は、全体からみると局所的な関係であるけれども、配置によって、局所的な関係が全体の中で位置づけられることになります。つまり、配置作業によって、初めて全体像が明らかになるのです。部分の関係を積み上げて、全体の関係を構成するのが、図解化の本質的な意味なのです。カードとカードを関係づけて筋をつくる。KJ法は、新たな解釈の回路の発見や、新たな概念の獲得にはいい方法です。
【続・絵本ってな〜に?その90】

「まち」が絵本になる日=宵宮の道中を楽しむ地口行灯。

地口とは和歌の文句や、ことわざ、有名な芝居のセリフとか、みんなが知っている言葉を滑稽な言葉にちゃかして置き換えたもので、駄洒落や語呂合わせにも通じることば遊びで、地(=江戸の地元)の口合い(=言葉の遊戯)という意味から来ています。深い意味もなく、毒にも薬にもならない。わっと笑ってそれでおしまい。そんな、なんでもないことを楽しむ文化です。
地口のフレーズに添えて、面白おかしく描かれた一コマ絵が地口絵で、それを箱行灯に貼って寺社の参道に並べ、参詣者への余興としたのが「地口行灯」です。
地口行灯は、今から250年ほど前に江戸で流行った祭礼灯籠で、後に江戸周辺地域(埼玉・千葉・神奈川・静岡)などにも、一つの祭の風俗として普及していったといわれます。

今でも、東京は武蔵野地域の小平市(小平明神宮)に、春や秋の祭に地口行灯をともす風習が残っていて、参道は勿論、神社付近の青梅街道沿いにも、ろうそくの炎にぼんやりと光る無数の地口行灯が連なり、宵宮の夜道では、あちこちで小さな笑いが起こるそうで、晴れの日を彩る小さな灯として愛されているそうです。
武蔵野地域では、地口行灯の飾られる祭のことを、俗に「灯籠祭」と称していますが、「まち」というのは、祭もしくは市のことだったようです。

この地口行灯が、東京の下町で再び脚光を浴びていて、浅草を訪れたら、伝法院通りの頭上の街灯に注目してみてください。(=伝法院通りは、3年ほど前に、江戸の風情を感じされる街並みに改造された)
おかめかちまき(傍目八目)、わらう顔にはふぐきたる(笑う門には福来る)などの地口行灯が、下町の暮らしを照らしています。もともとは、伝法院の縁日に花を添えていた灯が、今は商店街のもりたて役として、人が集って笑い、気持ちをほどく、ささやかな役割を果たし、日々に寄り添い続けているというわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8F%A3
http://kakinokidai.web.fc2.com/JiguchiAndon/Denpo01.html

続・絵本ってな〜に?その91】

大きさや、形態が、絵本のイメージを大きく左右する。

横長の本を開くと横に長い本ができ、高い建物を描くにはあまり適していませんが、水平に広い空間を描くにはとても迫力がでます。一方、縦に細長い本は、空から地面までというような垂直方向に長い空間を楽しむことができます。開いてちょうど正方形ぐらいの大きさになる縦長の絵本は、安定感があり、落ち着いて画面を見ることができるなど、絵本にとって形や大きさはとても重要で、意味があります。
「ピーターラビットのおはなし」は子供が手で持って読みやすいようにと、手のひらサイズの小型本です。小型だからこそ、農場の片隅で暮らしている小さなうさぎたちの様子をのぞきみるというイメージを持ち、その世界を楽しむことができます。あの本が大きかったら、こんなに多くの人に支持されたでしょうか・・・。一方、大きな生き物が登場する絵本では、大きな画面いっぱいにその生き物が登場することで迫力が増します。
近年、多くの絵本が大型化されたり、あるいは小型化されて再出版されているのをよく見かけます。
しかし、どうなんでしょうか?必ずしも成功しているとは思えません。
例えば、「はらぺこあおむし」は小型本でも出版されていますが、しかし、あおむしが蝶に変身した最後のページは大きいからこその迫力がなくなっています。逆に、「きょだいなきょだいな」のように大型化したことで迫力が出て楽しい絵本もあります。けれども、元の大きさで読むときと、大型化されたり、小型化された絵本で読むときでは、読み方も変化します。そういう意味では、本の大きさが異なるということは別の絵本だと考えるべきです。
例えば、大型にすれば、大勢の子どもたちの前で読むのに都合がいいのかもしれません、しかし、普通は、もともと絵本は1人〜3人ぐらいで読む空間に合うように作られています。もちろん、集団で1冊の絵本を楽しむことは格別な楽しみがありますが、無理をして大勢で楽しまなくても、元の大きさで楽しめる人数で楽しめばいいのであって、逆の言い方をすれば、作家は、絵本と見る人との実際の空間というか距離をよく計算してつくるべきですし、作品の内容に適した形、大きさになっていることが、とても重要です。
絵本が本来もっている空間性を楽しむこと、それが絵本の魅力ではないでしょうか。
絵本の受け手の状態や、読まれる環境をよく計算をして絵本をつくりましょう。
はじめから、大勢で楽しむことを計算してつくると、どんなサイズでどんな密度になるのか、あるいは、劇場で読み聞かせる絵本とはどんなのか、あるいは、演劇とコラボレーションして空間を共有するとどうなるのか、はたまた、実生活の中で「ページをめくる=開いて、閉じる」という行為のなかで絵本をつくるとどうなるのか、そんなふうに発展させて考えていくと、ますます楽しくなりますね。
【続・絵本ってな〜に?その92】

函は羽織、表紙は着物。

椅子のデザインなら腰かけるという用途との関係があり、家のデザインなら住むという用途と関係がありますが、本の装丁は読むという本の用途とは関係がありませんよね。装丁なしでも本は十分読めます。それなのに、なぜ装丁をするのでしょうか。
佐野繁二郎は、装丁について「函は羽織、表紙はきもの。見返しは裏地、はなぎれは襦袢の襟と考えると、大体において間違いない」・・・と言っています。これは、佐野繁二郎が育った大阪・船場で身につけた衣装へのこだわりから生まれた美意識なのかもしれませんが、装丁を言い当てているように思います。
装丁家の青山二郎は、「ぼくの一番苦労するのは本の装丁よりも函の衣裳である」と言っています。青山二郎は評論翻訳の装丁が中心だったからこそ、店頭効果を上げるために腐心したのが函の衣裳だったのでしょう。
本来、装丁というものは要らないものかもしれませんが、そうかと言って、白のまま放って置くわけにもゆきませんよね。絵がはいる装丁は嫌いだからと、文字だけでゆく人もいますが、何かしなければなりません。
装本は素材を楽しめともいわれます。
佐野繁二郎は、藍染木綿の布の手触り感を大事にして手書き文字をコラージュしているし、青山二郎は陶磁器にヒントを得た文様を多用しています。
そこで、本の函は飾りであると・・・無理矢理に言って考えてみました。
どのお宅にお邪魔しても、応接間には書斎でもないのに立派な本棚が据えてあり、その本棚には綺麗な本がずらりと並んでいます。本の函によって、その中にある情報と周辺に漂うイメージによって部屋が飾られています。賢そうな言い方をすれば、本を要素とする空間的イメージを配置しているということになるのでしょう。
つまり、応接間を本というメディアを使って壁面のイメージをデザインしているということではないでしょうか。
珍しい本でなくても、冊数が少なくても、その本の持つイメージを引き出そうとして組まれた本棚は魅力的です。
大部分が文字で伝える本の背表紙を繋ぎ合わせて行くと、ある文脈が立ちあがってきます。
本棚はディスプレイによっては、自分マンダラをディスプレイしていることになるのでしょう。
本は情報ソースであるとともに絵の具であり、本棚は収納スペースであるとともにキャンパスでもあり、そこに描かれるのは、自分自身の知的世界像を表した自分マンダラということができるのではないでしょうか。
菊池信義は、装丁は、ただの着物ではなくて、テキストを保護する機能と、内容を指示する(中身を鋭く読みとり、そのイメージを色や素材、文字にデザインする)機能の二つに尽きると言っています。
【続・絵本ってな〜に?その93】

オノマトペの絵本。

私達の生活は、簡単には説明できないさまざまな「オノマトペ」で満ちています。
オノマトペというと難しく響きますが、小学校の国語の時間に教わった「にゃあにゃあ」「しとしと」といった擬音語、擬声語、擬態語の類で、オノマトペには、とてもシンプルですが、とても豊かで生き生きとした伝達力があります。

例えば、
俳句の世界でも、十七音という短い詩型では徹底した描写が不可能なこと、あるいは、一句の中で使える動詞をできるだけ少なくしなければ、饒舌な作品になってしまうことから、オノマトペひとつで済んでしまう簡潔性、つまり、無駄を省き、省略を効果的にするのにオノマトペはまととない存在です。
かりかりと蟷螂蜂の皃を食む 山口誓子
この句から「かりかりと」を取り去ったならどうなるでしょうか、自然界で生き抜くことの厳しさをドライに表現したこの句の迫力は、何かほかの言葉に置き換えようとしてもなかなか思いつきませんよね。

例えば、
NHK・Eテレで放送している「ピタゴラスイッチ」は、子供たちの考え方を育てるテレビ番組ですが、07年の番組内のオリジナルソングは、オノマトペのうたでした。最初にオノマトペの文字だけが画面に表れ、一通り終わった後、再び歌を繰り返しながら絵が加わり、どんな動きがオノマトペになっているかが明らかになるという内容でした。
http://www.youtube.com/watch?v=fQRyZSGBETg

さて、「ぴよぴよ」は、オノマトペの絵本です。
「ぴよぴよ」谷川俊太郎/作 堀内誠一/絵/くもん出版
これは「しゅばしゅばしゅば」「とぷん」「きいいっ」など、オノマトペだけでつづるひよこの冒険物語です。
ひよこがお母さんと離れて、大冒険。空飛ぶヘリコプターをながめたり、あひるの列にまぎれ込んだり、人間の家にお邪魔したり。道路に飛び出すと、そこには大きなダンプカーがやってきて・・・ひよこの行動にハラハラしながら、豊かなことばに触れられる一冊です。更に声に出して読むと、言葉の一つ一つが生き生きと響いてきます。
http://www.ehonnavi.net/ehon/28510/%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AE%E3%81%88%E3%81%BB%E3%82%931%E3%81%B4%E3%82%88%E3%81%B4%E3%82%88/

人は、感情表現が相手に理解しやすい論理的な形でなくても、常にコミュニケーションしているわけで、オノマトペはとてもシンプルですが、とても豊かで、生き生きとした伝達力があるんだってことが良く解ります。
【続・絵本ってな〜に?その94】

言葉や音、色や形を楽しむ。

◆日本語の50音の面白さを、そのまま絵本にしています。
「かっきくけっこ」谷川俊太郎・作/堀内誠一・絵/くもん出版
「かっきくけっこかきくけこ」「ぱっぴっぷっぺっぽっぽっぽ」と、意味の無いはずの「あいうえお」「かきくけこ」が、色や形、文字の並べ方ひとつで、いろんな意味や表情をもつことを発見できる絵本です。理屈はわからないけれども、これ以上ないくらいの「か行」「さ行」「な行」らしさが表われています。いろんな声で読んでみれば、更にその表現の多様性に気づかされます。ただ50音を読んでいるだけなのに、日本人はこんなに面白い響きの言葉をつかって表現しているんだなあ・・・と感じることができます。
http://www.ehonnavi.net/ehon/28511/%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AE%E3%81%88%E3%81%BB%E3%82%932%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%8D%E3%81%8F%E3%81%91%E3%81%A3%E3%81%93/
谷川俊太郎さんは、この絵本について、次のように語っています。
「かっきくけっこ」は50音に親しみをもたせることがひとつです。われわれは何となく受け取っているが、ことばの要素をまとめたものであれほど面白いものは世界中にもないと思う。文字も発音も美しい。この本では、表面的にはナンセンスでも、いろいろ声に出すことによって、ことばの響きや、音の多様性を身につけ、自己表現の豊かさ、人とのコミュニケーションの通じやすさなどが育ってくれることを願ったのです。・・・と。

◆言葉のニュアンスを教えてくれる絵本。
「あっはっは」谷川俊太郎・作/堀内誠一・絵/くもん出版
笑い声ひとつでも「あっはっは」と「いっひっひ」では全くニュアンスが違います。日本語の笑い声の表現というのは、感情や心理の微妙なニュアンスと結びついています。それを、シンプルな言葉と絵で空気感の違いを見せてくれているのが、この絵本です。
http://www.ehonnavi.net/ehon/28512/%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AE%E3%81%88%E3%81%BB%E3%82%933%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%AF%E3%81%A3%E3%81%AF/

◆絵にメロディーのような言葉が響く絵本。
「もけらもけら」 山下洋輔・文/元永定正・絵・/中辻悦子・構成/福音館書店
「もけらもけらでけでけ」・・・と、不思議な形が、これまた不思議な音をたてて進んでゆきます。この絵本は、絵が先にできていて、ジャズピアニストの山下洋輔さんが、あとから言葉をつけたそうですが、「ぱたら ぺたら」「しゃばた しゃばた しゃばた ぱたさ」などの言葉が、この不思議な絵にリズミカルに響いてゆきます。山下洋輔さんがつけた擬音によって、その形がいきいきと動いているように感じられ、理屈抜きに楽しい絵本です
http://www.ehonnavi.net/ehon/1388/%E3%82%82%E3%81%91%E3%82%89%E3%82%82%E3%81%91%E3%82%89/

◆言葉の楽しさを、オレンジ、赤、青などの丸の動きだけで表現した絵本。
「ごぶごぶごぼごぼ」 駒形克己・作/福音館書店
右ページに、オレンジ色のまん丸のなかに、まるい穴があいていて、空色が見えます。この絵本には、赤い丸だけが各ページにでてきます。黄色い丸から「ぷーん」と出てきた赤い色の丸。赤い色の丸は、ページを繰るたびに「ぷく ぷく」「ぷ ぷ ぷぷ ぷ」「ごぶ ごぶ ごぼ ごぼ」「どぉーん」という音にあわせて、大きくなったり小さくなったりしながら、他の色の丸たちと画面の中を動き回ります。擬声語の響きとリズムにのせて、色と形のおりなす世界を楽しめます。
http://www.ehonnavi.net/ehon/2795/%E3%81%94%E3%81%B6%E3%81%94%E3%81%B6%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%94%E3%81%BC/

◆文章は、ほとんどが「ころころころ」だけで、その「ころころ」という音の響きとリズムを体感する絵本。
「ころころころ」 元永定正・作/福音館書店
色とりどりの小さな玉が、最初のページから最後のページまで、ただ転がっていくというというシンプルの極致。文章もまた、ほとんどが「ころころころ」だけ、だけど、その中に広がる色と光の世界が素晴らしい絵本です。
大きく開けた口から赤、青、黒、オレンジ、緑の小さな色玉が、ころころころと飛び出し、いろいろな道を前へ前へと進む変化のある絵本です。階段道を上がったり、降りたり、でこぼこ道、坂道、山道、嵐の道などをころころころと進みます。そして、最後は大きく開けた口に入って終ります。
http://www.ehonnavi.net/ehon/1730/%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%93%E3%82%8D/
【続・絵本ってな〜に?その95】

空想的な絵本は、単なる空想であってはならない。

空想的な絵本は、読者を異なる世界に誘い心を遊ばせます。絵本の中で「あったらいいな」と思うことを実現させたり、「あったら怖いな」と思うことを見ることで、読者は自分を客観的に見つめたり、現実との違いを読み取ることで、社会や人や自分自身について認識したりします。
これも、絵本が果たす役割のひとつだろうと思います。
だからこそ、つくり手は、空想世界が絵本の中だけで完結してしまうのではなくて、絵本を飛び出して読者の空想世界をどれくらい拡げられるかを問いながらつくる必要があるのではないでしょうか。
例えば、
魔女や、おばけなど、空想的な登場人物が出てくるだけで、人間ではないことの必然性が感じられなかったり、インパクトはあっても現実とのつながりが見えてこなかったり、空想世界の中での一定のルールがなく、つじつまが合わなかったりすると、単なるつまらない空想絵本になってしまいます。

「続・絵本ってな〜に?その86」では、遊びのすべては空想が出発点。遊びの面白さは一定のルールのなかで、想像を拡げるところにあると述べました。
空想の世界のことだから、何が描かれていてもいいのではなくて、空想世界だからこそ、設定がしっかりしていていることが重要です。空想の世界を具体的に目に見える形にするからこそ、読者が信じられるように描かれているということが大切です。ありえないけど、あってもおかしくないと思わせる発見をすることから、クリエイティブが生まれます。
例えば、
「かようびのよる」=デヴィッド・ウィーズナー・作/当麻ゆか・訳/徳間書店では、夜中にカエルの大群が出現するという現実とは異なることを、徹底したリアリズムによる描法で描かれています。
http://www.ehonnavi.net/ehon00_opinion.asp?No=1983
表紙を開いてすぐのところには、「このできごとは あるかようびに アメリカの とあるまちで じっさいに おこったことです。 もしかすると これからも かようびのばんに また ふしぎなことが おきるかもしれません。」と書かれています。
ストーリーは、火曜日の夜8時頃、ハスの葉に乗った沢山のカエルたちが宙に浮かび、町へ向かって飛び始め、よくよく絵を見ると、家の中の男の人に向かってカエルが手を振っていたり、洗濯物に引っかかったカエルがそれをマントにしていたり、家に入り込んだカエルがテレビのリモコンを操作していたりと、夜明けまでの出来事がリアルな描写で描かれています。なぜカエルが飛んでいるのか、状況説明は一切ありませんし、文章は時間の経過を示すだけです。やがて夜明けとともに、カエルの浮遊力はなくなり、地に落ちてカエルたちは慌てて池へ戻っていきます。そして、残ったのは大量のハスの葉。方々に散らばるその葉を見て、人間たちは大慌て、朝になって警察が現場検証を開始。でも一体何がどうなったのかさっぱりわからない様子。テレビカメラとマイクに向かって、夕べ見たことを話しているおじさんがいます。このおじさん、実は、この絵本の作者ウィーズナーその人で、ウィーズナー自身もこの空想の世界に住んでいるようです。
お話は、最後のページでトドメをさします。
「つぎの かようび よる7時58分・・・」ある影が・・・空を飛び始めたのは・・・。
この絵本を読んでいない人には種明かしをしてしまうことになってしまいますが・・・豚です。
ウィーズナーは、現実とは異なることを、徹底したリアリズムで描き、空想の世界を超えて、非現実的な世界も現実のものとしてしまいました。
そして、私たちは、なぜ、カエルが?・・・なんて疑問を抱くことなく、空想することの楽しさに気づくのです。
文章は、時間を告げる「かようび よる8時ごろ・・・」「よる 11時21分」「よあけまえ 4時38分」「つぎの かようび よる7時58分・・・」の4つがでてくるだけで、物語を直接語るわけではありません。つまり、絵だけでストーリーを語らせているわけですが、これが実に見事です。絵本なのにまるで映画館で映画を見てきたようなた感じで不思議と納得させられてしまいます。

【続・絵本ってな〜に?その96】

事実から導かれたユニークな空想物語。

「つきのぼうや」イブ・スパング・オルセン作・絵/やまのうちきよこ・訳/福音館書店。
月が池のなかの月に感動し、その月をつれてきてくれと月のぼうやに頼みます。月のぼうやは星を蹴とばし、雲を突き抜け、鳥の群れを抜け、木の間をくぐり、さまざまなものに出合い、月によく似た丸い物を探し、水の底で見つけた鏡に自分の姿を見、それに感動して月の元へその鏡を持って帰るというお話。
ここでは、月のぼうやが月の友だちを連れてくる過程について、必要なことだけを描くという「省略と焦点化」という手法を使って、空想世界を現実のものとしています。
http://www.ehonnavi.net/ehon/18/%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%81%BC%E3%81%86%E3%82%84/
高いところから、月のぼうやが降りていくシーンが、この縦長(縦34cm横12.5cm)の絵本の見どころで、どんどん落ちてくる様子がよく解る映像で冒険気分が味わえます。
続・絵本ってな〜に?その97】

物語の垂直性と水平性。

本という空間を、平面と断面で、物語の連続性を見てみると・・・。

垂直方向においては、
例えば、デパートの案内図を見ると、地階から8階、9階まであらゆる消費財の売り場がぎっしりと書き込まれていて、その間をエレベーターやエスカレーターが繋いでいるように、
レベルの違う使用空間相互の対応性を、視覚的にも心理的にも豊かにするとともに、象徴性の強いものとして発展していっていることが解ります。物語が線で縦につながっています。

水平方向においては、
例えば、日本家屋の間としきりには重要な関係があり、間と間は襖でしきられていますが、襖をとり払えば一つの広い間になりうる空間です。デパートをフロアごとに見てみると、これとよく似ている構造で、間は連続の相における媒介の間であることが解ります。
つまり、まわりの使用空間の構成内容に応じて変化し、ときには全体に対して支配的なものとなって逆転します。絵巻物がそうですが、物語が面で横につながっています。

本は、物理的には6面体です。
これを踏まえて物語のプロポーションを設計するのもいい手かもしれません。
そういう眼でみると「続・絵本ってな〜に?その95」で紹介した「かようびのよる」=デヴィッド・ウィーズナー・作/当麻ゆか・訳/徳間書店は、この垂直性と水平性がよく計算されてできているなあと思います。

本は6面体であるという視点では、数年前、ル・デコでのえほけん展示会で岡田桂穂さんが「靴の形をした絵本」にして見せてくれましたよね。

また、本はしばしば「オブジェ」だと言われます。
「絵本って、な〜に?その97」で紹介した、詩人の大岡信さんと版画家の加納光於さんとのコラボによる作品「アララットの船あるいは空の蜜」=いわゆるアーティスツ・ブックス=箱があります。
【続・絵本ってな〜に?その98】

本というメディアは、ダブルページというフォーマットをもっていて、見開きで開く。その構造を巧みに活かした面白い発想の絵本。

安野光雅さんの「かげぼうし=富山房」です。
安野さんは、そで(カバーの折り返し部分)に、こう書いています。
およそ、何にでも影があります。どんなものの影も黒くて、厚みや重さがありません。形だけでそれが何かわかるだけです。もし、「影の国」というものがあったら、どうでしょう。世界じゅうの影という影があつまっているのですが、人口問題も人種問題もない、楽しい世界が想像されます。影の国では、どんなことに都合がよくて、どんなことに困るのでしょう。いろいろ考えてみてほしいものです。この絵本は、こんな想像を広げていったもので、二つの話が、最後に一つになるお話です。本当にあったら一度行ってみたいものだ、と思いながら、この絵本をつくりました。・・・と。
http://www.ehonnavi.net/ehon/7430/%E3%81%8B%E3%81%92%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%97%E6%96%B0%E8%A3%85%E7%89%88/

ページを開くと、左ページは、カラーで描かれた普通の世界=「光の国のお話」。
右ページは、切り絵による白黒の世界=「世界中から影だけが集まる不思議な国のお話」。
はじめは、その光と影の、それぞれの世界の物語が同時進行し、異なる二つのお話が交互に繰り返されているかのようにみえますが、途中から一つにつながります。
光の国では、あの「マッチ売りの少女」を物語のベースに進んでいきます。
影の国には、一人だけ色が付いた「影ではない人間」が登場し、左ページ(光の国)と右ページ(影の国)を自由に行き来できるという設定になっていて、左ページの「マッチ売りの少女」と、右ページの「影の国の唯一の人間」がくりひろげる不思議なお話なのです。

左ページは、風が冷たくなった。木の葉はみんな散ってしまった。空はどんより曇って、寒い、寒い日がつづいた。・・・と始まり、右ページは、この町にも冬がやってきた。野山に冬が来た。野原の向うの、丘の向こうの、山の向こうのずーつと、ずーつと向うにある秘密の国「かげぼうしのくに」にも冬がきた。・・・と始まります。
冬になって、太陽の出る日が少なくなると、影たちは、「かげぼうしのくに」に帰ってきます。
「かげぼうしのくに」の、たった一人の人間である「見張り番」は、太陽が出そうになったら、合図するために、いつも遠くを見ています。「見張り番」は雪のふっている左ページの「光の国」で、「マッチ売りの少女」のマッチが売れなくて困っている姿をみつけます。
「見張り番」は、その「マッチ売りの少女」が気になって、左ページの「光の国」に行ってマッチを買うのです。
マッチをすると、二人の「かげぼうし」が、真夏にできるようなハッキリした影が、雪の上にできます。
そのころ、右ページの「かげぼうしのくに」では、「見張り番」がいなくなって大騒ぎになっています・・・・・そして左ページでは・・・・・。
「マッチ売りの少女」と、「見張り番」は、「影の国」に逃げ込みます・・・・・。

「影の国のお話」が有名な物語をベースとしているとするなら(私は知りません)ますます面白いですね。

【続・絵本ってな〜に?その99】

日本語の音。

「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせすん」は、「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」
全ての仮名を、1回しか使わないで、これだけの歌にした日本人はすごいですね。
この「いろは」もすごいけど、「あいうえお」の「五十音図」もすごい!
こんなに見事に構成された「文字と音」は世界でも珍しい(そうです)。
「あいうえお」は「いろは」のような意味を伴いませんが、「あかさたなはまやらわ」は「アの音」で統一されていて、「あいうえお」に始まり、「わ(ゐ)(ゑ)(を)」に至る「発音」に基づく順序で各行の順さえのみこめば、やはり歌のように覚えやすい。、五十音に含まれない「ん」が最後に置かれていますが、これまた面白く、五十音全体がひとつの「ことばあそび」です。

下は、「ことばのこばこ」 和田誠・作/瑞雲舎です。
簡単にいうと、ことばあそびの絵本ですが、まさに、日本語の言葉に対する感性が実感できる絵本です。
http://www.ehonnavi.net/ehon/11920/%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%B0%E3%81%93/
?しりとり ?句読点遊び ?回文 ?濁点遊び ?かぞえうた ?擬音語あそび ?ごろ合わせ歌 ?方陣 ?積み上げ歌 ?同音異義語 ?折句 ?早口ことば ?なぞかけ ?かんむり歌 ?タブレット ?アナグラム ?字の積み上げ ?しりとりうた・・・の18種類のことばあそびを、軽妙なタッチのイラストで楽しむ絵本です。

日本人は「漢字」「ひらがな」「カタカナ」の三つの言葉を駆使して表現しますが、仮名は単独では存在しない。単独で存在するのは言葉であり、文字というのは構成要素です。仮名は文字をつないでいくものです。
つまり、「あ」だけでは存在しないのであって、「あめ」になったり、「あす」になって初めて意味を持ってきます。
仮名を支えている「あめ」なら「あ」や「め」の、他との関係を眺めてみると、仮名も実に面白い。
そして、日本語は、句読点を打つ位置がとても大事で、小学校で分節や句読点の重要性を教える「一休さんの逸話」があります。「ここではきものをぬぐべし」は、「ここで、履物を脱ぐべし」と、「ここでは、着物を脱ぐべし」というのがあり、句読点を打つ位置によって意味が全く異なります。
この絵本は、そんな日本語の素晴らしさを教えてくれます。小学校の教科書も、こんなふうに遊びながらやると身につきますね。
【続・絵本ってな〜に?その100】

絵本に、新たな関心をいだくこと。

絵本は、広告、グラフィックデザイン、エデイトリアルデザイン、タイポグラフィ、レイアウト、イラストレーション、写真等々、ビジュアルコミュニケーションを学ぶ上で、すべての基本的要素が潜んでいるように思います。

ついに「続・絵本ってな〜に」も100になりました。
アートを手法でとらえることは、アートを戦略化に結びつけ、絵本表現をより一層いきいきとさせる技として大切だという認識をもちました。
しかし、理屈には限界というのがあって、その積み重ねだけでは新しいことはできません。
「勘」を磨きましょう。論理化できる勘です。
絵本はこうなんだっていう思いこみや、枠組みをはずしていくこともひとつの方法ではないかと思います。
そのためには、絵本に「新たな関心をいだくこと」です。

絵本はコミュニケーションを生み出すメディアです。
コミュニケーションの新しい芽を発見して新たなクリエイティブを生みだしましょう。

スイスの絵本画家 「クライドルフの世界」展が19日から、
Bunkamuraザ・ミュージアムで開かれます。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/12_kreidolf/index.html

会期:6月19日(火)−7月29日(日)
時間:10:00−19:00(入館は18:30まで)会期中無休
毎週金・土曜日は21:00まで(入館は20:30まで)

超自然的でありながら写実的な絵本。
絵本の黄金期(=19世紀)の絵本で見逃してはいけないのが、超自然的で写実的な絵本「花のメルへン」。
エルンスト・クライドルフはスイス生まれのドイツの画家であり詩人です。
小さな野草の下で繰り広げられる花や昆虫たちの暮らしを擬人化した「花のメルヘン」は有名ですね。
花たちの楽で楽しげに踊る娘たちも虫や花なら、槍を手に戦う男たちも虫や花。
ユーゲント様式(ドイツ語の呼称でアールヌーボー)の絵本で、その根本思想は、自然を新しい目で眺め、曲線模様によるデザイン、あるいは線形装飾法で、自然の中へ出ていこうとする心の様式です。
この「花のメルヘン」は、1896年には既に完成していましたが、出版までに2年の歳月がかかっています。
当時の画風としては奇抜であったために出版しようというところがなかったといいます。
その後、子どもに芸術的に高い水準の絵本を与えようとした芸術教育運動に支援されて
ミュンヘンで出版され、子どものための書物芸術の転換期をもたらしたと傑作と言われています。
それ以来、自然を擬人化した絵本は多く出版されたものの、思想を反映したものはなくなってしまいました。

19世紀の絵本は、時代を反映した様々な芸術様式が見え隠れしていて面白いです。
ナンセンス絵本。

ナンセンス絵本が好きだという人も案外多いのではないでしょうか。
ナンセンス絵本とは、常識の枠を超えた考えで成り立っている絵本。つまり、現実とのズレの中にこそおかしさが潜んでおり、ズレによって私達は「あたりまえ」だと思っていることが必ずしもあたりまえではないということに気づかされ、おかしさと同時に、社会の矛盾や自己の視野の狭さにドキっとします。

長新太さんの「キャベツくん:文研出版」は「ブタヤマさん」と「キャベツくん」という思いもつかない登場人物が出会います。ブタヤマさんは、「あのね、おなかがすいてフラフラなんだ。キャベツ、おまえをたべる!」そう言ってキャベツくんを捕まえます。「ぼくをたべるとキャベツになるよ!」「ブキャッ!」空を見ると、鼻がキャベツになっているブタヤマさんが浮かんでいます。「じゃあ、ヘビがきみをたべたら、どうなるんだ?」キャベツくんとブタヤマさんの珍妙なやりとりは続き、キャベツくんの返答は、ブタヤマさんの変身を示唆します。ここには、食べる」ことの意味、アイデンティティの問題が関係しますが、キャベツくんの奇想天外な発想が繰り返し披露されるため、笑いにつながります。
http://www.ehonnavi.net/ehon/315/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%99%E3%83%84%E3%81%8F%E3%82%93/

井上洋介さんの「でんしゃえほん:ビリケン出版」に出てくる乗り物は奇想天外なものばかりです。ページをめくるごとに「見立て」による面白さがあります。一人乗りの電車がつながっていたり、ドーナツ型の電車、電線の上を走る電車、脱皮する電車など・・・あり得ないと思いながらも、あったらいいなと思うことで楽しく、電車は決まったカタチをして決まったところを走るものという常識を崩される楽しさがあります。
http://www.ehonnavi.net/ehon/1348/%E3%81%A7%E3%82%93%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%88%E3%81%BB%E3%82%93
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笑いの原点は「想定外」ということ。
面白いからこそ、その「笑いの質」が問われます。
なるほど!と、見る人の気持ちをうまくのせられる計算ができているかどうかが成功の分かれ目。
こどもの「なぜ」「どうして」。

大人は質問されると、つい左脳で考えたことを答える傾向にありますよね。
子どもたちの「なぜ」は、大人の「なぜ」とは違って、右脳で感じて、右脳で聞いてくる・・・と言われます。
子どもの「なぜ」は、その子の周りにあるものを参考にして「なぜ」が生まれてくると言われます。
身近な「なぜ」なら、身近な「なぜ」で返してあげることが、子どもたちの「なぜ」に対する答えです。
ただ、それが正しい答えであるかどうかはわかりません。
そこには、答える人の感性が反映するからです。
子どもが「どうして雪はふるの?」と聞いてきたら「シベリアから寒気団が日本海を・・・」と答えたら失格。右脳で聞かれたら、右脳で答える。「滑って、転んで、足跡つけるため。」「雪だるまを作って遊ぶため。」等など、身近なことで答えます。 子どもの「なぜ」「どうして」は、客観的、科学的回答でなく、 自分との関わりを知りたがっていると言われます。
(以上、何時、何から引用したのか不明ですが、私のメモ帳から転載)

ここで紹介したい絵本が、「サンタクロースっているんでしょうか?」です。

作:ニューヨーク・サン新聞「社説」/絵:東 逸子/訳:中村妙子/偕成社
サンタクロースっているんでしょうか?
8歳の女の子から、ニューヨーク・サン新聞に質問が届きました。
女の子の友達に「サンタクロースなんていないんだ。」って言っている子がいるのです。
この質問に、新聞記者は、社説ですばらしい回答を返したのです。

これは、そのすばらしい回答を提供した1897年の社説を翻訳した絵本です。
この社説は、今でもクリスマスになると必ず登場するほど、世界一有名な社説となったそうです。
これは実際のお話で、8歳の女の子バージニアが、お父さんにサンタクロースが本当にいるのかを質問したのがきっかけでした。サンタクロースを信じない友達の影響で、本当にサンタクロースがいるのかどうかをお父さんに確かめたのです。
でもお父さんは、バージニアにサンタクロースが架空の人物であることを伝えるのがつらく、当時ニューヨークで最も権威のあった新聞社が答えてくれると、新聞社に回答を託したのです。ところが、新聞社は、恐らくお父さんも想像できないほどに的確で、道徳的で、ぴったりとくる回答をしてくれたのでした。 この回答は、目に見えるものしか信じず、自分の分からないことはみんなうそだと決めてしまうことが、どれだけ心の乏しいことかを教えてくれます。
また、宇宙に比べて人間の知恵なんてどれだけ小さいかということや、愛やまごごろのようにサンタも存在するということ、喜びが手で触る事だけになったらどれだけさびしいのかも教えてくれます。
サンタクロースを見た人がいなくても、それはサンタクロースがいないという何の証明にはならないし、サンタクロースはちゃんと存在して、しかも千年も百万年後たっても子供たちを喜ばせてくれることを断言します。
(http://www.ehon-narabe.com/archives/indiv/477.php より転載)

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