ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

親鸞『歎異抄』を読むコミュの第八条

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加




こんにちは、風の強い日ですね。
連休初日は、晴れて空気の冷たい日となりました。
さて、『歎異抄』第八条へと進みます。


「念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるに
あらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば
非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者の
ためには非行・非善なりと云々」


さて、南無阿弥陀仏とは行であります。しかしながら
それを称える者のためには非行「行に」「非ず」ということです。
「わがはからひにて行ずるにあらざれば」とは
まさしく如来の本願力の力をもってして、その名を称えるということ
でしょう。それは裏返せば行の中の行、正行ということです。
善の問題にしてみれば、それは善というより、善を超えているという
ことでしょう。


如来の本願力を信ずる気持の生じた時、その、力が隅々まで
通ることによって、自ずと仏の御名が称えられる。
曽我量深氏のお言葉に
如来は我なり、されど我は如来に非ず、如来我となりて我を救いたもう
というのがあって、最近ハッとさせられたのですが
如来の願いが我となると考えると、これも通ずるところがあるなと。
我が願いが如来の願いである筈などが無い。
本願とは、己を超えているものである。その、末通りたる力によって
己が救われる。


では、己が無くなるのかと問われれば、それはそうではない。
己は無くならない、凡夫は凡夫でしょう。
ただ、南無阿弥陀仏と念じ、称える時に、親様(如来)が
己を照らしてくださる。
救いというのは、何でしょう。それは本願力が往生するということでしょう。
それこそ、如来我となりて我を救いたもう、ということでしょう。
そこには我がはからいというものは無い。
それは速やかに成就するものでもあり、臨終の際に往生するものでもある。
それは禅にいう、頓悟と漸悟の問題にも繋がっているように思います。

コメント(16)

今日の日に第八条へと開いて下さったえすあいさんの尊い真心に、心より感謝申し上げます。

風吹かば
めくる歎異の
八つの条
如来の恩光
じかにありなん
>>[1] ありがとうございます。

弥陀の名をただ称へよと春は過ぎ初夏にはや入らんとするも


>「念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云々」


真宗や親鸞について親しく学んでいない私のような者にとってはとても間違いやすい所ですね。そういう外部の者はしばしば念仏を行者にとってももちろん行であり善の一つだろうと思いなしている。
しかし、明確にそうは考えないんだということがこの一条では言われている。
念仏は行者にとっては自らの図らいで行ずるのでもなく、自らの図らいによる作善でもないという。
そうなるともう念仏とは、ただただ阿弥陀仏の行(大行)として受けとめられるばかりだ。
>>[3] コメントありがとうございます。非行・非善の「非」というのは、あらず、ということですが、あえて言葉の意味をはみ出して考えると、それを超えているという風にもとれると思います。自力でする行や善を超えているものだと。

こんにちは、爽やかな初夏と言いたいところですが
少々暑いですね。GWも過ぎて、却って様々な疲れが出てくる頃です。


前回、涅槃というものに関して
それは即得られるものでもあり、臨終の際に得られるものでもあり
と解しましたが、それは絶対他力の教えからすると
反するものであるようです。
絶対他力の教えからすると、弥陀の本願力を信じさせていただき
その力に乗ずる時、正定聚という位に位置します。
即ち、浄土において仏と成る、それが定まった位に位置すると。
改めて言うとそういうことになります。


こういう時に、やれ自分の頭で考えるから、いけないのだと思います。
教義というものは、有難いものだということで、ただいただく。
私のようなものが、仏と生まれる定めなんて、と
思うのではなく、ただ、そういうものと、有難くいただく。
有難くいただく、というのは、そもそものところ、他力の要であります。
もう私などというものは、自力で云々できるものではないのです。
助けていただけるなど、とんでもないことであります。
そのような、全くの泥凡夫、迷いの生死を漂うだけの存在。
それが、不思議なことに、救われる。
本願力によって。それを、信じさせていただく、有難くいただく。


結局、南無、帰命というのは、有難くいただくこと、はい、と
応えることとも言えます。
この、はい、が得られるまでに、どれほどの時間がかかったことか。
もう後は、本願力に乗ずる他無いのです。
本願力がどのようなものであるのか、これはもう、ただ不可思議であります。
凡夫が仏と成る教えは、これ以外にありません。
ただ有難い、歓喜でもあり、また、しみじみとした喜びでもあります。
南無阿弥陀仏と称えさせていただく、ただ、はい、であります。
はいという返事も、わたしが応えるというより
そのように応えさせていただいているのであります。
生きながら阿弥陀仏と一体の境地をどんな瞬間にも味わうようになるなら(自分が何に襲われようと、どんな目に合おうと)、それはとても素晴らしいことですね。
こんばんは、久しぶりの更新となります。ふと、日々を過ごしていると、他力を忘れていることもあります。日々、念仏を称えるということは、これは簡単なようでいて、実に難しいものです。
非行・非善というところ、特に考えさせられるところです。
己のはからいに非ずというと、なにか、こころを虚しくしてなどと考えてしまいがちですが
最近思うのは、そういうものじゃないということ。
脳でもなく、こころでもない、そこに「己のはからいに非ず」という
ただそれは実体ではなく、そういうものがあるのではないでしょうか。


自然法爾といいますが、そこには容易にたどり着くことなど出来ないのです。
でも、たどり着けないとも言わない。そういうものだと見る時に、何かが開けてくる。
その、幽きものを、自然といったのではないでしょうか。
それは脳に非ず、こころでもない。個でも、普遍でもない。
全てを否定し尽くし、全てを肯定する、そういうもの。
自然(じねん)とは、天然自然を意図しているのか。法則でもない。
ただこころを澄ませていると、そこにあるような、無いようなもの。
そこに法がある、機中に法あり。


だから、あえて自然とは言わない、と聖人も仰せです。
そこを言えば、全ては自然ということになってしまいますから……
ただ念仏を称える、そのなかに
これまでとは違ったものがあるようにも思います。あえて言えば「空念仏」とでも
言うべきものが。これは不思議なものです。
漸くわたしの信心も「のぼせ」が下がってきたように思います。
こんばんは。実に久しぶりの更新となります。このコミュももう、十年以上やっているのですね。
時の流れを思いながら。利他の行を思う時に、ふと思うのは、人間、血肉となったものが
ものを言うということです。わたしも仏教に関して、あちらをかじり、こちらをかじりと
やって来て、やはりベースとなるというか、至るのは利他の行です。


救われるというのは、なんだろうと思います。いや、既に救われたこの身であるとするならば
それもまた、何であろうかと思います。この、すっきりしたようなしないような感覚のうちに
もう長いこと居るように思います。でも、たとえば自分の両親との関係において、こう
ここ数年で変化があったというか、実にいい関係になりました。そこで考えてみるとこの
親子が互いに睦み合う様子こそが、利他の行のベースとなるのではないかと。
在家にありながら、また長いこと称名も怠けながら、それでもなぜ、わたしは救われているなどと
思うのだろうか。それはひとえに、通俗的な理解をもっていえば、日々、あらゆることに
感謝して生きるという、この一事に至るかと。


自分は、自分こそは悪人だという見解にはなかなか至りませんが、それでも自分は悪だと
うっすらとながら思います。そして、そんなわたしが人を救うなど、出来た試しも無い。
救うというのは、阿弥陀様の行い、そうも思います。が、それもまた誤りなのです。
救う救われるということ、それについてもさして思わず、ただ有難い、有難いと生きていくこと。
有難いから入っていけば、自ずとその他のことはついて来るものと
最近は思うようになりました。そして今日、久しぶりに称名をとなえました。


戒ということでいえば、聖人はより大きく、人間というものを見つめておられた。人間としての
在りよう、苦しむ人間がいかにして救われるか、何より己の為の信仰と思われた。
この、己の為、と利他と、両方があっての人間だと、今のわたしは思います。
両方あっていい、いや、そうでなければ煩悩にまみれた凡夫という訳にはいかない。
そしてここにこそ、利他信仰の、本質的な力強さがあるのだと、そう思います。
>>[8]

自分で計らわずとも、深い深い真実の場所から、ふつふつと自然に湧き出るように、救いの力は今もいつも湧き出しているということでしょうか。
それとも、そういうこととは違うのでしょうか。
>>[9]

おっしゃるように、私たちはいろいろ反省したり努力しても、なかなか深く染み着いた無明から脱することはできないものですね。
得意になったり、落ち込んだり。
そんな自分でも生かしていただいている有り難さに目を向けて、おっしゃるように深く深く感謝するならば、
その感謝の姿勢によってまさに私たちは人に優しくなることができますね。
感謝する謙虚さが、人の和を創造することにつながりますね。
>>[10]  救いの力に関しては、不可思議ということだと思います。知らず知らずのうちに、救い取られていると、わたしは感じていたりします。計らいをなくすことは、恐らく出来ないのだと……煩悩にまみれた凡夫ですから。
>>[11]  ある妙好人の言葉に「ふしぎですな……ゆかいですな……ありがたいですな」というのがあって、そこが利他の教えの妙趣であるように思います。不思議で、愉快で、有難いものです。毎日のように称名をしなくとも、救いの不思議と愉快さ、ありがたみをもって生きれば良いようにも思います。
>>[13]

その心の姿勢こそが実は称名なのだ、と言うことはできるでしょうか。
>>[14] どうでしょう……ただ、称名というのは、これはもう、あるんですね。称えるのと称えないのは違う。ただ最近思っているのは、称えることによって、こう、見落としてしまうものもあるのではなかろうかということです。称えることをとるか、心をとるか、ということになってくると、これはもう、難しいことです。
お久しぶりです。
気がつけば、時間が経っていました。このコミュを読んでおられる
方は、どれほどおられるのか、分かりませんが
再び、こつこつと歎異抄を読んで行きたいとは思っています。


3年ほど前の私は、自利・利他ということに悩んでいたようではあります。
しかしながら、実際には、自利も利他も、どちらも
まあ、人間ごときといいますか、それにては貫き通すことは
出来ない、というのが聖人の教えであったこと
これを忘れて、道に迷っていたようにおもいます。
自利・利他というものは、ある意味メタ的な「自利」なのです。
そして、それを超えたところというか、まあ
聖人はそれを縦に超えるじゃなし、横超と仰ったが
そこに、絶対他力というものがある
ただ、それは、絶対他力という、まるでそういう実体が
あって、ひとがそれをつかむ、独占できるといったものではない
と仰った、ということ。

ログインすると、残り1件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

親鸞『歎異抄』を読む 更新情報

親鸞『歎異抄』を読むのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング