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親鸞『歎異抄』を読むコミュの「他の善も要にあらず」

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第一章の第三項に、「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに」とあります。
この言葉は一見、とても極端な物言いのように響いてくる。
一体、どのような論理、どのような思いがそこにはあるのでしょうか。
皆さんはどんなふうに受けとめられるのでしょうか。
いろいろ教えていただけたら幸いです。

コメント(7)

「本願を信じる人には、他の善は必要ない。念仏にまさる善はないから」と訳せるでしょうか。
これはわざと念仏を強調するために極端な言い方をしただけで、実は念仏以外の善をまるっきり排斥するつもりじゃあない、
と受けとめるべきでしょうか。
それとも、いやいや、言葉通りに受けとめるべきだと考えますか。
 「黙って、目をつぶり、手を合わせて念仏してごらんなさい。南無阿弥陀仏。」そう言っているだけなのだと思いますよ。この「黙って」の中に様々な想念が詰まっている。

 独善と紙一重の作為施善など、要もない。ただただひとえに、本願他力にお縋りする、それ以上の善はない。そう言っているのだと、僕は理解していますよ。
>>[002]、どうもありがとうございます。
そのような言葉で言っていただけると、とってもよくうなずけます。
だのになぜそのような懇切丁寧な言い方ではなく、極めて誤解しやすい言い回しになっているのだろうかということをあらためて考えてみますと、

当時はまだ日本語が漢文から離陸して十分に懇切丁寧に文意を表すほど発達していなかったのだ、と見るべきでしょうか。
それともどのような理由を、tappeiさんは考えられますでしょうか。
>>[3]

  あの・・・古文ですから・・・・当時はそのことばで充分「懇切丁寧な言い方」だったのだと、思いますが?わーい(嬉しい顔)
>>[3]

 人間の<賢さ>を考える上で、様々な諺や箴言があります。「馬鹿な考え、休むに似たり」というのも卑近な例ですが、フランスのポール=ヴァレリィの言葉が一番好きです。

 曰く「物事をする前に、熟慮してから行動する人間と、サイコロで決める人間がいた。それでいて後者が前者より不幸だったかというと、そんな大差はなかった。」

 作為施善とは、こういう熟慮のことも含めているのじゃないかと思うのです。当然、僕は<熟慮>してしまう側の人間です。それは、善も悪もへったくれもない、ただの僕の性向にすぎない。そういうふうに自分を戒めてこそ、本当の賢さがあるのだということを、歎異抄や、ポール=ヴァレリーは教えてくれている。僕はそう考えます。
>>[4]

でも、現代の庶民のひとりである僕が解釈に迷うぐらいですから、昔の庶民だって解釈に迷ったりしなかったでしょうか。
>>[5]

>当然、僕は<熟慮>してしまう側の人間です。それは、善も悪もへったくれもない、ただの僕の性向にすぎない。


「熟慮するほうが善いと思ってやっているが、実はただの自分の性向性癖が熟慮させているだけで、偉くも何ともないんだ」という意味でしょうか。

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