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林 竹二 先生コミュの林竹二さんから学んでいること

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 私は林さんが大好きです。

 名言集を語ろうというトピもあるようですが、林さんから何を学んでいるかを教えてほしいと思って、こんなトピを思いつきましたが、いかがですか。

 どんなことでも書いていただければうれしいです。

コメント(17)

 まず私のことを書かせてくださいね。

 「教育の再生を求めて」を読んで、宮城教育大学に入ろうと思いました。

 湊川高校の50周年記念の講演で初めて林さんの話を聴くことができました。
 そこで、林さんの話が始まってもガヤガヤしている、高校生たちの事が気になっていたのですが、そのうちに林さんの話に吸い込まれている自分に気づき、周りの音など聞こえていませんでした。(たぶん、実際に、すべての人が、林さんの話に引き込まれていて、息もしてないような状態だったんではないかといえば、ちょっとオーバーですかね)

 そこで話を聴くとか、話をするということは、こういうことなんだなと思いましたね。

 それまでは話を聴いてくれない子どもたちに「うるさい、話を聴けー」などと怒鳴ってましたからね。
 もう一つ、「学んだことの証は唯一つで、何かが変わることです。」

 この言葉は最初の頃から気になってた言葉でしたが、最近ようやく、その意味がわかってきた感じがしてます。

 私にとっては、「生きること」=「学ぶこと」であり、林さんはそういう意味で、死ぬまで学び続けた人なんだと思っています。

 近藤完一さんは、林さんの死に「最後の哲学者が死んだ」といいましたが、ほんとうにそう思います。

 私もそのような生きかたをしたいと思っています。(とても難しいことはわかっていますが、思うだけは自由ですよね。)
 林さんのことをよく学んでいる人の中で(私は勝手にこの人が一番、林さんのいいたかったことを理解している人だと思っています)、私の大好きなお医者さんがいます。

 静岡市の清水で開業している乾達さんです。

 この人のスライドを使った、石炭火力の建設の反対運動の学習会に参加させてもらった時、林さんの授業がそこにあったような気がしました。

 その前には、毎月、住民大学と称して「田中正造の生涯」を何年も時間をかけて読んでいました。

 その乾さんに年始の電話をしたところ、「近藤さんからいただいた林先生の最終講義のテープが出てきたんで、聴きなおしてみたら、いいですよ。」と教えていただいた。

 どこかに活字になってないかと探したところ、「若く美しくなったソクラテス」の冒頭にあるとのことでした。

 林さんの本は、ほんとうに読むたびに、新たな気づきがあるので、また読んでみようと思っています。
 日向康さんが9月7日亡くなられました。

 林さんのそばで、学ばれていた方です。

 田中正造の伝記「果てなき旅」や、林さんがモデルの「それぞれの機会」を書かれました。

 又、思想の科学69「林竹二研究のために」を編集され、「林竹二・天の仕事」も書かれています。

 毎年、林さんの命日4月1日の近くに「偲ぶ会」を主催してくれてました。

 今年の「偲ぶ会」の会場で、倒れられ救急車で入院されました。

 病院にお見舞いした時、奥様が「林先生に呼ばれてるんでしょうかね。」と話されていました。

 その後小康状態が続いていたようでした。

 10月9日は日向さんとお別れをする会が仙台で行われます。

 私も参加させてもらうつもりです。

 日向さんや林さんについてのお話が聴かせてもらえればありがたいと思っています。

 
 お別れする会では、日向さんと縁のある人たちのお話を興味深く聴かせてもらいました。

 日向さんは林さんと出会う前から、読書好きで、陸軍士官学校に在学中から禁じられていた本を読んでいたり、哲学者の阿部次郎さんの本を読み、自宅に訪ねられたりもしていたそうです。

 敗戦後、林さんが中心となって創った、復員してきた若者たちへの学びの場で、林さんに出会い、多くの友人たちが大学に進む道を選んだ時に、日向さんは文学への道を進みたいと、林さんに言ったようです。

 林さんは「小説を書くには才能がいるけど、君にそれがあるかどうかわからない。けれど、コツコツ調べて書くことはできるかもしれない。」と言い、長谷川伸さんの小説を読むようにすすめられたそうです。

 そこでも日向さんは長谷川さんを訪ねて、長谷川さんの書斎にある莫大な資料の山に愕然とされたそうです。

 その後の「果てなき旅」を書かれたときからの、コツコツと調べて書くスタイルがこうしてできていったようです。

 日向さんを偲ぶ多くの人の話を聴かせてもらい、日向さんの懐の広さ、優しさのようなものを、改めて感じました。

 キリスト教に造詣の深い、山形さんによる、林さんの田中正造や新井おうすいのキリスト教理解もおもしろいものでした。

 ただ私には、ソクラテスや田中正造のように、林さんは死ぬまで学び続けた、変わり続けた人なのだと思います。

 「学んだことの証はただ一つで何かが変わることである」という言葉のように生き、死んでいった人だと思います。

 そして、その肉体は死んでも、林さんの魂は生き続け、日向さんや私たちの魂の中に生き続け、さらに日向さんの魂も又、私たちの中に生き続けるのだと思います。

 それが、日向さんの田中正造の伝記小説の題、「果てなき旅」なのだと思います。
日向康さんがお亡くなりになられたとのこと、知りませんでした。
『林竹二・天の仕事』は林竹二の思想を知る上で本当に貴重な資料だと思います。前書きにある、「この四十年、ただ、私には楽しかった。」という一文が林竹二と日向さんの関係を物語って余すところがないと思います。
ご冥福をお祈りいたします。
 青い鳥さん、書き込みありがとさんです。

 読ませてもらい、もう一度『林竹二・天の仕事』読み返させてもらいました。

 ほんとうに林さんの仕事を丹念に追われてる日向さんの文章には、感謝感謝です。

 斉藤喜博さんとの別れのあたりまでは、まったく書かれてあるとおりだと思います。

 ただ、その後の、湊川高校、南葛飾高校、「授業を考える会」、須賀川養護学校の実践との関わり、などのところに、もう少し触れてほしかったと思っています。

 林さんが、ソクラテスさんや田中正造さんの生きたように、生きようとしたのだと思います。

 それは一言でいえば「畏敬の念」を持つことであり、謙虚であることだったのだと思います。

 教師たちや文部省に対しては、とても厳しい要求を、し続けたことも、ソクラテスさんがソフィストさんたちに対話をし続けたことや、田中さんが晩年、国の河川改修計画がいかにずさんなものであるかを、自ら実地調査をしたことに繋がるのだと思います。

 湊川や南葛に入られたのは、谷中村に入りなおした田中さんを思わせます。

 しかし最晩年に、須賀川養護学校の安藤さんたちの実践を評価され、それを広く伝えようとした事は、日向さんが詳しくは書かれていないような気がします。

 そのへんのことを一度お聴きしたいと思っていましたが、そのことができないうちに、日向さんも林さんたちがいる世界へと旅立ってしまいました。

 林さんに以前田中正造の最期の日記「何とて我れを」の意味を聴かせてほしいとお願いしたところ、「そういう問題はテストの答案のように答えられるような問題なのではないんじゃないですか?それはあなた自身が一升を通じて見つけていくような問題ではないですか。」と言われたことを思い出しています。

 最晩年の林さんから、私自身が何を学んだのか、その意味がわかるようになりたいと思っています。

 今回の日向さんの死に出会い、「果てなき旅」や『林竹二・天の仕事』を読み直させてもらっています。

 そして林さんの最晩年に書かれたものも、もう一度読み直してみたいと思っています。
 「若く美しくなったソクラテス」を読み返してみました。

 川手鷹彦さんの話を伺っていて、村井実さんの著書を読ませてもらい、村井さんもソクラテスの研究から、現在の教育のあり方に、いろいろな提言をなさっているような感じを持っています。

 昨日から竹内敏晴さんの林さんとの対談集「からだ=魂のドラマ」を読ませてもらい、もう一度、林さんのソクラテスを読みたくなりました。

 ソクラテスやプラトンが考えていた教育、そして林さんがそれを通して考えていた教育と、今の社会が求め、実際に行われている教育の間にある溝は深くて大きいものであると改めて感じています。

 しかし、そんな中でも、自らの天命を信じて、生きていらっしゃる素敵な人たちの存在を最近になり知れるようになったことは、大きな喜びです。

 そういう人たちは、多くはないのでしょうが、確実にいたのでしょうが、私の眼には入って来ていなかったようです。

 「ようやく気がついたのかね。」と林さんの笑顔が上のほうに見える感じがしています。
 4月1日は林竹二さんの命日です。

 林竹二さんが肉体としての死を迎えられて、丸22年になります。

 3月31日は、静岡市の清水の乾医院で22回目の竹二忌があり、1983年11月にクレヨンハウスで行われた「教育の根底にあるもの」の講演の映画を観させてもらいました。

 主催されている乾達さんは私がもっとも尊敬している方で、林竹二さんのやろうとしていたことを、もっとも深く学び、実践しておられる開業医さんです。

 去年に続き、同じ映画を上映したのは、「教育基本法」が改悪され、さらに今、憲法も改悪されようとしている今、もう一度、林さんの言葉を聴き、聴いてもらいたいという思いだったようです。

 林先生の本に書かれていることは何度読んでもそれぞれ新しい発見があるとは、乾さんがいつも言われていることですが、「今回の映画も、そういう発見がありますね。」と言われていました。

 私も初めて観たわけではないはずですが、やはり改めて考えさせられていることが、いくつもありました。

 「神からいただいた『いのち』にたいする畏敬の念がないところに教育はない」
 「『いのち』は自ら成長するものだが、そのためには栄養が与えられる必要があり、しかもそれは、噛み砕かれ消化されなければならない。」
 「知識が知識のままで、消化されなければ、それは『いのち』を殺してしまう。」

 子どもたちの授業の中での変化を捉えた写真を何組も示し、そこに問題と格闘しているそれぞれの子どもたちの内面を読み取ってくれます。

 林さんの方を無心に見つめている、その表情は美しく変化します。そして最後は目を閉じたり、頭を下げ、自分一人の世界に入っていきます。

 林さんは「問題に追い詰められ自分と格闘している姿でしょう。」といわれます。

 カウンセリングの学びの中で、友田さんが言われている「真空」の状態なのでしょう。

 その中で、何かに気づき、それがその人の何かが変わるきっかけになるのでしょう。

 「学んだことの証はただ一つで何かが変わることです。」

 林さんの言葉の中でも、もっとも深く私の中に残っている言葉です。

 25年ほど前に林さんに長い手紙を書いたことがあります。 
 長々と自分のことを書き、宮教大に入った事情やら、そこで学んだと思っていることなど長々と書き、「授業を考える会」で蔦温泉にいらっしゃる時に、田中正造の最後の日記の「何とてわれを」の六文字の意味を教えていただきたいという趣旨だったような気がします。

 そのすぐ後に、林竹二さんから「君は味噌もくそも分からないような人ですね」という手厳しいはがきを速達でもらい、それを読んで恥ずかしくて布団にもぐりこんでしまったことをはっきりと覚えています。

 その後の蔦での会のとき林竹二さんに呼ばれ「先日は失礼なはがきを書きましたね」とニコニコされながら「あなたが大学をやめたのは、大学には免許を取るためだけに入った事になるのではないですか?」「日記の解釈はテストの答案のようにこれそれとあるようなものではなく、あなたの一生をかけて考えていくようなものではないんですか」と話してくれました。

 その問いの答えは、自分の頭の中では、少しづつ理解が深くなってる気はします。

 しかし、それは終わりのあるものではなく、自分の生き方でしか表せないもなのでしょう。

第一部では、もっぱら授業の時の子どもたちの写真を使い、上記のようなことを話してくれました。

 二部では、須賀川の養護学校の実践、特に勝弘君という子どもと、その子に関わった、安藤先生の写真や、その他の重度の障害を持つ子たちに関わるほかの先生たちの姿の写真を使い話してくれました。

 勝弘君は目は見えない、耳も聞こえない、話も出来ない、からだを動かすこともできないと思われていた子どもだったようです。
 ただベッドで寝たきりの状態だったようです。

 安藤先生はそんな勝弘君に、毎日会いに行き、勝弘君の手を自分のほほに当て、自分の手を勝弘君のほほに当てて、「勝弘君、安藤先生だよ。」という話かけをしたそうです。

 どのくらいたってからは聴き忘れているのですが、勝弘君がその話しかけに反応して、ニコッと笑うようになったそうです。

 その後、ものを持てるようになり、三輪車に座ることもできるようになり、両手でロープを持ってブランコに座ることまでできるようになります。

 その間の安藤先生の勝弘君に、積み木を持たせている写真や寝返りを補助している写真、三輪車に乗せて支えている写真。
 又、勝弘君が自分で花を手元にたぐり寄せ匂いをかいでいる写真を示してくれました。

 そしてその講演の中で唯一「介助」と板書されました。

 いのちあるものは、自分で自分を変えようとする力を持っています。
 自分一人ではそれができないときでも、「介助」する人によってそれができるようになることに、「教育の根底にあるもの」を見ているようです。

 須賀川養護学校の先生方の子どもたちへの触れ方は、ほんとうに宝物に触るように、やさしく暖かく丁寧な感じです。

 そこに「いのちに対する畏敬の念」を感じます。

 その後、冒頭に「今の日本に教育はあるでしょうか?」という問題提起と「私には本当の教育と呼べるものは無いとしか思えない」という林さんの厳しい指摘が繰り返されます。

 全国の教師たちに授業の可能性を語り、「一年で一度でもいいから、子どもたちが全力で関われるような授業をしてほしい」という林さんの願いは、ほとんど受け入れられませんでした。

 私などもそういう授業をしたいと思ってはいても、そんな授業は林さんのような厳しい学問をしてきた人しかできないものだとあきらめていました。

 そんな状況の中で、林さんは教師たちに要求するだけでなく、現在の教育現場を作り出してきた、国や文部省の責任を追及する「教育亡国」を書かれたのだと思います。

 そして、多くの教師たちは、軍隊の下士官のような存在として子どもたちに対しているのではないかと、問われています。

 再三、憲法の中では「子どもの能力に応じて等しい教育」を謳われているので「違った教育」ではないと指摘しています。

 知識を与えるだけでなく、「授業」という「与えられた知識を噛み砕く」体験を通して、「それぞれの人間になる」という「等しい教育」が必要なのだ言われているように感じました。

 会場からの質問に答えて、「それでも、今の教育の状況を憂いている人はたくさんいますし、新しい取り組みをしようとしている人たちもいます。」と少しの希望も持たれているようにも見えました。

 その講演から23年以上たち、「教育基本法」も改悪され、世論調査でも多くの人が教育が悪くなっていると感じています。

 状況はますます深刻になっているのでしょう。

 「闇は深くなっているけど、明けないことはない」というような事も言っていたような気もします。

 どこまで闇が深くなるのかわかりませんが、この瞬間までの闇は必要なものであったと、思うしかないのだと思います。

 しかし、これからこの闇を明るくするかどうかは、私たち一人ひとりの生き方、意識の持ち方にかかっているのだと思います。

 今回の林さんの講演の映像は、私にとって新しい年度のはじまりにふさわしいものでした。

 「教育の根底にあるもの」をたいせつに生きること、それが具体的にどのようなものであるのかを、試行錯誤の中で見つけて行きたいと思っています。

 「子どもたちに学ぶこと」「謙虚であること」「愛すること」「すべてが繋がっていること」「すべてのことに意味のあること」「過去と他人は変えられないが未来と自分は変えられる」「自由な個人が愛で繋がっていられる関係」「生きることは学ぶということ」「生きるということは新しく創り出すこと」私にとってのキーワードです。

 日々の生活の中で、自分を知り、自分に繋がるすべてを知ること、それが「人として今を生きる」意味なのでしょう。
 久しぶりに林さんについて書いた日記です。

 長いですが、よかったら読んでみてくださいね。


 ステージに飾られている花の参加者の一番はじに
 背の高い連翹の花束が置かれています。

 参加者の熱い思いの話が続き、時間はどんどん過ぎていきます。

 私の中にも話したい思いが高まっていく。

 どこかで、今はまだいいかという思いも湧いてくる。


 連翹は林竹二さんが好きな花だったといいます。

 (1985年4月1日にこの世から旅立たれました。送る会の時に、連翹の花で遺影を飾りたかったそうだけど、それだけの数は集められなかったそうです。
 毎年、仙台で行われている偲ぶ会では、誰かが会場に持ってきてくれていました。)

 今回の盛岡での「六ラプ市民サミット」に参加してみようと思った理由の一つは、後援に「グループ現代」の名前があったことでした。

 (六ヶ所ラプソディの製作者ですから、あって当然なのでしょうが、私にとっては、林さんの「授業、人間について」や「田中正造最後のたたかい」の映画ともつながってきます。)

 続く
 
 
 字数制限があるようですので、何回かに分けてみますね。


 林さんの追悼特集号で「水俣、そして清水」という副題をつけて
近藤完一さんが、「林先生と谷さんと乾さん」を書かれています。

 (今朝、乾達さんからの「いのち」の360号が届きました。この新聞は乾さんが35年以上前から、院内新聞として毎月出され続けているものです)

 その「いのち」の中で近藤さんのことにふれています。

 {・・彼は「人の話したり書いたりしたものより、その人の日常の立ち居振る舞いがきちんとしているかの方を信用する。人の考え方はかえることができるが、日常のちょっとした立ち居振る舞いは一朝一夕には改めることはできないから。」と常々いっていました。}
 
 「書棚を見ればその人物が解る、どのような本を愛読しているかが大切だ」「その人がどのような人物を師と仰いでいるかも人を見るとき重要」というような言葉も紹介してくれています。
 そして{彼は林竹二と武谷三男を終生の師としていました。}と書いてくれています。

 林竹二さん、近藤完一さん、乾達さん、この三人の方は私にとって、今も多くのことを学び続けさせてくれています。

 林さんはソクラテスさんや田中正造さんたちの生き方を、私たちがそれぞれ学ぶための礎を書物という形で残してくれました。
 又この世を旅立つ最後の最後まで、自分の生き方を通して、生きることの意味をみせてくれました。

 盛岡へ向かう電車の中で、日向康さんの「それぞれの機会」を読んでいました。
 日向さんは、林さんのもっとも近くに居て、林さんの仕事を続けてくれた方だと思っています。

 さっき読み終わると思いがけず、懐かしい近藤さんの字が書かれている便箋がはさんであります。

 「・・・春休みに水俣へ行って来ました。O君が、貴兄から水俣の子供達にまでリンゴをいただいたと恐縮していました。私からも厚くお礼を申し上げます。・・・同封のもの、数十年振りに復刊になったものです。面白い内容なのでお送りします。・・・」

 1987−4−28の日付でした。

 確かその前の年に、近藤さんが水俣で一緒に運動をしてきている労働者の子ども二人を、東北の旅行に連れてきてくれて、私も一緒に十和田湖観光や八甲田登山をしたのを思い出しています。

 そして、便箋の日付は母の75歳の誕生日でした。

 近藤さんは、乾さんや、日向さんだけでなく、多くの人たちに出会うきっかけを与えてくれました。

 近藤さんは、日向さん編集の林さんの特集号で「本当の哲学者が死んだ。」と追悼文を始められ「いつか、先生に、この谷さんと乾さんと私との出会いをお話したら、『人生には奇遇というものがあるものですね』と言われた。」と終わられています。

 谷さんにも水俣で一度、六ヶ所の一万人集会でも一度お会いしたことがあります。


 続く
  乾さんは静岡県清水で開業なさっていたお医者さんです。

 乾さんは同じ特集号で「清水では、林竹二先生にただ一度だけ講演をして頂いたことがある。」と『闘いの中で聴いた林先生の講演』を始められています。

 「・・・。
   当時の我々のスローガンは、一人一人が指導者、自分の頭で考えて自分の足で歩こう、であった。
 住民の一人一人が、それぞれの持ち場で、能力に応じて指導的役割を果たさねばならないと考えて、運動をすすめてきていた。
 林先生の次のようなくだりは強い共感を持って闘っている住民に迎えられた。
 『・・・個を確立した上での連帯でなければ数というものは何の力にもならない。
 ところが、この確立など抜きにした連帯が今の連帯ですね。
 だから、皆、偽もの、零はいくら集まっても零で、数にはなりません。
 ・・・権力に屈しないだけの力を持った確固たる主体性の確立した個人の間の結びつきができたとき、はじめて一つの本当の共同体ができる。・・・
 自分の生活を賭けた戦いを通して、自分自身を創り変えてゆく、そういう仕事の中に田中正造は日本の復活する唯一の道を考えていた。
 ・・・現在の運動も自分の足元をみて、闘うということはどういうことか、人間が生きるということはどういうことか、というところまで戻して考えてみないと、闘いの本当の根底は創られないのではないか・・・。
 政治運動などによって、やらなければならないこともありますが、それだけやっていれば、凡てが解決するということではない。
 本気になって、いま考えないと凡ての運動が頽廃してしまう。
 住民運動が解毒剤になる可能性はあると思いますが、その運動が組織者に組織された運動になると駄目になってしまう。
 住民運動はどこまでも、住民が主体になって、自分たちの生活をどうするかという、いま目の前にあるこの問題をどうしたらよいのかという問題が大切であって、帝国主義から出てくるのだなどということでは問題は何も解決しない。
 ・・・自分を豊かにするようなものが闘いの中から生まれてこなければならない。
 そうでないと続かないし、それができないとダラ幹を生み出してしまいます。
 自分との闘いが根底にないとだめです・・・』
 
 そして「最後の質問、『林先生にとって田中正造は』に答えられて、次のように語られた。」とあります。

 「『田中正造はわたしにとっては先生ですね。
・・・自分が生きる力にするという姿勢で読まなければ、田中正造は判らない。何も語りかけてくれません。
 本当の弟子というのは、先生の書いたものや言ったことを器用にまとめて本に書くというようなことでなく、それにしたがって生きるということでしょう。
 キリストを信じるということは、十字架を負ってキリストの後をついていくということで、それがキリストの弟子になることです。
 後についていくということと、それに従って、学んだと思うことがあったら、そのことを生活の中で生かす、その原理に従って生きることをしなければ本当には判らない。
 如何に生きるかということについて先生を持たないということは非常に不幸なことですね。
 ・・・その人間がどういう人間であるかということによってしか、その人間が何を学んだかということは示すことができない・・・』

 林先生のような師を得たことは最大の幸せではあるが、本当の弟子になることは、また、至難なことである。」と乾さんは終わられています。

 これで終わりです。


  乾さんたちはこの運動でも、タンクの増設を断念させました。

 又、中部電力が計画し、清水市や静岡県、行政や経済界がこぞって推進した200万kWの石炭火力発電所の建設も、住民運動の力もあって、中止に追い込みました。

 その運動の中で確実に、田中正造さんや林竹二さんから清水の人たちが学んだことが生かされていると思います。

 その記録は「技術と人間社」から「みんなが主役で火力を止めた」という本にまとめられています。

 「この運動には『リーダーはいらない。』と言うリーダーがいた。」「この運動は私にとっての大学でした。」というような言葉をいまも思い出しています。

 この運動の中で、二年半にわたり二百三十回を数えたという学習会に参加させていただいたことがあります。
 乾さんがスライドを使って、少人数の参加者に、丁寧にわかりやすく語っていた姿を見て、林さんが教師たちに訴えていた授業が、そこにあったように感じました。

 この「みんなが主役で火力を止めた」は読んですぐに、抜き刷りをつくり100部近くも、配ったような気もしますが、肝心の私自身がここに書かれていることを、消化できていなかったようです。

 
 今回の盛岡の集まりに参加でき、いろんな地域の人たちとつながることができたことと、今までの運動から何を学び、それを、今とそしてこれからにどうつなげていくのかが、私の課題の一つなのだろうと感じています。

 決して「ハゲ」で「デブ」だったからだけの「ハブ」なのではなく、こわい「ハブ」だけでもなく、すべてのものをつなげる意味での「ハブ」でありたいと思っているハブさんでした。


 以上の長い日記でした。

 長くてごめんなさいです。

 ありがとさんでした。
はじめまして。
新潟で同和教育の実践検討会に講師でいらっしゃる南葛飾高校定時制の先生が林竹二先生のことをよく話しておられ興味を持ちました。
林先生の授業は受けたことはありませんが部落や在日、障害者など「重い荷物を背負わされている」人々が惹きつけられる授業とはどんなものだったのか非常に興味があります。


勇一さんありがとさんです。

 南葛飾高校には林さんからの縁で竹内敏晴さんが芝居を持っていっていたことがあり、何度か見させてもらったことがあります。

 林さんを送る会には、先生や生徒さんたちがわざわざ仙台まで来てくださっていました。

 林さんは生涯、「生きることの意味」「学ぶことの意味を」自分の生き方で示してくれた方だと思います。

 そういう意味で「ほんとうの哲学者」だったと思います。

 最近また「学問について」の文章を読んでいます。

 昭和23年に「学ぶことの意味」をはっきりと書かれ、まさにそのように生きられたのだと思いますよ。

 授業の記録もいろんな本になっていますし、竹内敏晴さんや灰谷健次郎さん、水上勉さん、高史明さんたちとの対談も本になっていると思いますよ。

 機会があったらぜひ読んでみてくださいね。
 さっき 気がつきましたが 今日は 林竹二さんの 17回忌です

 林さんには 直接にお話を聴けたのは 数回 時間にしても トータルで 数分間のものですが ほんとうに 多くのことを 学ばせていただいています

 1948年に書かれた「学問について」は 何度も 読書会のようなかたちで 読ませていただいています

 田中正造さんの最後の日記に書かれた 「何とてわれを」の六文字の意味は 林さんに 言われたように 私の生涯をかけて 問い続ける課題の 一つであるということが ますます はっきりしてきています

 林さんと沖縄も 久茂地小学校での授業などで 縁があるように 感じています

 今回の つなぐ光の動きのなかでも 「学問について」で書かれている 何のために 学ぶのかという 問いが 何度でも 突きつけられている感じです


 今のハウツウばかりが もてはやされる時代の問題 哲学のようなものが 問われなくなっていることの 危うさを すでに 60年以上前から 危惧され その後も 田中正造さんの捉えなおし 授業への問いかけ 教育亡国への警告 死ぬまで 自らの 使命を 果たされた方でした

 私の魂の父であった 近藤完一さんは 思想の科学の 林さんの追悼特集号に 「最後の哲学者が死んだ」と書いてくださいましたが ほんとうに そういうような 生き方を 死に方を された方だと 思っています

 林さんや 近藤さんに 出会えたことは 私にとって なによりのことでした

 あとは 私が どのように生き どう死んでいくのかが 問われているのだと 思います

 林さんや 近藤さんは 自らの使命に まっすぐに向き合って 生き 向こうの世界に 旅立たれました 私も 私の使命に 向かい 逃げずに ゆっくりと しずかに うつくしく 生きて行きたいと 思っています

 これからも よろしくです
 久しぶりに読み返してみたら、16の冒頭「17回忌」は「27回忌」の間違いですね。

 編集の仕方がわからないので、訂正をこういう形にしてみました。

 しかし、林さんが向こうの世界に旅立ってもう27年も経つんですね。

 私にとっては 今でも、近くにいて にこやかに笑ってみていただいているような 気がします。

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