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P-51Dについては全然語っていないですね。

この写真を見たときに、ショックを受けました、自動車とムスタングが同じ60年前の、工業製品とは考えられない。

軍需産業に、ハイテクを注ぎ込むのは判るが。

ドイツからユダヤ系?ヘッドハンティングという考え方も含めて語りませんか。

コメント(12)

もうひとつ、ショックなこと、現代社会では常識である「マテリアル、ハンドリングシステム(部品搬送)」が完璧だったこと。ハンガーに吊るされた機体の一部が整然と、これでは毎日何機でも生産可能、全米の工場でこれをやっていたに違いない。

良識ある軍人・知識人達は、このことを知っていたのですがね、硫黄島で指揮を取らされた栗林さんとか、わかっていた人も多かった。
翼桁と小骨、胴体フレームには押出成形材と、鋳鍛造材の半自動削出し加工を多用。そこへ予めプレス整形したパネルを貼って行くだけ。工場に女工さんが多いのは、非熟練の女手でも組立できるから。

これは Bf109 を3万機、Fw190 を2万機量産した第三帝国流の飛行機製造法で、W.W.II の晩期まで手作りの一品生産に近い態様だった英・日とは異なります。

更に米では、生産合理化の指揮を、量産ノウハウに長けた自動車屋が執った。国粋主義者(元軍国少年?)の先輩方は、「設計技量で我が国は決して劣っていなかった」と仰い勝ちなのですが、これじゃぁねぇ。

P51 を成功作たらしめたラジエータ配置位置については、土井武夫技師率いる川崎航空機は、むしろ P51 より早くこの最適解に到達していたらしいのですが(日本の情報は常に敵に筒抜け)、対する飛燕は3千機で、前線での稼働率も全く比較にならず。
付言するに層流翼は、高度な組立精度が出せないと逆効果になりかねないことが知られていて、独・日でも原理は熟知されていたものの、実機への採用は数年遅れました。
コストの比較
同じ金額で、何機も作れるのなら、数が多いほうが良い(アメリカ的発想?)

ちなみにP-38K 機体=$86645 エンジン=$23733x2 計=$140489
     P-47D 機体=$65308 エンジン=$24762    計=$115434
     P-51D 機体=$26600 エンジン=$15423    計=$58546

当時廉価で時代遅れのP-40Nの$52869と比較しても、コストパフォーマンスは驚愕に値する。
P38, P47 が高価なのは、ターボ過給器(B17 以来、いずれもG.E.が独占供給)の価格が機体側に加算されているためです。G.E.はこれで大儲けしました。

P51 のドンガラ価格が P40 と大差無かったのはご指摘の通りで、設計が新しい分、新工場で大幅に生産合理化されたことも理由です。

また Packard も、R.R. Merlin のライセンス生産に当り、組立式クランク+ニードルローラーベアリングを、鍛造一体クランク+平面軸受(メタル)へと単純化・再設計し、これも大幅な生産合理化に成功しました。因みにこの頃から、ロッカーアーム式 O.H.C.4バルブ(排気側ナトリウム封入弁)であり、後に2速2段式過給器。

Packard 社は技術オリエンテッドな高級自動車専門メーカーだったのですが、戦後10年を待たず GM の大攻勢の前に敗退し、消滅。
パッカードは、
おいらの本には、RRの傘下に入ると、記述してありました。
RRももうありませんが。

大量生産で、安価で、高性能なのは、液冷ならではの空力と、シンプルな設計だからだと思います、飛燕改の五式戦とともに、1500馬力のいわゆる中戦が、バランス的に一番だったのかもしれません。
パッカードは、1954年スチュードベーカーに吸収合併され、1958年にブランド名が消滅します。当のスチュードベーカーも、1964年に自動車生産から撤退。

さて、P51 の成功要因は (1) メッサー直伝の合理的構造、(2) 層流翼、(3) 低抵抗を達成したメインラジエータの配置法、の3点でしょう。

(1),(3) については、本邦の川崎航空機が P51 よりむしろ先に手掛けていたことは、既述の通りです。特に (3) は、日本側の試作機の情報が敵に知られていた可能性大。

ハインケルの He100 が、あのように超高速一辺倒のエキセントリックな設計ではなく、まともに育っていれば、好敵手になっていたかも知れません。
あ、自動車のほうではなく、航空機エンジン生産部門の話。

スパイ説よりも、胴体下にレイアウトすれば、設置位置はおのずと似てくると思われ、P−51開発時には、日本のスパイする必要は無かったと思われる、零戦の秘密は知りたかったみたいだけど、ビルマでP−51Bが出現したのは昭和17年、檜さんが右足を失ったとき。
そのとき飛燕はまだ、配備されていない筈。
昭和18年にニューギニアに配備。
飛燕
初陣は1943年4月中部ニューギニア戦線。
初飛行は1941年12月
開発開始は1940年2月
P−51B
全幅:11.30m 全長:9.80m  総重量:3,780kg 最大速度:708km/h  発動機:パッカード・マ一リン
1,350/1、590馬力 武装:機銃12.7mm×4  乗員1名
初飛行:1940年10月26日
同じく開発開始は1940年2月

スパイ説よりも、開発着手から、初飛行までの時間が決定的で、この差が明暗を分けたといってもよいでしょう、後は生産能力は、雲泥の差。
試作開始から1年10ヶ月後の1941年12月、おりしも日米開戦の直後、各務原の川崎航空機試作工場でキ61の試作機は完成しました。試作機は、すぐさま隣接する各務原飛行場で試験飛行に入りました。
試験飛行から、実戦配備までの時間も致命的、P−51は、ビルマまで現れていますからね。
日本軍は、隼2型まで。
P-51の開発時に、参考資料として
設計データがノースアメリカンに渡された
「XP-46」(開発開始は1939年9月)
というカーチスの試作機があるんですが
これが「ラジエーターまわりだけP-51と似てる」
という話が『世界の駄っ作機2』に出てますです。

これで「ラジエーターの配置すら役に立たなかった」となると
XP-46があまりにもカワイソなんで、
胴体下へのラジエーター装備は
これが元ネタだと認めてあげてください(笑
生産量も考えたほうがいいですね、あとは航続距離。

20世紀のレシプロ最高傑作機種はこれですかね、戦後さまざまな国で使用され、21世紀の今でもレースやホビーで飛んでいることを考えれば凄いと思う。
P51といえば、数年前ニュージーランドに旅行に行った際に乗りそびれましたw
ワナカという湖にある飛行場にWarBird博物館があるのですが、そこでP51(副座型)に乗れるのです。1フライト10万円でしたが。
お金がなかったのでT6ハーバードで楽しみました。こちらだと後ろにも操縦桿がきてるので、途中自由に飛ばせてくれました。
帰りにハンガーに入れてもらってロシアの凍土から引き上げてレストア直後のハリケーンとかI-15にI-16にスピッとファイアとか見せてもらって大満足。
ショップで隔年で行われているWarBirdのイベント本を購入したら作者の人がいてサインをくれました。
私が行く前の年のイベントでは隼1型が自力でタキシングして短時間ながら浮き上がったんだぜ、と教えてくれました。
今でもあるのかな。今度は乗りたいP51

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