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関裕二コミュの古代史情報

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3月20日20時22分配信 産経新聞

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかり、市教育委員会が20日発表した。

 過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認。当時、方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。

 女王・卑弥呼が活躍した時期とほぼ一致しており、卑弥呼がまつりごとを行った宮殿の一角との見方が浮上、邪馬台国畿内説に弾みをつけそうだ。

 調査は、約100メートル四方の高台のうち、西端約400平方メートルで実施。新たな建物跡は一辺が6メートル以上あり、昭和53年に見つかった建物跡(一辺5メートル)の東側で見つかった。その西側で以前、見つかっていた柱穴は同様の建物跡と分かった。

 3棟が高台の西端に位置することから、さらに東へ発掘を進めれば、神殿のような中心的な建物が見つかる可能性がある。

 柵は、全体の長さが約40メートル。53年発見の建物跡を凸字で囲むように南北へ伸び、東に折れ曲がっている。

 3棟は、西端の一棟がある「外郭(がいかく)」と、凸字形の柵に囲まれた2棟がある「内郭(ないかく)」に分かれた宮殿構造だった可能性もある。市教委は「建物群が特別な施設であることは間違いない」としている。

 現地説明会は22日午前10時と午後1時から。JR巻向駅のすぐ西で、駐車場はない。

コメント(19)

5月17日に宇佐神宮で全日本邪馬台国論争大会

 九州か、近畿か――。古代史最大の謎とされ、今なお数多くの説が唱えられる邪馬台国の所在地について、「おらがむらこそ所在地だ」と、奇想天外な発想やアイデアを出し合う「全日本邪馬台国論争大会」が5月17日、大分県宇佐市の宇佐神宮で開催される。1986年の第4回大会以来、23年ぶりの復活で、再び激論が交わされそうだ。

 同市では76年、点在する古墳やまが玉などの発掘例などから「宇佐が邪馬台国だ」と主張するまちづくりグループ「新邪馬台国建設公団」が誕生。「ミニ独立国」として新邪馬台国を建国し、ミス卑弥呼コンテストなどを実施する一方で、所在地論争に終止符を打とうと81〜86年にかけ、全国各地の会社員や主婦、中学生ら「アマチュア研究者」を集めたユーモアあふれる論争大会を計4回開催した。

 その後、約20年間、活動は途絶えていたが、経済危機による雇用情勢の悪化など、昨今の閉塞(へいそく)感を打開するためには、新邪馬台国の精神である「ユーモアと笑い」が必要と、第5回大会の復活が決まった。

 会場となる宇佐神宮で13日に行われた記者会見では、同公団総裁で宇佐市議の高橋宜宏さんが「むらおこしの理念で取り組んできた新邪馬台国を復活させ、暗い世相を払拭(ふっしょく)したい」とあいさつ。同市観光協会長で論争大会実行委員長を務める西太一郎・三和酒類会長は「夢やアイデアが広がるイベント。活動を継続することで地域に新たな活力を生むはず」と述べた。

 当日の論者(5人程度)を募集中。専門家ではなくアマチュアの研究家なら誰でも応募できる。論文は400字詰め原稿用紙5枚以内、メール(info@usa‐kanko.jp)での応募の場合は2000文字以内で、3月31日まで受け付ける。

 問い合わせは市観光協会(0978・37・0202)へ。

 纏向って日本史を解く上でかなり重要な遺跡なのに、一般には余り知られていないのが歯痒いですよね。
 今回の発見が大きな一歩である事を願います!
なんで纒向に集まったのでしょうか?。
河内とかの方が良いと思えるのですが、防衛的には大和盆地が良いですが・・。

九州との対立で大和?  

よくわかりません。

10月20日から11月29日まで九州国立博物館で開館4周年特別記展の「古代九州の国宝」が行われます。

「邪馬台国がここからはじまった」というサブタイトルで、邪馬台国九州説をテーマに行うようです。

ちなみに、関さんの「沈黙する女王の鏡」の本の表に印刷されているの金銀錯嵌珠龍文鉄鏡裏面が卑弥呼の鏡?という九州国博が鉄鏡に注目しています。

追伸

今は阿修羅展が行われているのですが現在、円形のウチワを九博が古代九州の国宝展の事前PRの為の配布しています。
> 卑弥呼の鏡さん。

はじめまして。

素敵なウチワですね〜♪(*^^*)

私は、専門的な事は殆んど解らないのですが、
関さんは、九州説のようですね。

先日、用があって桜井市へ行ったのですが、
「ようこそ、卑弥呼の里へ。」みたいな看板があってびっくりしました。

はじめまして。

福岡に朝倉市(甘木市)にも同じようなものがありますよ。
安本美典氏は甘木説なのでね。

私も奈良が好きで、これまでに3度ですが、明日香とか橿原とか桜井とか行きました。邪馬台国論では九州と奈良は敵対してますが、私は奈良はすごく好きな場所です。

関説の二つの邪馬台国説(九州と畿内にそれぞれの)であれば対立しなくてもいいのにねって思います。




卑弥呼の鏡様
>河内とかの方が良いと思えるのですが、防衛的には大和盆地が良いですが・・。
やはり防衛優先で大和盆地でしょうね。大阪平野のほうが海運等に便利よさそうですが、防御するためには中国のような城壁が必要になると思います。
盆地を城壁と見立てていたのかも(諸葛孔明も蜀は天然の要害と言ってましたし)。個人的には、海運+河川を利用した水運で大和盆地が適地になったのかなと想像します。

鉄鏡は非常に興味深いですね。
私の友人で天気を多少操ってしまう女性がいます。彼女は無償で電話相談等受けていますが、相手の家も霊視できてしまうそうです。
彼女から、阿修羅展と古代九州の国宝展に連れて行けと催促されているので、鉄鏡に残留思念が有るか聞いときますw
11月3日の朝8:30から九州国立博物館が現在行われている九州古代の国宝展の特集がNHKで放映されます(九州のみ)。

邪馬台国もテーマになっていますので九州の方は是非御覧ください。

NHKで放映の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

http://www.youtube.com/watch?v=_mFcPEUJsro
毎日新聞より

奈良・纒向遺跡に大型建物跡 強まる大和説
 <世の中ナビ NEWS NAVIGATOR>

 ◇邪馬台国、裏付けか
 邪馬台国の最有力候補地の一つとされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった、女王卑弥呼(ひみこ)が活躍した3世紀前半の大型建物跡は、邪馬台国について記した魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に出てくる「宮室」(宮殿)との可能性が指摘される。この中枢建物跡は大和説をどのように強めるのか。東西方向の同一直線上で南北対称になる前例のない建物群が論争に与える影響と邪馬台国と確定させるためのハードルを探った。【大森顕浩】

 纒向遺跡は「庄内式」と呼ばれる土器が使い始められた時期に、奈良盆地東南部の三輪山のふもとに突如として現れた。その年代は、卑弥呼が女王になったとみられる西暦190年ごろに近い。

 周辺では、後に全国で造られるようになった前方後円墳が早くから築かれた。大型建物跡の南約800メートルにある箸墓(はしはか)古墳は、全長約280メートルの巨大前方後円墳で、それ以前の墳丘墓や古墳とは隔絶した規模があり、時代を画した権力者の墓であることは間違いない。

 その後、奈良盆地東南部には、大和王権の初期の王陵とみられる巨大古墳が次々と築かれる。纒向遺跡を大和王権発祥の地とすることに異論はない。問題はそれが邪馬台国と結びつくかどうかだ。

 箸墓古墳の築造年代は、かつては4世紀以降とされたが、最近は卑弥呼の没年(248年ごろ)に近い3世紀後半とみられている。卑弥呼の墓とする説も有力になった。一方、卑弥呼の都とするのに欠けていたのが建物跡の存在だった。

 出土する土器の15〜30%を他地域から運び込まれた土器が占め、広範囲から人が集まった「日本最初の都市」と言われながら、裏付けとなる計画的な中枢建物跡が見つかっていなかった。今回の発見は、その弱点をクリアしたといえそうだ。

 ◇一直線に並ぶ建物群 専門家「弥生と飛鳥、結ぶ技術」
 魏志倭人伝は卑弥呼の館「宮室」について「楼観・城柵(じょうさく)を設け、常に人有り、兵(武器)を持して守衛す」と記す。1986〜89年に発掘された吉野ケ里遺跡(佐賀県)は、卑弥呼の時代に近い2〜3世紀(弥生後期)の濠(ほり)に付設された物見やぐらが楼観、土塁が城柵に当たるとして「邪馬台国が見える」のキャッチフレーズを生んだ。

 一方、95年に池上曽根遺跡(大阪府)で見つかった大型建物跡は、中国の歴史書「漢書」地理志に日本が「百余国」に分かれていたと記された紀元前1世紀ごろ(弥生中期)の祭殿とみられている。

 纒向の建物群は、各建物の中軸線が一直線でつながる点で、それまでと異なる。新しい宗教思想で統治した卑弥呼の館にふさわしく、いったん九州説に振れた振り子を大きく大和説に揺り戻す成果といえる。

 建物を復元した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、この大型建物が池上曽根の建物より大きいのに、柱の直径が半分以下なのは、建築技術が進歩したためとして、弥生の祭殿と飛鳥時代の宮殿とをつなぐミッシング・リンク(欠けた環(わ))とみる。

 ◇箸墓古墳と時期にずれ、発掘調査わずか5% 宮室全体の復元、カギ
 纒向遺跡の大型建物は推定で東西150メートル、南北100メートルの区画を整地して建てられた。壊されたのは土器型式の「庄内3式」期(240〜270年ごろ)。卑弥呼の死去(248年ごろ)とともに解体されたとも考えられるが、次の土器型式の「布留(ふる)0式」期(270〜290年ごろ)とされる箸墓古墳の築造開始時期とは微妙な時間差がある。

 魏志倭人伝によると、邪馬台国では、卑弥呼の死後、男王が立ったが、国中が服さず、卑弥呼一族の13歳の少女、台与(とよ)を新たな女王として国内が治まったという。纒向遺跡が邪馬台国なら、男王や台与が使った中心建物もあるはずだ。これまでの発掘調査で明らかになったのは遺跡全体の5%程度に過ぎない。

 範囲を広げた調査で、魏志倭人伝にある卑弥呼の宮室の全体像を復元できるかどうかが、邪馬台国イコール纒向説の鍵となる。

 纒向遺跡の建物群は中軸線が一直線となる点で後の飛鳥時代の宮殿と共通するが、中軸線の方向が南北ではなく東西になっている。

 また、大型建物は東が正面とみられ、南向きが一般的な飛鳥時代以降の宮殿とは異なる。正面の柱間が偶数で、中央に柱が立つ点も特異だ。

 建物の主が卑弥呼だったとした場合、後の大和王権とは違う思想を持っていた可能性もあり、新たな謎となりそうだ。
ちなみに私は卑弥呼の表札が見つかったのかと思いました。
畿内説の補強につながるのでしょうか?。

>河内とかの方が良いと思えるのですが、防衛的には大和盆地が良いですが・・。

私もぜったい防衛の理由で大和盆地に都が置かれたと思います

今も大阪と奈良を隔てている生駒山からは大阪平野が一望できます

古代なら瀬戸内海も一望できたと思います

それに今でも生駒を越えたら

空気が変わるというか気温もいっきょに変わります!

冬など近鉄電車に乗っていて

生駒の駅について扉が開いた瞬間に寒風が・・

ですから地勢的に見て

政権が磐石じゃないと浪速に都は移せませんね。。


それと大和のほうが東国への交通路も便利だという気がします。。


現在でも大阪から東へ行くには

紀伊半島の山脈が行く手を阻んでいる気がします。。



>関説の二つの邪馬台国説(九州と畿内にそれぞれの)であれば対立しなくてもいいのにねって思います。

ほんとexclamationそうですexclamation ×2
纒向には東海の土器や人が入ってきている。

山陰 北陸 吉備 東海  

各地の勢力が集まる地の利もあったのでしょうね。
もし仮に東海勢力が、畿内征服するなら、ヤマトに進出するでしょうね。
>もし仮に東海勢力が、畿内征服するなら、ヤマトに進出するでしょうね。


浪速=現在の大阪に都を構えるなら

ヤマトは勢力圏に納めないと絶対ダメですね。

神武も長脛彦に抵抗されて紀伊半島を迂回したくらいですから。。

だって、生駒山から大阪平野・瀬戸内海、一望ですからねっexclamation ×2


生駒山に行ってみたいです。

生駒ってそんなに瀬戸内が一望なんだね。しゅごい。

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