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哲学ノートコミュの唯物論者としてのスピノザ

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エチカ第2部定理13
「人間精神を構成する観念の対象は身体である。あるいは現実に存在するある延長の様態である,そしてそれ以外の何ものでもない」。

その系

「この帰結として,人間は精神と身体とから成りそして人間身体は我々がそれを感ずるとおりに存在する,ということになる」

■精神は「もの」(延長)に宿るということ。
同じことだが、すべての「もの」には、精神が宿るということ。(心身合一)

人間は、身体と精神からなっている。(★関連項目「物と精神の関係」http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46592695&comment_count=7&comm_id=140576

身体「もの(延長)」と精神「思惟」から成り立つ。

けれど、人間は自分の身体が何をなし得るか知らない。

たとえば、一個一個の細胞が、「もの」として存在している。その細胞にも一個一個、精神が宿る。その集合としての肺や、心臓が、人間精神と独立して動くのはそのためだ。人間精神における認識作用(エス)などもそうだ。人間精神は、それをコントロールできないという意味で、それが何をなし得るのかを知らない。けれど、細胞は、人間身体の維持のために存在している。「もの」としての細胞は、その都度、身体のために協同して働く。

すべての「もの」は、より大いなる完全性(細胞の場合であれば、身体)に引きずられているのだ。身体は、自然の物理作用に。自然(宇宙)は神(無限)に。このように、「もの」は、より「大いなる完全性」に無限に凌駕されている。究極的にはそれは(永遠に無限な)神に帰せられる。(そこで人間が何をなし得るのかは★「人間の能動について」別項目でやる)

人間身体は、無数の細胞の塊で(無数の細胞もまた、何らかの物質からなる)、無数の細胞は、その細胞という存在に見合っただけの精神を持ち(すべてのものに精神は宿るから)、それらが人間身体と精神を構成する。

多数の細胞からなる人間身体には、とうぜん精神が宿っている(定理13)。人間精神と身体は、多数の細胞の物体と精神が協同した「物質=もの」からなるわけだ。

「個物とは、有限で定まった存在を有する事物のことと解する。もし多数の個体がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物とみなす(エチカ第2部定義7)」

ひとつの個物として、ものとして、物理的な平面で理解された人間身体と、人間精神。


■心身並行論

物理的な地平での「原因→結果」という因果連鎖と、認識の中の「原因→結果」という観念の連鎖は並行している。

スピノザの唯物論→自由意志の否定/決定論(★関連項目
意識の否定(自由意志の否定)http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46594923&comment_count=0&comm_id=140576

(★スピノザからドルバックの無神論→フォイエルバッハ→マルクスの唯物史観まで 梅本克己「唯物史観と現代」これも別項目でやる)

■唯物論者スピノザ (ドゥルーズの解釈)

何かを考えて(意識したり決意したりして)なにかを為す、という関係はやっぱりおかしい。それは無知から来る意識の錯覚にすぎない。

意識は結果しか見ておらず、人は原因を見ていると思っているけれど、実は原因なんてものは見れない。原因だと思っているものも、結果に過ぎないという話

『原因の秩序とは個々の構成関係すべての形成と解体の秩序であり、全自然がその無限の変様をとおしてとる秩序にほかならない』

だが、わたしたちの「意識」は、どこまでもそうした合一(形成)や分解(解体)の結果を手にしているにすぎない

わたしたちは、わたしたちの身体や心の上に「起こること」の結果しか手にすることができない境遇にいる

いくら原因を知るために、起きたことをどこまでもさかのぼって認識しても、全自然がその無限の変様をとおしてとる秩序そのものなので、結果しか知ることができない

したがって、ものごとの意識においても、認識においても、本来の原因から切り離された結果(非十全で、混乱した観念)しかもてない

『ものごとの原因も本性も知らず、ただ起きてくる出来事を意識するばかりで、その法則はつかめないままひたすら結果をこうむることを余儀なくされているために、なにごとも一喜一憂を強いられ、その不完全さに応じた不安と不幸のうちに生きているからである』

人間の意識は多くの錯覚に結びついている
1「目的因の錯覚」
2「自由裁量の錯覚/自由の錯覚」
3「神学的錯覚」

欲望とは意識をともなった衝動である(スピノザ)

人は欲望に沿っているとき、自由であると感じる

そのような自由は自己肯定的であり、満たされているという結果によって自由と感じている

このような自由や欲望は、名目的な定義に過ぎず、意識(決意)を伴おうと伴うまいと衝動であることに変わりはない

「私たちは、あるものがいいと判断する(意識)からそれをもとめる(努力・意欲・衝動・欲望)のではない。反対に、私たちはあるものをもとめているからこそ、それがいいと判断するのである(スピノザ書簡集)」

自己肯定の欲望が『(・・・)精神だけに関係付けられると「意志」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係付けられると「衝動」と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのものであり、その本性から自己維持に役立つすべてのことが必然的に出てくる。つまりそれらのことを為すように決定されているわけである(エチカ第3部定理9の備考)』

人間の衝動とはまさにそうした個々すべてのものがとる自己存続の努力(コナトゥス)以外のなにものでもない

意識は、他の体や観念の交渉のなかで私たちのコナトゥスが受けるさまざまな変動や決定を物語っている(物語っているだけなので自由ではない)

いろんな状況の変様に対して、意識は、そうした推移というか推移の感情として現れてくる(自分を保全して、自己肯定のために動こうとする)

そういう意味で、意識は全体の特性ではなく、たんに情報としての価値しかない

その情報も不十全な、混乱した、断片的なものであらざるをえない

そうなると、もはや「何かを起こすこと」と「何かが起こること」の境界がなくなっている

★関連項目
意識の否定(自由意志の否定)http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46594923&comment_count=0&comm_id=140576

コメント(4)

ヘーゲルが観念論(目的論)だとすると、スピノザは唯物論なのだ。

■ヘーゲルについて、例えばエンゲルスはこういう

ヘーゲルが哲学史における一つの究極的な真理に到達したという前提をふまえ、その絶対的真理とは弁証法的なものである。そこから、あらゆる規則に従って「すべて現存するものは滅亡に値する」という真理に達する(岩波文庫p17)。このヘーゲル哲学の真の意義と哲学的性格(弁証法的哲学)は、究極的な絶対的真理やそれに対応する人類の絶対的な状態についてのあらゆる観念をうちこわしてしまう。それはあらゆるものについての消滅性を示す。そういう意味で、ヘーゲルが作り上げた絶対的真理の体系も終わる。哲学が終わってしまう。ただ、あるのはこの過程が思考する頭脳のうちに反映したものにすぎない。そして、その革命的性格は絶対的である。われわれはここで、このような見方が今日の自然科学の状態と完全に一致するかどうかという問題にたちいる必要はない。(「フォイエルバッハ論」p18/要約)

■ヘーゲルの根本的な批判者としてのスピノザ

スピノザが観念論を乗り越えれたのは、物の世界と観念の世界を別々に考えるのではなく、同じ一つの実体(神)の表現であるとしたから。実体(神)そのものは概念であって、人間は実体すべてを認識できない。スピノザは、とりあえず神に無限とか、自然とか、そういうあらゆる事物を覆い尽くすようなレッテルを張っておく事によって、あらゆるどんな出来事も、観念も、それが起こった場合に説明できるとした。すべてのリアリティを尽くすもの。もはや、説明においてその背後に回る事が出来ない実在性。まず、そんな概念(実体)を作っておいて、そこからいろんなものを演繹していくと、自然に唯物論になっているのだ。不思議だ。

たとえば、あらゆる存在や観念の根っこである「実体(substance)」を神と定義する。神はすべてのリアリティだから何が起きても知性が対応できる範囲で説明できる。
例えばカントだとこういう。
「現象の根底にあるとも考えられる物それ自体については、何も語れない」

われわれが現にいま持っている言語体系や、色彩体系や、数学体系などの秩序を、その秩序を用いて疑い得ない。それはただそうであった、というしかないのだ。

まず、人間が認識するにあたって自明な真理(所与の真理)がある。人間が認識するために、知性がまず考えている。その手続きは省けない。なぜなら知性の働きを省いて結論には達せないから。だから人間のなかに、その知性の働きがリアルに備わっていると言える。

デカルトがいうように、もしすべてが虚構だとしても、知性の働きを通して現れない限り何物も現れないのだから、すべての虚構も、知性の働きを通して現れてきたといえる。知性の働きを通して現れてきた限り、それはすべて実体から生成されていると言える。したがって、その実体が真か虚構かを問う事は、もはや不可能なのだ。「知性の働き」という秩序があって、その秩序を用いて秩序そのものを成り立たせている前提は、絶対的なのだ。
スピノザにおける真理とは、われわれの「知性の働き」において存在し、存在のほうも、存在を「知性の働き」において認識できる限り、存在するということになる。

「知性の働き」という秩序を抜きに、真理は語れない。また、真理を語る時点で、すでにして真理の内部にあるので真理を疑い得ないのだ。こういう内的で、自己充足的な存在そのもののことを、スピノザは実体と呼んだ。これ以外なにも存在せず、またそのことを疑い得ないというもの。

「このものこそ確かに唯一なるもの、無限なるものである。言い換えればそれは在るということのすべてであり、それをほかにしてはいかなる在るということも存在しないのである。(スピノザ「知性改善論」76段)」

こうしてスピノザにおいて、疑い得ず、存在している真理としての実体が現れる。「エチカ」でも、それは、一番はじめの大前提だった。

「エチカ第1部定義3 実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。言い換えれば、その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもののことである。」

このような実体は、人間が認識できうる限り、人間と同じように、真理に基づいた思考という内的な必然性から出ることはない。このように考えていくと、存在への懐疑の余地はもうなくなる。実体の定義において、すべて解決されている。何が真理かを問う余地も、もうなくなっていることに気がつく。

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