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哲学ノートコミュのスピノザにおける自由意志の問題

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身体についての変状の観念が、人間の精神。(エチカ第2部のテーマ)

その根本の原因を人間は知ることが出来ない

なぜなら、「なぜああだったのか、なぜ?なぜ?なぜ?と問いを続けていくと、ただそうであった、そのようでしかありえなかったという超えられない壁にぶち当たる」から

『ゆえにこの変状の観念は、単に人間精神に関係付けられる限りでは、いわば前提のない結論のようなものである。言い換えれば、それは(自明なように)混乱した観念である(第2部・定理28の証明)』

人間精神とは、神の精神のほんの一部であり、欠落だらけの、いわば混乱した観念であるといえる

そんな観念が、見たり聞いたり、いろいろと知覚して、主観的に判断する認識モードのことを「表象」という

スピノザにとって「表象」とは、主観的なもののことであり、「目を開けて夢を見ているようなもの」という (表象=イマギナチオ)

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ふつうわれわれは、自分で目的を立て自分の自由な意志で行動していると信じている。ところがスピノザによると、自然の中で起こっているのはその逆である。言い表すことのできない衝動がすでにあってわれわれの行動を生み出しており、われわれはそれをいわば遅ればせに欲望として感じている。そして問われると、この欲望意識をもとに、自分はしかじかの目的に向かって自由な意志で行動しているのだと解釈し、自分にも他人にもそういうふうに答えを返すようになっている。(『スピノザの世界』pp.31-32;cf. pp.132-133)

すなわち、衝動を、目的を伴った欲望に加工することが、擬人化であると言い直すことができる。

■衝動とは何か?

まず、スピノザの言う「衝動」は、それ自体としては目的と何の関係もない。石ころであろうと雨粒であろうと馬であろうと人間であろうと、何かある事物が一定の時間、それでありそれ以外のものでないというふうに存在するとき、そのようにおのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力、それが「努力」(コナトゥス conatus)と呼ばれるものである(スピノザの大変重要なジャーゴンなので覚えておこう)。これが無くなるとその事物そのものがなくなるので、それはその事物の「現実的本質」でもある。コナトゥスは目的というものをまったく持たずに働いている自然(神)の活動力の一部であり、そのつど及ぶところまで及んでいる。コナトゥスはそれゆえ、それ自体としては目的と何の関係もない。事物はそのつどめいっぱい自己の有を肯定しているだけで、まだ見ぬ自己の実現を目指して努力しているわけではない。そして、こうした目的なきコナトゥスがわれわれにもあって、それが精神に何かをさせ、身体に何かをさせる。これが「衝動」である。だから衝動は何かをさせるわけだが、目的があってそうさせるのではない。したがって「何々のために」というお題目は、われわれの頭の中にしかない。今一度「欲望」の定義を思い出そう。「欲望」とは意識を伴った衝動である。つまり、それ自身としては目的なき衝動を、われわれは意識の中で何かを実現しようとする欲望として、いわば誤認しながら生きるわけだ。馬を餌に向かわせる衝動は餌が目的なのではない、馬自身に対する肯定そのものである。私をホームへと向かわせる衝動はホームが目的なのではない、私自身に対する肯定そのものである。その意味で馬も私も自分の衝動を知らない。衝動はなまの形で意識にのぼることは決してなく、いつも目的を伴った欲望に加工されて経験される。(pp.33-35)

■擬人化は無知に基づく偏見である。

偏見とは「知覚の蝕」「切断され欠損が生じた思考」(『知性改善論』第73段;cf.『スピノザの世界』p.64)を埋めるものであり、「表象」(imaginatio(イマジネーションの語源)、cf. p.126)である。

いったいに、事物の真の原因を知らない者はすべてのものを混同し、またなんら知性の反撥を受けることなしに平気で樹木が人間のように話すことを想像し、また人間が石や種子からできていたり、任意の形相が他の任意の形相に変化したりすることを表象するものである。同様にまた、本性を人間本性と混同する者は、人間的感情を容易に神に賦与する。特に感情がいかにして精神の中に生ずるかを知らない間はそうである。(『エチカ』第1部定理8備考2)

「樹木がしゃべる」みたいな事物の本質に関する絵空事は、はっきりしない観念の合成からしか生じない。必然的に別なふうにはありえないと知られるごく単純な事物の観念から合成してそんなことが言えるかどうかを調べれば、ことの真偽ははっきりする。(pp.59-60;『知性改善論』のパラフレーズ)

そして、最大の擬人化、すなわち最大の誤謬は神の擬人化である(cf.『エチカ』第2部定理3備考)。

実際、われわれは自然が目的のために働くものでないことを第1部の付録で明らかにした。つまりわれわれが「神あるいは自然」と呼ぶあの永遠・無限の実有は、それが存在するのと同じ必然性をもって働きをなすのである。事実、それがその存在するのと同じ本性の必然性によって働きをなすことはわれわれのすでに示したところである(第1部定理16)。したがって「神あるいは自然」は、何ゆえに働きをなすかの理由ないし原因と、何ゆえに存在するかの理由ないし原因が同一である。ゆえにそれは、何ら目的のために存在するのではないように、また何ら目的のために働くものでもない。すなわち、その存在と同様に、その活動もまた何の原理ないし目的も持たないのである。(『エチカ』第4部序言)

「神は幾何学者のように考えて世界を設計し、つくるのではない。いわば神自身が幾何学なのだ。神を制作者のように考えているあいだ、人は問うてきたものだ。つくろうと思わなければつくらないこともできたのに、神はどうしてこんな世界をつくったのか? いったいそれは何のためか? どうすればわれわれはその目的にかなうことができるのか? ここから神学ははじめから解ける見込みのない思弁に迷い込む。スピノザの答えは、単純明快である。神は制作者ではない。その意味で「神の本性には知性も意志も属さない」(定理17の備考)。在りて在るものはその本性の必然性から一切を生じる。それで十分である。(pp.98-99)」

「神自身が幾何学者なのだ」とはどういう意味か。この自然、すなわち世界そのものが神なのであり(そして、それ以外に、この世界の外に、神はいないのであり)、その神とは言い換えるならば「真理空間」である。

「すべての観念がその対象と一致するような、絶対かつ唯一の真理空間。その別名がスピノザの「神」なのである。世界は真理でできている。だれが考えていようと、もしそれが真なる観念なら、その真理は何らかの仕方でこの真理空間内にある。(p.114)」

真理とは事実である。現に存在する、現にしかじかであるということそのものが永遠真理なのである(cf. pp.172-176)。だから、悲観主義者が考えるように、我々が真理から隔てられているということはない。我々は現に真理を認識しており(いくつかの真なる観念を所有しており)、現に真理そのものであるのだ(その意味で、我々は常にその都度、完全なのである(cf. pp.158-162))。

コメント(1)

■ニーチェとの関連
ドゥルーズはニーチェが厳密にスピノザ主義者である、と指摘している。
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(以下、引用はすべてニーチェ)
『ぼくはびっくりして魂を奪われてしまった。ぼくはほとんどスピノザを知らなかった。ぼくがいま彼を求めたというのは、ひとつの本能的な行為であったのだ。彼の傾向がすべて(認識を最も力強い情熱とする)ぼくの傾向にそっくりだというだけではない。彼の説の五つの主要な点にぼくはまたぼくの姿をみたのだ。このもっとも異常な、もっとも孤独な思想家は、まさにこの点でぼくに最も近いのだ。彼は自由意志を否定する、目的を、道徳的世界秩序を、非利己的なものを、そして悪を否定する』

『意志が弱い、というのは人を誤らせがちな一つの比喩にすぎない。なぜなら、意志というものは存在せず、したがって強い意志も弱い意志もないからである。衝動が多様で分散しており、それらの間の体系が欠如しているとき、それが結果的に『弱い意志』となってあらわれ、単一の衝動の支配のもので、それらが調和しているとき、それが結果的に『強い意志』となってあらわれる 』

『主要な大半の活動は無意識的になされている。意識はふつう(私なら私という)ひとつの全体が高次の全体に従属しようとするときにしか現れてこない。なによりもまずそれは、そうした高次の全体に対する意識、私の外部にある実在に対して生まれるのであり、そこに私たちが自身を組み入れてういく手段なのである』
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ニーチェにとって、自由な意志というのは存在せず、ひとつの衝動のもとで、それが強い意志や弱い意志となってあらわれるだけなのだ

意識はわたしの外部にある実存に対して、大なり小なり影響を受けて、(ニーチェの言葉で言えば従属させられて)、それをわたし自身が受け入れるための手段に過ぎない

そこから、こういうふうに言える

『すべての完全な行為は、まったく無意識的であって、もはや意志されていない。意識は人間の不完全な、しばしば病的な状態を表現する』

それと関連して、こういうことが言われる

「超人は多数者の犠牲をなんら良心の呵責なしに受け入れるのだ。われわれはみな、われわれと他の生き物との差異が極めて大きいとき、もはや何の不正も感ぜず、なんらの良心の呵責もなしに、たとえば蚊を殺す」

これは単に善悪の彼岸を言っているのではなく、人間の意識は多くの錯覚に結びついているので、(1「目的因の錯覚」2「自由裁量の錯覚/自由の錯覚」3「神学的錯覚」)そういう『意識』なるものをすっ飛ばして、正しい生態の倫理(エチカ)に到達できた、人間の意識を表現しているのだと思う

もちろん、人はそのような意識を持ち得ることはできない。というか、ここでいわれているのは意識の放棄に近い。

意識はたえず、わたしの外部にある実存に対して、大なり小なり影響を受けて、(外部に従属させられて)、それをわたし自身が受け入れて暮らさざるを得ない。意識させられているといっても良いかもしれない

死を意識する、病気を意識する、お金を意識する、見た目を意識する、人を意識する、それは全部わたしの外部にある実存との関わりにおいて、意識させられている

腕で血を吸っている蚊を殺すときや、ほほについたご飯粒をとるときや、姿勢を変えるために椅子に座り直すときなど、とにかく些細であればあるほど、なるほど、その行為は意識していないと思うだろう

その意識していない状態をどこまで拡大させていけるのか、いかに影響をうけずに「わたしと他の生き物との差異が極めて大きい」と思えたり、これは「すべての完全な行為」だと思えるようなまでに自己肯定ができるのか

そんなことを普通の人はできないので、ニーチェはそれが可能な人間のことを「超人」といった

ドゥルーズがここで、ニーチェがスピノザ主義者であったことを指摘しているように、ニーチェの「超人」という概念も、スピノザのエチカから理解するべきだろう

スピノザの生態の倫理は、意識や自由意志や自由裁量からもたらされる道徳を否定する

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