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東方正教会: オーソドクスコミュの雑談トピック

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 雑談のためのトピックです. ご自由にお書き込みください.
やりとりが長くなったり,はじめから特定の話題に絞り込んでお話しなされたいかたは,別にトピックをお立てになられるのも歓迎です.

コメント(67)

確かに正教会には原罪の教理は存在致しません。しかし、今現在の正教信徒でこの点を深く理解している人は少ないでしょう。

主に、カトリック教会で頻繁に出て来る「無原罪の身籠り」なるマリア崇拝の形が無いのです。

しかし、それはマリア崇拝が西方教会に比べて落ちるものかと言うと違います。カトリック教会では正教会の事を、
そう云って非難するのですが…。

マリア崇拝を拠点にして原罪、無原罪を解く前に、人間の存在に原罪なる物が「あり得ない」のです…原罪と定義を於く前に…。
アダムが犯した罪は、病が遺伝して子々孫々に伝わるように人類に受け継がれている。と考え方があります。

原罪と言う考え方には「人間性悪説」的な背景が有りすぎます。
正教の神学では、キリストが父なる神の憤りを沈める為に自ら犠牲になって十字架にあがった…と云う神学定義は存在致しません。決して、父なる神は恐るべき怒りの神的怒号の存在では無いのです。
「深く理解」しているかどうかはともかく、「原罪というも野の理解が正教会と西方教会が違う」事くらいは、正教徒の殆どが教えられていますよ^^;

大体、普段の正教会の生活でも「原罪」という言葉は殆ど使われません。
>30 団栗七衛門さん

わたしも,いまいちよくわからないのですが.

> >アダムが犯した罪は、病が遺伝して子々孫々に伝わるように人> >類に受け継がれている。と考え方があります。
> そう、ここが分からないのです。この考え方と原罪がどのように> 違うのかがいつも混乱するところです。

 わたしが聞いて漠然と理解しているところでは,西方教会では,
原罪というのは既に人間に罪があることが決定してしまっている,
という法的思考の下での完了態として理解しているのに対し,東方
教会では人間には深く罪を犯しやすい,罪に陥りがちな傾向を持つ
という存在論的もしくは生物的思考枠での未完了態・傾向性として
把握している,というものです.

 しかも,アダムが犯した罪,そのものの遺伝というよりは,アダ
ムが罪を犯した結果生じた,新たに個別の罪を犯しがちな傾向性,
特性の遺伝,そしてその結果ほとんどの人が深刻な個別の具体的な
罪を人生において犯してしまう,といったニュアンスなのではない
でしょうか?
白飴姫さん。

>>原罪というのは既に人間に罪があることが決定してしまっている、という法的思考の下での完了態として理解しているのに対し,東方教会では人間には深く罪を犯しやすい,罪に陥りがちな傾向を持つという存在論的もしくは生物的思考枠での未完了態・傾向性として把握している,というものです.

 結構その通りなのです。
創世記のアダムの罪は「食べる事」を持って罪を犯した事情から、食べると言う肉体的行動から罪が入ります。
肉体と精神が一体である人間の存在上、精神はこの事実に未だ深く関与して居なかったけれども一体であるが故に、神の前から隠れる、罪の良い訳をする、仕舞には、エバを作った神の責任にしてしまう。といった精神的な罪の行動に移って行きます。
  〜ここに時間の流れに因る変化の余地があります〜。
もし、アダムが自分の罪を認め自責していたなら、人間の存在はもっと違う物だったはずです。

 >>法的思考の下での完了態

これが西方教会の常に取るドグマティック姿勢であり、東方教会は、あえてこの方法をとらない、人間は神の作品であり、人間に理解でき得ない領域の霊魂を神より付与されている発展途上の存在。
  「法的思考下での完了体」という考え方は、この領域に当て嵌まらないのです。 即ち、「病は癒える可能性を持つ」望みが有る。精神性、霊性は生きた神の息吹の界域。
教会が抽象的に教理として断定は危険として出来なかったのか、しなかったのかは知りません。

 どうでしょうかね?クレメントさん。
 
 
>教会が抽象的に教理として断定は危険として出来なかったのか、しなかったのか

私は教理、全く暗いのでこれにお答えするのには不適格だと思います^^;。伊望さんならお詳しいかと。私は「日本正教会での『原罪』という言葉の用いられ方についてだけ少し申し上げましただけなので…。
日本の正教会に於いては新約聖書だけが邦訳されておりまして、旧約は存在しません。

旧約聖書は儀式に扱う経典に必要な箇所のみ邦訳されております。

八調経、祭日経、三歌斎経、五旬経、等に旧約の可成りの部分が邦訳されており、
これは礼拝に必要な部分のみです。
聖詠経として詩編の邦訳は独立して邦訳されています。

悲しいかな日本の正教会は衰退の一途です。

なお、本来の正教会としては旧約の原典は七十士訳聖書を用います。
所謂「セプテギュヌン」です。
邦訳の完璧な「七十士訳」は存在致しません。

英訳ではオックスフォードが有ります。

愚輩は、在米ですので日本の正教会とは直接の縁が御座居ません。
ま、高みの見物は続けておりますが…。
付け足しで一言。

邦訳の「完璧な聖書」は 「存在」しないのです。

聖書協会の邦訳でさえ、誤訳が余りにも多すぎる…。

削除した節も多々有りすぎ…。


原典は原典。

楽譜と同じ。

読解力が無ければ、諦めなされ。

「それでも屈しない」と、思うのであれば、

ギリシャに4〜5年、ローマに2〜3年、そしてシナイ山の聖エカテリーナ修道院の書庫に2〜3週間浸って没頭なされ。

そしたら「有る程度」は、解るから。
残念ながら、日本には先ず居ないでしょう。
と言うのも、霊的指導者たる存在が居ないからです。
日本の正教会に於いて最も大きく欠如していたのが「修道院」の存在です。
ロシアのアラスカ宣教、でさえ修道士の派遣から始め修道会設立が最初に行なわれたのですが、日本では無かったのです。

今現在、東京の本部に小さな修道会は設立されている様ですが、
無名の巡礼者に出て来る様な「ヘシカズム」を実践する修道規則は無い様です。
文字に於いての「ヘシカズム実践方法」の規則は百年程前に極短く出版されています。同時に指導書として名高い「シリアの聖イサーク全書」も邦訳が在りますが、その存在すら知られておりません。
なんせ、愚輩ですらアメリカで、その邦訳の存在を発見したくらいですから…。

>聖書を読むと言うことの本質はそういうことではないと思いますよ。
語学の問題ではなくて、信仰と聖霊の働きの問題ではないでしょうか、聖書がわかるわからないというのは?

その通りです。それが故に「有る程度は」解るから…と付け足したのでした。
貴方は恩寵から然程遠く在りませんね。

なお、無名の巡礼者には続編が在りますが、邦訳は出ていますか?
邦訳で存在する聖セラフィムの「モトビロフとの会話」、御読みになりましたか?

実践は実践。思い描くのとは大きな違いが在ります。
「求めよ、さらば与えられん」とは、在りますが、
だれも、自らを犠牲にして入ろうとしない…、
入れない…、そう言う時代なのです。

でも、見いだそうとする努力を惜しまない人には、
天は、二物と無い賜物を与えてくれるのです。

しかし、それには大きな「試練」も予期しなくてはなりません。

その為にこそ、霊的指導者の存在は不可欠なのです。
「モトビロフとの会話」は、カトリックの出版でベルフォンテン修道院編として、聖セラフィムの伝記と一緒になって翻訳されている筈です。
今現在、重版されているかは、愚輩も知りません。
何だか日本の正教会関係者の事を完全に馬鹿にする記述が罷り通っていますので私はこちらのコミュを退会します。別にコミュを建てるかもしれません。

無論日本の正教会に足りないものは山ほどあります。不肖、微力ながら私も、何をやっているのかはMIXIでは殆ど書きませんが、様々な形で神父様に働きかけたり自ら動くなどしてその不足を補おうと頑張って居るつもりです。

ですが正教徒になるつもりもなく、正教会に貢献するつもりも無いどころか、美味しいところ、「霊性」やら「イコン」やらのみをツマミ食いしようとする部外者が、勝手に日本正教会を論評し続ける場に居続けるのは正直耐えられません。

そしてこうした(日本で実際に正教の信仰に与っている人々の事は蔑視・低い評価をしつつ、ツマミ食いだけはしっかりする)態度のカトリック関係者に山ほど会って来たからこそ、私はカトリック教会が全く好きになれない事を申し添えます。東西教会和解など、この分では全く遠いものだと言わざるを得ません。

無論、カトリック教会関係者の知人も私には居ますし、カトリック教会に居る方もそうした方ばかりではありません。上に挙げたような私の批判に当たらないROMのカトリック教会関係者も、このコミュには大勢いらっしゃると思います。そういう方々には御不快の段、お詫び申し上げます。

ですがもはや私がここに居続ける意義が見出せなくなった事も確かです。
戻ってくる可能性はゼロとは申しません。ですが当分の間はそれは無いと思います。

それでは失礼致します。
白飴姫さま、とりあえず、お世話になりました。
今後とも別コミュでお目にかかる事がありましたら宜しくお願いします。

クリメントさま、入退会は完全任意ですから、お気兼ねなく。

クリメントさまご自身の運営なさる、あるいは、第三のコミュニティでクリメントさまのご希望や感性に適した場がみつかりますように。

他のコミュニティでお会いした場合はこちらこそよろしくお願いいたします。
英語が出来る人に限りますが…。

これは、伝統的な正教の神学に最終的な争論をもたらした物で、読み応えが在ります。

http://www.stnectariospress.com/parish/river_of_fire.htm
はい、白飴姫様、申し訳ございませんでした。

削除させて頂きました。
>54を拝読いたしました.
ご協力感謝です.
このコメントも早めに消すつもりです.
チャペル
ギリシャ正教会とローマ・カトリック教会の主要な相違点をお教えくださいませんでしょうか?
天秤座
主要と言うと、フィリオケが極限。

信経の一部が異なるのです。

「聖霊は父と子より出」がカトリック。
「聖神は父より出」が正教会。

十字架の記し方も異なります。
上下、右左が正教、
上下、左右がカトリック。

正教会の方が、古いです。
変革したのがローマカトリック。

数え上げたら切りが有りません。
チャペル
japcatさん
コメントを有難うございます。
「数え上げたら切りが有りません」とのことですが、
japcatさんのご存知の範囲内で出来るだけ多くお教えくだされば嬉しいのですが・・・。
天秤座
お邪魔します。

「マックス・ウェーバー」コミュで、

>東方正教会では、「父なる神」から「子なる神=キリスト」と「聖霊なる神」が発出したと説く。
>キリストは「父」の下だと説く。

と説明されるトピがありました。

とくに「キリストは下である」と説くとなると、従属説になってしまうように思えたので違うのではないかなと。
正教会では「キリストは父の下である」と説かれてますでしょうか。
教えていただければ幸いです。

「マックス・ウェーバー批判。」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=68415910&comment_count=4&comm_id=83633
はじめまして。
正教会に関心を持っているクリスチャンです。自宅の近くに正教会がないのが残念ですが・・・
ところで、ローマ教会では、人には原罪があると説いていますが、正教会では原罪はないと教えているとうかがっております。これは、正しいことでしょうか?
私も、クリスチャンで正教会に興味があるものです。

はい、正教会では原罪説はとっていません。
堕罪が正教会では一般的に受け入れられています。
>>[63]

堕罪って、どういう意味なのでしょうか?
正教会では人間は神様の似姿に造られたんですが、アダムが実を食べた後に
罪を犯してしまう状態になってしまったと捕らえます
http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/oshie03.html

それを、回復していくことが救いに繋がります。

私たちは嘘をついたり、人をねたんだりする存在として造れれて居ないんですが、
罪の中に堕ちてしまい、本当のわたしたちから遠く離れた存在になってしまいました。

そういった状態ですね。

原罪説には幾つかの問題を含んでいます。
まず、一つは罪を犯さなくても罪びととされることです。
これは、流産した赤ちゃんがそのまま地獄に行くという教えを生み出しました。
他にも、書くときりが無いんですがいろいろあります。

もう一つは堕罪にもいえることですが、
聖書に原罪、堕罪という言葉はありません。

ですかね。
答えになっていたら幸いです。

>>[65]
ご回答ありがとうございます!
たしかに、人は生まれながら原罪があるという考えは、私も長い間理解のできない考えでもありました。
もしかしたらですが、そうした西の考えが極端に表れてしまったのが、スペインによる中南米の大量虐殺だったのかもしれませんね・・・
カトリックを信じていない人は、生まれながらの原罪で地獄行きなのだから、こうしたことをしても平気なのだという考えがあったのではないでしょうか?
日本では、正教会がまだ少ないのが残念ですね・・・もっと増えることを祈ります!
はじめまして。
正教会に興味を持っているプロテスタントで洗礼を受けたクリスチャンです。

正教会というのは日本に数が少ないようなのですが、
正教会では 訪問すればお話を聞いていただくということも可能なのでしょうか?

メールでは問合せをしてみたのですが
もし詳しい方 おりましたらご教授願えませんでしょうか。

お願い申し上げます。

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