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淡江大学日本留学試験同好会コミュの幕末の日本―黒船来航(日本史)

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分野別:日本史
作者:川手晴雄
出所:「日本近現代史」(過去に目を閉ざす者は未来にも目を閉ざすことになる)
掲載年月日:2006年9月24日
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(本文)


 1853年6月3日午後5時、ペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍の軍艦4隻が江戸湾に現れた。有名な「黒船来航」である。天気は快晴、夕暮れをひかえたが初夏のまだ明るい空の向こうには霊峰富士が遠望できた。「Oh, Mt.Fuji,beautiful!」とペリーが言ったかどうか分からないが、この事件がその後の日本の150年を決定する大事件になったことは確かなことである。日本の近代の幕開けはこのときから始まったのである。

 アメリカ軍艦は、戦闘体制を整えると、浦賀沖に投錨した。浦賀奉行、中島三郎助はすぐに小船を出し、旗艦サスケハナ号に出かけると、司令官ペリーに対し、日本では、外交交渉は、すべて長崎で行っているので、長崎にいくよう要求した。しかし、ペリーはこれを断り、アメリカ合衆国大統領フィルモアから日本国皇帝へあてた国書を受け取らない限り退去しないとつげ、要求が受け入れられないならば一戦に及ぶと脅した。当時の日本とアメリカの武器の性能は大人と子供の差ほどあった。もし、アメリカ側が艦砲射撃を行えば、江戸の町は廃墟と化しただろう。驚いた中島は、江戸へと早馬を走らせた。知らせを受けた日本政府(幕府)もうろたえるばかりだった。幕府の中心人物、老中阿部正弘は、結局、国書を受け取ることにした。国書には、「日本が鎖国を止めて、アメリカ合衆国と貿易を行うこと。合衆国の船が、日本近海を航海中の一時避難や、食料や水、燃料を補給するために、港を一箇所開くこと」が要求されていた。

 ペリーは、日本政府に対して即答を求めた。しかし、日本は国是としてきた鎖国を止めることなど、大きな問題をつきつけられ、即答はもちろんできなかったし、満足な討論もできなかった。阿部正弘は、1年後の解答を約束し、ペリーに退去を願った。ペリーは、この申し入れを受け入れ、江戸湾を後にして、香港に向け出港した。

 これが、事件のあらましである。日本国民はこの事件を「上喜撰(蒸気船) たった4杯(隻)で 夜も眠れず」と川柳でからかった。上喜撰とは、江戸時代の高級日本茶の銘柄である。この茶を4杯、(つまり4隻、船の数え方は日本では、1はい、2はいと言う)で目がさえて眠れない。つまり、大慌てで寝る間も無いほどの大騒ぎというわけである。

コラム
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 黒船来航時の日本とアメリカの戦力があまりにも差があったことから、日本の武器の貧弱さを「江戸時代の日本の技術の未発達」「鎖国による技術的低迷」と見る傾向が従来強かった。しかし現在、日本の研究者の中から、「江戸時代の日本の平和と安定」の結果との見方や「鎖国政策がもたらした、欧米列強との摩擦の少なさ」の結果と、江戸時代の日本の政策を評価する見方が出され、重視されてきている。
従来の見方は、明治新政府が江戸幕府の政策を否定し、自らの評価を高めるために作り出したものと考えられるようになってきつつある。江戸時代の見方は今、日本で急速に変わりつつあり、評価は高まっている。

コラム
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幕府の慌てぶりとは裏腹に、日本の民衆は黒船来航を楽しんだ。黒船来航のうわさは、瞬く間に日本全国に広まり、一目黒船を見ようと、多くの人々が浦賀の海岸に集まった。幕府は、それを禁止しようとしたが、無駄だった。人々は黒船を見て驚嘆し、海の向こうの世界へと思いをはせた。海岸一帯には連夜かがり火がたかれ、見物人目当ての夜店まで出たという。

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