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夜行列車コミュの夜行列車の衰退の兆候

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夜行列車の衰退の予兆は山形新幹線の建設工事の煽りで、寝台特急あけぼの2往復と急行津軽が経路変更の時ですが、寝台特急あけぼの1・4号が陸羽東線経由で新庄〜秋田、急行津軽1・4号からの格上げによる寝台特急あけぼの3・2号が、寝台特急出羽と同じ上越・羽越本線経由で秋田〜青森で寝台特急鳥海に、急行津軽が仙山線経由で山形〜新庄の辺りで客車をやめて電車化した所からじゃないかと思います。

コメント(80)

>>[038]、急行妙高、急行八甲田、急行津軽寝台特急出羽、寝台特急ゆうづるに対する戦力外通告のもう1つの原因はJR東日本にとって株式上場が控えていた上に、JR東日本管内の列車だったからです。
急行能登の14系客車を止めたのは、直江津での機関車交換の絡みがあったからです。
> オサム

いろいろな要因が重なった時期ですね。
仮に国鉄の民営化が分割をせずに行われていたらどうなったんでしょうかね。
>>[042]
新幹線=高速鉄道が実用化されたのは、日本が世界初です。

一番大きいのは新幹線がスピードが速い上に、他の交通機関と比較して、時間が正確だからである。
日本人の1分1秒の誤差も許さない几帳面な性格が新幹線を生んだといえる。
さらに翌年には、寝台特急つるぎ、みずほ、博多あさかぜに対する戦力外通告が出されました。
特に博多あさかぜはかつては殿様あさかぜと言われた20系客車時代は
A寝台が6両ありました。
>>[42]
分割しなかったら、もっと夜行ネットワークは保たれていたと思います(夜行バスへの対抗もしやすかったと思います)。特に東海のように、機関士が全くいないというようなところはなかったのではないでしょうか。
>>[046]
もし分割民営化じゃなく単独民営化だったら、結果は違っていたのかも、知れません。
ただ新幹線が開業したら航空機がシェアを減らして廃止に追い込まれたり、高速バスの夜行便も廃止に追い込まれたりした所も多いです。
夜行列車の廃止が本格化しだしたのは、やはり規制緩和というバス・タクシー・航空機の自由化と鉄道の届け出制が2002年からである。

儲からないものは国にいえば止めるのは簡単になってしまいました。
夜行列車は大別すると、寝台特急、夜行急行、普通列車があり、客層を見ると寝台特急はビジネス旅客中心、夜行急行は周遊券利用者や登山やスキー客や自転車旅行を中心にして宿代わりに使う旅客中心、普通列車は青春18きっぷの客や通勤列車代わりに使う旅客中心といった感じでした。

だから、私が北陸旅行した際に夜行急行能登の寝台車が満席でも、寝台特急北陸の寝台が空席だったこともあります。

とにかくJRは新幹線開業の準備や新幹線のスピードアップや線路改良に追われていて、結局はそういった夜行列車に省みる余裕がなかったこともあげられます。
夜行列車の衰退の発端は昭和51年の国鉄の運賃・料金の5割値上げであるといえる。

その結果として寝台特急と航空運賃の格差が縮小され、さらに新幹線開業により、寝台特急の旅客が
航空機や新幹線に流出したのはゆうまでもない。

さらに夜行急行はフェリーや高速バスの方が運賃が安い上に設備が良いから、当然だけど船や高速バスに流出したのはゆうまでもない。
夜行急行のもう1つの客層は日雇い労働者や出稼ぎ労働者に多く、床に新聞紙を敷いて寝る客もいた位である。
1992年の津軽の電車化で解るように、衰退のもう1つの要因は客車の老朽化である。
A寝台やグリーン車といった優等車両が外されてB寝台と普通車あるいは普通車だけになること。
いくら車両が新しくても、これは衰退の予兆。
>>[053]
もう1つ、衰退の予兆は編成の短縮です。
最後に寝台特急が8両だったり、夜行急行が5両のラインだった時は列車の存続が厳しいです。
>>[53]
それは昼間の列車でも言えますね。
青函連絡船の旅客のピークは昭和48年、でも優等旅客はすでに相当部分が飛行機に移った後。国鉄の運賃値上げで飛行機と比較していた長距離区間、かつては特急のグリーン料金と航空運賃の比較だったのが…。
優等客が逃げ出すと薄利多売になる、食堂車などの付加サービスもなくなる、中途半端な存在になったところで、(通行税廃止や規制緩和での)航空運賃の値下げ、高速バスの充実、新幹線のスピードアップ。存在価値がなくなった夜行も含めた長距離列車はいくらでもありますよね。
>>[055]
夜行列車は昭和49年に関西〜九州の寝台特急で二段式B寝台を導入したのは、やはり輸送のピークを過ぎた時だといえます。

国鉄の当時は労使紛争が激しかったことも原因となって、他の交通機関に逃げられた原因だといえます。

長距離列車で食堂車等の付加サービスを止める特急が出始めたのは、昭和50年の特急あさしお、はまかぜの辺りが発端。
>>[055]
夜行列車に関していえば航空運賃の値下げ、新幹線のスピードアップ、フェリーの設備充実、高速バスのグレードアップ、ビジネスホテルの値下げや安宿等の宿泊施設の多様化も大きかったといわざるを得ません。
それだけじゃなく鉄道は自前で線路保守・整備したりしなきゃならないのに、航空、バス、船はそういった負担がありません。
>>[053]
それで考えていくと、夜行列車の衰退の始まりは関西〜九州の二段式B寝台24系25形の投入で寝台特急からA寝台が外れた所からだといえます。
二段式B寝台の投入の背景には労使紛争や有効時間帯以外での利用による寝台解体員などの要員削減というメリットがあったからです。
>>[58]  せめて後から早いうちに個室ロネとキロ182のような簡易調理設備の付いた供食機能を設ければ、まだ衰退は食い止められたような。
>>[059]
個室ロネが付き始めたのはあさかぜ1・4、はやぶさ、富士、出雲1・4の二段式B寝台の特急化で、B寝台も変えたら、A寝台も代えざるを得ません。
B寝台の二段式が早かったのは、関西の寝台特急だったのは、関西人の気質にも関係があると思います。
全盛期の頃はA寝台はプルマン二段式、B寝台は三段式でしたが、私自身委託配達員をやっていたから、わかりますが正直にいえば、1両辺りの定員×料金で計算したりすると、個室は割に合わないというのがわかります。
>>[059]
キロ182は北海道の特急の車内販売準備室兼売店というもので、食堂車不連結の代替として設置されました。
寝台特急日本海辺りに欲しい設備だったと思います。
>>[62]  日本特有の事情としか言い様がありませんね。
個室は経営側からは不採算、しかし開放寝台は乗客にはさほど魅力なし、食堂車含む供食設備はメニューにバリエーションがなく採算性に難あり、バスターミナルや空港の売店は駅のかなそれよりも飲食物が豊富で、しかも夜行バスや飛行機が安となれば、勝負は言わずもがなでしょう。
>>[063]
開放B寝台はカーテン1枚で、仕切られているだけの無防備な寝台で、事実上はドミトリーです。
航空機は移動に費やす時間が短い。フェリーは設備が充実している上に、二等は雑魚寝が出来る。おまけに高速バスはリクライニングシートの角度が深いし、運賃が安い上に便利な所で停車してくれる。

新幹線網が発達した上に車両が老朽化している状況から見ると難しいといわざるを得ません。
夜行列車の運行を難しくしたもう1つの原因は、ドライバー=乗務員の問題もあります。
JRに分断された結果として、JRの会社の境界の駅でドライバー=乗務員・機関士を交代しなきゃならないからです。
信越本線碓氷峠廃止の予兆になったのは、急行妙高の戦力外通告に伴う、急行能登の電車化に伴うEF62撤退である。

寝台特急北陸が7時間52分の所に、夜行急行能登は8時間48分掛かっている。

特急と急行だから単純比較は出来ないけど、寝台特急北陸は上越線回りだから、時間が掛からないのに、信越本線回りの夜行急行能登は碓氷峠があるからである。
編成も北陸が12両なのに対して、能登は8両である。

急行能登は上野〜長野でさえ4時間掛かる、特急あさまが3時間の所にである。

当時の編成は北陸A寝台個室とB寝台個室&二段式でシャワー付きという動くビジネスホテルだったのに対して、能登は三段式B寝台+座席車はこのタイプの編成は急行ちくま&だいせん位なものだった。
北海道の夜行列車衰退の兆候はまりも、利尻、大雪の寝台車の減車である。
利尻、大雪は末期は寝台車1両、まりもは寝台車2両にまで減少した。
>>[068]
食堂車が全盛期だったのが昭和47年の辺りで、電車急行に至ってはビュッフェまでついていた位です。
食堂車の凋落は昭和50年で夜行は東京〜九州を残して、採算が合わないことを理由にやめました。
A寝台車は先になくなっていったのは、西日本の方からです。
昭和60年3月改正の時に、寝台急行銀河に車両捻出の為、急行きたぐに(583系化)、急行津軽、急行妙高から寝台車の連結を中止した所にも表れています。

さらに昭和61年には急行銀河は寝台特急彗星で浮いた車両を使用し、余剰になった車両を急行だいせん、ちくまに充当し急行かいもん、日南の寝台車を二段式の24系に置き換えています。
北海道の急行利尻のキハ400系と寝台車の併結はディーゼル機関車運用と14系座席車の合理化であるといえます。
この方式は急行大雪・まりもにも導入されました。
急行かいもん・日南の787系電車に置き換えの上に特急格上げに踏み切った背景には、かいもんは博多〜西鹿児島までの所要時間が6時間程度。
日南は小倉〜宮崎までの所要時間が7時間程度の上に寝台料金が割高の為に九州豪遊券以外での利用が少なかったこともあげられるといえます。

787系電車導入はJR九州に先見の明があったのはプレミアムドリーム号のプレミアムシートはDXグリーン車、スーパーシートはグリーン車並みの設備だったからです。
急行妙高は上野〜長野が急行区間で長野〜直江津が普通列車だったから時間帯や列車編成からいって、本来は東京〜北信・上越の直行旅客が寝台車で上野〜長野が夜行区間旅客で、長野〜直江津が地域の一番列車と1人3役をこなすダイヤでありました。上野〜長野短縮はもう夜行列車ではなくホームライナーの一種だったといえます。
急行津軽・八甲田の編成短縮は衰退傾向が現れていたともいえます。
特急つるぎは8両の短い編成であったことから見ると、やはり上越・東海道新幹線の影響はかなり大きかったといえます。
急行ちくま・だいせんが二段式寝台に取り替えたことは直行需要が単純にいって3分の2に落ちたことが解る位です。
その辺りからも衰退傾向が解ります。
急行津軽が山形新幹線の建設工事の関係で迂回ルートが仙山線経由にしたのは山形での利用を考慮したからです。
急行津軽が機関車牽引による客車列車を止めてしまったのは、逆編成になる時に山形での機関車交換が面倒くさいからです。
このパターンのは能登、ちくま、だいせんの辺りでもありました。

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