ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

こどもの教育コミュの学校における「競争」と「いじめ」との関係

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
先日大津市で起きた「いじめ被害児童の自殺事件」を受けて、様々な意見がネット上に見られます。

その中で、友人の日記から「大西宏(コア・コンセプト研究所代表、ビジネスラボ代表)」という方の
ご意見を目にしました。
http://agora-web.jp/archives/1473298.html

この方のご意見はともかく、その中で「内田樹」という方が展開している「教育の場には競争原理を
入れてはいけない」「子どもたちを大人の暴力から守るべきだ」「学校でのいじめも、社会の競争思想
が持ち込まれた結果起こった」という考え方に対して、反論を述べているところに注目しました。

内田樹:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9
内田樹の研究室:「いじめについて」http://blog.tatsuru.com/2012/07/12_1033.php
           「いじめについての続き」http://blog.tatsuru.com/2012/07/13_1032.php

なぜこの部分に注目したのかというと、私は「学校に競争原理を入れてはいけない」なんてことを
言うのは、「当の公立学校関係者」か、「それに洗脳された人達」あるいは「それと利害を同一する
人達」だけであり、その意見は「信念」ではなく「損得」に基づくものだと思っていたからです。

しかし、この持論を展開している内田樹という方は、wikipediaの記述を見る限り、どちらかと言うと
ずっと「体制路線」からはみ出し続けてきたリベラリストであるとのことですね。

なんか、ちょっとしっくり来ないような…。^_^;

とりあえずトピ立てだけしておいて、私の意見は後ほど書きます。

みなさんのご意見も伺いたいです。みなさんのご意見をお寄せ下さい。

コメント(15)

私たちが「競争原理」という説明原理についつい魅力を感じてしまうのは、分かりやすい理論だからでしょうね。
勝者と敗者、殺す側と殺される側に分かれるという実にシンプルな理論は、大変魅力があって、理屈の上では否定しがたいところがあると思います。

しかし、競争原理が働いているにしては、実際の生態系では競争する場面を目にすることはそう多くありません。
たいがい、競争を避けて「棲み分け」をしています。

私は微生物を専門にしていますが、二種類の微生物を同じ培養液に入れると、増殖の強い菌が勝って弱い菌は滅びる、と思いきや、そんな状態は一時的で、たいがい、どちらも棲み分けます。
どうやら生物にとって、競争というのは大変エネルギーのいることなので、自然界では競争を避けようとします。

競争原理は、自然界の中で確かに働いているんですが、現実に目にする場面はあまりありません。
どうしてなんでしょうか?

万有引力の話と同じだと思います。
万有引力の法則は「すべてのものは地面に向かって落下する」と教えてくれますが、実際には机の上に置いているコップは落下しませんし、ビルの上に立っていても、私たちはわざわざ落下する羽目に陥りません。
みんな、いわば「落ちたあと」だからでしょうね。
万有引力が働くからこそ、「落ちる」という現象は起きにくくなります。
「競争原理」でも同様で、競争原理が働くからこそ、競争が起きなくなる、ということが、自然界の本来の姿なのだと思います。

ところが「学校教育に競争原理を!」というのは、わざわざ意図的に競争の状態を作り、競争を起こそうということになりますね。
机の上にあるコップをわざわざ持ち上げて地面に落とすように。
ビルの上に立つ人をわざわざ突き落とすように。
競争原理は自然の摂理かもしれませんが、競争という現象をわざわざ起こそうというのは、とても人為的で不自然な状態だと思います。

生物が能力を進化させるのはどんなときか?というと、実は「競争」の時ではなく、競争が終わり、「すみわけ」てからだったりします。
コアラはきわめて競争に弱い、動作ののろい生き物で、競争を避けてユーカリという毒のある植物を食べるよう、「すみわけ」たわけですが、その「棲み分け」の結果、ユーカリに含まれる青酸を分解するという特殊な能力を獲得しています。
競争せずに済ませようとするからこそ、能力が開発される、といってもよいかと思います。

学校教育の目的は、子供たちの能力を開発することだと思います。
さて、能力の開発に競争原理は有効か?
むやみに競争を排除するのは不自然(たとえば徒競走でみんな横一列に並んでゴールするような)に思えて、私も嫌いなのですが、意図的に競争を持ち込もうとするのは、自然界の生物が競争にエネルギーを捕られて疲弊してしまうように、子供たちも疲弊するのではないか、と心配です。

たぶん、競争原理というのは、理論としてはあまりに単純すぎて、教育界に導入しすぎるのも排除しすぎるのも極端すぎてよくないのでしょうね。
もっと、子供の心理に寄り添って、場面場面に適した指導をした方がよいように思います。
研究開発の世界は、常に競争です。
誰が一番最初に新しい現象を発見するか、誰が一番最初に新しい製品を開発するのか。
常に競争しています。

ところが、常に競争しているからこそ、競争を避けようとします。
「あ、あいつの方が研究が進んでいるな」と思ったら、負ける勝負はさっさとあきらめて、まだ誰も飛び込んでいない新分野の方に方針を切り替えます。

これは企業でも同じで、たとえば缶コーヒーひとつとっても、ネスレ、UCC、ポッカなどが乱立し、競争していましたが、ネスレが圧倒的に強いとなると、UCCはコーヒー豆の販売に力を入れ、ポッカはレモンに特化するなど、棲み分けを模索し、棲み分けた世界の中で「世界でナンバーワン、オンリーワン」を目指しています。

自然界の生物も、弱肉強食に見える企業も、競争原理の中に身を置くことで、競争せずに済むニッチ(隙間)を探します。

近年、ビジネス界で「ニッチ」という生態学の用語が使われるようになったのは、偶然ではありません。
生態系の中で生物は、むやみな競争に身を置いて疲弊するより、競争せずに済むニッチを探して、そこに特化して、オンリーワンの圧倒的な能力を開発した方が生き残れる確率が高くなります。
企業も同様に、企業社会の中で末永く反映するには、他社がまねできないニッチを見つけることが大切だ、と考えられるようになっています。

「競争が能力を開発する」という、世間に一部流布している話は、ちょっと粗雑な議論で、棲み分けとかニッチとか、競争を避けようとする動きに、もうちょっとフォーカスを当てると、学校教育でも能力を伸ばす鍵があるかもしれませんね。
イデムリンさん、
興味深いページを色々と紹介頂きありがとうございます。

大西宏という方の
http://agora-web.jp/archives/1473298.html
の中の、以下の部分に強く共感を覚えます。

→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
しかし、もう一方では競争と共生は対立したものだとする理想主義あるいは社会主義的な考え方が教育現場にもあるとすれば、それを改めない限り、子どもたちに潜んでいるいじめへの誘惑を抑えることはできないとも感じます。なぜなら正しく競い合うことを教えられないために、子供たちが本能的に持っているむきだしの残酷な競争本能にゆだねてしまうことになってしまうからです。

むしろ、子供たちに正しく競争をすることを教える、正しく競争を体験させることがむしろ成熟した社会を生みだすのではないでしょうか。

健全な競争が生まれるために大切なのは、きちんとしたルールのもとに公正に行なわれなければならないことです。競争を悪だとしてしまうと、よりよいルールをつくること、また公正さを保つ意識が育ちません。

スポーツでも、ゲーム中は激しく争っても、ルールがあるから危険なプレイを防ぎ、それこそゲームが終われば互いを健闘しあう「ノーサイド」の精神も生まれてきます。
←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←
 
内田樹の研究室:「いじめについて」http://blog.tatsuru.com/2012/07/12_1033.php
の中の
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
ですから、これからあと、メディアと政治家と市民たちから、大津市の教員たちと教委は集中攻撃を受けることでしょう。でも、そのような「できのわるいもの」に対する節度を欠いた他罰的なふるまいそのものが子供たちの「いじめマインド」を強化していることにはもうすこし不安を抱くべきでしょう。
←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←
という一節は大事なことかなと思いました。
こんな世の中の風潮が、ものごとを自分のこととしてとらえようとしない大人を増やし、
その結果としてこども達がおかしくなっているのではないかと思います。
 
Shin さんの 1番のコメントについては、ほとんど同意見なんですが、
今は、
  > むやみに競争を排除するのは不自然に思えて、私も嫌いなのですが、
  > 意図的に競争を持ち込もうとするのは、自然界の生物が競争にエネル
  > ギーを捕られて疲弊してしまうように、子供たちも疲弊するのではな
  > いか、と心配です。
という文章の後半の部分よりも、前半の部分の「むやみに競争を排除するのは不自然」というところを、もっと強く意識しないといけないほど、おかしくなっていると思います。

Shin さんがその前に書かれている
  > 私は微生物を専門にしていますが、二種類の微生物を同じ培養液に入
  > れると、増殖の強い菌が勝って弱い菌は滅びる、と思いきや、そんな
  > 状態は一時的で、たいがい、どちらも棲み分けます。
  > どうやら生物にとって、競争というのは大変エネルギーのいることな
  > ので、自然界では競争を避けようとします。
というところに大事なポイントがあるのではないでしょうか?

どちらかが勝つという最後のところまで競争を経験してみないと、その後の競争を避けようとする能力は生まれて来ないのではないでしょうか?
 
>Shinさん

「競争原理」に関するご意見、ありがとうございます。

でも、私が興味を持っているのは、「いじめの原因」の方なんですよね。^_^;

私は「学校教育で競争を禁じた」→「教師が『独裁者』になった」→「その『独裁者』の顔色を伺う生徒
達から『いじめ』が生じた」というのが、「いじめの発生原因」なのではないかと感じています。

どうでしょうか?
5:Hiroさん

>どちらかが勝つという最後のところまで競争を経験してみないと、その後の競争を避けようとする能力は生まれて来ないのではないでしょうか?

Hiroさんのご懸念のように、競争を排除しすぎて実社会の競争で生き抜いていけないのではないか、という点は、私も同感です。
ただ、競争を、人為的に排除しすぎるのも、人為的に導入しようとしすぎるのも両極端であまりよい効果は得られないと思います。

競争は重力(引力)と同じで、あまり意識しすぎない方がいいと思います。
子供は重力に抗して、勝手に歩こうとします。
重力が基礎条件であるように、競争も基礎条件です。

しかしもし、子供に重力を体験させようとして上から落としたり、大人がのしかかってばかりいれば、その子は歩くことができないでしょう。
また、子供に重力を感じさせまいとして抱き上げてばかりでも子供は歩く力を獲得できないでしょう。

これと同様に、競争を味あわせようとして過度な競争の環境におけば、それに勝ち抜いた成功体験を得た、ごく少数の子供以外はつぶれてしまうでしょう。
また、競争を排除しようとしすぎて競争を徹底的になくした環境におけば、子供は自己の力を過大に信じ、競争に生き抜けなくなるでしょう。

競争に対しては、もう少し自然体に向き合った方がよいように感じた次第です。

徒競走だってテストの点数だって、競わせてもかまわないと思います。
子供たちは勝手に自分の立ち位置を確認しますから。
ただ、「勝った負けた」を大人の側から評価するのは、少々行き過ぎかも?と思います。子供は自分ですでに勝った負けたを自覚しているのに、大人が追い打ち翔必要はないかな、と。

お兄さんやお姉さんがいる子供は、歩き出すのが速かったりします。
すでに歩き回り、走り回るモデルがあって、それを模範に歩こうとするからかもしれません。
子供は模倣するモデルがいれば、「自分も!」と、勝手にがんばる力があると思います。
でももし、親が「お兄ちゃんはもうこれだけ歩けるのに、あんたは赤ちゃんだからといって歩けなくて、ダメねえ」なんて比較(強制的競争)し、その価値を断ずるようにしたらどうなるでしょう?
人間は、自分が見下された、価値を低く見られたと言うことに敏感で、傷つき、意気を大きく阻喪します。

競争はかまいませんが、競争の結果をその子の価値の評価に用いる(しかも優れた子より劣っていると断ずる)というのは、過剰な競争の導入の仕方ではないか、と思います。

大切なのは、子供たちの学習意欲、習得意欲をどうかき立てるかです。
競争は自分に有利がある場合に意欲をかき立てる効果がありますが、不利な場合は意欲を大きく減ずる諸刃の剣でもあります。
そして、勝者は常に少数です。
少数の勝者の意欲を向上させるだけでなく、大多数のパフォーマンスを向上させるにはどうしたらよいのか。
それが私たち大人の責任であり、競争という単純すぎる原理だけでは、難しいですね。

競争のことを嫌う側もやたらと導入したがる側も、競争という自然現象を意識しすぎているのかもしれません。
6:イデムリンさん

>私は「学校教育で競争を禁じた」→「教師が『独裁者』になった」→「その『独裁者』の顔色を伺う生徒達から『いじめ』が生じた」というのが、「いじめの発生原因」なのではないかと感じています。

今の学校現場では、成績がよいだけでは内申はよくならず、授業態度や意欲という、教師の個人的意見でしか評価使用のないものが加味されるそうですね。
だとすれば、テストの成績という分かりやすい競争ではなく、「教師の歓心を得る」という別の競争になってしまったのだと思います。
教師の歓心が得られるのは、
・成績がよい事。
・授業態度がよい事。
・教師への姿勢が従順である事。
ということが普通ですから、学校の成績もやはり必要になりますし、教師に気に入られるのも必要になりますね。
人の歓心を得られない、不器用な子供は、教師から嫌われて評価が落ちてしまうかもしれません。

競争というのは、排除しようとしても必ず発生してしまうものですから、子供から見ても公正と思われる競争の状態にする事が、大切なのでしょうね。
競争を排除しようとしすぎるのも導入しようとしすぎるのも、両極端であまりよい事ではないと思います。
競争が大人から見ても子供から見ても公正な状態であり、納得いくものでなければいけないような気がします。

「授業態度」とか「意欲」とか、実際には教師の好みしか反映されないかもしれないもので「競争」する羽目になるよりは、まだテストの成績のような分かりやすい数字で「競争」する方が、まだマシかもしれませんね。
ただ、テストの成績が悪かったからといって、子供たちの学習意欲が実際に失われてしまわないよう、工夫が必要です。
その工夫として「意欲」を評価する事にしたのでしょうが、かえって子供たちは教師の歓心を得なければならないような、変な事になってしまったのかもしれませんね。
「ニッポンのジレンマ」というNHK教育の番組で、おもしろい発言がありました。
「個人間での競争はパフォーマンスを下げるけど、集団間の競争はパフォーマンス上げるよね」

一人一人バラバラで、「自分以外は皆競争相手」という場合は、つぶし合いになってパフォーマンスを下げる、ということが、様々な研究から分かってきています。
しかし。
何人かでグループを組んで、グループ間で競争をする場合は、グループ内で助け合いの精神が発揮され、成員一人一人の能力開発が積極的に行われ、パフォーマンスが向上する、という現象も、私たちがよく目にすることです。

競争は、助け合いの精神とは真逆の概念のように感じがちですが、導入の仕方によっては、助け合いの精神を促す形でも競争を導入できるような気がします。

今の子供たちは、「先生の歓心をいかに買うか」という競争に巻き込まれているのだとすれば、その競争に勝ち残った優秀な子供が、先生から好かれていない子供をいじめても問題が発覚しにくくなるかもしれません。
子供たちが、「先生の歓心を買う」ことの競争を、バラバラに競わせられているからかもしれません。

生徒のパフォーマンスを上げるなら、成績のよい子と悪い子を適度に組み合わせた、グループを形成させ、グループでの成績を競わせた方が、いいかもしれませんね。
これも、いくつか気をつけないといけない点もありますが。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=6040750大津市いじめ自殺事件 コミュニティが再度作成されましたのでご案内します
生存権を有する
者を守る事と
生物の生存競争を同時に語る
議論は、陳腐な議論に見えます。
学校教育の根元は、生存権を守る事では?

>私の見るところ、「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。
そうだと思うのなら、日本の教育は本当に地に落ちている。
自分が本当に血反吐吐くほど、努力しているのなら、弱い物を至らしめて力を誇示する必要はない。

>子供たちを競争させ、能力に応じて、格付けを行い、高い評点を得た子供には報償を与え、低い評点をつけられた子供には罰を与えるという「人参と鞭」戦略を無批判に採用してる。
子供達を競争させる事は、良いだろう。
良い成績なら、賞賛するのは良い。
だが、成績が振るわなかったからと言って、罰を与えるのはどうか?
武道を習う子供達は、切磋琢磨して強くなろうと道場に通い、心身を錬磨する。
毎日の稽古の成果を大会で発揮する訳だが、そこでもちろん順位が付く。
上位まで行った子は目標に対して努力が足りていたという事、1回戦負けや2回戦負けの子は目標に対して努力が足りなかったという事。
多くの師範は、子供に一枚一枚薄紙を重ねて行く努力の大切さを説く。
そこが、現在の学校の教育の教師と違うところではなかろうか。
学校の教師は、生徒の成績の良さが自分の評価になるから、鞭というベクトルになるのではなかろうか。(企業もそうであろうが。)

>それとも競争を是とする今の社会を根底から変えない限り、社会に蔓延するいじめ体質はなくならないのか。

自分に負荷を与えて大きく飛躍するより、人を蹴落として上に上がる事を是としたら、こんな社会になったのだろう。
多くの人間が、その事に気づいていない。
文科省の22年度の統計で、処分を受けた
教師が4千何百人居ましたね

表に出た数だけで
隠蔽体質の教育者を見ていると…4千の三倍が犯罪者と成り得る

反社会的団体に
教育を語る
資格は、無いと思いますが?

教育者に其れを、排除出来ますかね
行き過ぎた、資本主義を正す
為に
生存権の考え方が
尊重され
義務教育は、生きる権利と平等に、より良く機会を、親の貧富の差で生む事の無き世の中を作る為に存在する

学ぶ事、子供が学ぶ権利に関しては、人の上下に拘りが無く
平等で自由であるむかっ(怒り)

生存競争を否定して、社会と文化は、存在しえない

沢山、働いた
沢山、学んだ
それは、ごく自然な事

競争のが無い世界は、社会主義と共産主義の世界だけです

あと人差し指は無責任な公務員の世界かな

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

こどもの教育 更新情報

こどもの教育のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。