ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

こどもの教育コミュの「本当の国語力」とは? どう学ぶべき?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「本当の国語力」が驚くほど伸びる本(福嶋隆史著 大和出版)
という本を読みました。

小学校教師をしていた著者がたどりついた答え、
国語にも算数のような「公式」が必要なのだ

といった序章から始まり、その公式を「3つの力」に集約して
おのおの解説をしています。
その内容は小学3年の娘を持つ親として、かなり魅力的に映りました。
ちょっと子供に身につけさせてやろうかな、と。

一方で、夏休みあたりになると書店に「読書感想文の書き方」的な本が
ずらっと並んでいて驚かされます。
そんなお手軽なHow Toを身につけさせるべき?
と抵抗感をもったりします。

国語力は、その他の教科の基礎であることはもちろんですし、
社会に出ても重要な基盤能力です。
子供にはしっかりと学んでほしいと考えています。

最近の国語の授業の進め方、教師の考え方、
親が子にできること、すべきこと、など
みなさんのご意見をお聞かせください。

コメント(280)

>渇望の福王さん

良く気が付きましたね。
そうなんです。初め「一利」と変換したあと、この場合「利」という文字が与える語感はどう
かと考えたのですね。

まさに私が指摘しようとしているのは、「満点を取りに行くというのは、あまりにも『利に賢い』
姿勢ではないか、それ故『理』がないがしろになってはいないか」という内容ですから。

そこで一瞬迷った後、「一理」とさせて頂きました。

ご指摘の「国語力」は、このトピの場合「思考力」であって「知識力」ではないということを
ご確認下さい。

…ところで、良識ある方だと思いますから申し上げますけど、「目上の人」に対して、「指摘
してやる」という言い回しは、礼を欠きます。単なるミスだと思いますけどね。
少し長くなります。すいません。

232Hiroさん、

僕の読み間違いでした。
そして、僕の215番のコメントの書き方にも問題がありました。
「国語力」の中に「テストで満点を取る力」があるではなく、
「テストをがんばろうと思う気持ち」が「国語力」につながる、
という考えです。
「国語力」と「テスト勉強」の関係を話したいと思って書き加えた言葉だったので、しっかり読み直さずにコメントしてしまい、すいませんでした。


Hiroさんの「怖さ」は僕も同感です。
個人の国語力が総合されて、満点というかたちで表れるものですね。


234 take/テイクさん、
学校に「たいした努力もせずに高得点を取れる・公式さえ覚えれば解けるような事」が蔓延していることは、僕も問題だと思います。
このような、記憶の正しいアウトプットのみを求めるテストのために、勉強することはとても不幸なことだと思います。

ちなみに、僕の言っている「テスト」は、有名国立・私立の中学〜大学のテスト(主に入試問題)です。(情報や表現を咀嚼して、決められた字数で問いに答る、自分とある事柄(例えば「温暖化」)との関係を、根拠や具体例を有効に使いながら文章で相手に伝える、などの問題)


「転換力」初めて聞いた言葉で刺激的でした。
何かを「転換」するには、現状把握(−)とビジョン(+)を明確にする必要がありますね。それを基によりよい状態へと事態を変えるために行動する。
いわゆる「問題解決力」よりも、言葉の意味がイメージしやすかったです。


237 イデムリンさん
『コミュニケーションを目的とした場合、意志が通じなかった時点で「双方負け」の状態』
とありますが、意思疎通は、お互いの発言の意味を汲み取り、確認や「実験」をしながら深まるものだと思います。ことばの使い方は「ケースバイケース」ですからね。

例えば、国語の教科書に出てくる「ことば」という言葉を使っている文節をすべて書き抜き、それら言葉を意味別にグルーピングする、という授業を聞いたことがあります。(大村はま氏の授業)

また、怒ったり笑ったり、色々と表情を変えて「おはよう」と言われて、どう感じるか体験する。

このような実践から、ことばは、あらゆる顔を持っているということを学んでいくのでしょうか。
僕は、ことばというものが国語力の根幹を成していると思います。

240 渇望の福王さん

本人も知らずに間違っているのではないと思うので、僕はスルーしました(笑)
イデムリンさんも、みなさん、ない時間の中をコメントしてくださっています。自分も勉強になるので、とても感謝しています。
みなさん、ありがとうございます☆
>> Hiroさん
>>「相対的な指標」を付けることを強く求められている近年の学
>> 校の教師は

ここのとこ誤解があります.義務教育では絶対評価だそうです.
241 イデムリンさん

「一理」の件、間違いだと決めつけてしまい、すいませんでした。
言葉って、自分の思いを込めて使えるようになるとおもしろいですね。
あと>>234の「ディベート力の無さの問題は既にもてはやされていますが」も変な表現と思います。
「ディベート力の無さ」が否定的な意味を持つなら、それを「もてはやす」ことはありません。
「取りざたする」「俎上に載せる」の方が適切です。

変な言葉遣いの人が、どれだけ「国語力」について語っても説得力に欠ける。
誰にでも間違いはあります。もちろん自分も。間違いを見付けたら互いに指摘し合う。
そう云う姿勢が大事だと思います。
別のトピックからですが,国語が話題なのでこちらに書きます.

>>>日本語は主語がないので、
>>日本語には主語はあると思います。
>>あなたのその言葉「日本語」が主語になっています。

三上章の説を取るならば,「日本語」は主語ではないことになります.

像は鼻が長い
>渇望の福王さん

>234の「ディベート力の無さの問題は既にもてはやされていますが」について。

僕もイデムリンさんと同じ状況だと思います。
筆を執った側として、責任をもって読解できるようにすべきでした。

個人的に、「もてはやす」を片仮名表記にした事で意味を持たせました。
既に述べられている「ディベート力の無さ」の否定的な意味に対して、
「嘲るの意で囃す」と、「褒めるの意で栄やす」の両方を「もてはやす」に込めて皮肉を強調した表現にするつもりでした。

ご指摘ありがとうございます。

ところで、僕自身の意味付けで使用した訳ですが、言葉の適切さや解釈に対して、短慮だったでしょうか?
りーさーさん
御指摘ありがとうございます。

調べてみました。
 2002年度施行の学習指導要領において、総合的な学習の時
 間の実施や、教科における成績の評価方法が、それまでの相
 対評価から絶対評価に変更
出典: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E7%9F%A5%E8%A1%A8

僕の文章は、
 2002年度までの長きに亙って「相対的な指標」を付けるこ
 とを強く求められてきた近年の学校の教師にとっては、
と書く必要があったんですね。
 
こんな本があることを見つけました。

ことばの躾で国語力が高まる (国語教育立国論)
榊原 良子 (著), 瀬川 榮志 (監修)
単行本: 162ページ
出版社: 明治図書出版 (2008/11)
ISBN-10: 4183884144

このトピックとも関わりが強い題名ですね。
¥ 3,003 と、少し高価なので、図書館ででも探してみようかと思いますが、
もし、お読みになった方がおられましたら、内容について紹介頂けたらと思
います。
 
>223 Hiroさん
>娘には「本当の国語力」を是非身に付けて欲しい。でも、
そうは言っても世の中は受験戦争、手っ取り早く「満点を
とる力」というものもどこかにあるはずだと思う。この両
者を錬金術のように融合させる技術を誰かが発明してくれ
て、飲み薬のように仕立てて与えてくれるのなら、子供の
ために絶対にそれを手に入れてあげるのだ。

子どもが受験真っ盛りで苦しんでるのを前にしたら、
そう思うようになるかもしれませんね、正直なところ。

でも、うちではまだ、子どもがこれからどう学んでいくだろう?
成長していくんだろう?という段階です。

「本当の国語力」を身につけさせてくれて、その「本当の国語力」を
判りやすく評価してくれたら。
そして、子ども自身が、「本当の国語力」がしっかり身に付いていってる、
と実感でき、学ぶ喜びを感じることができる。
それが理想かと思います。

>「本当の国語力」を身に付けさせようとする教師の努力

が、理想に向かっているのかどうか、よくわかりません。
(もちろん、教師だけに責任を負わせるものではなく、
親としてできることは考えていきたい、と思いますが。)
「とりあえずの国語力」石原大作著 徳間書店
という本が、書店に平積みしてありました。
「国語力」の言葉に惹かれて思わず手に取りました。


帯の広告文
文章を書くのなんて簡単
とりあえずこれだけ覚えてください!
小論文のカリスマ予備校講師が厳選した33の必修ポイント

目次は、

第一章 はじめる力
 ースタート地点を決めると、ゴールも見える!ー
 01〜06
第二章 まとめる力
 ーふだんの会話もちょっと手直しするだけで「明文」になるー
 07〜13
第三章 見通す力
 ーわかりやすくて筋の通った文章を書くためにはー
 14〜19
第四章 読みとる力
 ー「読む力」を身につけると「書く力」が深まるー
 20〜33

と、4章に別れており、その下の項目はそれぞれ数項目ずつなのですが、
1−1、2−1という割り付けをせず、1〜33の通し番号が振られています。


何が、始めに掲げた本と違うか?

まず、題名にある「国語力」とは何か?が書いてありません。
さっと見ただけなので、正確に言うと見つかりませんでした。

特徴的なのが、
第三章、14「イシハラ式作文シート」でどんな文章もラクラク!
という項目。ここがこの本のキモのようです。

小論文の典型的な形態を細かい項目に分解し、
それぞれの項目に、文章を当てはめていけば、それで大丈夫、
といった感じの内容。

これが、これまで出て来た「公式にはめる」といえることか、
とにかく、小さな「型にはめこむ」作業、という感じがします。

私にとって、最初に書いた、お手軽How toを身につける本、
と感じるものです。


それで改めて、始めに掲げた本をまとめると、

国語力=論理的思考力である。そしてその力は3つに分けられる。
3つの力とはこういうもので、それぞれこうやって習得する。
論理的思考力は、社会に出ても役立つものだから、
しっかり習得してほしい(習得させてほしい)。

という骨組み、主張がはっきり判ります。


ここで掲げた本も、じっくりやれば「国語力」はつくに違いありません。
目的に沿っていれば、効果は大きいかもしれないし。
始めに掲げた本の3つの力と関連する事柄、
「つながり方」「言い換え表現」「比較」といった言葉が、
4章のうち、8項目にありますし。
始めに掲げた本と、こちらの本、どちらが「国語力」がつくか、
といっても軽率に判断はつきません。


でも、ここで掲げた本からは、その昔、自分が受けた国語の授業を
振り返って感じる「損した感」が解消されるような気はしません。

なんでだろう?

「国語力」ってそもそも何か、
何のために身につけるのか、
そんなこと考えずに、それこそ、たくさん覚えるべき項目を、
ひとつひとつ身につけていけばいいってこと?
それで、「国語力」を身につける、学ぶ喜びを得られますか?

そんなことを感じるからか、と思います。

学校で学んでいる時に、そんなこと考えるきっかけがあればなぁ。
子どもは、これから喜んで国語を勉強していけるだろうか?
そこが一番気になるところです。
今、自分の子どもの言動で気になるのが、「考えてみて」と言うと、
面倒くさがる事です。
すぐに「わからない。答え教えて!」と言います。

お父さんは、早く答えを出せるうまい方法をしってるんでしょ?
なら、聞いた方が早い、ということみたい。

また、答えを早く出せないと面倒くさい、というばかりでなく、
答えをどういう形にしたらいいのか、はっきりしない場合も
答えるのがいやみたいです。

テストを与えられると、黙々として解くでしょう。
答えの形が( )Kgとか、与えられると答えを出しやすいのでしょう。

小学校3年生にして、すでに急いで答えを出さないといけない、
と思わされてる、とか型にはまってきてる、ってことですよね?


>「答えが分からないときは、答えが見つかるまで、答えなくても良いんだよ」
と誰かが言ったとしても、学校では「評価」されてしまします。
絶対評価といっても、比較されます。
子ども自身も、となりと比較します。
また、子ども自身の中で、80点より100点がいい、と考えます。

どんどん追われていき、流されていきますよね。

「国語力」を身につけて、自分自身でしっかり考えられるようになること。
そこが、重要だとは思うのですが。

問題はどうやって?
王道なし!?
うーん・・・
>> どんどん追われていき、流されていきますよね。

点数や評価が出ることで、追い込まれる子供というのはあまりいないように
思います。むしろ、周りの大人が追い込んでいます。

このあたり、学力テスト批判もそうなのですが、
子供にとって、テストの点数とゲームの得点に区別はなく、
大人が区別をするから、子供がそれを感じ取るようになるわけで、、、
きよまるさん、
 > 今、自分の子どもの言動で気になるのが、「考えてみて」と言うと、
 > 面倒くさがる事です。
 > すぐに「わからない。答え教えて!」と言います。
 >
 > お父さんは、早く答えを出せるうまい方法をしってるんでしょ?
 > なら、聞いた方が早い、ということみたい。
 
そこまで気が付いておられるのなら、今日からでも、お子さんと
一緒に考えるということ、それと、お子さんが考えている間、そ
のまま優しく見守りながら、いつまでもじっと待つということを
されたらいいと思います。

老婆心から一言付け加えておきます。

大抵の親は、
 自分は待っているのに、子供が逃げようとする
と言われます。
しかし、そういう親をよーく見ていると、子供に「自分で考えな
さい」と言い捨てて、その場を離れてしまったり、子供に言った
後は何か他のことに親の気持ちが行ってしまっていて、子供から
見たら、親がじっと優しく見守ってくれているとは感じられない
ようにしていたりします。
 
>りーさーさん
>子供にとって、テストの点数とゲームの得点に区別はなく、
大人が区別をするから、子供がそれを感じ取るようになるわけで、、、

そういえば、ゲームでも結果を早く出したがりますね。
これはうちの子の性格かな?
攻略本を見て、早くゴールに向かいたがる。

ただ、大人が追い込む、というのは、良ければ褒める、悪くなれば
もっとがんばろう、と言う、それが追い込む事だ、と言われれば
そうに違いありませんが・・・

ゲームでも、人と対戦するというものではなくても、人より先に進んでる
というのを喜ぶわけで、子ども自身が競争に心とらわれてしまう、と
いうことがあります。
そういうことが、テストでもありませんか?

>Hiroさん
>大抵の親は、
 自分は待っているのに、子供が逃げようとする
と言われます。

子どもとちゃんと話をするのは、結構しんどいですね。
すぐ別の話題に関心が向いていきますから、ここはゆっくり
考えさせてみよう、と思ってもそうはいきません。

特に子ども自身に都合が悪くなりそうだ、という状況を
はぐらかそうとするのはうまいもんですよ。

そこでその状況を強いない、じっくり待つ、というのは
なかなか骨が折れます。


話し変わって

「国語力」を高めて、考え方をしっかり持てるようにする。
そう考えると、「考え方」を文章としてしっかり書くのが
直接的で、「国語力」を高める早道に思います。

何かを深く考えて文章にする。
社会に出ると、そういう機会はなかなかないですね。
小中高、様々な事を考えるようになる、その時々に応じて、
しっかり文章にしていく、ってことをもっとやったら
どうなんでしょうか?

と言っても、「深く考える」というのは、やらされても
なかなか出来ないものかもしれません。
やらされると、やっつけ仕事で形にするだけ、という
ことになりかねません。

自分のことで考えると、面白い、と感じた時にしか本当には
「深く考える」ことは出来ない気がします。

ちょっと考えるのは難しそうだ、面倒そうだ、という事柄を
面白い、と思える感覚を養うのがよい、と考えるのですが。
どう思われますか?
きよまるさん、
 > ちょっと考えるのは難しそうだ、面倒そうだ、という事柄を
 > 面白い、と思える感覚を養うのがよい、と考えるのですが。
 > どう思われますか?

その通りだと思います。
このコミュニティの初期の頃に「好奇心」というテーマや
「考える楽しさ」というテーマについて多くの意見交換(議
論)をしてきました。
きっと、今お考えとことの参考になると思います。
古いトピックですが、是非お読み下さい。

好奇心
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41099

考える楽しさ。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42704

考える楽しさ。数学編。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46350

考える楽しさ #2
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=77507&comm_id=12801


これらの古いトピックにコメントを付けて、もっと続きを
してもらってもいいのではないかと思います。
 
続きです。
今、ざっと読み直しているのですが、例えば
 考える楽しさ。
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42704&comm_id=12801&page=all
の42番からちょっと抜粋してみると、以下のような議論が
なされていました。

----------------
でも、それだけでは、十分ではない。その次に、、、

「何を考えれば、考えること事態が楽しくなるのか」を経験する、訓練するのに、もっと時間が必要となるから。
試行錯誤、発想の切り替え、わざと忘れる、わざと違う見方をする、常識からの逸脱、夢を描く、夢を具体化する、、、かなりの発散と集中をを繰り返さないと、そこまでたどりつけない。
もちろん、その過程で、めげて脱落しないための「根性」「根気」「興味」を喚起し続けてあげるアシストがますます必要となります。

ご家庭の皆さんは、お子さんに「スグに答え」を求めずに、気長に付き合ってあげる必要があると思います。
根競べです。
親から「答えらしきもの」を投げかけてはいけない。
 
続きです。
 考える楽しさ。
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42704&comm_id=12801&page=all
の45番からの抜粋

--------------------
>では、学校教育では?職場での後輩・部下の指導では?
>根競べをやってられるのかな?
>時間が限られているぞ!
>さぁ、どうする?

   職場はマンツーマンになることが多いので、本当に大変
   だったんですけど、学校だと、自分のクラスメートが
     めげずに、「どう考えれば、考える過程
     が楽しくなるのか」を経験している様子
   を目の前に見ることができるはずなので、それを上手に
   使う、つまり、体験を共有させる工夫をすることで、効
   率良く指導することができそうに思うんですけれど、そ
   のあたりのことは、どうですか?
--------------------
 
御参考まで。
 
きよまるさん
>> ゲームでも、人と対戦するというものではなくても、人より先に進んでる
>> というのを喜ぶわけで、子ども自身が競争に心とらわれてしまう、と
>> いうことがあります。
>> そういうことが、テストでもありませんか?

そういう子どもがいるのは確かですが、
そういう場合、競争にとらわれないように諭すのが、
義務教育に関わる教員の役目であって、
それが面倒だとか、出来ないという理由で、テストそのものが悪であるかのような
言い方をする教員が多すぎるように思います。

すごろくの勝ち負けに異常にこだわる子どももいます。
普通、そういう子どもに対して、大人は諭すものです。
すごろくがいけないんだ。という大人はいないでしょう。
何故、テストは悪者になるのでしょうか?

1年生なんかは大喜びでテストを受けています。
学年が上がるに連れて、テスト嫌いの子どもが増えるのは、
テストが悪いのではなく、テストに価値観を与える大人が原因でしょう。
きよまるさん、
 > >Hiroさん
 > >大抵の親は、
 > > 自分は待っているのに、子供が逃げようとする
 > >と言われます。
 >
 > 子どもとちゃんと話をするのは、結構しんどいですね。
 > すぐ別の話題に関心が向いていきますから、ここはゆっくり
 > 考えさせてみよう、と思ってもそうはいきません。
 >
 > 特に子ども自身に都合が悪くなりそうだ、という状況を
 > はぐらかそうとするのはうまいもんですよ。

私の文章は、引用されている部分ではなく、その後に続く「しかし」
以降の部分
 > しかし、そういう親をよーく見ていると、子供に「自分で考えな
 > さい」と言い捨てて、その場を離れてしまったり、子供に言った
 > 後は何か他のことに親の気持ちが行ってしまっていて、子供から
 > 見たら、親がじっと優しく見守ってくれているとは感じられない
 > ようにしていたりします。
が本筋なんです。

まことに申し訳ありませんが、きちんと後半部分まで読んでから、
その本筋のところに対してコメントを付けるようにして頂けません
でしょうか?
子が「はぐらかそうとするのはうまい」のは、親を見ているからと
いうことはないでしょうか?
 
>Hiroさん
>後半部分まで読んでから

その後半部分というのは、よくあることかもしれません。
が、自分にとってはしっくりこなかったので、うちの場合に
ついてコメントさせていただきました。

子どもと長い時間相対しているように思っても、子どもと
かみ合ってるのはわずかな間に思えます。
同じことを話題にしていても、子どもは自分の思考の世界で
全く違うことを考えているのかもしれません。

子どもが一つの事柄をじっと考えて答えを出す、ということが
難しいことなのかもしれないですし、一つの事柄を考えさせる状態で
いることを要求されること自体に子どもはプレッシャーを受けも
するのでしょう。

だから、「わからない、答え教えて!」と早く済ませようとするのかも
しれないし、急にふざけだしたり、別の話しをしだしたり。
そんなわけで、答えをいつまでもじっと待つ、ということは、
なかなか難しいことだぞ、と思う訳です。



ところで、子どもに考えさせる、あるいは能動的学習ということで、
「アクティブラーニング」という授業形態が広まっていると、
日経の記事にありました。
大学で広がり始め、それに備えるために高校でも始まったとか。

ネットではこんなくらいしか見つけられませんでした。
http://mark-lab.net/2010/03/post-228.php

リンク先の文章で、
「この話は言葉が変わっただけで、ここ何十年もずっと言われてきていること」
というのが気になります。

考えを発表する、それに対して意見をする、意見に答える。
「国語力」を高めるには、効果的な学習方法に思えますが、
いかがでしょうか?
きよまるさん、
「自分にとってはしっくりこなかった」と仰っているということは
僕が書いた
  > しかし、そういう親をよーく見ていると、子供に「自分で考えな
  > さい」と言い捨てて、その場を離れてしまったり、子供に言った
  > 後は何か他のことに親の気持ちが行ってしまっていて、子供から
  > 見たら、親がじっと優しく見守ってくれているとは感じられない
  > ようにしていたりします。
というようなことは絶対にしていないという自信があるということ
なんですね。
でもね、今回書いておられる
  > 子どもと長い時間相対しているように思っても、子どもと
  > かみ合ってるのはわずかな間に思えます。
あるいは、
  > 一つの事柄を考えさせる状態でいることを要求されること自体に
  > 子どもはプレッシャーを受けもするのでしょう。
という文章を見ても、今まで書いてこられた文章をみても、やはり
僕は、きよまるさんが「親子で一緒に考えたり調べたりする」とい
うことや「(子から見て)親がじっと優しく見守ってくれていると感
じられる態度を辛卯強く保つ」ということを上手にできているかど
うか、もう一度冷静に自分自身とお子さんのことを振り返って、考
えてみて欲しいなと思ってしまいます。

ところで、もしかしたら、きよまるさんの書いておられる
  > 同じことを話題にしていても、子どもは自分の思考の世界で
  > 全く違うことを考えているのかもしれません。
このあたりに問題解決のヒントがあるのではないかと思います。

親と子の対話がうまくいっているとき、すなわち親子が上手に話し
合えているときには「子が自分自身の思考の世界の中で何を考えて
いるのか」ということを親が理解することもできるはずです。
ですから、子と話していて「子どもは自分の思考の世界で全く違う
ことを考えているのかも知れない」と気付いたとき、そこから親が
自分の態度に気付いて、子との付き合い方を変えて行く、そのよう
にしていくことによって「子にプレッシャーを与える親」から「子
の理解者としての親」に変わって行くことができるのではないかと
思うのです。

いかがでしょうか?
 
きよまるさん、
 > ところで、子どもに考えさせる、あるいは能動的学習ということ
 > で、「アクティブラーニング」という授業形態が広まっている
 (中略)
 > リンク先の文章で、「この話は言葉が変わっただけで、ここ何十
 > 年もずっと言われてきていること」というのが気になります。

ここ何十年かで、どんどんと能動的学習が軽視されるような風
潮になってきたので、それに対する警鐘が鳴らされ続けてきた
という意味ではないでしょうか?
 
ところで、能動的学習の反対は受動的学習だと思いますが、望
ましい受動的学習というのは、どんな形態なんでしょうね?

親も先生もこどもに耳を貸さず、「つべこべ言わずに覚えなさ
い」「覚えたもん勝ち」「テストでいい点を取ることだけが大
事」というのは、どう考えても望ましい学習方法ではないと思
います。 

能動的学習には多くの定義があるようですが、もし、能動的学
習の一つの形が、きよまるさんが書かれたように
 考えを発表する、それに対して意見をする、意見に答える。
だとしたら、それに対応する受動的学習は
 考えを聞く、それに対して質問したり意見をする。
 質問や意見に対する答を聞き、再度質問したり意見をする。
ということになるのではないでしょうか?


  だんだん、また国語力から離れて行きそうですが
  まぁ、いいですよね。
  
小説が大好きなのに中学校時代国語の成績は全く伸びませんでした。そんな私は高校生になって国語には算数の様にルールが有るという事に気付きました。でもそれは国語力をあげるというよりはテストの点数をあげるという方が正しいかもしれませんね。
じゃあ本当の国語力は何か。それは物事を正確に相手に伝える力。コミニケーション力だそうです。なるほどねぇ。『16歳の教科書』なぜ学び なにを学ぶのか… に国語のところに書いてました。
確かにね。言葉の一番の使命は人にどれだけ物事を正確に伝えるかですからね。国語力の有る人は
右 左 裏 表を的確に相手に伝えられる人だそうです。
これはやって見ると判りますがイライラするほど人に伝えるのは難しいですね。
考えるためには、考えるための「ネタ」が必要ですよね。

例えば、歌舞伎について予備知識がない人が
「歌舞伎はなぜ現在まで伝承されているか」考えてみよう!

と言われても??になると思います。

そこで、まずは、実際に生の歌舞伎や映像を見たり、本を読んだりして、
人に聞いたりして、歌舞伎について知っていきます。(受動的学習)

そこから、他の伝統芸能や日本人の意識などについて思考が広がり、
歌舞伎についての深い理解を得られるのだと思います。

もし、歌舞伎の映像も本もない状態で考えろと言われても、
それでは「考える」という行為は成立しないと思います。

きよまるさん252番でのコメントでの
お子さんの話は算数の問題だったのでしょうか。

もし算数なら、その問題を考えるための既習事項や解けるレベルの類似問題を示し、今やっている問題との関係にきづかせる。
また、いくつかの解法を示して、その中からどれが使えるかを選ばせる。etc.

そのような手だてが「自分で考える」ためには必要だと思いました。

その「ネタ」(自身の知識・経験から、本の紹介なども含む)を大人や教師がどれだけ持っているかが、子どもの「考えたい」気持ちをふくらませるためのポイントになるんじゃないかと思います。
>がっけさん

>これはやって見ると判りますがイライラするほど人に伝えるのは難しいですね。

何も難しいことはないです。あなたが「まだできていない」だけのことです。
ですから、「やって試みると(「見ると」は間違い)判りますが」と書かれていますが、「まだやって
みていないから、本当の難しさに気が付いていない」ということだと思います。

上記引用文を「添削」します。

>小説が大好きなのに中学校時代国語の成績は全く伸びませんでした。
「主語」が抜けています。頭に「私は」を入れて下さい。

>そんな私は高校生になって国語には算数の様にルールが有るという事に気付きました。
2つめの文に来て初めて「私」という主語が出てくるというのは、「小説」の場合は良く使われる
手法ですが、「意味をきちんと相手に伝える」という意図からすればマイナスです。

「人がやっていることをただそのまま真似する」のではなく、「意味を考えてTPOに応じて真似
する」ことが大切です。

「ルールが有るという事に気付きました」とありますが、「では、発見したそのルールとは何か?」
ということに関して、これ以降も全く説明がありません。
「それを相手にきちんと伝える」ということが、「国語のテストの得点」と「本当の国語力」との差
です。

>じゃあ本当の国語力は何か。それは物事を正確に相手に伝える力。コミニケーション力だ
>そうです。なるほどねぇ。

「だそうです」とか「なるほどねぇ」なんて言っているヒマがあったら、「自分には何が欠けている
のか?」を、もっと真剣に考えましょう。
このトピには、たくさんの人が、善意の気持ちから、たくさんの「ヒント」を書いてくれています。
「いじけている」場合ではないですよ。^_^;実は「チャンス」なんですよ。

>『16歳の教科書』なぜ学び なにを学ぶのか… に国語のところに書いてました。確かにね。
1,これが「本の題名である」ということを、明示しましょう。

これは「…」という題名の本の、「…」という章に、そう書いてありましたという意味ですよね?

だったら、こう書くべきです。

「『16歳の教科書』なぜ学び なにを学ぶのか」という本の、「国語」という章にそう書いてありました。

私はその本を読んだこともありませんし、見出しを見たこともないので、これはあくまでも想像
ですが、このように「実物を見たことがない人にも、ある程度伝わるように書くことができる」という
のが、「本当の国語力」なのです。

2,なにを学ぶのか… に国語のところに書いてました。
格助詞が間違っています。

正しくは、「なにを学ぶのか…の、国語のところに書いてありました。」でしょう。

>国語力の有る人は右 左 裏 表を的確に相手に伝えられる人だそうです。
>これはやって見ると判りますがイライラするほど人に伝えるのは難しいですね。

「やって試ると(見るとは間違い)判りますがイライラするほど人に伝えるのは難しいですね」と
ありますが、この記述から推察すると、「やってみていない」から「伝わらない」のであって、
「イライラする」のは、まだまだ早いです。^_^;

>「これはやって見ると判りますがイライラするほど人に伝えるのは難しいですね。」

「何を?」が抜けています。だから「伝わらない」のですよ。^_^;
イライラするのはまだまだ早いです。^_^;

日本語は英語と違って「同じ言葉を重複する」ことを、それほど嫌いませんから、面倒くさがら
ずに、「この言葉を省略すると意味が伝わらなくなるかも知れない」という危険性がある言葉は
何度でも重複するべきです。

そういう手間暇を惜しまないのが「国語力」であり、「右 左 裏 表を的確に相手に伝えられる」
ような能力だと言えます。


添削例:
この「正確に伝える」というのは、実際にやってみると判りますが、イライラするほど「重複した
言葉」を使う必要があり、「人に正確にものを伝える」というのが、いかに難しいことか、実際に
やってみれば良く判ります。

がっけさんのプロフを拝見すると、
>小学校と児童会館で読み語りボランティアやってます。
と書いてあります。

子供と接する仕事をされている(たとえ無償であったとしても)のですから、もっと「聞く側の
立場に立った表現」を意識して頂ければ幸いです。m(_ _)m
>ゆうぴんママさん

>がっけさんのコメントに驚きました。
>私も小学校の頃から読書はしてきて、中学まではそれなりの点数でした。
>しかし、高校入学後。それまでまぁまぁ得意だった国語で点数が取れなくなったんです。
>逆にそれまで苦手としていた数学が分かってきたら面白くなって点数が伸びてきた。
>すると、国語の点数の取り方が劇的に(おおげさですが)分かったんです。

何が抜けているのか、こうやって客観的に抜き出して見てみると、お分かり頂けますか?

そうです。「驚いた」のは「何故」なのか?その「方向性」が抜けているのですね。

同じ「驚く」と言っても、「反感を持った」のか、「同感した」のか、そのどちらでも成り立って
しまうので、それをはっきり言わないと「この人の立場はどっちなのか?」が、読む人には
判らないわけです。

このところ20年ほど、日本全体が「イジメ社会」に突入した後は、「旗色をはっきりしない」
ことが「イジメに遭わない」ためには重要になり、そのせいか「自分の立ち位置をはっきり
表明しない人」が大多数になりました。

しかし、その姿勢は「国語的にはダメダメ」な姿勢です。(笑)

しかも、この御発言を拝見すると、「賛同」のコメントなわけです。
だったら、はっきり「賛同」と書かなければ損じゃないですか。(笑)


>がっけさんのコメントに驚きました。
の後に、
「私が今まで感じてきたことと、全く同じご意見が書かれていたからです。」
という一文を入れましょう!

すると、
>私も小学校の頃から読書はしてきて、中学まではそれなりの点数でした。
以降と、すんなりつながりますね。

「自分の気持ちを相手に伝えたい」という意志がなければ、そりゃあ伝わらなくても
当たり前ですよ。^_^;

最近は「判ってくれないのは、判ってくれない相手が悪い」といううような意見を口にする
若者が多いですが、「言わなければ伝わらない」のは基本中の基本です!
>262 Hiroさん

うちは一人っ子なので、見守りすぎて過干渉にならないか、と
心配するくらいです。
子どもから何か言って来たら、飽きるまでつきあいます。
あ、うるさくて邪見にすることもないとは言えませんが。

勉強に関しては、小学1、2年生の時は、難しい勉強はやってない
ですから、おー、頑張ってるなー、という感じですんでいました。
かけ算の九九等も、お風呂で問題をだしたり、お遊びのようにして
ちゃんとできてるか確認する程度でした。
3年生になって、大丈夫かな?と気にかけだしたので、
子どもがその変化を感じ取り、プレッシャーを感じたりしないか
気にしているところです。

もう3年生も終わり、4年生、さらにその先、子どもは
いろいろなことを考えるようになるでしょう。
辛抱強く見守る、といったことはこれから身にしみて考えさせられる
ことなのかもしれませんね。


>はまじさん

>252に関しては、算数だけでなく、様々なことに関して、
例えば、クイズの本でもすぐ答えを見たりしてしまいます。

算数は、小学3年生なので、文章題の計算は難しいものではなく、
問題文をゆっくり読めば解ける問題です。

うちの子どもは、子どもチャレンジという通信学習をしています。
添削されて帰って来た算数の答案に、間違っている箇所を見つけて、
私「これ、やり直してないの?ちょっと考えてごらん。」
答えは4択なのですが、
子「これが間違いなら、これかな?違う?じゃあ、こっち!」
私「・・・」
子「違うの〜?どれ〜?」
私「ちゃんと考えて」
なんてことがありました。
その後は、しぶしぶと計算をはじめて、
「あー、これだー」
となったのですが。


今の子どもの周りには、便利な物がいっぱいです。
算数を習う前から、計算機で足し算が出来ます。
わからないことを知りたいと、インターネットで検索して!
と言ってきます。
面倒くさがりの性格もあって、「ちゃんと考える」ことを
身につけていけるのか、心配ですよ。

>257 でHiroさんにご紹介いただいた「考える楽しさ」を
興味深く読ませていただいてます。
>263 Hiroさん
>能動的学習には多くの定義があるようですが、もし、能動的学
習の一つの形が、きよまるさんが書かれたように
 考えを発表する、それに対して意見をする、意見に答える。
だとしたら、それに対応する受動的学習は
 考えを聞く、それに対して質問したり意見をする。
 質問や意見に対する答を聞き、再度質問したり意見をする。
ということになるのではないでしょうか?

私が受動的学習でイメージできるのは、
 考えを聞く、聞いた考えを覚える、覚えたことを確認する、
ということです。
意見を聞く、としても、想定された答えを言うのを聞く、
再度質問するとしても、不足がないか質問し、不足を補う答えを聞く。
答えが明らかでないような質問はしない。
そういうイメージなのですが。


日経の記事では、高校での導入に際してはやはり、「受験に役立つのか」
「通常授業を増やすべきだ」という慎重・反対意見が出た、とあります。

>261のリンク先で、
「この話は言葉が変わっただけで、ここ何十年もずっと言われてきていること」
というのを読んで、能動的な授業は、論理的思考力を高める上で役立つ、
と思われながら受験という現実を前に起きては消えて行った流れなのかな、
と感じます。
先生もそういう授業をやるのは大変でしょうしね。


国語の授業では、答えの出ない問題、例えば、生と死を考えたり、
あるいは政治的な諸問題には、取り組めないでしょうね。
様々な事情があったりして。
出てくるのは、友情とか人の優しさとか、「良いものだ」
と大多数の人が言うような話ししかできないのでしょう。

小学5、6年生や中学生位の年代で、答えのでない問題を
けんけんがくがく意見を言い合う、というのはどうでしょう?
もちろん、論理的に意見をまとめられる、とか、質問されて、
感情的にならずに冷静に答えられる、そういうことを大切にしながら
意見交換ができたら、貴重な体験になると思うのですが。
喧々諤々(けんけんがくがく)
何故か変換できます。広辞苑にも載っているんですね。
きよまるさん、
僕は「望ましい受動的学習というのは、どんな形態」か
という観点で、あえて書きました。
 
ところで、2点きよまるさんの考えについて教えて下さい。
 > 日経の記事では、高校での導入に際してはやはり、「受験に役立つのか」
 > 「通常授業を増やすべきだ」という慎重・反対意見が出た、とあります。
この慎重・反対意見は誰から出されたんでしょうね?
そして、この意見についてきよまるさんは賛同されるの
でしょうか、それともこの意見に対しては批判したいと
いうお気持ちなのでしょうか?
 
もう一つお聞きしたいのは、最後に書いておられる
 > 小学5、6年生や中学生位の年代で、答えのでない問題を
 > けんけんがくがく意見を言い合う、というのはどうでしょう?
この提案は、いわゆる国語力と言われるものの中の、具
体的にはどの部分にどのように役立つと考えておられる
のかということです。
 
いかがでしょうか?
 
「けんけんがくがく」って何かひっかかる人がいるの?
と思って検索してみました。

Q、 先日のテレビ番組で、「(この問題をめぐって)ケンケンガクガクの議論になりました」という言い方を耳にしましたが、これは間違った言い方ではないでしょうか。
A、 [ケンケンガクガク]は、「喧喧囂囂[ケンケンゴーゴー]」と「侃侃諤諤[カンカンガクガク]」の混交表現です。誤りやすい慣用語句の1つです。
http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/kotoba_qq_05070101.html
なるほど。


>Hiroさん
>この慎重・反対意見は誰から出されたんでしょうね?
そして、この意見についてきよまるさんは賛同されるの
でしょうか、それともこの意見に対しては批判したいと
いうお気持ちなのでしょうか?

日本経済新聞 らいふプラス 2月25日
下記に記事全文がありました。
http://hanashowten.tumblr.com/post/3537660792/0226

私は、アクティブラーニングを導入することに賛成です。
取り仕切る教師の方は大変だとは思いますが。

記事は、国語の授業について、ということではありませんが、
国語の授業は、インプットに偏ってると考えている(>10に記載)ので、
アクティブラーニングは、アウトプット能力の強化方法として
有効なのではないかと思います。



>もう一つお聞きしたいのは、最後に書いておられる
 > 小学5、6年生や中学生位の年代で、答えのでない問題を
 > けんけんがくがく意見を言い合う、というのはどうでしょう?
この提案は、いわゆる国語力と言われるものの中の、具
体的にはどの部分にどのように役立つと考えておられる
のかということです。

「文字記憶」と「経験記憶」ということについてずっと考えて
いるのですが、大人と子どもでこういう違いがあるとすると、
これはいつ頃切り替わって行くのか?

様々な経験を積み、語彙が増え、言葉の意味を理解する能力が
高まってくるにつれて、切り替わっていくと考えのが腑に落ちます。

「好奇心」トピの方で
>54 グラスパンダさん
ちょうど良いあんばいというのが小学校4年生なのです。さて、小学校の5、6年生になってくると今度は考えることができるようになってきます。

とあります。

語彙が豊富になって、いろいろ難しい事も考えることができるように
なる年代。
その頃に、意味を説明することが難しい抽象的な言葉について、
いろいろと考えることは重要なのではないか?と考えたからです。

意味を説明することが難しい言葉について、家庭でうまく
話ができるだろうか?話す機会があるだろうか?
本をよく読み、自ら考えるような子は良いとして、難しいことを
あまり考えようともしない子は、考える機会に接することがなければ
その言葉をスルーしてしまうようになってしまうのではないか?
難しい言葉の意味は、大人がこうだ、と説明するよりも、
他の子どもが考えて理解した説明を聞く方が、ずっとしっくりくる、
あるいは聞く方もよく考えさせられるのではないか?

そんなことを考えると「国語力」を高める上で役立つと思えるの
ですが。
>149 再掲
ーーーーーー
進研ゼミ小学講座の宣伝パンフレットより引用

2011年度からの新学習指導要領でも重視される「伝える力」
しかし、多くのお子さまが「苦手意識」をもっています。

学年が上がるごとに増える作文への「抵抗感」。
「今」を逃さず、必要なのは「相手にわかりやすく伝える力」を
伸ばすことです。

「相手にわかりやすく伝える力」を構成する3つの力
発想力・・・書きたいことを思い浮かべ、連想の輪を広げたり、考えを深めたりする力
論理的思考力・・・伝えたいことを整理し、相手に伝わるように組み立てる力
表現力・・・相手に伝わるよう効果的な言葉を使って書き表す力

ーーーーーー

これは、小学4年生の国語の補助(オプション)教材、作文練習のための
教材の宣伝文句です。

「伝える力」に「苦手意識」をもっている。
学年が上がるごとに増える作文への「抵抗感」。

とあり、この点は現在も、自分が子どもの頃と変わっていないのか、と
思わされます。

なぜ苦手意識、抵抗感をもってしまうのでしょうか?


そこでまず、苦手意識をもつ要因として、
1、書くことが楽しくない
2、書くことが思いつかない
3、「読む」力に比べて「書く」力が劣ってるので、苦手に思う
という3点を考えました。
その要因を取り除く事ができれば、文章をどんどん書くことで、
効果的に「国語力」は高められる、と思うのです。

1、楽しくない、を取り除く
「国語力」と「考える」は関わりがあると思われるので、
「好奇心」や「考える楽しさ」トピは、いろいろ考えさせられました。
その楽しさを高める具体的な学習方法として「能動的授業」に
期待するものがあります。

2、思いつかない、を取り除く
パンフレット文のなかの言葉「発想力」。
ここに、苦手意識、の大きな原因があるのでは?
ということを、強く感じます。

発想力という力は、様々な方がこうやって力をつけるものだ、
と語っていますが、なかなか一筋縄でいくものではありませんね。
発想を強いられる、ということで、会社で日々苦痛に感じてる方も
多いように思いますし。
言葉を操ることが未熟であれば、発想を文章にすることは
さらに難しいことで、苦痛に違いありません。

私は、自由に発想しろ、というのが一番苦痛を与えるやり方だ、
と思います。
が、どういう発想の引き出し方が効果的でしょうか?

3、「書く」が劣っている、を取り除く
国語の教科書を見ると、小学校の低学年でもかなりの量の文章が
載っています。「読む」ことはどんどんやらされているんです。
そうやって「読む」文章に比べて、自分が書く文章は、ヘタクソ。
自分の書いた文章を読めば、自覚せざるを得ないでしょう。
自分の書いた文字が、うまくない、ということも感じることでしょう。

ヘタ、を感じさせないで文章を書かせる、そういうことは
できないでしょうか?


娘がやりたい、と言うので、この教材をやらせてみることにしました。
自分自身も、どういう内容なのか興味ありますし。
発想力ってどう高めるつもりなの?とか、
論理的思考力については?とか。
宣伝文句に対して、中身があるのかどうか、はよく見て
何か思うことがあればご報告します。
国語力(読解力)に関する質問内容だと思いましたので、ここに書き込みます。
また、Hiroさんの一週間前のTwitter書き込みに対する質問となりますが、申しわけございません。

>「テレビでニュースの解説をいくら聞いても、理解できないのが、何故韓国では小さな島のために
>歌まで作って小学校で歌わせているのかということ。ニュース番組を作っている人達には、
>その韓国の教育のわざとらしさについて、それは変だという気持ちはないのかなぁ?(08月29日)Hiroさんの Twitterから」

まず、私はこのテレビニュースを観ていません。それと「韓国の教育のわざとらしさ」とは、この場合は韓国の愛国心教育(領土問題)だと思いますが、これは視聴者側でも暗黙の了解(韓国は愛国心が強いんだよ と)として放送されたのだと思います。
Hiroさんは、日本のテレビ局が(わざわざ)このニュース(韓国の教育のわざとらしさ)を取り上げたという事が変だと言う意見なのでしょうか?それともその取り上げ方が、ニュース番組を作っている人達は変だという気持ちはなく淡々と普通に(これが韓国の教育の一面と)伝えたからからでしょうか?

モーニングバードという番組でレギュラーコメンテーターの宇治原氏が「韓国人は、竹島について子供から大人まで彼らなりの意見(歴史観)を言うが、日本国民の場合はそれがない。なぜなら日本では教育では余り取り上げてこなかったからだ。そこのところがとても問題だと思います。」類の意見を言っていました。たしかに、最近頻繁にニュースで取り上げるようになって、「竹島て日本の領土だったの?」と改めて思い出した若い人が多いのでは?(すっかり忘れてた〜〜〜)





さんちゃんさん、
僕がつぶやいた一件は、国語力(読解力)に関する話ではありません。
あえていうなら根本にあるのは政治の問題だと思います。
教育で取り上げるにしても、その時のポリシーが何もないのではどうしようもないでしょう。

新聞やテレビに対して言いたいのは、野次馬みたいな態度でおらずに、もう一歩踏み込んで分析した結果を知らせるべきだということでした。
 
Hiroさん
Hiroさんがつぶやいた一件は、国語力(読解力)に関する話ではありません。 しかしそのつぶやき文章を第三者が読み取るとなると、その第三者の国語力(読解力)の能力によるものではないでしょうか?
ここのコミュニティやトピックでは しばしばテレビや新聞、ウェブ上の文章を取りあげていますが、それを
様々な人が読み取り理解するとなると、各個人の国語力(読解力)の能力でしょう。

>教育で取り上げるにしても、その時のポリシーが何もないのではどうしようもないでしょう。
私は、Hiroさんのつぶやき文章が理解できなかった(何を仰りたいのか わからなかった)のでお聞きしたまでです。

今までのHiroさんコメントを読みますと、マスメディアの発する情報にはヤラセとは断定できないが情報の偏り、少々演出が入っている、というのは理解しています。そういった情報(文章)を正しく読み取り理解するという能力は国語力(読解力)の一部ではないでしょうか?そういった能力を身につけるというのは教育に関するのではないでしょうか?

某新聞では記事が大学入試センター試験に採用された、大学入試に採用されたと宣伝していますね。

実は、あのつぶやきの直後(8分後)に、こうつぶやいています。

→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
あ、文章が変やね。
「こんなことまでやっている」ということは思っているからニュースにしてるんやね。
そこから一歩踏み込んで取材して、何故そんなことを国家的にやっているのかという解説をしないといけないという気持ちがないのかなぁ?
←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←
 
Hiroさん
>279
理解できました。

私はTwitterには参加していないです。
私はミクシーのつぶやき欄を見ていたので、わかりませんでした。

ありがとうございました。

ログインすると、残り242件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

こどもの教育 更新情報

こどもの教育のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング