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こどもの教育コミュの 祖父母の知恵が「伝承の危機」、孫世代はネット重視

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イギリスでも同じなんですね。

祖父母の知恵が「伝承の危機」、孫世代はネット重視=英調査
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPTYE92001920130301

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[ロンドン 28日 ロイター] 英国で実施された調査では、孫に人生の知恵やアドバイスを与える祖父母の役割が、インターネット検索の普及によって「脅かされている」ことが分かった。

調査は洗剤会社ドクター・ベックマンの委託で行われたもので、祖父母約1500人からの回答を集計した。その結果、孫たちが何かを知りたい時、自分たちではなく、グーグルやユーチューブ、ウィキペディアに向かっていると答えた人は9割に上った。

孫世代は、卵のゆで方やシャツのアイロンがけの方法から、家族の歴史に関する情報まで、スマートフォンやパソコンを使って簡単に調べており、「祖父母たちはネット上の膨大な情報によって脇に追いやられていると感じている」という。

また、孫から「若いころはどんなだったか」と聞かれたことのある人は33%しかおらず、若者世代の多くは昔の生活についても、祖父母からではなくネットから情報を得ていることが分かった。

回答者の約3分の2は、現代社会では、祖父母の伝統的役割の重要性がますます低下していると感じているという。
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コメント(7)

今日、酸素の毒性について少し夫婦で会話していまして、
夫がWebで検索をかけたら、OKWaveの「酸素は毒?」という質問に行き当たりました。

どうやら質問者は学生で、授業で先生が「酸素は毒」というようなことを言っていたが本当か?というような疑問を投げかけています。

この質問を見て、数日前に読んだこちらのトピを思い出しました。
そして、いくつかの疑問がわきました。

なぜこの学生は、訊くべき人(授業を行った先生)に質問しないのか。
なぜ安易に掲示板に頼るのか。
なぜ自分で調べようとしないのか。


私は、コミュニケーション能力が低下しているのではないかと考えました。
他のトピの「質問力」にも関係してくるかもしれません。

また、少し飛躍しますが、自己肯定感が低いのかもしれないとも考えました。
先生に直接質問をして、怒られたり、馬鹿にされたり、呆れられたり、
マイナスの評価をされたくないという想いから、
先生へ直接質問することを避けてしまっているのかもしれません。

もしくは、一つの質問から他の話題へと派生したりすることが煩わしい、
という人もいるかもしれません。
ネットだと、自分の都合に合わせて時間が取れるときに見ればいいですが、
直接聞きに行くとなると、その時その時間に拘束されてしまいます。

あれこれ考えても、本人直接聞けるわけでもないのでわかりませんが、
訊くべき対象が身近にいるにも関わらず、「あえてネット」という時代なのだと思いました。

別の視点で、むしろネットに肯定的な方面からコメントしてみます。

「訊くべき人」とは果たして「教師や家族」なのか?と。

教師や家族といった身近な人では偏ったコメントになりやすいし、絶対数が少なすぎる。

先生が正しいことを言ってくれる保証などどこにもないし、特に小中くらいの先生だと、先生自身が間違って覚えている話を伝えてきたりする場合も多々あります。
(学生時代によくできた生徒は先生にならないことが多く、いわゆる先生をやってる人の方が理解度が低いことも多い、という話もあるし。)

セカンドオピニオンではないけれど、最初から複数の意見を調べて自分で取捨選択する、という意味では、「まずは身近な人に訊く」という行為は必ずしも褒められた姿勢ではないのではないか?とも思うのです。

直接話すという行為は、ネット以上にその訊く相手の影響を受けやすくなります。

間違った内容でも言いくるめられてしまう危険性はネット以上に高いと危惧します。

家族の系譜などプライベートな情報はさすがにネットで調べ切れるのか?と思うけれど、それ以外の一般的な情報であれば、身近な人にまず訊く、という行為に優位性があるのか疑問です。

むしろ、最初はネットなりで複数の意見を聞いて自分なりに情報を整理した上で、それで合っているのかどうかを身近な人に聞く、という流れの方が良いのではないかなと。

つまり身近な人に聞くのは最終的な確認段階であって、いきなり最初に身近な人に聞くのはむしろ危ないのではないかと思うのですが、どうでしょう?
そもそも「ネットで調べること」と「自分で調べること」とは別、と言うこと自体にも違和感があります。

それに、情報に誤りがあっても誰からも訂正されない本なんかより(改訂版が出てもそれを新たに入手しない限りは、手持ちの本の内容は訂正されません。)、内容が間違っていれば誰かに訂正されるネットの方が、情報の更新による精度向上も見込めるのではないか?とも思いますし。

今どきの子の感覚的には、昔の人が周りの人や本から情報を得ていたその代わりの手法としてネットを使っている、という感じではないのかなと。

ネットの場合、質問を投げかけたとしても、それに答えたい人が勝手に答えるわけだから、「よく調べもしないで人に聞いて、相手の時間を浪費させるのは失礼」という概念も当てはまらないと思いますしね。

答える側が好きで自分の時間を使っているだけだから。

答えるのが嫌なら無視すればいい。
選択権は答える側にあるのだから。

そういう意味では、いわゆるリアルな世界の感覚でネット世界を見る人の方が、いまの世の中に適応できていないだけなんじゃないか?とも思えるのです。
>>[2]さん

ご意見、大変興味深く読ませていただきました。
私も同意できる部分がたくさんあります。

ただ、私の固定概念と言われればそれまでですが、
教育や文化というのはある種の洗脳であると思っています。
その良し悪しは別で論じていただくとして、そのような側面があると思うのです。

>先生が正しいことを言ってくれる保証などどこにもないし、

そうですね。
そして、ネットの中でも正しいことを教えてくれる保証もどこにもありません。
そもそも、絶対的に正しいことというものがあるのかどうか・・・。

地動説の時代は、それが正しいとして地動説を語っていたのですよね。

>特に小中くらいの先生だと、先生自身が間違って覚えている話を伝えてきたりする場合も多々あります。

それは本当に多分にありますね。
私も、教師や親から教えてもらったものが違っていたということに、
たくさん出会いました。
でも、それはそれでいいと思うのです。
「信じていたものが違った」という経験も大切ではないかと考えるのです。

はじめからたくさんの情報からの取捨選択を行い、
現時点での限りなく真実に近い回答を模索するということは、
もしかしたらこの情報社会の中では今後必須のスキルになってくるのかもしれません。
でも、私は、少なくとも義務教育課程ではそこまでの必要はないのではないかと思うのです。

学びたい事柄において、師と仰げる対象の影響を十分に受けて、
偏った知識や技能を身につけることが、教育ではないかと考えています。

守破離の、守の部分ととらえているのです。

一度学んでその後、発展の途上で、情報の取捨選択や、
一度身につけた知識や技能を顧みたりなどをすればよいのではないでしょうか。

>つまり身近な人に聞くのは最終的な確認段階であって、いきなり最初に身近な人に聞くのはむしろ危ないのではないかと思うのですが、どうでしょう?

そうなんですよね。
確かに危ないんです。
要するにやはりマインドコントロールですから、隣国の反日感情のようなこともできてしまうわけです。

だけど、学生の内から師に畏怖と尊敬を抱けないというなら、
その師の教えを乞う必要があるのでしょうか?

ネットで事足りるのなら、学びは不要ではないかとも、私には思えてしまいます。
>>[3]さん

>そもそも「ネットで調べること」と「自分で調べること」とは別、と言うこと自体にも違和感があります。

少し誤解があるようなので訂正させていただきます。
私は、「ネットで調べること」は自分で調べることではないとは思っていません。

この例の学生の質問が、かなり丸投げだったので、
掲示板で訊かなくても、掲示板で今回答えてくれた程度のことは
自力でネットで調べられるだろうに、と感じたのです。


>答える側が好きで自分の時間を使っているだけだから。

この感覚が怖いと思うのです。
確かに好きで自分の時間を使っているだけかもしれませんが、
答えてくれている相手は、自分の時間を削って、自分の知識を教えてくれています。

私は、そこに感謝はするべきだと思うのです。

直面していると、質問後、「ありがとうございました」をいう学生は多いと思います。
でも、ネットだと、お礼の言葉もないケースを見ます。
例の学生も、複数の人に答えてもらっているにもかかわらず、
誰にもお礼のレスをしていません。

>そういう意味では、いわゆるリアルな世界の感覚でネット世界を見る人の方が、
>いまの世の中に適応できていないだけなんじゃないか?とも思えるのです。

なるほど。
そういう意味では、私は不適合者でしょう。

でも、にゃーさんさんが私の投稿に反応してくださって、
私はとてもうれしかったです。
ご意見も、一つ一つなるほどと思いました。
ありがとうございます。

ネットの中にリアルの礼節を求める私はウザい奴なのかもしれませんね(笑)

自分がやった側なら「やりたいからやっただけだよ」というのは好きですが、
やってもらった側で「やりたいからやったんでしょ」というのは、
やっぱり受け入れがたいです。
>>[004]

そもそも、何かを身につけるときに「師と仰げる人」の存在や「畏怖や尊敬の念」が必要なのでしょうか?

自分は、教育の基本は「見守ること」であって「教えること」ではない、と思っています。

大人たちや友だちの立ち居振る舞いを見たり、自分で色々考えたりして、子ども自身が勝手に吸収・開花するのを待つ、というか。

明らかに変な方向に向かっているのでなければ、下手に「教えよう」とするとかえって歪みを生じるんじゃないかなぁと。


「守破離」については、「守」が不要な場合もあるわけで、個人的にはこの概念を前面に出すのはどうかな、とは思います。

「まずは習わないと始まらない」みたいな感じがして、「習わなくても編み出せる場合」の存在を忘れていないか?と。

所詮、人がやることなんだから、習わなくたって既存のものと同じようなものを獲得してしまう子もいるだろうし、最初の着想から既存の概念とは違う視点で始める子もいるだろうし。

文化や伝統なんて、あぶくのようなもの。

常にその姿を変えながら、生まれては消え、消えては生まれる。

1つの文化や伝統が廃れても、全く同じではないにしても、似たようなもの、実用上は支障がないものがまた生まれてくる。

仮に生まれてこなかったとしても、それはそれで、それがないものとしての文化が構築される。

そういう流れの中で、ある1つの文化や伝統を守ることには、それほど価値はないと思っています。

「守破離」は、物事を身につける上での色んな手法のうちの1つに過ぎません。

場面場面に応じて子ども自身がそうすべきと思えば守破離の手法を使えばいいし、不要だと思えば別のやり方をすればいい。

何かを身につける上で、師が必要だと思えば師を探せばいいし、不要だと思えば自分で編み出せばいい。

また、師と言っても、リアル世界の師である必要もなく、ネット世界での回答で事足りるなら、それはそれで構わないと思います。

その人にとって、その内容に関してはリアル世界の師は不要だった、ということで。

何かを先人たちから学ぶにしても、その先人たちがリアルタイムで生きている必要はないわけだから、同じように考えれば、何かを尋ねる相手がリアル世界での師である必要もない、と思うのです。
ネットでの質問のしかた、ということで言えば、「丸投げな質問」でも構わないと自分は思っています。

質問を広く発信し、それに対して返事をしたい人が返事をする、というこの構図は、ネットの検索と全く同じです。

つまり、検索ワードを入力することでネットの世界に広く発信し、それに対して検索にヒットするような形で情報発信しているサイトが引っかかる、という構図。

検索ワードや質問文があいまいだと、雑多な情報が混じるところも同じ。

そう考えれば、掲示板で丸投げな質問をするのも、検索エンジンを使って検索するのも、何も変わりはしないと思うのです。

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