ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

こどもの教育コミュの適応力こそがこれからの時代を生きていくために一番大事な力 (最も強い種族が生き残るわけではない)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
MITメディアラボの石井裕さんが、日経のインタビューの最後で「若い読者に向けてメッセージをお願いします」と振られて、こう言われていました。

→→→→→→→→→→→→→→
 20代、30代の方は、私より20年、30年長く生きられるわけで、ぜひそのことの大切さを意識してください。そして、感性が豊かで知的吸収力が最も高い時に異文化に飛び込んで、知的な刺激を自分に与え、新しい環境に適応する力を鍛えてください。
 「進化論」のチャールズ・ダーウィンはこう言っています。「最も強い種族が生き残るわけではない。最も知能が高い種族が生き残るわけでもない。変化に対応できる種族が生き残るのだ」と。適応力こそがこれからの時代を生きていくために一番大事な力です。
←←←←←←←←←←←←←←

確かに、これ、今の若者が気付かなければならないことだと思います。

出典: http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0700O_X00C13A1000000/


------------------- 
このトピックを作成した当初は、
 最も強い種族が生き残るわけではない
をタイトルとしていましたが、それではまずいような気がして来ましたので、石井さんが問われたときの、本来の「若い読者に向けてメッセージ」としての結論であるところの
 適応力こそがこれからの時代を生きていくために一番大事な力
を頭に持って来るように修正しました。

また、引用部分も、当初は後半の三行だけだったのですが、その前にあった三行も一緒に引用するようにしました。

ちなみに、石井祐さんは、1995年にNTTの研究所から米国のMITのメディアラボに移籍し、現在までそのメディアラボの主要なポストで活躍している人です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E8%A3%95_%28%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%80%85%29

2013.2.28
Hiro


コメント(48)

私はむしろ、ダーウィンがいう「知能」って何だろう?と疑問に思います。

「変化に対応する能力」というのは「知能」の中かでも相当大きなウエイトを占めると漠然と考えていたものですから。

Hiroさんが8番で引用された小泉氏の所信表明で言えば、「変化に対応できない」ものを「頭がいい」といっていいのかという疑問です。

私の「知能」「頭がいい」という言葉に関するイメージは間違っていたり、特殊だったりするのでしょうか。
>>[10]

ダーウィンがいう「知能」とは何かという話になると、
そもそもダーウィンは「知能」について何か言ったこと
があるのか、あるとしたら、どう言っていたのかという
ところに戻る必要がありますので、ちょっと脇に置いて
置いて、まず、石井裕さんの話の流れの中に限定して、
僕の感じていることを言うと、

  (人間の社会においては)
  単に強いだけでもダメ
  単に知能が高いだけでもダメ
  変化に対応できる能力のあるものが生き残る

ということを、ダーウィンが言ったとされている言葉を
借用しつつ、石井さんは言いたかったのだと思います。
 
また、「最も知能が高い種族が生き残るわけでもない」
や「最も強い種族が生き残るわけではない」という言い
回しの中には、

  力や知能が少しくらい低くても構わない

という意味も含めようとされているようにも感じていま
すが、どうでしょうか。
 
ダーウィンが言いたかったことも石井氏が言いたかったことも、否定しようというわけではありません。

殊、「このトピック」で「知能」などの言葉が記憶力や推理力、知識量などの限定的なイメージで使われることに抵抗感を感じる・・・・というだけなのです。

ダーウィンが言いたかったのも、自然界で種が生き残るために必要なのは環境に適応する力だという当たり前のことですし、石井氏が言うのも人が個を確立するための能力は多様に考えられ、そのひとつが適応力だというのも新味が感じられない当然のことと思います。

ただ、
「受験のために、沢山覚えたら勝ち、というような教育は、もうやめて、子ども時代、保育園、幼稚園、小学校とか中学校の時期に「考える楽しさ」を、もっともっと体験させるような教育をしたらいいのになぁ」
と願う我々が「知能」という言葉を使うときには、もっと豊かな・・・というか幅広い能力をイメージしていきたいという願望を述べさせていただきました。
>>[12]

> 「知能」などの言葉が記憶力や推理力、知識量などの限定的なイメージで使われることに抵抗感を感じる・・・・というだけなのです。

そういうことでしたか。
大変失礼しました。

石井さんは決して知能を「記憶力や推理力、知識量などの限定的なイメージで」考えるようなひとではありませんが、引用の仕方が悪かったと思います。
申し訳ありません。

[8]は、ダーウィンが言ったとされている言葉は、それを示すものが実はどこにもないということを調べている人がいたので紹介させて頂いたものです。
「小泉氏の所信表明」ということに関しては、私は興味を持っていませんし、そこを読んでもらいたくて紹介した訳でもありません。

> 石井氏が言うのも人が個を確立するための能力は多様に考えられ、
> そのひとつが適応力だというのも新味が感じられない当然のこと
> と思います。

仰る通りだと思います。
その「新味が感じられない当然のこと」をちゃんと若者に知らしめることを疎かにするような「受験のために、沢山覚えたら勝ち、というような教育」になってしまっていると石井さんも感じておられるからこそ、「若い読者に向けてメッセージをお願いします」と振られての発言で、このことを言われたのではないかと僕は思いました。


それと、のほほんおやじさんの御意見を拝見していて、
  知能とは何か
そして
  生き残るために必要な知能とは何か
  そういうものが存在するのか
  本能と知能の区別は可能であるのか
というような議論もしてみるのがいいのかも知れないとも思いました。
 
のほほんおやじさんは、若者から「知能とは何か?」と問われたら、どのようにお答えになりますでしょうか?
 
>のほほんおやじさんは、若者から「知能とは何か?」と問われたら、どのようにお答え
>になりますでしょうか?

あくまでも、イメージというか個人的な願望で語ってきましたので、面と向かって問われるとしどろもどろになるのですが・・・

泥縄でググッてみるとわかりやすいサイトがありました。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/basic/clinical006.html

ここでの定義を借りてお答えすれば・・・

「変動する環境や所与の課題にその場その場で対応して問題解決するフローとしての知能」も知能の重要な側面なんだね

とか、

「ダイナミック(動的)な環境と個体の調整機能」つまり、生きていくための頭の働きのすべてが知能なんだね

ということになりますか。


いずれにしろ、大切なのは言葉の定義ではなく、我々が「子供を賢く育てたい」と願うときに、どんな力をつけてやるかなのですが、「適応力」は欠かせない一側面であり、今後もその重要性は増していくものと思います。
>>[14]

> いずれにしろ、大切なのは言葉の定義ではなく、

そうですね。
言葉の定義を云々しても、ただ言葉をもてあそんでいるだけになると思います。

のほほんおやじさん のおかげで、「知能とは何か?」と問われたときに、きちんと対応して若者と意見の交換ができるように、我々自身の考え方を普段から整理しておく必要があるということを強く再認識することができました。
ありがとうございました。
 
ところで、石井さんが冒頭ではこんな話をされています。

「日本の若者には何が足りないのでしょう?」
という問いかけに対する答としてですが。

→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
 足りないのではなく、満ち足りているのだと思います。日本にいればどうにか生活できるし、平和で安全。しかも母国語が使える。しんどい思いをして外国語を学ぶ理由がない。足りすぎて飢餓感を覚える要因がないことが、世界に打って出ようという気持ちを持ちにくくさせているのではないかと思います。

 自分のいる環境に不満を持っていて、何とか這い上がろうとしている人たちのハングリー精神はすさまじい。アジアに限らず、どの国もそうです。もちろん、日本にも世界を目指すチャレンジャーはたくさんいます。ただ、相対的に日本人の影が薄い背景の1つには、「豊かすぎる」という要因があると感じます。
←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←
 
石井さんが最初に強く主張されたのは「ハングリー精神」ですね。

そしてこのインタビューの最後に「若い読者に向けてメッセージをお願いします」と振られたときに、(今の日本の教育で欠けているものという気持ちからだと僕は思うのですが)「適応力」という言葉を口にされたのだろうと僕は思っています。
 
そして、それは
  受験のために、沢山覚えたら勝ち、というような教育は、もうやめて、
  子ども時代、保育園、幼稚園、小学校とか中学校の時期に「考える楽し
  さ」を、もっともっと体験させるような教育をしたらいいのになぁ
という気持ちとも相通じるものだと思ったのです。
 
のほほんおやじさん、こういう考え方は、うまく伝わりませんでしたでしょうか?
あるいは、こういう僕の考え方には納得して貰えないでしょうか?
 
>4 Hiroさん
変化するための動機付けをする、あるいは意志を持つためには、
「馴れ合いを無くすことではないかと思う」
ということですが、

馴れ合い=ひそかに通じ合い、ぐるになって事を運ぶこと。
goo国語辞書より

とあってちょっと意味がわかりません。

甘えを無くす、とかそういう意味でしょうか?


また、馴れ合いが原因ということであれば、馴れ合いを無くすには、
どうすればいいか?
ということをお伺いしたいのですが。

私が>3でイメージしてるのは、一般的、全般的な人ではなく、
引きこもってしまいやすかったり、自分をあきらめてしまったり、
成長すること、変化することに無関心だったりする人への
対処療法的な事柄ではありますが。


全般的な話をしますと、穏やかで冒険を避ける、とかハングリー精神がない、
ということが必ずしも悪いことばかりではない、と思っているのですが。
>16 Hiro さん

100パーセント賛同しますと言えるほどよく読んだわけではないですが、「知能」という言葉の使い方以外は特に気になる点はありませんでした。
というか、最初にHiroさんが引用したのが件のフレーズでなかったら、「うんうん、そうだよねえ」で終わっていたと思います。
おかげさまで、私も漠然と感じていただけのものを少しだけ、すっきりさせることができました。

16で引用された部分についてですが、昔よく使った「中流意識」なんて言葉を思い出しました。
「悪しき平等主義」とか、過去の教育によるところも少なくないとも思います。

きよまるさんが仰るように、決して悪いことばかりではないと思いますが、夢が持てないまま当たり障りない生き方を志向する子どもたちを見ると、「何とかしなくては」という気にもなります。

その答えとして文部科学省が用意したもののひとつが「キャリア教育」だと理解していますが、
ただ、これも「言うは易し行うは難し」で・・・悪戦苦闘中です。
個人的には、「ハングリー精神」って、成長の原動力であると同時に争いの種でもあると思うのです。

欲深さが前面に出ているというか。

行き着く先は侵略戦争か、とか思ってしまいます冷や汗

「ハングリー精神がない」とか「向上心を持て」とかっていう言葉自体も、「才能がある人は努力しなければならない」というのに近い、押し付けがましい雰囲気を感じて、あんまり好きにはなれない言葉。

そんなもの、やりたい人がやりたいときにやりたいようにやればいい、と思うのでしたダッシュ(走り出す様)

「ハングリー精神」とか「向上心」とか言う人って、右肩上がりが正義みたいな世の中に毒されているんじゃないかとすら思うこともありますし。
>>[17]

ご指摘ありがとうございます。
確かに馴れ合いというのは、言葉がまずかったと思います。
自分が言いたかったこととはちょっとニュアンスが違います。

赤信号みんなで渡れば怖くない
いや、これもちょっと違いますね。

周りを見回して、みんなと同じくらいで、それが一番いいというような考え方。
そのときに、もっと違うところを目指したらもっといいのではないかと考えようとしない。
そんか感じのことを言いたかったのでした。
 
>>[19]さん

成長の原動力であるであろう「ハングリー精神」をなくせば、
争いの種がなくなるのかと言えば、そうでもないでしょう。
 
角を矯めて牛を殺す
ということわざを思い出します。

今の日本は、そんな状況が続いているような気がするのです
が、皆さんはいかが思われますでしょうか?
 
>>[021]

身の程を知れ

という言葉もあります。


常に成長し続けなければならないとか、現状に満足してはいけないとか、そういうことを強要する意味での「向上心」や「ハングリー精神」という言葉は危うい、と思っています。

何事にもリソースの限界というものがあります。

いつまで経っても現状に満足できない人というのは、自分に割り当てられたリソースを食いつぶしても満足できず、「発展するため」と言って他人のリソースまでもを追い求め始めます。

それが争いの種だと言っているのです。

みんながみんな、今以上のものを追い求めたら、リソースが足りなくなるのは明らかでしょう。


満足できる人は満足すればいい。

そうでないと世の中は回らない、と思うのです。
少し補足。。

「変化に対する適応力」というのは、何も「常に自らを能動的に変化させつづける力」だけではない、と思うのです。

「受動的に、周りの変化を受け入れ高望みをしない」ということだって、立派な「適応力」だと思う、ということです。

「ないならないなりに何とかなるものだ」というか。
>>[22]さん

念の為にお聞きしてよろしいでしょうか?

今の日本には、
  > いつまで経っても現状に満足できない人というのは、自分に割り
  > 当てられたリソースを食いつぶしても満足できず、「発展するた
  > め」と言って他人のリソースまでもを追い求め始めます。
というような人の割合が高くなっていて「争いの種」ばかりが増えているから、そのような状況においてハングリー精神を論じることは危ないと主張しようとされているのでしょうか?
 
>>[024]

いまの日本において、というよりも、いつの時代のどこにおいても、その時々・その場所場所に合った形で、ハングリー精神を持つ人と持たない人の両方がいて初めて世の中がうまくいくんじゃないか、と言いたいのです。

みんながみんなハングリー精神を求める・求めさせる社会は異常で不健全だと思う、ということです。

いまの日本について言えば、ハングリー精神を持たなくても生きていけるなら、現状に満足する人が増えても構わないと思うし、不自由していた時代と同じだけのハングリー精神を持ち続けるのは危険だ、とも思うのです。

ハングリー精神なしでも生きていける社会なら、それ以上のものを追い求めるということは、つまり必要以上のものを求めすぎているのではないか、ということ。

それを自分は「欲深さ」と表現しました。


もっと言えば、仮にハングリー精神を持たないことで今より日本の国力が低下したり、日本国というもの自体が解体しても、それはそれで構わないんじゃないかなとも思っています。

今の国力は、この狭く資源もない国土に対して、かなり無理をして維持しているんじゃないかと。

その状態では、ハングリー精神とか言う前に、それを受けきれる自分なのかを自問する方が先なんじゃないかと思うのです。
>>[25]さん

> ハングリー精神を持つ人と持たない人の両方がいて初めて
> 世の中がうまくいくんじゃないか、と言いたいのです。

了解しました。
そういう御意見でしたら、全面的に賛成です。
世界中探しても、ハングリー精神を持つ人ばかりの国はないと思います。

昨今の日本では、その「両方がいて初めて」というところのバランスが崩れてしまっていないかということが、最初からこのトピックの話題だったと思います。
 
また、
 > もっと言えば、仮にハングリー精神を持たないことで今より
 > 日本の国力が低下したり、日本国というもの自体が解体して
 > も、それはそれで構わないんじゃないかなとも思っています。
と、そこまで言ってしまうことには、僕は到底賛成することはできません。

これは、さきににゃーさんさんが書かれた「ハングリー精神を持つ人と持たない人の両方がいて」というところのバランスについては、日本という国を無くして全国民が別の国に国民として受け入れてもらう、あるいは他の国の属国になってしまうことでカバーしようというような考え方なのではありませんか。
 
今、ふと気がつきました。
もしかしたら、戦後の日本の教育では「種族が生き残る」という考えに違和感を持つようにしすぎてきたのかも知れませんね。
 
>>[026]


>昨今の日本では、その「両方がいて初めて」というところのバランスが崩れてしまっていないか

これに自分は違和感を覚えるわけです。

「昔と今とでは両者のバランス関係が変化していて当たり前で、昔と比較してのバランスなら、それが崩れないのはむしろ異常。」だと思うのです。

「バランスが崩れている」という人たちにとって、「適切なバランス」とはどういうものを想定しているのか?

いまのバランス関係は、いまの世の中にとって自然なバランスではないのか?

「ハングリー精神が足りない」とか言う人たちが想定する世の中自体が、既に今の時代には合っていない旧時代の社会なのではないか?


日本が日本であり続ける必要はないというコメントに関しては、以下の2つの話を合わせたようなイメージかも。


最近どこかで見かけたのですが、そこで紹介されていた1つの寓話。
そのページをもう一度は探せなかったので詳細は書けませんが、あらすじは以下のようなもの。


1000年に一度だけやってくる神様が地球にやってきて、
「みんなの願いを1つだけ叶えよう。期日までに各自願いを決めなさい。その中でいちばん多かった願いを叶えよう。」
と言う。

それを聞いた世界各国の首脳たちが集まって国際会議を開くが、各国ともそれぞれの国益を主張し調整は難航。

期日がやってきて、争いを避けるために人類が出した答えは「わたしたちの希望は特にありません。」

話を聞いた神様は、「なるほど。それでは、みなの希望である【人類の消滅】を叶えよう。」と言った。

…人類は、神様は自分たち人間に聞いていると思っていたが、神様が聞いた対象は地球上の生き物すべてであった。

そして、人類以外の種にとっていちばん忌むべき存在は、我が物顔でみんなの生活を脅かし続ける人類という種であった、という話。


これは、自分は「身の程を知れ」という話だと思って読みました。


(つづく)
(28のつづき)

もう1つは、先ほど上記の話を再度検索していて見つけた話。
↓
http://www.google.com/gwt/x?gl=JP&hl=ja-JP&u=http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/&client=ms-kddi-gws-jp&source=sg&q=%E7%AB%A5%E8%A9%B1+%E7%A5%9E+%E4%BA%BA%E9%A1%9E+%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AE%E9%A1%98%E3%81%84

「リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)」
というタイトルのページで、ウルグアイのムヒカ大統領がリオ会議で行ったというスピーチです。

自分の言いたいことは、この意見にだいぶ近いと思います。


長いので、何回かに分けてコピーします。
(ムヒカ大統領の発言1)
↓
会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
(ムヒカ大統領の発言2)
↓
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
(ムヒカ大統領の発言3)
↓
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:

これが人類の運命なのか?

私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:

発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

(以上、引用おわり。)
>>[31]さん

ムヒカ大統領のスピーチの引用、ありがとうございます。
大変興味深く拝読いたしました。

日頃から疑問に感じている何かが姿を見せ、胸のすく思いです。


>私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。

この部分に大変共感します。


すでに意見されている方々のように大局的な意見は言えませんが、
なんだか最近は、「自分が幸せかどうか」より、
「他人から見て幸せかどうか」を基準に生きがちではないかと思うのです。
少なくとも、私を含め、私の周りではそのような傾向にあると感じます。

その為、物質的な豊かさの尺度は、自分自身でも、
他人や自分の幸せを測るバロメーターとしてわかりやすく、
安易に流されてしまっているのではないかと考えます。

その結果、深く考えないから、リソースを食いつぶしていることに気づかないふりをしてしまう。
きっと私たちは、薄々は本能的には危機感を感じているのだと思うのです。
でも、深く考えることを放棄してしまっているのかもしれません。

原子炉の使用済み燃料の問題や、
中国の大気汚染問題などを見ても、
「吾唯足知」という精神が必要なのではないかと感じます。

これは自分自身への戒めも含めて、そう思います。

>>[033]

なるほど。

自分の言いたいことは、「身の程を知れ」という言葉よりは「吾唯足知」という言葉の方が直接的な表現かも知れませんね電球


自らの限界を知り、その中で生きること。

限界を知ったとしても、その限度いっぱいまで到達する必要はなく、満足できるなら途中で止めたって構わないこと。


人類は地球上の生物の中の1つでしかない。

日本という国も、世界中にある国の中の1つでしかない。

そんな一部の者の今の生活スタイルを維持するために、それ以外の者に犠牲を強いることは不当だと思います。

今の生活スタイルを見直したとき、結果として日本の国力が低下したり日本という国そのものが解体されたりするかもしれない。

日本だけじゃあない。

人類全体としても、いまの人口規模を維持できないかもしれない。

だけど、それによって消費と発展一辺倒な社会から解放され、必要なものが必要なだけあれば満足できる世の中になるのであれば、それはそれで構わないと思うのです。


自分はこういう考え方なので、「自分たちの種を守る」だとか「日本という国を存続させる」だとか、そういうところにはそれほど価値を見出してはいませんし、そういうところを前提に話す人たちは危うい、と思っています。
少子化は日本にとっては望ましく無いが、人類にとっては望ましいことかもしれないので、放置してよいのでは?ということですね。
ある程度の文化水準がないと、一般論は言えない問題ですね。
北朝鮮の国民の9割が避妊方法を知らなかったりします。(避妊具など国家秘密レベルです)
しかし陰暦などを駆使して占いで妊娠する術を持つ民族が多くいます。
産んでも餓死したり、産まれる覚悟で自給自足したりと様々です。
日本で言えば、コントロールできる技術をどうするか、というのが一番大きいのではないのでしょうか。
まぁ、産むか産まないかの選択ができない人類の方が多くて、其れ故死んでしまう命もあるという事で、
結局子供が増えているのが現実。
ただ、欲しくても命を育めない人間にとっては酷な課題ですね。
「生き残る」とか「適応力」といったことは、一般論で話をしてしまうと
より強い集団に属すべし、とか、種としては多様性があった方がいいだろう、
とか、あるいは政治的な話になったり、まあこのコミュの趣旨からは
離れていってしまいますね。

私は、みんなと同じ、とか、当たり障りない、とかを志向しようが、
それぞれ自由でいいんじゃないか、と思うのですが。

ただその、当たり障りない、ということが、問題に気づいていながら
見ない振りをする、あるいは、日々悶々としたままでいる、
ということだとしたら、どうなんでしょう。
(実際は、そういう人が多いんじゃないか、と思うのですが)


こういう成功者の話というのは数多あって、向上心の強い人には
多いに刺激になるのでしょうし、教育の現場でこのような方のお話が
聞けたらいいんじゃないか、とも思います。

ですが、その時には、よし!と奮い立たされても
実際にはすぐに意気消沈してしまう人が多い気がしますし、
そういう話に背を向ける生徒、学生もいるでしょう。

追い立てられることが苦痛とか、つまり教育の場で疲弊して
社会人になっても意欲が持てなかったり、問題を見ないふりして
当たり障りなく過ごそうとする人たちは、多いんじゃないでしょうか。

そんな人たちでも、より成長するための、成長するというか、
自身が良いと考える方向に進んでいけるための力、
それを「適応力」(適応力ではおかしい?)とするなら、
どうやったら身につけられるだろう、と考えているのです。

特に身につけよう、とするきっかけが難しいかな、と。
>>[37]

> 追い立てられることが苦痛とか、つまり教育の場で疲弊して
> 社会人になっても意欲が持てなかったり、問題を見ないふりして
> 当たり障りなく過ごそうとする人たちは、多いんじゃないでしょうか。
>
> そんな人たちでも、より成長するための、成長するというか、
> 自身が良いと考える方向に進んでいけるための力、
> それを「適応力」(適応力ではおかしい?)とするなら、
> どうやったら身につけられるだろう、と考えているのです。
>
> 特に身につけよう、とするきっかけが難しいかな、と。

追い立てるようなやり方をしてみても「適応力」が付く筈が無い。
それじゃぁどうするのがいいのかということですね。
 
ゆっくり見守って上げるというのは基本だと思います。
そして、その人にあった成長の仕方を、決して邪魔をしないことという感じでしょうか。
 
ムヒカ大統領の発言は、日本では大きく採りあげられ、ネットを中心に賛同や感動の声が多く上がったけれど、欧米諸国ではどうだったんだろうと、ちょっと疑問に感じました。

>質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てば
>この惑星はどうなるのでしょうか。
>
>息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。

これなんですけど、よく考えてみれば「ちょっと計算してみればすぐに答えが出る問題」です。

昨年BPが発表したデータによれば、各国の二酸化炭素排出量は、1位中国89億トン、2位米国60億トン、3位インド18億トン、4位ロシア17億トン、5位日本13億トン、6位ドイツ8億400万トンだそうです。

またドイツの二酸化炭素排出量の12%を自動車(自家用以外も含む)が排出しているそうですから、8億400万×12%=9648万トンが「ドイツの自動車のCO2排出量」です。
インドの人口は12億692万人、ドイツの人口は8178万人ですから、ドイツが持っている全ての車と対人口比率で同じ台数の車をインドが持った場合、インドの車から出るCO2量は、9648万×120698÷8178=14億2393万トンになります。

仮に今現在インドが「全く車を持っていない」として、その状態からインドのCO2排出量が14億2393万トン増加したとしても、1位中国の89億トン、2位米国の60億トンには遠く及ばないのです。

「息をする酸素が残らない」などという状況には、ほど遠いと言えるのではないでしょうか。

「人口1人当たりのCO2排出量」は、中国4.9トン、米国18.6トン、インド1.3トン、ロシア11.4トン、日本9.3トン、ドイツ9.4トンで、人口1人当たりの排出量はアメリカがダントツの1位です。

それなのになぜ、ムヒカ大統領はわざわざドイツとインドを引き合いに出し、「インド人がドイツ人と同じくらい車を持てば、地球上から息をするための酸素もなくなるのでは?」などと、ありもしない話をでっち上げたのでしょう?

私は、ムヒカ大統領が本当に非難したかったのは、京都議定書を批准せず「繁栄のために地球環境を汚染し続けるアメリカ」だったのではないかと推測しています。
これは、2004年成立のバスケス政権以降、ウルグアイ政権が中道左派の立場を採り、アメリカと事を構えない姿勢を取っているから、アメリカをあまり刺激したくなかったからではないかと推測されます。
http://www.f.waseda.jp/yamasaki/ronbun/antiamericanism.doc

つまり、多分に「政治的発言」なのではないでしょうか。
「人類愛を訴える感動的な演説」などではなく。^_^;

私が不思議なのは、ちょっとしたことでも「そんなトンデモ発言を真に受けるとは、情報リテラシーが足りないネット弱者だ」と非難したがるネット住民達が、このムヒカ大統領の演説に対しては無批判に賛同、支持したのかということです。

ちなみに、ウルグアイは畜産国ですから当然肉食が盛んですが、こういう意見もあります。(笑)
「肉食は自動車よりも二酸化炭素を排出する」(世界自然保護基金による研究結果)
http://wired.jp/2012/12/11/meat_co2/
リオ会議について、ちょっと調べてみました。

→→→→→→→→→→→→→→
国連持続可能な開発会議(リオ+20)(2012年6月20日〜22日,ブラジル(リオデジャネイロ))

 2012年6月20日(水曜日)〜22日(金曜日)までの3日間,リオデジャネイロ(ブラジル)において,「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」が開催されました。

 リオ+20は,ブラジル政府が,1992年の「国連環境開発会議(地球サミット)」(「環境と開発に関するリオ宣言」やそれを具体化するための「アジェンダ21」が採択されたほか,気候変動枠組条約や生物多様性条約が署名されるなど,今日に至る地球環境の保護や持続可能な開発の考え方に大きな影響を与えた。)から20周年を迎える機会に,同会議のフォローアップ会合を行うことを提案したことを受け,2009年の第64回国連総会で開催が決定されたものです。
←←←←←←←←←←←←←←

出典: http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/rio_p20/gaiyo.html
例えば、日本では少し前から「水ビジネス」とか言って、日本で培った技術を海外に売って儲けようとする動きがありました。

きれいな飲み水を作る技術。

都市部で集中する水質汚染を狭い土地で処理する技術。

確かに、世界的に見てもかなりハイレベルな技術かも知れません。

でも、その技術は本当に必要十分なものだったのか?

たしかに水はきれいになったかも知れない。

だけど、きれいにし過ぎて水域の栄養分が少なくなってしまうこともあります。

そのうえ、地域の財務体力に見合わない投資をし続けないと維持できない技術だったりもするのです。

いま日本国内では、そうやって投資して整備してきたインフラの維持管理・老朽化施設の改築更新も立ち行かないほど収支バランスが崩れています。

過去に作った借金の返済もまだまだ残っている状態で、さらに借金を重ねないと維持できないのです。

多くの地域で、いまのサービスレベルを維持するために料金(税金とか)を上げるか、料金を上げないかわりにサービスレベルを落とすか(時々水が出ない日があったり、今より処理レベルの低い水を放流したりするのを許容するなど)、そういうことを考えるべき時期に来ていると感じています。

国内に金がないから外国に展開する…

そんなことやる前に自分たちの社会を見直す方が先だろう、と思うのです。

いまの構造のままマーケットを広げたところで、そのマーケットも遠くない将来には飽和してしまい、また同じように「マーケット内に金がない」状態になるでしょう。


いま「ハングリー精神が足りない」と言っている人たちのどれくらいが、「余っているところから足りないところに融通する」という構造を意識しているのでしょう?

「内に需要がないから外を開拓する」という意識では、「余っていないところにも侵攻して搾取する」という方向になりがちで、それが行き着く先は破滅ではないかと思うのです。
新幹線から投稿してたら、書きかけのを投稿していたようで衝撃

ということで、41を消しました。
>>42
確かに破滅ですね。
ただ、水源は買収されていた事をご存知ですか?
無知は罪なり、と言いますが、何も知らされていない国民が純粋に疑うことをしなかった結果を責める気にはなれません。それに、過酷な条件下で生きている国民が汚水の浄化方法を知らないというのも不思議…でもないかな。知ろうとしたら罰せられるのに「無知は罪」と言えません。
確かに汚染の度合いで浄化にお金は掛かるでしょうけれど…
難しい問題ですね、浄化にも水買収にもお金がかかる。ひどい話です。
いや、実際日本の技術でもっと安価で出来る方法もありますが、それには亡命しかないでしょうし、まず強制送還でしょう。私はあまり賢い人間ではないので、「破滅」という結論に達しました。
就労ビザとかも色々考えたのですがリスクも多くて。
突然破滅という結果の可能性が高いばかりに言い切って申し訳ありません。
国がどうこうできない問題に近いので、こうやって知恵を・・・朝知恵でも集めればいい事に繋がるかもしれません。気持ちだけ応援できるしかない事をお許し下さい。
>>[42]さん

このトピックの冒頭に置いた引用文を少し手前からにするようにしました。

石井さんが言おうとされているのは、決して「国内に金がないから外国に展開する」というようなことではなく、「【異文化に飛び込んで】その国にとけ込み、その国の役に立つように努め、同時に自分を成長させてもらう」ということだと思います。
そういう気持ちを持つ若者が減ってしまったことについての警鐘だと僕は思っています。

また、このインタビュー記事
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0700O_X00C13A1000000/
の冒頭には
  「グローバル化が進むこれからの時代に生き残るための働き方を、
   日本の若いビジネスパーソンに向けて語ってもらった」
とありますので、そういうことを前提とした発言であるという目で読んで頂けるとよろしいのではないかと思います。
 
フルブライト・ジャパン(日米教育委員会)が提供している
  アメリカの大学における留学生の動向 - A 日本人留学生の動向
  http://www.fulbright.jp/study/res/t1-college03.html
という資料から、少し引用してみます。

→→→→→→→→→→→→→→
 日本人留学生は、ほかのアジアからの留学生と同様、1980年代半ばから急増し、 5年間でおよそ3倍になり、その後十数年間、日本人留学生の数に大きな変動はありませんでした。しかし、日本人留学生は1994-97年度まで国別では第1位を占めてい ましたが、中国やインドからの留学生数が急激に増えた結果、1998-99年度国別順位第2位、2000年度第3位、2001-07年度第4位、2008年度第5位、2009年度第6位、2010年度以降は第7位へと下降しました。  [ 日本人留学生数の変遷 1954-2011(出典:Open Doors, IIE、日米教育委員会まとめ)]

 アメリカの英語研修プログラム(Intensive English Program)における日本人留 学生数は、2005年までの過去20年間、国別で第1位を占めていましたが、2005-08年度までは国別順位第2位に、2009年度、2010年度には、サウジアラビア、中国からの留学生が急増した結果、第4位になっています。 

  近年の日本人留学生の特徴としては、1)大学学部に留学する学生が大学院に留 学する学生よりも多いことと、2)non-degree(学位を取得しない)で留学する学生の割合(パーセンテージ)が増えていることがあげられます。

 アメリカで学ぶ留学生全体では、大学学部課程と大学院課程で学ぶ留学生数の 割合は、ほぼ拮抗していますが、日本人留学生の場合は、大学学部課程で学ぶ割合が4割以上と大学院に留学している日本人(22.1%)を大きく上回って います。

 また前述のように、non-degree(学位を取得しない)で留学する日本人留学生 の割合(パーセンテージ)は、過去3年間の推移によれば、増加傾向にあります (2009-10年 17.4%、 2010-11年 20.1%、2011-12年 23.1%)。non-degree(学位を 取得しない)留学生全体のうち日本人留学生の占める割合は7.2%(第4位)にも およんでいます。

出典:Open Doors 2012, IIE (Institute of International Education
http://opendoors.iienetwork.org/
←←←←←←←←←←←←←←
 
ドルー・ギルピン・ファウスト(ハーバード大学学長)のインタビュー記事
http://www.sentaku.co.jp/interview/post-1505.php
からも、少し引用してみます。

  (これは、ハーバード大学のPRという色彩もありますから
  割り引いて読む必要はありますが、それでも、ここで言わ
  れていることには傾聴する価値があると思います)
  
→→→→→→→→→→→→→→
 ---一方で昨年度、日本からハーバードへの学部新入生は一人、まもなくゼロになろうとしています。

 ファウスト 一八七二年に最初の日本人留学生が来て以来、ハーバードで学んだ日本人は三千人以上に及ぶ。これはイギリス、カナダに次ぐ三位の数字だ。優秀な卒業生も多くいるが、彼らがハーバードで培ったものは、単に学問だけではなく、各国のトップ層との人脈づくりでもあったはずだ。そうした人脈は国家的に見ても重要な資産である。日本が国際社会と深くかかわり存在感を発揮してきたなかで、どれだけの恩恵をもたらしてきたことか。

 ---日本は留学生がもたらす価値や重要性を十分に理解していないと。

 ファウスト 高い教育水準を誇るハーバードで学ぶ留学生は各分野で活躍する優秀な人材が多く、彼らとの交流の機会を失うことは日本にとって大きな損失だ。私は日本に優秀な学生が多くいることを知っているし、先に訪日した際、ハーバードへの留学を奨励したが、残念なことに依然として志願者の急減は著しい。非常に残念であり、危惧もしている。当校の学部留学生全体ではこの十年で逆に二〇%増えているのに対して、日本からの留学生が減っているのは、まさに「時代の逆行」である。これ以上、日本の若い優秀な学生が内向き志向になることは日本の孤立化が進む危険な兆候ではないか。

 ---逆に中国、韓国などアジアの新興国の留学生が増えているようです。

 ファウスト 中国からの学部留学生は三十六人に達し、韓国は四十二人と増えており、我々は彼らを喜んで歓迎する。こうしたアジアの多くの国々が教育に多大の投資をしている。シンガポールはプレカレッジ(大学の前の教育)と大学教育ではリーダー的地位にあるが、それを韓国が猛然と追い上げている。中国も高等教育に携わる学生の数を何倍にも増やした。これらの動きは知識、教養が今日の世界でどれほど重要かを明確に示すものだと思う。

 ---逆に日本には、留学は新興国の証しであり、先進国と新興国との比較は意味がないとの批判もあります。

 ファウスト それには同意しかねる。イギリス、フランスは確かに留学生は少ないが、ハーバードはそもそもイギリスの伝統をアメリカでも継ぐために創設されたから、イギリスからハーバードに留学する意味は、アジアから留学する意味と比べるとはるかに少ない。日本はまぎれもなくアジアの国であり、そのアジアでも中国、シンガポール、韓国など東アジア諸国と同等に比較するのは当然であり、現実から目を逸らすべきではない。それは決して欧米との質の高低を意味するのではなく、文化、思考法が欧米とは異なるということだ。文化が異なる国からの留学生が減るというのは、学生にとっても決して望ましいことではない。
←←←←←←←←←←←←←←
 
もう一つ、今の日本の状況に危機感を感じている方のブログから引用します。
(研究者という分野での話なので、少し固い話ですが)

【世界的な研究競争の激化を島国のなかで表面的に捉えてしまうようになった結果、手段が目的と化してきている】と指摘されています。
何故、日本だけがこうなってしまったのか、これはやはり教育システムにも大きな原因がありそうだと思われませんでしょうか?

そういうことを、もっと多くの人が真剣に考えなければいけない時に来ていると思うのです。
みなさんは、どのように考えられますでしょうか?


→→→→→→→→→→→→→→
インパクトファクターの高い雑誌に掲載されることだけが研究の目標だとすると、研究とは一体何なのでしょうか?大きな研究室の有名教授のもとで「優秀なロボット」のように働いている若手研究者たちは、口を開けば「Natureに載るようにがんばります」と言うのですが、それって何を意味しているのでしょう? 

先般会った欧州の研究資金配分機関の人に「日本の研究者の特徴は?」と聞いたら、即座にこういう返事が返ってきました。「日本の研究者は名前の知られた学術雑誌に論文を載せることを目的にしている。そこが欧米の研究者と違う。」 

トップレベルのジャーナルに掲載されるかどうかは単なる手段に過ぎません。それよりも、長い眼で見て世界の科学技術、さらにはイノベーションにどのくらい広く深い影響が与えられるかが研究者の価値を決めます。日本の研究レベルは世界の中でもまだ高いとはいえますが、日本の研究者は国際共同研究をする機会が(例外は多々ありますが総じて)少ない。

島国のなかで研究の内容で勝負するより論文が掲載される学術雑誌の知名度で勝負するほうに傾いていき、手段が目的と化してきたように思えます。世界的な研究競争の激化を島国のなかで表面的に捉えてしまうようになった結果、手段が目的と化してきているように、私にも思えますね。
←←←←←←←←←←←←←←
 
出典:
科学研究の目的はトップジャーナルに論文を載せることなのか?
http://qrl.jp/?350305
 

ログインすると、残り10件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

こどもの教育 更新情報

こどもの教育のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。