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毎日まったり!タガログ語の時間コミュの不思議と日本人にしっくりくるタガログ語

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  中学、高校、大学と10年も英語を習ってなかなか使えるようにならないという声があるのに対して、タガログ語は独学で習いだして2ヶ月もするとそこそこの会話ができるようになり、相手の言うことも結構理解でき、さらに数年も勉強を続けるとフィリピンの映画が楽しめるくらいにまでなります。

英語の映画を字幕無しでフィリピン映画と同じレベルで楽しめるまでにどれだけかかることか、、。

 さて、これは私の個人的印象に過ぎないのかも知れませんが、どうも英語よりタガログ語の方が「日本人の感性に向いている」気がするんです。

 なぜ、そう感じるんだろうな?と自問自答を続けてきたのですが、

1、単語が持つ「意味の幅」が日本語の単語に近い。英単語と比べて意味のずれが少ない。だから言葉の置き換えがスムーズにいく。文法的にも日本語と結構共通しているところを感じる。

2、同じ意味の単語を「音節数」で比較したとき、英単語の音節よりもタガログ語の単語の音節の方が日本語の単語に近い。

3、言葉に使われている音素、発音体系が近い。

 国が違えばある単語が表現できる「意味の幅」も当然異なってきます。そういうずれに起因して日本語と英語の表現の違いを長年勉強しなければならなかったりもするのですが、日本語とタガログ語だとこれが結構近い気がするんです。

 「さっき」という便利な言葉がありますが、タガログ語にも「kanina」がある。でも英語にはそういう「単語」はなく「a while ago」という句で表現せざると得ません。

 「文法的共通」というと語弊がありますね。語族がまるで異なる別言語なので本来何も似通っていないんですが、少なくとも英語は「時制」で時間を表現するのに対して、日本語とタガログ語はどちらも「相」です。

 音節についていうと
食べる(3)、kumain(3), eat(1)
寝る(2)、tulog(2), sleep(1)
はずかしい(5)、nakakahiya(5), ashamed(2)
 などなど、よーく観察してみると同じ意味の単語の音節数が日本語とタガログ語で同じだったり非常に近かったりします。
 「意味と音節数の関係」のことを「単語の情報量」というのだそうですが、「言葉が持つ情報量」が日本語とタガログ語では近いものがあるのではないかと。それが「言葉のテンポ」の近さにつながり、どこか口にしていて落ち着くというか、実感のこめやすい言語だと感じるんです。

 タガログ語が基本的にローマ字式に発音され、「子音+母音」の繰り返しパターンが多いことはよく知られていますね。母音も同じ5種類ですし、英語が強弱アクセントなのに対して日本語とタガログ語は抑揚アクセント。日本人の耳に素直に入りやすい言語といえます。だからリスニングの苦労が英語と比較にならず簡単に済みます。

 この他に「日本人にタガログ語学習が容易な理由」を思いつきますでしょうか?

註:厳密にはタガログ語とフィリピノ語は違うものですが、ここではコミュニティのタイトルも「毎日まったりタガログ語」でもあることですので、大雑把にフィリピンの国語を指すと考えてください。

コメント(29)

“英語は学校で10年、タガログ語は独学で2ヶ月”は、日常会話能力の習得だけを考えた場合、日本の学校での英語の教え方がかなり非効率的だから、という理由が大きいのではないでしょうか。

また、“タガログ語の映画を字幕なしで楽しめる”のは、タガログ語の映画のほうが内容が単純、と言って語弊があれば、少ない語彙で理解できる作品が多い、ということもあるような気がします。

それでも、上に挙げられている三つの理由には納得できるところがあります。

>単語が持つ「意味の幅」が日本語の単語に近い。

混沌とした森羅万象の切り分けかたが日本語とタガログ語のほうが近い、ということと私は解していますが、同じアジア人ということも関係あると思います。

ただ、「これって英語的な表現だな」と思うタガログ語にぶつかることもあります。
たとえば、"sa palagay ko"。
これがタガログ語にもとからあった表現なのか、欧米人の統治時代に作られた表現なのか分からないのでなんとも言えませんが、日本語よりも英語の"in my opinion"等に近い表現には見えます。

>言葉に使われている音素、発音体系が近い。

三つの理由のうちでこれがいちばん大きい要因かもしれません。舌がどうの、歯がどうの、と学校でうるさく言われることもありませんし。

「文法を知らなくても通じる」「文法が近い」とざっくり言えるかもしれません。ただこれも、比較的単純な内容に限定されるから単語の羅列でもけっこう通じるのかもしれません。

音節数については、

たとえばここで、「はずかしい」「nakakahiya」「ashamed」は意味が同じとみなしていいのでしょうか。

また、日本人が「はずかしい」という語を連想するような状況で、タガログ語のネイティブスピーカーが連想するのは nakakahiya なのでしょうか。"walang hiya" だとかいうようなことはないのでしょうか。

専門知識なしに言うのですが、「私は恥ずかしい。」「Nakakahiya ako.」「I am ashamed.」が翻訳上いちおう等価だとしても、こういった問題をクリアしないかぎり、言語の共通性について、単語レベルでの数値的な比較からあまり有意義な結果は導き出せないのではないかと思います。

それから、「タガログ語学習が容易」なその他の理由にはならないかもしれませんが、タガログ語学習者のほうが強力な動機(色事のためとか)のある割合が高いでしょう。
ponyang halobaybayさんの「na=〜な」って私も思いましたっけ(笑)。
これは確かに単なる偶然なんですが、面白いですよね。

鬼オヤジさん
音節数の問題はなかなか押しなべていえませんし、緻密な研究の成果でもなんでもない漠然とした印象にすぎません。だからもっともっとたくさんの例をあげなければならないのですが、
aso 犬 dog
pusa ねこ cat
とかタガログ語って英語よりやっぱり音節を費やす傾向があると感じます。

>“英語は学校で10年、タガログ語は独学で2ヶ月”は、日常会話能力の習得だけを考えた場合、日本の学校での英語の教え方がかなり非効率的だから、という理由が大きいのではないでしょうか。

 日本の学校英語は何かと批判の的になりがちですが、それをおいといてもタガログ語の方が「習得実感」を得られるまでの時期が短いと感じます。私は日本の学校だけで英語を習得したので日本の英語教材は「学び方」次第で十分優れていると思っています。

1、テキストで習ったままの表現を多くのフィリピン人が実際に用いる。
2、発音のバリエーションが少ない。

>混沌とした森羅万象の切り分けかたが日本語とタガログ語のほうが近い、ということと私は解していますが、同じアジア人ということも関係あると思います。

 これはうまいこというな、と思いました。

>また、“タガログ語の映画を字幕なしで楽しめる”のは、タガログ語の映画のほうが内容が単純、と言って語弊があれば、少ない語彙で理解できる作品が多い、ということもあるような気がします

 これは思うに「聞き取りやすい言語」だからというのが大きいのではないでしょうか。
 少ない語彙で理解できる(はず)の英語の映画もたくさんありますが、やっぱり聞き取りには熟練が必要だと思います。
 タガログ語の音は日本人の耳に非常に入りやすいと思います。

>ただ、「これって英語的な表現だな」と思うタガログ語にぶつかることもあります。

 それも確かに多くありますね。その点はタグリッシュという融合言語の生成を容易にしているのかも知れません。
nakakahiyaの訳がashamedになるんですか?まあ形容詞的用法って言われればそうなんですけど。
nakakahiya akoがI am ashamedと等価とするならnahihiya akoとの違いは何なんでしょうか?
たいした違いじゃないにしてもnahihiya akoをnakakahiya akoと混同できるほどタガログ語
(だかフィリピン語だか)っていうのははいいかげんな言語なんでしょうか?

>たとえばここで、「はずかしい」「nakakahiya」「ashamed」は意味が同じとみなしていいのでしょうか。
上記より多分いけませんよね。

まあその辺の女の子に「恥ずかしい」を訳させれば、ほぼ間違いなくnakakahiyaって帰って来るんです
けど、そりゃあ「何が」「どう」「恥ずかしいか」なんて単語レベルじゃどうでもいいことですからね。
逆を言えばだからこそネイティブなんじゃないでしょうか?

鬼オヤジさんは(確信犯的発言であることは百も承知で申し上げます、ご容赦を)walang hiyaが
「恥ずかしい」ではないかと仰ってますが、「私、恥ずかしい」をwalang hiya akoと訳すケースは
ほぼ皆無ですね。

また、音節数と情報量と言われましても、例に出されてる3例は確かにその通りかもしれませんが、
abotだのlagayみたい少ない音節数で非常に多い情報量を持つものも多数ありますので、
単なるspeculationを数少ないサンプルをもってgeneralizeすることは問題があるんじゃないでしょうか?

偉そうな事を言うわけじゃありませんが、たった2ヶ月の独学で(程度の問題はあるにしても)相手の
言うことが理解できるなんて・・・重箱の隅を突っつきたくもなりますよ。

別に喧嘩売るわけじゃありませんので気を悪くしないで下さいね。
 おっしゃることはごもっともです。
 本格的に研究した成果とかそういう大げさなものではなく、日常的にそこはかとなく感じる個人的印象を述べただけのものですから、「そういわれてみるとそうかも」と感じる方もいるでしょうし、一笑に付される方もいることでしょう。

 英語に比べてタガログ語の語彙というのは概して音節数が多めでゆったりとしたテンポを感じるんですよね。加えて日本語と同じイントネーションアクセントであり、ローマ字的「子音+母音」の連続パターンも多く見られ、日本人の耳にはかなりスムーズに入りやすい言葉に思えます。

 学習をはじめてわずか2ヶ月くらいから言いたいことを伝えられる実感や、周囲の人の会話の趣旨がかなりよく把握できるようになるという実感は事実ありました。ただ英語というバックグラウンドがあってのタグリッシュに逃げ込んでいることが多かった(今でもですが)ので、より純度の高い正統派のタガログ語で自分を表現できるまでにはそれ相当の時間を要します。

 会話はそこそこ不自由ない気がしても手紙をタガログ語で書けないストレスがありましたね。

 漠然とした印象に過ぎないものではありますが、もしかすると腰をすえて研究すると興味深い仮説も導き出せるのかも知れません。いかんせん、出勤前とかショートブレイクのわずかな時間しかこうして投稿もできませんし、仕事がおわってから自宅でくつろぐ時間に集中的な研究をする余力もないのが現状です。

 
意味と音節数の関連付けについては、音節数の少ない語句ほど使用頻度が高いというような仮定も立てれば、(とりわけ、先祖を同じくする言語間の)翻訳エンジンの開発などには役立ちそうな方法論だと思いました。
お二方とも丁寧なご返信ありがとうございます。
言語っていうのはご承知の通り生きたものですので、使われる単語、フレーズなど時代が反映される
のは日本語、英語、タガログ語、他の言語を問わず一緒ではないかと思います。
ただタグリッシュにしてもここ15年ぐらいでの英語方向への偏重は驚くばかりです。
kaninaの例を出されてますが、これはまったくその通りでタグリッシュでもa while agoを使う人は
ごくごく少数派ですね。フレーズごと英語に置き換えても結構な確率でkaninaはkaninaのままかも・・・
してみると少ない音節数の単語、またはより単純な熟語が日常会話に選択されるようになるって
いうのは個人的には正しい仮説のような気がします。

>鬼オヤジさん
本当の意味でversatileな翻訳エンジンが開発されればいいですね。
英語同様タガログ化してる日本語も結構ありますから先祖を同じくする言語っていうのも
今後ますます多様化して行くってのが実情なんでしょうけど・・・
タガログの方が発音しやすいです。
英語だと発音が悪いと通じませんが、タガログだと無理せず自然に通じます。

〜na〜 とか 〜ka
は、意味は若干違いますが日本語に似てますね。

アライ!と 痛い!

サラマットゥ と アリガトウ

とか日本語に似てる単語もありますね。

鎖国する前のルソン貿易してた頃とかどうだったんでしょうね。
少し戻りますが、『恥』の話です。
私が恥ずかしいと感じるときは、
nahihiya ako

何かが原因で恥ずかしくなる場合、例えば彼の行動とかなら
nakakahiya ang ginawa niya

相手が恥知らずの場合は
walang hiya ka
となります。

なので、nakakahiya akoと言うと、周りの人にとって私は恥ずかしい(イタい)人になります。
また、walang hiya akoだと、『私は恥知らずです。』となり、意味が通らなくなります。
この『恥知らず』は他の言葉でnakapal ang mukha mo 『あなたの顔(面の皮)は厚い』という表現があります。
この恥に対する考え方は似ていますよね。
私はわからないですが、他の言語で恥知らずを面の皮が厚いという言葉とかあるのでしょうか?
この話題は面白いので、もうすこし補足させてもらいます。

「恥ずかしい」は nakakahiya なのか nahihiya なのか。

Nakakahiya ang ginawa niya.
彼のしたことは恥ずかしい。
What he did was shameful.

Nakakahiya ako.
私は恥ずかしい(存在だ)。
I am shameful.

Nahihiya ako.
私は恥ずかしい。
I am ashamed.

さらに、shameless な人物は客観的に shameful な存在ですから、

Walang hiya ka.
恥知らずめ。恥ずかしい奴め。

Walang hiya ako.
私は恥知らずだ。私は恥ずかしい奴だ。

つまり、タガログ語のネイティブスピーカーが nakakahiya、nahihiya、walang hiya と異なる表現を想起する状況でも、日本語のネイティブスピーカーならすべて「恥ずかしい」を想起するかもしれない、ということです。

タガログ語と日本語であっても、混沌の分類法が同じではないはずですから、このようなことは不思議ではないでしょう。

だとすれば、「恥ずかしい」という単語の意味は nakakahiya、nahihiya、walang hiya のどれと同じと言えるのか? これはほんの一例ですが、こういった問いに一意的に答えることができなければ、日本語とタガログ語の単語情報量の比較は成り立たない、と思うのです。

そして、タガログ語にしろ日本語にしろそれぞれの言語の構成はそれぞれにいいかげんではないはずですが、タガログ語の発想と日本語の発想との関係はいいかげん(というか、先祖の縁も無くほとんど無関係)なはずですから、先の問いに一意的に答えることはおそらくできない、したがって単語情報量の比較ということもずいぶんと困難だろうと私は考えます。
何だか悪役を引き受けるみたいになりますが・・・

>タガログ語のネイティブスピーカーが nakakahiya、nahihiya、walang hiya と異なる表現を想起する
>状況でも、日本語のネイティブスピーカーならすべて「恥ずかしい」を想起するかもしれない、

これはとりもなおさずルートの「hiya」が持つ意味が何だという議論以外の何者でもないでしょう。
接辞がついた場合、あるいは句になった場合に「どういった状態を表すか」っていうのがここで議論
されている点ではないんでしょうか?
日本人にとってルートがhiyaの場合にこの辺の混同が特に激しいように思います。(理由は不明)
hiyaではなくてtakotをルートにしてnatatakot ako「私(が当事者として)、怖い」とnakakatakot ako
「(自分を含めた他人から見て)私、怖い(私って怖く見える)」どっちにしても「私、怖い」になりますよね?
しかしながら表されている状態は全く別物なんじゃないでしょうか?
ましてやwala akong takotを「私、怖い」って訳すケースがあるんでしょうか?ありませんね。

混沌の分類法というのが何を意図して言われた物なのかわかりませんが、単語情報量というか
ルートの情報量は比較するまでも無く、あくまでもルートの持つ意味でしかないと思います。
また、タガログ語の発想と日本語の発想との関係がいいかげんというのはちょっと言い過ぎで、
ang形にしたものをどういった接辞で状態を表現するかと言うことに関してきちんと考察をする
必要があるんじゃないかと思います。
状態を表現すると考えた時に日本語、タガログ語両言語の関係の一意性は(表現方法にもよります
が・・・)保たれていると思いますけどいかがでしょうか。

なお、ここでのnakaka--のような形容詞的用法とは全く別に、focusごとに一意性を持って使わなければいけない動詞?の接辞がいくつもあるのは解りますが、それは「混沌」というより「学習されてしかるべきもの」と理解していますのであしからず。

荒らすつもりは全くありません、(語調を含めた)拙論に対しての反論(特に具体例が挙げられていない
等のもの)には真摯にご返答する所存ですのでご容赦の程をお願いいたします。

ごめんなさい、正確にはwala akong kinakatakutanなんですけど、ここだけ口語調になってますね。
ご容赦を・・・
大変詳しい方々の参加、ありがたく思います。

ただ私の趣旨は「同じ意味あいのことを表現するのに費やされる音節数」が、日本語とタガログ語では比較的多めである共通点があり、同じ意味を英語で言う場合、1〜2音節という非常に少ないケースが多いということなんです。

ある意味を音声に乗せて伝えるとき、そこに生まれるリズムやテンポが日本語を話しているときの実感とタガログ語のときでは近い感覚があり、それが日本人がタガログ語を話すときの親近感につながっている気がするという個人的を述べています。

英語はなんだかんだで30年以上使ってきて、一方タガログ語は現地在住とはいえ、ほんの駆け出しです。にもかかわらず、それぞれを口にするとき英語には「外国語を話している」という心理的距離感がやっぱりぬぐえないのに対してタガログ語は「自分の思いがそのまま音になっている」という準母国語的感覚を抱きます。

これはおそらく私に限らず感じている方がいるのではないだろうか、と思ったわけなんです。

その感覚をさして「日本人にしっくりくる」と表現しました。
あと口語的な省略の許され方など、日本語とタガログ語には非常に近いものがあると感じます。

CR ako.
Cape ako.

など英語で「I bathroom.」や「I coffee」はとても標準的とは呼べませんが、タガログ語(フィリピノ語)ではなんら不自然ではありませんよね。

それからいわゆる前接語とよばれる単語もなぜか非常にしっくりくる

daw, kaya, naman, muna ....など

これらをちょっとそえたときに生まれるニュアンスを英語にしようとすると苦労しますが、日本人感覚では説明不要なほどピンとくる気がするんです。
>そして、1対1対応が想定できなければ、単語情報量の比較って無理なんじゃないか。

 言語が異なればそれは無理なこと。
 日本語とタガログ語に限らず、です。

 それでも英単語の多くが1音節であり、2音節以上をすでに「長い」と感じる傾向があるのに対して、日本語やタガログ語などイントネーションアクセントを持つ言語はしばしば多音節語を多用する傾向にあります。

 「同じ内容を伝えるとき、用いる音節数の比較」

 これも立派に情報量の比較となりえます。
 言葉がもつリズムやテンポと私が表現したのはこのことです。
>単語情報量というかルートの情報量は比較するまでも無く、あくまでもルートの持つ意味でしかないと思います。

順序は前後してしまいますが、より根本的な部分だと思いますので。

ルートの情報量はルートの持つ意味でしかない、というのが正しいとしても、ルートに接辞が伴って単語になれば情報量(焦点とか相とか)も増しますから、単語情報量とルート情報量は異なりますし、ここでは単語レベルでの意味と音節数の関係についてですから、単語情報量のほうが問題になるのだと解しています。

(タガログ語のネイティブスピーカーの頭の中でルートというのはどのようなときに浮かんでくるものなのか、という疑問にも関わってくることなのですが。)


>これはとりもなおさずルートの「hiya」が持つ意味が何だという議論以外の何者でもないでしょう。

私が言いたかったことはそうではありません。

1.他人が恥ずかしいことをしているのを見たときに私が「恥ずかしいな。」と思う。("Nakakahiya siya.")
2.私自身が恥ずかしいことをしてしまったときに私が「恥ずかしいな。」と思う。("Nahihiya ako")

1も2も同じ「恥ずかしいな。」で表す、ということは、日本語は、基本的な発想においては1の事象と2の事象をすくなくとも単語レベルでは区別しない言語だ。

混沌(言語以前の状況を理念的に想定したものと考えてください)で1や2のような事象が発生したときに、日本語では元来1と2を同じ性質の事象とみなしてきた(分類しなかった)のだろう、日本語はそういう発想をしてきた言語なのだろう。

(こう考える前提として、言葉=概念であり、異なる言葉で区別していない(混沌を切り分けていない)ということは同じ概念だと発想しているからだ、と私は考えています。)

つまり、タガログ語と日本語では、単語の1対1対応は想定できない。1対多もあり、多対1もある。

それはそうだ、タガログ語の発想と日本語の発想との「関係はいいかげん」(別個に発生したであろうから必然的関連性は無い)なのだから。

そして、1対1対応が想定できなければ、単語情報量の比較って無理なんじゃないか。

これが私が言いたかったことです。

タガログ語の発想と日本語の発想とに類似性が無いとは思っていません。2で述べましたが、同じアジア人ということもあってか、日本語とタガログ語のほうが英語よりも近いのではないか、と思っています。


>しかしながら表されている状態は全く別物なんじゃないでしょうか?

その別物(タガログ語では natatakot と nakakatakot とで区別している異なる情報)を日本語では「怖い」の1語で取り扱っています。

だったら、「怖い」と単語情報量が同じなのは音節数4の natatakot でしょうか? それとも音節数5の nakakatakot でしょうか?

これって一意的に決められないでしょう。だから、タガログ語と日本語の単語情報量の比較って無理があるんじゃないか、と思うのです。


>荒らすつもりは全くありません

荒らしているとは私はまったく思っていません。お気になさらずに。

むしろ私が蒸し返したのかもしれません、こういう議論に飢えていたので。
 あれ?投稿が前後した、、。
 ああ、削除して再投稿だったんですね。
 英語学習者にありがちなことなんですが、ある日本語の単語と英語の単語がそれぞれ持つ「意味の領域」を考えず、あたかも単語が1対1で置き換えができるという発想を持つ人がいますよね。

 背景とする文化が違えば、1つの語が表せる意味の幅も異なってきますが、スパーキーさんが上で少しふれられた「面の皮が厚い」という表現と「Ang kapal ng mukha mo」の発想の相似性など、日本語とタガログ語では、英語に比べると「置き換え」に近い発想がかなり有効な例があります。(もちろんそう単純ではないにしてもです)

 「なんかわかる気がする」という実感の持てやすい言葉だと思うわけなんですね。
20 せんさん

 その「Ayoko! (Ayaw ko)」と「いやだ!」にしても、それを口にするときの心理というか「いいたいこと」が非常に近いですよね。それぞれのフレーズの意味の重なり方がほとんど同じというか。

 これを英語で I hate it. / I don't like it. などといっても「意味が重なっている領域」が日比の場合よりどうしても狭い。それが「遠い言語」に感じる要因だと思います。
類似表現である「厚顔」は漢文からの借用だそうです。
この場合の「顔が厚い」とはやはり顔の皮が厚いという意味らしいですが。

面の皮が厚ければ恥知らず、ということは、皮の下にある顔本体は恥を知っている物と考えられていたのかも。

一方、mukha のほうは、辞書によれば、

may mukha 〜
〜するほどに顔がある
恥知らずにも〜する

と、顔本体が無恥の象徴のようにも思えます。

もしそうだとしたら、顔の扱いが日本語とタガログ語とでは反対になります。

あるいは、タガログ語の "makapal ang mukha" も中国語の「厚顔」からの借用かもしれませんね。

いずれにしても、タガログ語の資料は不足しすぎていますね。
>いずれにしても、タガログ語の資料は不足しすぎていますね。

 実際そうですね。英語など西洋諸言語に比べると学習資料も比較にならないほど少ない。まあ需要と供給の関係なんでしょうね。

 「顔」のことですが、
>もしそうだとしたら、顔の扱いが日本語とタガログ語とでは反対になります。

 うーん、これはそうは思わないんですけどね。
 「本来恥を知っていれば向けられない顔」があり、それをあえて向けられるという「面の皮の厚さ」が発想にあるわけですから。
 何かの語源を調べたくても英語のようにギリシャ語、ラテン語にさかのぼった語源を調べるようなことが簡単にできません。せいぜいスペイン語からの借用語かどうか程度。

mukha(2音節) かお(2音節)、face(1音節)と例によって英語は1音節語ですが、意味的なずれをかんがえてみると、

Mukhang masarap. おいしそう

 と使う場合のmukhaは「顔(face)」というより「seeming, appearance」ですね。
 「おいしそう」をタガログ語では「おいしい顔をしている」と言いまわす。

ちなみにmasarapの意味の幅もおもしろく「味覚」と「触覚」の両方にまたがるのがユニーク。
つまり「おいしい」と「気持ちいい」が同じ言葉。
あの最中に日本語で「おいしい!おいしい!」とフィリピーナがさけんで「何言ってんだ?」という経験をした人は結構多いかも(笑)。
そういえば、タガログ語で意味を強める場合

Masarap ito.
Ang sarap nito.

と「形容詞」を「名詞」にして表現しますが、これって日本語の古典によく見られた「体言による強意」と同じやりかたですね。

「これはおいしい」を「このうまさよ」としているわけで、そんなところにも日本人の感性にピンとくるものがあるのかな、、。
>>18
ある一つの事象を日本語とタガログ語で表すことについて、1対1で対応する表現は(完璧に同じには
ならないんですが)導き出せるんじゃないかと言うことを申し上げたかっただけです。
もとより単語一つでどうなる問題ではなくて、ひとまとまりの表現として対応を考えるべきものですね。
(単語情報量っていうのが意味と音節数の関係を示すものだそうですので、私が申し上げたかったこと
というのは本トピックとは関係の無いものだったようです。)

>タガログ語と日本語の単語情報量の比較って無理があるんじゃないか、と思うんです。
まったくその通りだと思います。
私も言語学者ではありませんので、音節数の比較からくる情報がタガログ語を使用する上で
どのくらい貴重なものなのかは理解しかねます。ただ、相当の母体数から情報を系統的に整理
しない限り意味の無いもののような気がしてなりません。
うーん、、、
「体系的な研究」は今無理で、だから「個人的な印象」と何度か申し上げたと思うんですが。

まあ、本格的な資料を整える以前でも、ちょっと思い浮かべると日本語、タガログ語では多音節語が多いのに対して、それに(ほぼ)相当する英語語彙では単音節語が多いということには気づくと思います。

私がもっともっと具体例を挙げればいいんでしょうが。

普段生活しながらでも「あ、これもその例だな」とよく気づくんですよ。ただメモしませんけど(^^;
 日本人にとっての「易しいところ」と「難しいところ」が同居しているのがタガログ語の発音。
 西洋諸言語に比べると耳に入りやすく、カタカナで書き留められそうな言葉も多いので、とっつきやすいのは事実だと思う。

 でもスペイン語や英語からの借用語が増えるにつれ、フィリピン人がレパートリーとする音素の数も増えてきて、日本語に含まれない音、カナで区別できない音も実際に結構あるわけで、、、。

 フィリピン人たちの印象としては「日本人ってどうしてLとRの区別がないの?」という声をよく聞く。そして日本人の書くメールなどの文章では確かにL/Rの交錯が頻繁に観察される。

 でも英語やフランス語なんかのRに比べるとフィリピン語のRは日本人には案外簡単に発音できると思う。

 一番やっかいだと個人的に思うのが語尾にくる声門閉鎖音と「-n, -ng」の違いかな、、。
 英語音声学とかで平均以上に耳は鍛えられている自負はあるんだけど、この区別はまだ直感的に自信が持てない。

 自分では区別して発音できているつもりでもフィリピン人の発音で「今どっちだったか」がはっきりしないことが多い。

 声門閉鎖音それ自体は日本語にも実は含まれており、発音はできるんだけど、それを発音している自覚がなく、単独の子音としてみなされておらず「あるパターンでの音の連続の際、無意識に現れる日本語音声学の現象」の範疇で捉えられているため、タガログ語でそれを出す、出さないの差がぴんとこないのだと思う。

 以前、トライシケルに乗っていて、「あ、あの角を右へ」といった。
Kanan sa kanto.

 しかし、このkantoの語尾で息をつめてしまった。つまり本来声門閉鎖のない「開音節」で終わる語なんだけど、そこにうっかり声門閉鎖を置いてしまったわけ。

 すると「kanto(角)」が「kantot(セックス!)」に聞こえてしまい、同乗していた女性が爆笑した(^^;

 もちろん何が言いたいかは即座に理解されるのだけれど、「セックスを右へ!」と聞こえてしまうのも事実、、、。

 タガログ語で「-t」の語尾はアメリカ英語と同様に破裂を起こさないため、聞いた印象では声門閉鎖とほとんど同じになる。

 それ以来、kantoを発音するときはわざと「kantoh」という具合に末尾に息をしっかり抜くようにしている。

 声門閉鎖についてはアメリカ人とかの方がもっと下手だそうな。
 aalis を「ア・アリース」のように切って発音できず「アーリース」と長母音にしてしまう傾向があると聞いた。

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