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日本語の乱れが気になる会コミュの過剰な変化を抑止する機構

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えーと、最初に書いておかないといけないけれど、私は言葉に関してはそう保守的な立場に立ってはいません。ただ、昨今の新語・造語の続出、ボキャブラリーだけでなく用法の多様化・・・こういったものについていけていないだけの人間です。

趣味で昭和中期のラジオなどの音源(ラジオドラマとか一般番組とか)を集めているのですが、その頃の日本人の喋り方を聴くと、隔世の感があります。よくぞここまで変化したものだ・・・という気になってきます。

他のスレッドで、海外在住者からの視点が紹介されていましたが、通時的に比較しても、この変化はとても大きなものに感じられます。

新しい言葉が生まれて流行りかけると、昔であれば、かならず旧世代の人からブレーキがかかったものです。子供のころ、いかした野郎なんていうときの「いかした」すら、親に咎められた記憶があります。(「いかした」はもう死語になりつつあって、むしろ「いけてる」のように形を変えたようですが) 「凄い」だけでも叱られた記憶があるけど、これは意味が違うかもしれません。「なんでも凄いの一言で片付けるんじゃない!」というような叱られかただったから。

新しい言葉を使ってみようとすることを、年寄りが牽制しながら、ほどほどのスピードで言葉が変遷してきたように思うのですが、昨今はそのブレーキがぜんぜん効いていないような気がする。
昔の年よりは本能的に保守的だったのかも・・・いまは逆に時代の流れに合わそうとむしろブレーキどころか、新しいことばに適応しようとしているかのようにも思う。
80を越えた両親が「むかつく」とか「いけめん」とか言っているのを聴いて思わず、笑ってしまいましたよ。

コメント(3)

ブレーキは、踏むべきところで踏まないと、交通渋滞を招いたり、場合によっては事故の原因になったりします。
それと同様で、言葉の移り変わりに対しても、牽制すべきところと、そうでないところというのがあると思います。
車の運転の下手な人ほど、ブレーキをやたらと踏んでしまうのと同様、言葉の変化に対しても、舌足らずな人ほど、やたらと牽制をかけますよね。
クルマのブレーキの例えはよくわかりますね。

違いは・・・クルマのブレーキをかけるべきときにかけなければ重大な事故に繋がり、人命すら奪われてしまうのに、言葉の場合は、そんなふうな誰にもわかる危険性を認知するのが難しいこと、逆に新しい文化を作り出したりもするということから、その判断基準が難しい。それに誰が判断して、具体的にどういう抑制をかけるのか(あるいはかけていいものか悪いものか)という途方もない問題があるような気がします。

かくして言葉の問題はすべてが後追いで、感覚的・無意識的な多数決で、行方知らずな迷走を続けているように思います。言葉とはそんなものだという前提に立てば、この議論も終わりではあるのですが・・。

牽制すべきところとそうでないところの区別も、極めて困難です。たとえば二重敬語は不要だからやめるべきと(文科省とかなんとか審議会とかで)仮に決めるぐらいのことはできるでしょうが、それもごく一部だろうと思います。語彙については言葉狩りみたいになるのでもうお手上げかと思いますね。

言うまでもなく、「昔はこんな風には言っていなかった」「わかり難い」「何か不快だ」レベルでは判断基準にもなりませんしね。
言葉というのは生き物ですから、時とともに変化していくのは避けられないものだとは思います。ただ日本語のそれは他の言語に較べて驚くほどテンポが速いので困惑してしまう。他の言語が半世紀かかって変化する幅の数倍もあろうかという変化が、日本語では10年20年で平気で起ってしまうわけですから。

しろくまさんが昭和中期の日本人の喋り方を聴くと隔世の感があるとお書きになっていますが、実はこれが英語だと1950年代はおろか、40年代や30年代に録音された演説や映画でもさほど違和感なく聞くことが出来るんです。ルーズベルト大統領の演説に使われた基本語彙や表現は今日の大統領のそれとさほど変わらないし、『風と共に去りぬ』の台詞にしても今日そのままリメークできるような親近感があります。近衛文麿の演説やマキノ雅弘の映画ではこうはいきません。

日本語は確かに表現力が豊かだ。しかしその背景には、徳川260年を通じてさほど変わることのなかった日本語が、明治以降は標準語の制定・新語の開発・外来語の使用という三大改革によってより層に厚みのある言語に進化したという事実があります。ただその進化は加速度的に速さを増し続け、140年後の今日も止まる所を知らない。ぼくはなにか末恐ろしいものをそこに感じざるを得ないんです。


過剰な変化を抑止する機構といえば、フランスには、フランス語を誰でも理解できる規則的な言語に統一することを目的としたアカデミー・フランセーズという国立学術団体があります。1635年に設立されたこの機関は、当初からの辞書や文法書などの編纂事業に加え、近代では産業革命や情報革命が次々と世に送り出す新語や外来語に目を光らせています。そしてなにか新語や外来語を見つけると、フランス語の独自性を守るという立場から、それにふさわしい言い換え案を募る。そしてある言い換えが審議を経て承認されれば、これが官報に載って晴れて正式なフランス語となるわけです。だからフランス語には「コンピューター」とか「ソフトウェア」などといった言葉は一切存在しない。

しかしこれはこれで不便極まりないことも事実なんです。言い換え語が次から次へと造られるので、汎用性のない言葉がどんどん増える。フランス語の日常会話に必要な最小限の語彙数はおよそ7000と言われていますが、これは英語の4000や日本語3000と較べて格段に多い数です。フランス語が国際公用語としての地位を失った理由の一つもこれなんです。

フランス語は確かに美しい。しかしいつの時代も変わらないあの上品さ滑らかさは、実は涙ぐましい努力の上に成り立っているものであり、しかもその工程が言語そのもを窮屈で柔軟性のないものにして自らの首を絞めているわけです。ちょっと考えさせられてしまいます。


あちらを立てればこちらが立たたず。そもそも巨大な生き物である言語を人為的に制御すること自体が愚行なのかもしれません。何もしなかった英語に時代を越えた普遍性があるという事実は、単なる皮肉を越えた何かを物語っているような気がしてなりません。

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