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VIPクラブ (東京ステーション)コミュの?クラレ 取締役CSR・IR広報室長 吉野博明さんのあかし

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「生きる苦しみから生かされる喜びへ」
?クラレ 取締役CSR・IR広報室長 吉野博明

本稿は、2006年10月3日のインターナショナルVIPクラブ大手町での証しをまとめたものです。

主の御名を賛美します。
今晩は。只今ご紹介いただきました、吉野博明です。現在、日本基督教団東京山手教会の会員です。

今日は私のような小さい者に、このような機会を与えていただき感謝申し上げます。
私の人生は、これまでのところ平々凡々、良き家族を与えられ、学校をでてすぐ就職した会社に、未だに、つい一ヶ月前に還暦を迎えたばかりですが、勤めていられると言う意味で、傍目には恵まれたものと言えるのでしょう。
そのような、恵みを与えてくださる主の素晴らしさと、これまで実感してまいりました祈りの力の素晴らしさについて、この証しを通じて皆様と分ち合いたいと思います。

さて、そうは言いながら、1992年に日本基督教団宝塚仁川教会で茂洋牧師によって洗礼を授けられ、主イェス・キリストに救われるまでは、内面では葛藤の連続でした。洗礼を受けた時の気持ちを、聖書のみ言葉を借りて表現するなら、箴言第3章第5節から第6節にあるのですが、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道を真っ直ぐにしてくださる。」、まさにその当時も、今も、私にはぴったり来る言葉です。「もう何も思い悩むことはない。主が示された道が目の前にある。ここを真っ直ぐに歩けばその先には永遠の命がある。」という思いを確信しております。

私は、典型的なクリスチャンホームに生まれました。小さいときは、私が布団に入ってから、両親や兄達が讃美歌を歌っていましたが、
そのことが何か仲間はずれにされた様な気分になり、幼心に「絶対クリスチャンになってやらない。」と布団の中で呟いていたものです。これが恐らく躓きの始めだったと思います。
それでも小学校の中頃まで日曜学校に通っていました。その後、中学、高校時代は教会からも、キリスト教からも離れておりました。
大学には志に燃えて入学したのですが、大学紛争の激しい時期で、何時まで経っても講義が始まらないものですから、心のやわい私はすぐに挫折。大学の中で何か適当なサークルがないか探しまして、バロック以前の合唱曲を専ら歌っている合唱団に入りました。そこでは当然ながらカソリックの宗教曲が中心になってまいります。そのときは特に意識はしませんでしたが、ミサ典礼文やその他の聖書に基づく歌詞に触れ、また、教会堂で行われる教会音楽そのものに随分とのめり込んでおりました。これが、成人してからの神との触れ合いの第一歩だったかと思います。

その後、会社に入り、見合いで家内と知り合い家庭を持ちました。たまたま、彼女はミッション系の一貫校で中学から大学まで育ち、その間教会で礼拝に出席し、日曜学校も経験しておりました。
家内の実家が仏教だったので、こういうことで間を取ってという言葉が適当なのかどうか分りませんが、なぜか結婚式は神式で挙げました。当時海外赴任中の私が親に任せていたら、両家の親同士で侃侃諤諤の議論の末そうなってしまったようです。
そんな訳で、家内のキリスト教との係わりについては、結婚してから初めて知ったわけです。しかしながら、後から振り返ってみると、こうしたことの一つ一つが主のご計画によることで、私達の命が全て神の御手の中にあると言うことを、しみじみと感じさせられています。

新婚生活は、インドネシアのジャカルタで始まりました。勤務先の社宅が10軒ほど立ち並ぶ郊外の住宅地でした。幸いなことに一番の若輩と言うことで、上司、先輩の奥様方が新妻の面倒を一生懸命見てくださいました。その中に、カソリックでしたが、二人の奥様が何かと家内の世話をしてくれて、あちこちと引き回してくださいました。後にその活動がジャカルタの日本人キリスト教教会へと発展していきました。まだ洗礼を受けていなかった家内でしたが、若い働き手としてそれなりの用いがあったようです。
今から思うと、それが我が家でのキリスト信仰のきっかけとなっていたのではないかと、感謝しております。1970年代後半の頃のことです。

その後、日本に戻り5年ほどして、1985年にドイツ・デュッセルドルフに家族ともども赴任いたしました。1年後に家内がデュッセルドルフ日本語教会で洗礼を受けました。日本の農村地帯で20年ほども開拓伝道されていた故カール・エンゲルモア牧師により、全身礼による洗礼式でした。その頃から、私も時々教会へ顔を出すようになりました。
その直接的なきっかけは、年に一度の在欧日本人クリスチャン夏季修養会でした。その年は英国のロンドン北北西100キロくらいのミルトンキ−ンズにある英国暁星国際学園が会場でした。夏休みで生徒のいない学生寮と校舎を使っての修養会で、ドイツ各地のみならずノルウェーやウィーンやパリ、ロンドンなどから大勢の日本人プロテスタントとその家族が集まりました。
実は、私は半ばだまされてこの修養会へ参加したのです。ある日、教会の役員の方から電話を頂き、「今度の修養会はイギリスなので、吉野さんのお好きなゴルフもできますから、キャディバッグも積んで車で家族そろってお越しになりませんか。」とのお誘いです。ちょっと退屈な修養会行事をこなした後は、毎日ゴルフ三昧か、それも好いナー、と思ったのが運のつきでしょうか。実際に自由時間にゴルフ場へ行って見ましたら、夏休みと言うことで小学生、中学生の子供たちが、キャディーマスターからクラブ2、3本を借りて、パターも借りて順番待ちをして混み合っています。結局夕食までのわずかな自由時間も待ち時間切れで、ゴルフはできませんでした。

しかしながら、退屈と思っていた修養会プログラムは、予想外に充実したものでした。各地から集まった牧師先生方やが信者の方々が、熱のこもったお説教や証しをされます。夕食後の賛美の時は、持ち回りで各地の教会員が音楽の演奏をするのですが、欧州という土地柄ゆえ音楽の専門家の会員やそのご家族でプロの演奏家の方々が多く、素晴らしい賛美に触れることが出来ました。
何と言っても、最終日の夜、全てのプログラムが終了して、何とはなしにデュッセルドルフ日本語教会の長老である、片岡惇(あつし)兄のお部屋へ伺った時でした。
虫の知らせというか、私の鼻が余程利いていたのか、はたまたアルコールに飢えていたのか、誰かが持ち込んでいた一本のワインボトルを10人ほどで、紙コップで分け合っていたのです。修養会中は勿論禁酒でしたし、場所柄も高校の寄宿舎ですから、本当にこっそり、でも本当に楽しそうになけなしのワインを分け合って、楽しい時間を過ごすことができました。
この時、何かほっとした気分で、クリスチャンも人の子、と改めて親近感を覚えたものです。
ちなみに、片岡兄の証しはVIPホームページの証し集「マイ・ストーリー」に載っています。淡々と語られていますが、東欧共産諸国崩壊の以前から、仕事の合間を縫って黒田禎一郎師に随行して東欧各国での伝道に力を尽くされていた大変大きな方です。

実は、その頃は仕事に対する自分の姿勢がしっかりしていなくて、悩んでいた頃でした。
私にとっては1980年代、年齢で言えば30歳代半ばから、40歳代半ばまで。誰のために、何のために仕事をしているのか?家族のため?生活のため?なら何故こんなつまらない仕事をしなければいけないのか?本来なら、中学から高校の頃にかけて、いわゆる思春期の頃に、思い悩み、自ら答えを見つけていなければいけない事です。本当に良い年になって、遅れ馳せながら、そんなことを悩んでいました。そんな状況ですから、仕事もいい加減に流れる、挙句は大きなミスを犯して上司からこっぴどく叱られる、後で分ったのですが人事評価もろくなものではなかったようです。

その上、私がドイツに赴任した1985年は、私が携わっていた仕事の面でも、大変大きな転換点を迎えた年でした。その年の9月にいわゆるプラザ合意が主要五カ国の蔵相・中央銀行総裁会議で成立し、円高への舵が大きく切られたのです。5月に赴任し、気分を新たにさあこれから秋の商戦に向け欧州中を走り回るぞ、と意気込んでいた時期でもありました。今から思いますと、この転換は日本の産業構造を根本的に変えるもので、いわゆる護送船団方式・・・一つの産業が仲良くやっていく、その前提として国内需要を上回る設備能力を構えて、国内の商売ではほどほどに儲けながら、安く輸出して、工場のコストを引き下げ利益や競争力を維持すると言う方式・・・を全面的に否定するものでした。私が従事していたのは、まさにその象徴とも言える繊維製品の輸出です。その年の秋の商談後、成約して船積みが始まるのが早くて12月、年明けの1、2、3月に本格化するわけです。その間、円の対ドルレートは240円台から、年明けには190−180円台、1年後には2/3の150円台と大きく円高に振れていきます。240円台を前提に成約したものが、船積みの時には大きな損失を抱えてしまいました。

ともかく何とかしなければいけないと思って、だめもとで新しい試みを始めてみました。そうして取り掛かった開発商品は、文字とおり海の物とも山の物とも分らないわけですから、出張先のホテルのベッドで「神さま、助けてください。私のやっていることがあなたから見て正しければ、どうか結果を出させてください。」と祈っておりました。全く虫のいい話、まさに困った時の神頼み、です。
普通の日本人なら、神社やお寺さんへ行ってすがるのでしょうが、生憎私には主イェス・キリストの神しか祈る相手に浮かばなかったのは、せめてもの幸いでした。

そうこうする内に、本社の仕事仲間、いえ残業後の酒飲み仲間と言った方がぴったりする人たちですが、技術屋、事務屋の友人、先輩達が手を貸してくれ始めました。そんなことで仕事も少し忙しくなり、儲けは出ませんでしたが会社ももう少し見てみようと我慢してくれたおかげで、ドイツには結局5年いたわけです。その間の私を支えてくれたのは、直接的には家族と仕事仲間でした。でも何か大きな働きがあって全うできたのではないかと感じておりました。帰国を前にして聖日礼拝に出席した日、家内の帰国祝福式がありました。その時にエンゲルモア牧師が私を前に呼び寄せ、家内の横に立たせた上で、会衆に向かって、「この男も信者みたいな者だから、一緒に祝福しましょう。」と言って下さいました。自分では、気がついていなかったのですが、周りからそのように見られている、少しは神さまに引き寄せられていることが分りました。

そうやって、1990年5月に日本に戻り、家内は宝塚仁川教会に通い始めました。二年後に私が後に受洗することになります。主任牧師の茂洋先生は当時神戸女学院大学教授で、かつその教会を伝道所から立ち上げられた方です。また、時折説教をされる高森昭先生も関西学院大学神学部教授、神学部長を勤められた方でした。私と言えば、気が向いた時に教会に顔を出しては、このお二人の説教に大変感銘を受けておりました。そして何よりもお二人の素晴らしいのは、受洗前も受洗後もたまにしか教会に顔を出さない私を、何時も両手を広げて受け入れてくださったことです。

その年の8月の夏休み、私の帰国を待っていたように私の父が亡くなりました。子どもが誰一人洗礼を受けていないこと、何よりも一番教会に近い私が、ノンクリスチャンとして父を天国に送ることになったのは、何か非常に大きい負い目と言いましょうか、そんな感じを持ちました。その二年後、今度は家内の父親がなくなりました。彼は仏教徒ですからお葬式もお寺で行われました。その時私は親族席に座っておりましたが、私自身は仏教徒では絶対ない、でもクリスチャンでもない、とても中途半端な状況に置かれて、これではいけないなと、漸く受洗へと傾いていきました。そしてその年のクリスマス礼拝で洗礼を受けたのです。丁度46歳でした。

実は、帰国してから受洗するまでの二年間、会社生活でも色々とありました。社内の昇格試験では結局駄目で、これはそれまでの人事評価が低すぎた事も影響していたためでした。丁度団塊の世代で昇格枠が狭くなり始めたこともありましたが、いわば自業自得です。追いかけるように子会社への出向を命じられました。ドイツ赴任前から何とはなしにそんな事もあろうかと思っていので、比較的冷静に受け止められました。家内からも、「新しい仕事で頑張ればいいじゃない。」と、励まされたのも救いでした。
洗礼を受けたのはそんな状況が続いているなかでした。
信仰を告白し主イェス・キリストの贖いと赦しを実感しましたが、漸くこの世のこと、自分の仕事の意味に思い悩まなくて済む、ひたすら神の示す道を歩けばよいと感じたことが、冒頭のみ言葉に凝縮されているのです。
言い換えれば、これまでは自分で生きていこうとしてもがき苦しむ状態だったのが、洗礼を受けて主イェス・キリストを受け入れることは、主に生かされて歩む人生の喜びを与えられたのです。
不思議なもので、そうやって吹っ切れてみると、仕事への取り組みというか、心構えが変わってきました。仕事をするのも、神様のため。この仕事に対して神様はどう考えておられるのか、祈りの中でそのように問いかけてみると、自分のやろうとしていることの愚かさとか、心の邪さとかが結構見えてくるものです。私にとって、主イェス・キリストを信ずるということは、私の考え方、行動に、これまで得られなかった芯のようなものを与えていただいたのです。

この世の生業のことですから、それ程美しいものではないかもしれません。時には人を叱責し、或いは意見の違う人を押し切って仕事を進めることもあります。しかし、これで良いのか、と何時も神様に問いかけることで、心に余裕ができる、冷静になれるのは確かです。神様は決して私の貧しい問いかけに答えてくれるわけではありませんが、主にあって生きる私に生きる力、喜びを与えてくださいます。

子会社には定年までと思っていましたが、会社の方針が変わったこともあり、1998年に本社に戻りました。スタッフや事業の責任者などを経て、2004年にアメリカの子会社の運営を任され赴任しました。日本人とアメリカ人のメンタリティーの違いに始まって、かっての駐在員事務所時代から堆積してきた様々な制度上の澱みたいな物が溜まっていました。その当時相談していたコンサルタントに言わせると「かなりヤバイエネルギーが溜まっている」と言われました。しかしながら、考えあぐねている暇はありません。何が会社にとって、社員にとって良いことなのか、ひたすら主に問いかけるしか術がありません。その上で、部下と相談しながら色々と人事処遇など制度上の手を打っていたのですが、私だけでは恐らく出来なかったでしょう。勿論コンサルタントの方々や部下の人たちの素晴らしい働きがあったのは事実ですが、神様に問いかけることで、私自身の背中が押されるような、或いは確信のようなものを持てたのは幸いでした。

そんな時にニューヨークにある日米合同教会に通い、その信仰の仲間を通じてVIPインターナショナルの存在を知りました。
クリスチャンとしてのこの二つの集まりを通じて、私は益々主への祈りの大切さ、その恵みの大きさを実感するようになりました。

日米合同教会は110年以上の歴史のある、プロテスタント超教派の教会です。そこに集まる人たちは、2世、3世の方々、留学や仕事の都合で米国にやって来てそのまま定住されている方、或いは留学生など。私のような企業の駐在員はむしろわずかでした。私は、仕事の上での悩み、先ほど申し上げたアメリカの会社の経営上の迷いを全て神に委ねて導いていただこうとの思いで教会に通い、そして祈りました。その中から、自分なりに取るべき道を模索し、見つけていくことができると信じていたのです。ですから、企業の駐在員こそ、私と同じように悩んでいるはずなのに、何故ここに集う人が少ないのか?と疑問を持ちながら、何とかそうした方々を導くきっかけを作れないものか、との思いももっておりました。

さて、この教会は様々な背景を負った人たちが集まるわけですから、当然教会のあり方や、礼拝の持ち方など、色々と意見の相違があります。そんな時一生懸命祈り、その祈りを合わせている人たちの群れがあり、教会として大きな力となっているのを目の当たりにしました。そうした皆の祈りが実っているのでしょうか、若手のリーダーを中心に悩みながらも力強い信仰の歩みを続けています。また、これからも続けて行って欲しいと祈っています。

日米合同教会と併せて、加藤誠彦(のぶよし)兄が主催されるNY VIPの集会も、企業駐在員の方々に対する格好の導きの場所と思いました。
ところが、私が集い始めた頃は、加藤兄がNYでの最大のミッションとされていた、徹夜祈祷会は会場難で中断されていました。また月例集会も定例会場だった韓国教会の都合で確保が困難になりました。そのうち、祈りの中から集会の会場が新たに与えられ、また加藤兄の念願であった徹夜祈祷会も今年の2月から毎月もたれるよう会場が備えられました。何と言う恵みでしょう。

そして、その初めての徹夜祈祷会に、私達に神様は見事な恵みの業を示してくださいました。総勢7名で行われた祈祷会。加藤兄が常々「徹夜祈祷会は本当に素晴らしい。」と口にされていたのですが、私を含めて、何人かは「兄の言われる素晴らしさって、何だろう?」と半信半疑の思いで参加したのです。そして、その時大いなる恵みが顕わされたのも、同じような思いで参加したある兄弟の上でした。まさに、私にとっては、クリスチャンになる前のご都合主義の「困った時の神頼み」の祈りから比べ物にならないほど深い、聖霊に満たされた祈りによる、赦し、癒やし、そして恵みが体験できた貴重な機会でありました。

恵みを顕された彼は、一度企業に勤めた後、一念発起して米国の大学に留学し、結婚し、現在博士論文の最終審査にかかっているところでした。今年初めに大変な通風の発作に襲われ、暫く学業も停滞し、指導教授以外の学科の教授たちからも非難され、辛い立場にあった時だったそうです。そんな状態で「取りあえず」の気分で初めての徹夜祈祷会に参加されたのです。
祈りによる癒しを体験されたT兄弟から、今日の証しを通じてご紹介することに許可を頂いておりますので、日米合同教会の有志が発行する冊子に掲載された彼のメモからかいつまんでご紹介します。その後彼はもっと完成された形で証しをされているのですが、とりあえず直後に備忘録的にまとめられたものから引用させていただきます。箇条書き風なので、やや意味が分りにくいかもしれませんが、それだけに臨場感にあふれるものですので、是非お聞きいただきたいと存じます。

『右足首捻挫と少々きつい通風の発作のため杖を持参。夜は発作が特にきつくなった。痛みも熱っぽさもありかなり苦しい。1時間ほど祈祷会に参加して教会で仮眠を取り、翌朝学校に言って、仕事をしてから昼過ぎになるべく早く帰宅して睡眠を取ろう、と考える。
23時30分過ぎ、加藤兄弟から祈祷会スケジュ−ル説明。・・・中略・・・賛美スタート。聖歌、賛美歌、ゴスペルなど、NJ日本語キリスト教会の礼拝で使用する冊子使用、
・・・中略・・・
(司会者)賛美から流れるように「祈祷課題と分ち合い」へとシフト。「とりなし」も大体3−4人ペースで無理強いせず。間をおかずに賛美にシフト。
(印象)とにかく間を空けない。雑談やおしゃべりをする間を与えない。賛美ととりなしのリズムを作りあげていく感じ。
(祈りを示された参加者)「雑念の伴わない」「満たされた」「力ある」祈りへと導かれる。
(一体感)他の参加者は祈りに合わせて大きな声で「アーメン」と唱和。 参加者全員の心が一直線に祈祷課題に向かう実感。共に主を見上げている一体感あり。
(達成感)「参加者全員で神様の御臨在を体験している。」
(雑念が伴わなくなると)こんなにも「聖霊に満たされていると感じる」ものなのか。こんなにも時間にとらわれなくなるのか。
日常生活でどれだけ「雑念」に押しつぶされているのか実感。この「雑念」の根は「罪」。「罪」に巧みに誘惑を加えて「雑念」を助長させるサタンのシッポをつかんだようだ。
(私の祈祷課題と分ち合い)「通風の癒し」など4つの祈祷課題をだす。そして祈祷課題の背景として「教会生活と共に歩んだ」留学生活について分ち合い。
(気持ちの高ぶり)母教会であったボゴタNJ教会閉鎖の思い出、合同教会での「つまづき」の数々、そして留学生の求道者たちのケア主宰、牧師のサポートとして聖研を指導したときの葛藤、学業での試練、病気のことなど証しするうちになぜか次々に心の底に押し込んでしまっていた言葉に出来ない「感情」が表出。
(押し込められていた感情)感情が先走り何を言おうとしているのか自分でもポイントを見失う。それでも何としても表出したい感情あり。研究でのスローペースに教授から叱責された惨めな自分も告白。ぎりぎりの状況の中で押し殺してきた感情が今まさにとめどもなく押し出されてくる。
(メンバーの反応)全員頷きながら聞いてくれる。司会者が「T兄弟のために祈りましょう」と言って祈祷に入る。全員が祈ってくださった。
(按手)NJ日本語教会のU兄弟「それでは田部さんのために全員立って手を触れて祈りましょう」。全員が立つ。
(痛風発作のいやし)恥ずかしいほどに自分の「押し込められていた感情」を表出してしまった「みじめな私」を、参加者全員が取り囲み、手をおいて「聖霊に満たされた」祈りで包み込んでくれた。「赦された」という安堵感。「聖霊」が私の魂に触れてくださった。「みじめな自分を受け入れてもらえた」と感じた瞬間に右足の発作がフーッと消えた。右足首、発作後に良くある鈍いしみ入るようなぎこちなさのみ残る。(ふつう、発作は痛み止めを飲まないとおさまらなかった。発作は特に夜になるとひどくなった。発作は睡眠不足でひどくなった。なのになぜ???)
(終了)あっという間に(午前)5時45分。
(黙祷)最後に5分間の黙祷。聖霊充満の心が現実に引き戻されるときに破壊されないようにするために大切な沈黙であると感じた。
(直後の心境)私を含めて誰一人途中退席して休憩するものなし。誰一人仮眠するものなし。誰一人「眠い」と言わない。皆、まだ分ち合いしたくて帰りたくない。私など発作と熱っぽさで苦しんでいたのが嘘のように癒やされて気持ちいい。
(ひとことで言うと?)K兄弟とY兄弟が「たおやかな時間の流れ」だったと。この言葉、ツボにはまりすぎている。』

まだまだ彼の証しは続くのですが、主は本当に素晴らしい御業を、私達徹夜祈祷会の参加者に示されたのです。祈ることの大切さだけでなく、祈りを合わせていく、それによって主の示される聖霊の御力がいや増すことを、この赦しと癒しの御業を通じて、私やNYの信仰仲間に示され、神への信仰への確信をさらに強めてくださったのです。本当に感謝です。

私にとって祈りと言うものは、最初は困った時の神頼みのような幼稚なものから始まったのですが、主はその御業を示して力強く祈りに応えてくださいます。

最後にエフェソの信徒への手紙第1章のパウロの祈り、第17節から19節を引用してこの証しを終わらせていただきたいと思います。
「どうか、わたしたちの主イェス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることできるようにし、心の目を開いてくださるように。そして神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなされる神の力がどれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」 
アーメン

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