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語ろう!フライフィッシング。コミュの〜梶井基次郎「櫻の樹の下には」の感想と私の不機嫌およびカディス〜

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〜梶井基次郎「櫻の樹の下には」の感想と私の不機嫌〜

 先程は大それた「日本の文学」を絞りに絞り、ついに『本の読み方』」に誤魔化しました。ここでは今、長谷川さんが紹介しましたその時代に、優れた感性を持った梶井基次郎の『櫻の樹の下には』のことについて、私の感想と“私の不機嫌”を述べて、私なりの「本の読み方」を紹介していと思います。
 短文なので、その小説の全文をコピーし、みなさんに配布しました。これでブックオフで本を購入する必要はないと思います。これは私の策略です。ふっふっ。

『櫻の樹の下には』を読んだ多くの人は、とても感動したと思います。しかし、私は梶井基次郎の口癖を借りれば、私も感動したものの、“何か違和感があって不安でかなり不機嫌”でした。また、多くの読者は本当にこの小説あるいは情景や彼の心的現象が見えているのであろうかと危惧しました。それでこの場を借りて、私の不安を取り除くため、やや不機嫌にこの小説の内容についていくつかに触れます。

ここで言う桜の樹とはどの種類の桜でしょう。この場合の桜は山桜(ヤナザクラ)です(ここでは詳細を省きます)。時期はおそらく5月と断定します。何故なら私は毛針釣り師(フライフィッシャーマン)で、彼がこの頃過ごした中伊豆の天城湯ヶ島周辺、また鹿野川は私の庭みたいなもので、彼が見た桜の場所さえ特定できるほどです。彼が暮らし、「伊豆の踊子」の川端康成と会った旅館は、本谷川と猫越川の合流点で鹿野川にそそぐ場所にあります。彼が見た桜は、その旅館(実は私の釣りの常宿です)のさらに上流です。そこはひなびた温泉があって、河原には桜の樹が林立し、灯火もあります。そして岩を降りた流れには多くの魚が集まっています。つまり釣りのメッカなのです。
この中伊豆には多くの文士が集まった、まさに文士村です。若山牧水の歌碑も梶井基次郎文学碑もあります。彼が見た山桜はここです。若山牧水の短歌をあげます。『うすべにに 葉はいちはやく 萌えいでて さかむとすなり 山桜花』

この『櫻の樹の下には』についての批評文を発見しましたので、ちゃっかり引用しました。批評文はこう言っています。【この作品は全編に渡り主人公のモノローグという手法で以って描かれる。主人公は一般的に満開の桜の樹に代表されるように心の澄まされる美しい情景の直視に堪えられず、それらに負、即ち死のイメージを重ね合わせる事で初めて心の均衡を得ることが出来ると語る。美しいものと対峙した時、自らが劣等感を負う事を回避せん為にこうした不快を敢えて求めようと云う奨めであると解釈する。】。まあ適切な批評です。しかし、私は違う感想を持ちました。
私はこの『櫻の樹の下には』には、何か“説明不足”いや“描写不足”が存在している不安に囚われます。だって、「渓」「溪の水が乾いた磧」「石油を流したような光彩」「薄羽かげろうの屍体」と言われてみなさんは解りますか?はい、解る方いらっしゃいますか?ねえ、いないでしょう。
それでは釣り師の私が細く説明します。「渓」とは、山里や源流の渓谷です。この小説の場面は鹿野川、本谷川、猫越川等の渓谷です。しかし、私はさっき言ったように鹿野川の上流だと断定します、おそらく。「溪の水が乾いた磧」。これは流れの緩やかなところを指しています。

ところで、「薄羽かげろうの屍体」と言われて、みなさんは何を想像しますか?かげろうは漢字にすると“蜉蝣”です。この時代には、トンボやアリジゴクも蜉蝣なんです。でも彼、梶井基次郎が見たものは「薄羽かげろう」という水生昆虫です。これは日本語では「トビケラ」です。釣り師の毛針名では「カディス」と言います。トビケラはトンボと違い、幼虫、蛹、そして成虫へと完全変態する水生昆虫です。石のすき間などに糸を張ってつくったすみかにかくれて棲み、成虫期にはパタパタと飛び回るのが特徴で、産卵時には水面を目指し突入し、水中に産卵します。おそらくこの「薄羽かげろう」は大型の「ヒゲナガトビケラ」(2〜3cm大)だと思います。まあここは釣りを話す場ではないので次の指摘をもってやめます。

「石油を流したような光彩」「薄羽かげろうの屍体」と言うとき、私はこれは違うなあと思いました。私の不安とは、彼はどうもその光景を良く見ていないのではないか?後日この小説を書くときその情景に勘違いがあるのではないかと思います。あるいは意図的にその光景を拒否して一面のみに執着したのではないかと思います。病苦で死を悟り、生きることへの諦めとしての彼の心境が、実は違う面をもっている本当の情景を拒否してしまったのはないかと勘ぐるのです。友の批評を借りれば、彼は「自慰的な青二才」なのですから。

今も述べたように、「薄羽かげろう」は産卵のために水面を目指し突入し、水中に産卵します。これを、待ってましたとばかり、ヤマメやイワナ、マスが飛びついて食べます。何と言っても「ヒゲナガトビケラ」は魚にとってはステーキのようなものです。川はこの「トビケラ」と「魚」の争いでとても賑やかです。ものすごい数の虫の誕生と死。釣り師はその光景をスーパーハッチと名付けています。しかしそこは“生と死の壮絶な戦場”です。私にはこの“生と死”は生涯や運命、人生といったことにおいては“躍動”と捉えています。ですから「石油を流したような光彩」とは私にはどうしても理解できないのです。確かにその賑やかさに月や灯火があたれば、それはキラキラと光彩して綺麗に見えます。もっと言うと、実は梶井基次郎にとって、見えたはずの“躍動”が嫌で不安になったのではないかと思います。私は釣りでこんな場面に幾度も逢いこころが少年のように踊りました(釣り師もなかなかこんな光景に出会さない)。
みなさんがこうしたどこかの川に旅をしたら、旅館の食事時間を繰り下げてもらい見に行って下さい。一度見たら感動しますし、旅に得したなんていうもんです。。まさに「川は生きている」の一言です。

私は彼に、読者に対してほんの少しでもいいからその情景に触れて欲しかった、と思います。そうすればこの情景がいかに素晴らしいものか。私は悔しいのです。何故、この魚の躍動を一行も書かなかったのか。それは先に述べた「不安」にあると思います。でも彼は、どうしても“生きるという躍動”は書きたくなかった、書けなかったのかもしれません。でも彼は「・・・産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。」とちゃんと見ているのですよ。私は“生も死も”同じだって思えるのです。
もし、『櫻の樹の下には』にそうした情景描写があったら、何てかんたんで素敵な小説であろうと私は思いますが、みなさんはいかがでしょう。

ああ、情景に囚われ、情景の補足説明に時間をとりました。それでは、次に私の“変だなあ、不思議だなあ”っていう梶井基次郎のこの『櫻の樹の下には』の心的な現象を二点だけあげます。

彼は冒頭で「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。」と言います。

何故“〜のような”、が連続するのでしょう。すでに彼には、安全剃刀の刃、灼熱、陰気、憂鬱、爛漫、屍体、貪婪、墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような残忍、さ青(あお)に煙らせている木の若芽、心象は明確になって来る。と言い、俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。おまえは腋の下を 拭いている、べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。と言っているではないか。

「俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。」とある。彼は心的には何か安定を得、平衡感覚をすでにもっているではないか、と私は言いたいのです。ところが、それでも不安だから、「俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。」と言い出す。しかし、かなり彼はこの時には“平衡感覚”を持っているなあって私には思えてならない。
もしそうなら、「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体・・・」とではなく、明確?に「馬の屍体、犬猫の屍体、そして人間の屍体、・・・」と言えばいいのではないか、って思うのです。この時、梶井基次郎が“〜のような”表現を持ってこざるを得ない事情があったのではないか、とまた勘ぐってしまう。、つまり未だ不安定である、またこれからも不安定であろう、という思い。病苦の死への悟り故に、どうしても“自慰的”になってしまう、って思います。
私は、文学ってそんなものなのかなあって思って、私を文学から遠ざけてしまう気がするのです。そして昔にはや文学を私は遠ざけたのです。だから私は不機嫌になってしまうのです。次の表現に“んんっむっ”と絡んで実は嫌になってしまうんです。だから私は「たかだか20や30歳のガキの気取りか」なんて毒づいてしまうんです。

それは終文の「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。」の【権利】で決定的になってしまいます。私は勢いあまって、“ふん、何だ、この桜の樹の下には”と言いたくなります。それほどの違和感があります。
 「・・・村人たちと同じ権利で・・・」。何故、彼はここで「権利」、「権利」と表現しているのだろう。この「権利」だけが文中で浮いていて文章全体のもつ雰囲気を壊しているではないかと思う。何もこうに言わず、【・・・村人たちと同じように・・・】でいいではないかと。私はふと思うのです。そうねっ、そのとおりねって、清水さんも言いましたよ。

また勘ぐります。この作品に彼は【権利】という文字をあらかじめ入れたかったのではないか。実際に梶井基次郎は、この頃プロレタリア文学にも傾倒し、2年後には資本論など社会経済的な書物の読書に耽っています。カールマルクスの「資本論」をはじめとして。つまり系譜的にもそれは実証されています。その実証は長谷川さんがこの後で精緻に明らかにするでありましょう。
すんばらしーぞ、われらがチーム。われらがマネージャアー、フラメンコ、オレッ!(ここで、フラメンコダンサー清水さんが踊る手はずになっている。そして教室を劇場にしようという私の魂胆は成功する。先生スポットライトはって昨日聞いたら、ダメってさ、ケチ)

このように梶井基次郎は、つねに「不安」と共にあり、また「不安」を創出して行きのです。もうどうしようもなく【美しい情景の直視に堪えられず、それらに負、即ち死のイメージを重ね合わせる事で初めて心の均衡を得ることが出来る】うじうじした自慰的な野郎に違いないと思います。
実はこの後、労基署に行きます。前の仕事で労使の紛争があり、私達は金銭的なものは勝ち取ったのですが、その会社の態度が「気にいらねえ」「納得いかねえ」って言う36歳の青年M君と一緒に。そして、その後、立ち飲み屋で酒を飲むことになっています。でもきっと、彼は再び「気にいらねえ」「納得いかねえ」と言うにきまっています。M君は大学を出てキャバレーの呼び込みをしていたと言います。もの凄い本好きで、いつも本を読んでいました。今も毎日、図書館にいっているようです。
M君は、つまり社会との“切り結び方”が解らないのです。ですから、私の共からも「そうしてあげて」って言われたので、こいつにはとことん付き合ってやろうと思っています、それは老人が若者に精いっぱい教えてあげるぎりぎりの礼節だと思っています。こんなM君はとても梶井基次郎に似ています。

私ごとになりますが、私の人生はとても波瀾にとんでいます。まあ、4回は死んでいるでしょう。ですから、いつ死んでも、友人達はみな納得するでしょう。でも何故かピンピンに生きています。実は、私は私に訪れる人をじっと待っています。共のみがそれを知っています。それまでは絶対に死ぬもんか、絶対に老いるもんか、絶対におしゃれでいよう。絶対にもの静かでいよう。絶対に高貴であろう、って一生懸命なんです。
私は、こんなチャラ男ですが、相当な馬鹿でお人好しであります。そんな自分はどうも変わりようがないから、って思い【馬鹿道】を究めているのです。もしそんな私を支えてきた、支えているものがあるとしたら、それは「決意」です。決意のみが私を生かしているんです。

そう“生の躍動”を生きているのです。

その訪問者がやって来たら、私は優しく抱きしめたいって思っています。公園に行き空を一緒に眺めたいって思っています。
そして、それが叶ったら、私は約束の場、スペインはアンダルシアにあるでしょう。その花畑で、ご機嫌に踊るでしょう。いつまでも、いつまでも。

解るかい、基次郎君、エセーニン君。“生きるも死ぬも同じ”なんだ。躍動しない人生って何なの?ってつい言っちゃうのです。

あれえ、ちょっと感傷じみてきました。最後にもう一度梶井基次郎を呼び戻しましょう。そして言うのです。「・・・てめーみてーなやつは早く死ねっ!」「男はなあ、けりをつけろ、きっちりとけじめをつけるんだっ!」って。(あれ、先生みたい・・・)
笑い話になりますが、「桜の木の下」。だったら私が書き直してあげようか、つづきを書いてみようかって気負いもしたくなります。みなさん笑ってくだしゃんせい。わあああって。

まあ何れにしても優れた私小説家です。きっとみなさんは彼の他の作品『檸檬』や『城のある町にて』も読みたくなったでしょう。本はそう読むのもいいのです。はい、それでは『檸檬』や『城のある町にて』を読みたくなった人・・・・・。ほーら。ねえっ。

梶井基次郎『櫻の樹の下には』は、優れた詩であり絵画です!

*このスクールでこんなことができたことを、まあ、私には劣るが、好男子のダンディ先生ポールステュアートに感謝しまーす。パチパチ!

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