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ナーガールジュナ(龍樹)『中論』コミュの 「中論」 第1章 原因(縁)の考察

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一 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他者のものからも、【自他の】二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。

二 縁は四種ある。原因としての縁(因縁)と、認識の対象としての縁(所縁)と、心理作用がつづいて起こるための縁(等無間縁)と、助力するものとしての縁(増上縁)とである。第五の縁は存在しない。

三 もろもろの事物をそれらの事物たらしめるそれ自体(【自性】、本質)は、もろもろの縁のうちには存在しない。それ自体(本質)が存在しないならば、他のものは存在しない。

四 【結果を生ずる】作用は、縁を所有するものとして有るのではない。また作用は縁を所有しないものとして有るのではない。縁は作用を所有しないものではない。あるいは縁は作用を所有するものとしてあるのであろうか【そうではない】。

五 これらのもの【A】に縁って【結果が】生ずるのであると
いう意味で、これらのもの【A】が縁であると、人々はいう。
しかし【結果が】生じない限りは、これらのもの【A】はどうして<縁でないもの>でないということがあろうか(それらのものは縁ではないのである)。

六 ものが有るときにも、無いときにも、そのものにとって縁は成立しえない。【何となれば】ものが無いときには、縁は何ものの縁なのであろうか。またものがすでに有るときには、どうして縁の必要があろうか(そのものは、すでに有るのであるから、いまさら縁を必要としない)。

七 ものは有るものとしても生起しないし、無いものとしても生起しないし、有りかつ無いものとしても生起しない。こういうわけであるから、【何ものかを】生起せしめる原因なるものが、どうして成立しえようか(何ものかを生起せしめる原因なるものは、理に合わない)。

八 有るものとしてのこのものは、対象を有しない(無所縁)と説かれている。ところでものが対象を有しないのであるならば、どうして<対象>(所縁)が成立するであろうか。
※所縁が成立しえない、との主張 

九 もろもろのものがまだ生じないうちに、滅するということはありえない。それ故に【生じた】直後に滅するということは、不合理である。またすでに滅したものには、いかなる縁が存するであろうか。  
※等無間縁が成立しえない、との主張

一〇 それ自体(本体)の無いもろもろのもの(有)には有性(あること一般)が存在しないが故に、<このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない。

一一 もろもろの縁の一つ一つのうちにも、またもろもろの縁がすべて合したうちにも、その【縁の】結果は存在しない。もろもろの縁のうちに存在しないものが、どうしてもろもろの縁から生じるであろうか。

一二 もしも「それ(結果)は【もろもろの縁のうちに存在しては】いないけれども、それらの縁のうちから現れ出るのである」というのであるならば、【もしそうであるならば】結果は、縁でないもののうちからでも、どうして現れでないのであるか。

一三 もしも「結果は<縁が変化して成立したもの>である」というならば、その縁は自存(自分自身にもとづいて成立)しているものではない。またもしも結果が自存しているのではない【縁】から現れ出るのであるとするならば、その結果は、どうして<縁が変化して現れ出たもの>であるといいえようか。

一四 それ故に、結果は<縁が変化して現れ出たもの>ではない。また<縁でないものが変化して現れ出たもの>なのでもありえない。結果がないのであるから、どうして<縁>と<縁でないもの>とがありえようか。

コメント(19)

第二詩は、所謂世俗諦としての縁でしょう。巨大な文脈=カルマの中に産み落とされた自己が認識する現象世界についての知識、とでも呼びましょうか? 

むろんNいう本来の『縁』は第三詩に集約されます。

でも、「しがらみ」は現実には無視できないもの。
結局「苦しいときの神だのみ」が、「苦しいときの相互依存だのみ」に変わっている小生なのでした・・・

  
Last Longingさん

>むろんNのいう本来の『縁』は第三詩に集約されます。

第三詩は本来の縁について言っているとゆうよりも、どのような種類の縁を見渡してみても諸々の事物をそれであらしめる自性は発見することができない、ということを言っているのではないでしょうか?
〉78910さん  そうだと今は思っています。こういう場所は恐いですね。お勉強の課程がぜーんぶ残ってしまいます。ただ、N のどれにも言えますが、触れるものの段階により、開示されるものがかわる多層構造を呈しているように思います。
14世のダライ・ラマさんは、日本の真摯に仏道を学ぶ私たちに対して、『中論』を読みなさい、『中論』を読みなさいとご指導くださっています。
『中論』は読むたびに、私たちの学びの深さ、進展に合わせた気づきや味わいを私たちにもたらします。
人生のさまざまな時に『中論』を開き、繰り返し読ませていただきたいものですね。
>「中論」第1章 原因(縁)の考察
一 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他者のものからも、自他の二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。


私たちはさまざまなものをとらえる、認識するわけだが、どんなものだろうとそれ自身から生じたのでもなければ、
じゃあそれとは異なる他のものから生じたのかと言えばそうでもなく、
では自と他の両方から生じたのかと言えばそうでもなく、
じゃあ原因なしに生じたのかと言えばそうでもない、
と結局あらゆる場合をナーガールジュナ師は否定する。
>二 縁は四種ある。原因としての縁(因縁)と、認識の対象としての縁(所縁)と、心理作用がつづいて起こるための縁(等無間縁)と、助力するものとしての縁(増上縁)とである。第五の縁は存在しない。


ナーガールジュナ師は縁というものを四つの種類に分けられ、それ以外はないと言う。
1.何らかのものの原因としての縁(因縁)。
2.私たちの認識の対象という意味の縁(所縁)。
3.心理作用が相続してゆく場合の縁(等無間縁)。
4.助力する働きをする縁(増上縁)。
>三 もろもろの事物をそれらの事物たらしめるそれ自体(自性、本質)は、もろもろの縁のうちには存在しない。それ自体(本質)が存在しないならば、他のものは存在しない。


先ほどナーガールジュナ師は、縁というものには四種類あることを見た。
そこで次にここでは、それら四つの縁の観点から果たしてものの自性、本質というものが見つけられるかどうか検討する。 
しかしどこにもそれが見つけられないことがわかると、自性がどこにも見つけられないなら、そうでない非本質的部分だってありようがないじゃないかと言う。
>四 結果を生ずる作用(原因のこと)は、縁を所有するものとして有るのではない。またこの作用(原因のこと)は縁を所有しないものとして有るのでもない。
縁はこの作用を所有しないものではない。あるいは縁はこの作用を所有するものとしてあるのであろうか(そうでもない)。


ここでナーガールジュナ師は、四種類の縁のうち因縁に焦点をあてて考察していらっしゃる。
原因と縁というのは一体どういう関係にあるのかとナーガールジュナ師は考察する。
原因が縁を持っているのか持たないのか。
縁は原因を持たないのか持っているのか。
>五 これらのものに縁って結果が生ずるのであるという意味で、これらのものが縁であると人々はいう。しかし結果が生じない限りは、これらのものはどうして<縁でないもの>でないということがあろうか(それらのものは縁ではないのである)。


この文章はとても意味がつかみづらいですね。果たして何を言いたいのか。
この中村元先生の訳は本当に正しいのかさえ疑ってしまうほどです。
後段は、結果が生じないなら、それらは縁ではないのであるということを言っているだけなのか。
>一 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他のものからも、自他の二つからも、また無因から生じたものも、あることなし。


9世紀前半を中心とする前伝期のチベットではサムイェーの宗論以来、バーヴィヴェーカやシャーンタラクシタやカマラシーラの中観思想が最高の仏教哲学だと考えられていたが、
ニマタクによってチャンドラキールティの『プラサンナパダー』が初めてチベット語に翻訳されると、そこでチャンドラキールティがバーヴィヴェーカを批判している議論が明らかになり、中観思想の中に自立派と帰謬派の区別が生まれるようになった。
「どんなものも、どこでだろうと、何だろうと、それ自体から生じるわけではなく、
他のものから生じるわけでもなく、
それ自体から、かつ他のものから生じるというわけでもなく、
それ自体からでもなく他のものからでもなく生じるというわけでもない。」
(『中論』1−1)


4つの句を取り上げて徹底的に否定するという仏教お馴染みの論法ですね。
これによって結局、何かが生じるということは一切否定される。
「縁には四種類が考えられる。
原因としての縁と、
われわれの認識がとらえるところの縁と、
心が連続するための縁と、
離れて助ける縁だ。
それ以外の縁はない。」
(『中論』1−2)


ナーガールジュナは前の第1頌にしても、この第2頌にしても、極めて正統なアビダルマに立脚して立論している。
「諸々のものをそれたらしめるそれの本質のようなものは、四縁のどれにも見出せはしない。
本質が無いならば、その他の構成要素もなおさらあるはずがない。」
(『中論』1−2)


日本語へわかりやすく翻訳するのは難しい。ぼくはここの文章はこういう日本語にしてみましたが、皆さんはどうお考えですか。
第3偈前半 実に諸法の自性は縁などにおいて存在しない。

ここでナーガールジュナ師は自性という言葉を、諸法に属するもの、諸法の本質的性質または本質という意味で使っている。そして自性という言葉をこのような意味で使うのは、仏教史においてごく一般的な使い方だと言われていますね。
自性という言葉をごく一般的に使われている通り、「諸法の属性で本質的性質あるいは本質のこと」という意味合いで第1章の第3偈前半や第13章の第3偈などで使っていたナーガールジュナ師は、
第15章にくるとこの自性という言葉に諸法の属性ではなく(すなわちある法がそれを持つか否かという問題ではなく)、ある法がそれであるか否かという基体のレベルの話だという定義づけを与える。
この微妙な定義のずらしによってナーガールジュナ師は縁起するものか縁起しないものかという二者択一的な鋭さを議論にもたらすことに成功する、と松本史朗氏は指摘する。
いつもありがとうございます。ダライラマ14世が中論を読みなさいといわれているのですか?心して読ませて頂きました。
>>[16]

はい。そうおっしゃっています。私もその言葉に尻を叩かれるようにして、たびたび『中論』を手に取って、その時その時の自分の成長度に合わせて読ませていただいている次第です。
>>[13]

これは1-2ではなく1-3です。 訂正します。
1-4の考察
結果を生起する働きは原因を所有するものとして存在するわけではない。
では、結果を所有しないものとして存在するのかといえば、そうでもない。
すなわち、結果を生起する働きは存在しない。
また原因は、結果を生起する働きを所有しないものとして存在するわけではない。
では、結果を生起する働きを所有するものとして存在するのかといえば、そうでもない。
すなわち、原因なるものは存在しない。


このナーガールジュナの論の持ってゆき方は素晴らしい!

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