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ナーガールジュナ(龍樹)『中論』コミュのウィトゲンシュタイン、ソシュールの言語哲学と龍樹

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西洋近代の哲学者ウィトゲンシュタイン、ソシュールと古代インドの哲学者龍樹の言語観の類似性はしばしば指摘されています。本も出されてます。ここでは、それらの類似性と違いについて語り合ってみましょう。

コメント(303)

>>[264]

『写像ができない』というのは、どんな場合のことですか?

写像というのは、『これは魚』『これは木』というふうに分別している、その分別された概念の方のことですよね?

『これはナニナニ』と概念化して把握することができないことを『写像ができない』と言っているのですか?
私たちは普通に分別して概念化して把握していますが、どのような場合に写像ができないのですか?
>>[265]

細切れなので分かりにくいですが、虎番さんの話には、どうも以下が登場します。

・見ている主体
・見られているモノ(客体)
・見ている主体の頭の中(内側)にある写像(主体だけが見ているモノ)

以上とはまた別に、客観的な本物があるということですか?
>>[268]

『虎番さんは『外に客観的な実体がある』と考えていることになりませんか?』

という問いへの答えが、

『視覚がないから写像ができないよ』

ということですか?
意味が分かりません。
>>[271]

ひとつひとつ確認させてください。

(A) 見ている主体

(B) 見られているモノ(客体)

(C) 見ている主体の頭の中(内側)にある写像(主体だけが見ているモノ)

(D) 主客の実在視をはなれた真実のすがた=客観的な本物

(E) 主体と客体と写像がセットになったものであり、同時に他のものとなんの関係もなく存在できるもの

という5つがあって、そのうち(E)は架空の存在であり、残りは実際に存在する、というのが虎番さんの考えですか?
ああ、もしかすると、私のコメント225が間違っていると言いたいのかな?
要するに、私に間違いを認めさせたいのですか?
そうであればそうと言ってくれれば、ここまで議論を混乱させずとも認めますよ。
私の主張の主題はそこではありませんから。
外にカメラ実体があることを間違いないと言った私は間違っていました。
もっと、丁寧に話すべきでしたね。
実を言うと、あのコメントをした日は、だいぶ寝ぼけていました。
>>[275]

ははは。
私くらい一生懸命に説明する人は少ないんですけどね。
一生懸命説明すればするほど、疑われるという(笑)。
>>[274]


おお、ようやく言葉が出てきましたね。
とても良い傾向です。

後期ヴィトゲンシュタイン風に言えば、言語には正しい意味はありません。
用法を聞くことで、虎番さんの言語ゲームに参加できるかもしれません。


>(A) 見ている主体 
>見ているというか外のものが強制的に流れ込んできているって感じ、

ならばこれは、一般的に言う『意識』とでも呼んだ方がシンプルで良いですね。
(A) 意識(主体)
としてみましょう。 

>(B) 見られているモノ(客体)
>見られているってのも変かな、
>質問に質問返しは駄目だけど何を見てるの? 目にうつる物は何?

ならばこれはこうしましょう。
(B) 意識(主体)が注意を向けているモノ(客体)


>(C) 見ている主体の頭の中(内側)にある写像(主体だけが見ているモノ
>流れ込んでいるものが客体のコピーの写像、
>隣の人も色は違うかもだけど目に映ってるものは同じ、
>(幻覚を見たことがあるから違うかも)
>ここの表現ちょっとなおしたんだけど、
>まえの表現は自分も主体だけど隣の人も主体

ならば、これはこうしましょうか。
(C) 意識(主体)がモノ(客体)に注意を向けたことで意識(主体)の内側に浮かび上がったモノ(客体)のコピーの写像


>(D) 主客の実在視をはなれた真実のすがた=客観的な本物 これはok

これは、『(B) 意識(主体)が注意を向けているモノ(客体)』と何が違うのかと言うと、
意識(主体)が注意を向けているかどうかが違うようです。
よって、虎番さんは、意識(主体)が注意を向けているときと、意識(主体)が注意を向けていないときとでは、モノ(客体)の在り方が違う可能性を考えているということかと思います。
普通に考えばBとDは同じですから、第三者が読んでも一般的に分かるように表現するとしたら、

(D) 意識(主体)が注意を向けていないときにある誰も直視したことのない、対象の真実のすがた

こんなかんじでしょうか。


>(E) 主体と客体と写像がセットになったものであり、
>主体(の頭の中の写像)と客体はセット、

これは非常に分かりにくいです。
いずれにせよ、『A+B+C』ということのようですので、

(E) 意識(主体)と、意識(主体)が注意を向けているモノ(客体)と、意識(主体)がモノ(客体)に注意を向けたことで意識(主体)の内側に浮かび上がったモノ(客体)のコピーの写像、が重なり合ったもの

ということでしょうか。

そうなると、これは要するに、客体に注意を向けてナニゴトカを認識している状態の意識そのものの状態を言っていると考えて良さそうです。
シンプルに表現するとしたら、

(E) 意識(主体)が注意を向けているときの意識と注意そのものと注意された対象の全体

というかんじにするとシンプルで分かりやすいでしょうか。


>(E')他のものとなんの関係もなく存在できる これだけ架空、

まあ、これは架空であり言葉遊びの上にしか存在しないもののようなので、深く論じる必要はなさそうです。



さて、まとめます。


(A) 意識(主体)

(B) 意識(主体)が注意を向けているモノ(客体)

(C) 意識(主体)がモノ(客体)に注意を向けたことで意識(主体)の内側に浮かび上がったモノ(客体)のコピーの写像

(D) 意識(主体)が注意を向けていないときにある誰も直視したことのない、対象の真実のすがた

(E) 意識(主体)が注意を向けているときの意識と注意そのものと注意された対象の全体

(E') 他のものとなんの関係もなく存在できる架空の存在


こんなかんじでしょうか。

まず、ご自身において、ご自身が普段考えていることが、まあまあこういうふうに表現できるかどうかを考えてみてください。
その後、ご自身でも突っ込みを入れながら、もうちょっと精査してみてください。

ある程度に確定したら、ヴィトゲンシュタインの主張や龍樹の主張、唯識の主張などとの差について説明できると思います。
まあ、今日はたまたまヒマがありましたが、いつまたちゃんと時間作って説明できるか分かりませんが。

でも、たぶん説明することで私も勉強になると思います。
第三者も突っ込みを入れるでしょうし、良い勉強です。
>>[281]

切り株はベンチになり机になり道路上の邪魔者にもなり、炭素化合物にもなり、植物であり燃料にもなります。
無数の相がありますよね?
>>[280]

Dは、私もよく分かりません。

認識しているこっちが主体、認識されているあっちは客体、というふうに考えられている主体と客体を実在視することから離れているということですか?
それは私たちの日常意識と何が異なるでしょう?
私たちは普段、いちいち実在視などしていません。
水を飲むときに、いちいちペットボトルと水と自分を実在視したりしません。
また、『主客の実在視を離れた真実のすがた』がイコール『客観的な本物』というのは、すごく分かりにくいです。
主客を離れているのに客観的っておかしくないですか?
>>[284]

『実在視は外の世界にペットボトルがあると見ること』ということであれば、主客の実在視を離れた真実のすがたというのは、
外の世界に主体がある、外の世界に客体がある、と見ることから離れて見る真実のすがた、ということですか?

普通、私たちは『外の世界に主体があり客体がある』などと思っていません。
多くの人は、トイレットペーパーをカラカラするとき、いちいち主体とか客体とかまったく思っていません。
ということは、私たちが普通にいつも見ている普通のトイレットペーパーが『主客の実在視を離れた真実のすがた』ですか?

私はコトバンクに何が書いてあるかは聞いていません。
虎番さんが何をどのように理解し、何をどのように疑問視しているのか理解しようとしています。
>>[286]


(A) 意識(主体)

(B) 意識(主体)が注意を向けているモノ(客体)

(C) 意識(主体)がモノ(客体)に注意を向けたことで意識(主体)の内側に浮かび上がったモノ(客体)のコピーの写像


私は、上の3つについては理解できます。
そのような関係図でものごとを理解することもあると思います。

虎番さんが286で言っている
『主体は自分、客体は眼より外
視覚に体が映りこんでるのは客体のコピー、』
というのも、要するに上のABCと対応するものかと思います。

私が分からないのは、虎番さんが言っている以下の3つです。


>>[266]
『主客の実在視をはなれた真実のすがた=客観的な本物』

>>[256]
『実体ってのは他のものとなんの関係もなく存在できるもの』

>>[274]
『主体と客体と写像がセットになったものであり、主体(の頭の中の写像)と客体はセット』


この3つは、たぶん虎番さんも自分で言っていて良く分かっていないのでは?

『主客の実在視』とは何ですか?
『主客の実在視』を離れたら、『真実のすがた』が見えて、それが客観的なのですか?
逆に、『主客の実在視』を離れなければ『真実のすがた』が見えず、それが主観的なのですか?

具体的にどんなときに、人は『主客の実在視』をしているのですか?
>>[294]


『内(私側)と外(私以外)に主体(内)客体(外)を認めること』

というのは、とてもおかしな文章です。
先に、内(私側)と外(私以外)を認めておいて、そこに主体と客体を認めることが主客の実在視である、というのは、実は何の説明にも成っていないのではないでしょうか。

『内(私側)と外(私以外)に主体(内)客体(外)を認めること』
というのは、シンプルに言い換えれば
『内と外に内と外を認めること』
『主体と客体に主体と客体を認めること』
と言っているのと同じと思います。



私が想うには、以下のようになるかと思います。


(A) 意識(主体)

(B) 意識(主体)が注意を向けているモノ(客体)

(C) 意識(主体)がモノ(客体)に注意を向けたことで意識(主体)の内側に浮かび上がったモノ(客体)のコピーの写像


というふうに、事実・現実を、主体⇔客体とか、主観⇔客観とか、2つに別けて考えること自体を、『主客の実在視』とコトバンクだかどこかの唯識の説明者が言っている、という話ではないでしょうか?


実際、主体⇔客体とか主観⇔客観とか分けて考える必要などないじゃないですか。
私たちはトイレットペーパーをクルクルするとき、そんなこと考えていません。

上記ABC以外にDやEがあるのではなく、上記ABCのような思考フレームから脱出することが『主客の実在視から離れる』ことじゃないでしょうか?
>>[298]

せっかくここまで整理してきたのですから、整理した言葉で話しましょう。

(A) 意識(主体)

(B) 意識(主体)が注意を向けているモノ(客体)

(C) 意識(主体)がモノ(客体)に注意を向けたことで意識(主体)の内側に浮かび上がったモノ(客体)のコピーの写像

と、この3つとは別に、
『主客の実在視をはなれた真実のすがた=客観的な本物』
があるというのが虎番さんの考えですよね?

それは、
『内(私側)と外(私以外)に主体(内)客体(外)を認めることをはなれた真実のすがた』
ということでしたので、ならばこれは
『AとBにAとBを認めることを離れた真実のすがた』
ということになります。
このような言葉は意味が分からないです。



いま新たに出てきた
『世界(外)と対応する、写像に名辞をつけ整理したのが命題(内)』
という言葉は、
『Bに対応するCを整理したのが命題』
ということになるかと思います。
これは正しいと思います。

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