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ナーガールジュナ(龍樹)『中論』コミュの『依る術がない』というのは、耐えられますか?

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 全て知覚される世界が仮定でしかないと認めるならば、私たちは、なにも依る術を持たなくなります。
それであって、自己の存在意義のようなものを見いだしたくなるのが、凡夫。でも、これが下手に『真理』を装備していると、些か辛い時があります。
 多少なりとも妥協の産物として、ともあれ住んでいる世界を肯定しよう。そして数多の生きとし生けるものにとって、住みよい世界を実現できるべく菩提心を発起しよう、かな、などと念じたりする訳ですが・・・
巨大な文脈にあって、自らつくりだした世界に慈悲の千手を広げる。それはそれで、極めて尊いことだと思います。
 でもNを知ってしまうと、何か空虚な気分を禁じ得ない自分がいます。
みなさんは、如何でしょう? 誰もが必ず発するこの疑問。
「自分がどこから来て、どうして今、この場所で生きているのだろう・・・」
いつまで経っても思春期ボーイみたいで恥ずかしいのですが、結局はここに還りつくのです。

 Nの理論とは関係なくても構いません。急を要するものでもないので、何かの縁でご覧なったら、思うところを、流行の『つぶやき』で発言してみてください。(私に関しては、レスは出来るだけ控えたいと存じます。いろいろ心静かに伺いたいと存じますので・・・)

コメント(15)

「全て知覚される世界が仮定でしかない」というのは違うと思います。

「全て知覚される世界は仮にそのようにある」という判断(仮)をし、「それに実体や本質などはない」と反省(空)し、「仏界を目指すべき」と自覚(中)をもって生きることが必要なのではないでしょうか?
Lost Longingさんはナーガールジュナの解釈において、「この世のすべてのことは存在しない。仮にいかにも存在してるかのように想定し、ぼくたちはそういう現実と対応するだけだ」
と解釈しているのでしょうか?
そのために何だか時折りすごく虚しい感じ、よるべなさに襲われるのでしょうか?

この解釈に立つ限り、その虚無感は必然的であり、

自らを救うためにも別の解釈に立つ必要があると思います
レスは控えるという、最初の表明は何処へやら、ですが・・・

>石田さん
有り難うございます。
「仏界を目指すべき」。私も、そのような道を観じ、善なる道標とすることを、大切にして行きたいと考えています。でも一瞬の間隙を衝いて、それすら、恣意的な目的の創造でしかないのでは、と疑問に思えてしまう時があるのです。

>78910さん
有り難うございます。
だから、仰るとおり「何だか時折りすごく虚しい感じ」になってしまうのです。

>自らを救うためにも別の解釈に立つ
どのような視点でしょうか? 差し支えなければ伺いたく存じます。


Lost Longingさん、
失礼な言い方だったと受け取られることなく、そのように応えて下さって、どうもありがとうございます
m(_ _)m

「この世のことはすべて、実はまったく存在もしないことなのだ。幻想なのだ。単なる主観的な思い込み、虚偽意識、フィクションでしかないのだ」
というふうにナーガールジュナ、あるいは中観思想を解釈してしまうと、

確かに「苦しみやその原因となっている出来事も夢まぼろしとして否定し去ることができるのだ」
という救いの効果を享受できますが、この一瞬の効果を味わってしまった後には、

すべてが夢まぼろしのこととなってしまい、そんな夢まぼろしの中に生きている自分の人生など一体何の価値があるのかわからなくなってしまうでしょう
虚無の風に心深く冷たく吹かれて、すべてが現実味のないつまらない人生になってしまいます

苦しみから逃れて空観に立ったつもりが、虚無感という新たな、とらえ所のない、ゆっくりゆっくりと死に至る病に取り憑かれることになってしまいます

それというのも

この世のすべては存在しないんじゃあないんです

存在しないものを仮に、あたかも存在するかのように想定するわけじゃあないんです

しっかりと確かに存在しているんです

ただ、それ自身の力で何物にも依存することなく存在しているというわけではない
そういう存在の仕方を実在とか自性とか我(アートマン)とかと言うけれど、

確かにこの世のすべてのものは実在ではない
自性はない
我(アートマン)ではない

なぜなら、すべて縁起によって(他に依存して)初めて成り立っているから!

存在はする。しかし実在ではない!

存在はする。しかし本質において、縁起によってやっと成り立っているだけのものであり、究極的には自性などない。我(アートマン)などない。空だ!

空とは自性なく、我(アートマン)なく、縁起によって辛うじて成り立っている、存在している、という意味だ!

この世は虚無ではない

人生は虚無ではない

この世は確かに我々の前に存在し、

人生も確かに我々の前に存在しているのだ!

この世も人生も、我々が誠実に真面目に取り組むにふさわしいものである
認識論上の虚妄を打破したら、今度は当為論上の「どう生きるべきか(どう死ぬべきか)」という問題に向き合わないと虚無感に寂せられてしまうと思います。

なので、「向下」で地獄に向かうのではなく、「向上」で悟りの仏界を目指すべきなのではないでしょうか?
僕たちは〈空〉を単なる概念的思考によってとらえようとすると『中論』でさえ概念的思考一辺倒で読み切って、解釈できたようなつもりになってしまいますが

空性へ至る道はあくまでも概念的思考の平板な道ではなく、1歩1歩が自らの瞑想実践と不可分であって、それが伴ってこそ初めて生きて来るナーガールジュナの言葉だと思います

概念的思考だけで、論理的思考だけで、ナーガールジュナを読もうとするとえてして虚無主義の罠に囚われてしまうと思います
>78910さん
ご無沙汰してます。
仰っている事がしっくりと響きました。いま大乗仏典の「善勇猛般若経」を読んでいます。共通して比較的平易な文の繰り返し。本来、言葉にすらできないものを語る時、「方便」として既成の単語や文法を使用せざるおえなかった、Nや開祖ブッダの苦労が偲ばれます。

Last Longingさん

>共通して比較的平易な文の繰り返し。本来、言葉にすらできないものを語る時、「方便」として既成の単語や文法を使用せざるをえなかった、Nや開祖ブッダの苦労が偲ばれます。

そうですね!
言葉や文法自体があくまでも僕たちの概念的思考、形式論理的思考のために出来上がっているものだから、それを乗り越えようとする意識とその意識が見出すものとを記述する際にはとても不調和な道具なのかもしれません

そうして記述されたものをどう読むかは、まさに読み手の意識のあり方あるいは瞑想の深まりの度合いに拘束されることになるのだと思います
>「自分がどこから来て、どうして今、この場所で生きているのだろう
  ・・・」

 これは分かりませんね。答えが無いから良いのかも分かりません。
 
 ところで、仏陀は「人間の最高の能力を持って」、「世界の事実だけを
 もとに考察し」、仏教を創造しました。

 そして、世界は「空」、自己主体も「空」と教えます。

 自己主体がなければ、上記の「自分の問題」は成立しないように思います。

 自己主体がないのなら、「神」を頼むことも無意味になるように思います。

 しかし、現象世界は目の前に広がっています。この陽炎のような在り方
 でしか、世界は存在できないのではないでしようか。

 だから、この世に生を受けたことを感謝し、この世を浄土にするために
 努力したいものです。
 
>巨大な文脈にあって、自らつくりだした世界に慈悲の千手を広げる。それはそれで極めて尊いことだと思います。でもNを知ってしまうと、何か空虚な気分を禁じ得ない自分がいます。


仏教はしばしば虚無論だと誤解されたり、仏教を学ぶ者においても虚無論に次第に傾いていってしまう傾向のある人たちが絶えないけれど、
初期経典の中でブッダは虚無論を一つの極端論だとしてはっきり戒めている。
そしてもちろんその後の仏教の本流も、虚無論をしっかりと否定していますね。
この世にこだわり過ぎない心の平安をまず自身において静かに確立した上で、
その平安をまだ得ていないたくさんの人たちがもだえ、苦しんでいるこの世界に、少しでも少しでも貢献しようと気を配るところに、自分を象牙の塔に閉じ込めてしまわない常なる修行が生まれてくるのではないでしょうか。
そうした時、この世は常に自分を見直させ、鍛え、学ばせてくれる、色褪せることのない新鮮な出来事に満ちあふれているのだと思います。
>>[13]

虎番さんは四国ですかあ。そちらのほうは大変みたいですね。お気をつけ下さい。

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