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最新邪馬台国コミュの日本書紀から何がわかるか?

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神話は何をいみするのか?

神武東遷は、あったのか?

邪馬台国の手がかりはあるのか?

コメント(37)

神功皇后は、卑弥呼としてかかれてる。魏志の記事が引用されてる。

九州に長くおられたということは、
邪馬台国は九州?

でもトヨがいない???
日本書紀と古事記はだぶってる。何故、2つあるか?日本書紀があれば古事記は
必要ない。何故、古事記はあるのか?

日本書紀は41代持統天皇まで。古事記は33代推古天皇まで。
古事記は何故、33代までなのか?
当然、その理由はあるはず?
>>[2] 古事記が当時の伝承の集大成。
日本書記はさらにそれを各として、作成当時の政権の正当制をうたうものだった。
これが一般論ですね。

よく知らないのですが  おびただしく出てくる一書=あるふみ
というのはなんの本だったのでしょうか。
日本書記にはいくつもの土台となる先行する文書があったという説もありますね。
もし記紀の編者の国が邪馬台国などの後継国であるならば単純に不思議だが。
倭の五王、卑弥呼、トヨ、などの中国や帯方郡との付き合いを完全に書かないのは不思議だ。
大陸との交渉史については書かないということもどこにも書かれてない。

そしてまた、琵琶湖河畔の伊勢遺跡、唐子鍵遺跡、妻木挽田遺跡、原の辻遺跡、などの大型遺跡に比定する地域の出来事がはっきりないと思う。

>>[3]
先行する書物あるようですよね。

にもかかわらず、古事記は稗田アレイが口述するのを書いたとか。
矛盾なのですよ。早く本に、何故しなかったか?

多分、新興勢力で本がなかったと思う。で、口伝にしたと思う。
>>[4]
倭の五王とかがないので、中国と交渉があった国と
記紀を作った政権は関係ないというのがスッキリしそうですが。

琵琶湖湖畔の遺跡とかが書いてないのは、近畿で古くからの国
とも関係ないということでは?

記紀には銅鐸が出てないことからも言える。

記紀って新興勢力が力を確立するたえに作ったということでは。
新興勢力とは世間では言わないが、天皇制確立のために
記紀作ったとは言われてる。

伊勢遺跡とか唐古鍵とから、
さらに荒神谷とか、遺跡に寒冷地する記事はないですね。
>>[5] 最近思うのが。じつは本にすると燃える。するとなくなる。複数の人間に記憶させるのが、一番。火事になると足があって逃げるし。実は最先端の保存方法が複数の人間に覚えさせることだったのではないか?

そんなことを考えてます。

しかし、そうはいってもおびただしい、あるふみ の群れはやはり文字記録ですね。
>>[7]
近畿、土着の勢力ではないと考えたほうが??記紀作成勢力。
>>[8]
亭記?とかの虚をとり実を定める だったかな?書物は
あったのは確実と思うけど?どうかな?
古事記が33代で終わってるが、その理由は?

これは同時代に作られた日本書紀の33代以前と
34代以後の記事の違いをみつければいい。

では、何が違うか?
33代没年に日食の記事がある。それ以前は
1つもない。
34代以後は10個の日食の記事がある。
日食の記事があるかないかが違う。

日食の記事があるのは、あったから書いた。
記録である。
日食の記事がないのは?解らなかったから
書いてない。作り話。

33代までは創作。それを後生に伝えるため
古事記を作った?
邪馬台国



ヤマトだろうか?



単純に。



そうであるとどうなるのかというのを考えてみたい。

まず不弥国の場所である。門司あたりになるのではないか。



南が東になる。

そうすると門司あたりから20日かけて出雲=投馬国

門司から10日で安芸あたり。そこから歩いて一か月で奈良。



そしてここからが肝心だけども。

奈良が伊都国をおくということになります。一大卒を。

はるか北九州の伊都国に軍団をおいて九州を支配するのである。

ということは3世紀にはすでに奈良から西はヤマトということになるではないか。



この伊都国を奈良からコントロールしたというのである。

それはありなのだろうか?

邪馬台国問題の隠れたネックであると思う



纒向には吉備も出雲も越も東海も集まっている。

纒向が伊都国を支配しているのだろうか。

そうすると西日本はすでにヤマトだな。

だから倭人伝には邪馬台国=ヤマト国と記載されたのだろうか。



すると倭国大乱というのは西日本全域の戦いとなる。丹後、出雲、畿内、伊勢尾張、九州、吉備がプレーヤーなのだろう。







そうなるとである。





これらの広域の範囲が

逆算すると1世紀くらいから一つの交易世界だと言えるのではないか。

そうるすと、

その卑弥呼の前の200年くらいの歴史が記紀のなかの神話ということになる。



それはそれで面白い世界観であり、探求が楽しいと思うのである。
>>[12]

1世紀くらいが神話。

なるほど。おもしろいですね。

1世紀は、奴国の時代ですね。

金印がでてるので、福岡が奴国ですよね?

金印は57年ごろですか?

この後、大乱で巻向が統治。


確かにすっきりしますね。

600年頃は推古天皇(女帝)ですね。

これは隋書にでてきますね。

隋書では王は、男です。これは北九州にいた王でしょう。

磐井か熊襲でしょう?

だんだん すっきりしてきましたね。
>>[13] 一世紀の奴国。九州北岸。半島へのルートの対馬と域、そして日本海沿岸を東に、出雲、丹後、能登と続くこの沿岸ラインこそが始原の倭ではないか。この時代が神話。

そして二つのルートに発展です。
丹後から若狭湾に上陸して琵琶湖へ、そこから関ケ原を超えた尾張、伊勢へ。
琵琶湖から伊勢遺跡のあたりに定着して、そこから畿内、河内へ。

もうひとつは九州から周防へ吉備へ河内へ、の瀬戸内海ルートですね。


奴国が九州支配したのが邪馬台国、しかしそれは30の国の一つにすぎず、畿内にも有力な勢力が併存していたというのが最近の考え方です。ぼくのですね。

>>[14]
あるところで見たのですが、1月9日に。

考古学研究の今月号、著名な学者さんの論文に、
邪馬台国畿内で確定

とかかれてるらしい。

邪馬台国の時代は西日本ゆるやかかもしれないけど
統一されつつあったのかも?
>>[15] たしかにそんな気もする今日この頃です
>>[16]
しかし、なんで遺跡とか日本書紀に反映されないのかな?
>>[17] それ、とても大事なことと思います。
琵琶湖東南岸の伊勢遺跡、あるいは唐子鍵遺跡、そして、丹後の赤坂今井古墳、壱岐の原の辻遺跡、
みなそれを特定するような記述は記紀にはないですね。
遺跡と記録が一致しない。たとえば聖書にアッシリアと書かれていてついに20世紀にそれをほりあてました。
そういうことが日本で起こらないのはなぜだ?
>>[18]
日本は自由に掘れないからと思ったけど、
逆ですね。掘って出た遺跡が文献にないのですね。

文献が正しい歴史書でないか、遺跡を捏造したか?
>>[19] たぶん、畿内ヤマト王権の由来以外のものが欠落してるからでは?
壱岐の一大交易センターの遺跡が載ってないと同時に、帯方郡とのやりとりしていた30の国のこと、帯方郡のことものってないです。
乗ってるのは出雲のことと、日向のこと。

なんだかまるで明治維新の話するときに薩摩と長州のことしか書かないのと同じですね。

ほんとうは他にもたくさんあったのだというだけではないか。
>>[20]
今日歴史の会合があったけど。
日本書紀には一書には、一書にはとある。
本がいくつもあったのでしょう。

古事記は口伝。本がないみたい。

なんか矛盾してるような。
神武東遷がほんとうなら、帯方郡とか30国のこと
かかれるはず。

ないのは、邪馬台国とつながりがない?

かといって近畿の銅鐸がないのは近畿の古くからの国家ではない?
>>[21] そうなんですよね。あるふみ=一書。
古事記ってふることふみ って読むんですってね、もともとは。

さて日本書記の一書は日本旧記とかであり、蘇我の館とともに燃えたというの説がありますね。
古田武彦さんなどはこれを九州王朝の史書だといってますが。

古事記は豪族たちの伝承の整理に、日本書記はあちこち散らばる文書の整理のために書かれたのかもしれませんね。

それにしても見事なほど半島や中国のことがかかれてないですね。
倭の国々はあれだけ帯方郡とやりとりしていたのに。

それで高天原は半島だという説になってくのですね。
>>[22]

ずいぶん ひろがってるんだな?

色々説があるというか。

しかし、一書 があったのかな?あればいくつか残ってると思うけど。

古事記とまったく反対ってのが気にかかる。
>>[23] 確かに書いたときには一書があったのに一つも残っていないというのも不思議ですね。
書かれたのは天武以降だからそこで一書は残っていればね。
もしかして日本書記完成ののち焼いたかも。
でもそれならそれでそのことの記録がありそうだけど。

不思議ですね
>>[24]

焼いたか?

普通残って無いときは、無かったと考えた方がいいと

思うけど。

燃やすとか言っても誰かが隠しておく物ですよ?????
中国の書物もないのかな?
もってきてるはずですが。 712年の古事記が一番古い????
http://blog.goo.ne.jp/ryuhide

ぼくの邪馬台国ブログです。
宇佐神宮をこれから考えたいと思っています
はじめまして。エーベルさんのブログを入門書にして古代史ファンになりました。
よかったらぼくのコミュにも遊びに来てください。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=78657100&comment_count=51&comm_id=6251356

それにしても日本書記という本は不思議でな本です。
というか古事記となぜ違いがあるのかさっぱりわかりませんが、そこにこそ秘密があるような気もするし、それがまた8世紀のことだというのがまたすごいですね。

記紀はおおむね1世紀から5世紀のことを書いてるように思えるのですが
神武東征などという出来事があったなんて嘘みたいだと感じて楽しんでます
>>[26] 漢字の伝来というのがあって

4世紀後半に漢字が伝えられたと考えられています。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000071818
1世紀頃もたらされた「金印」や銅鏡、銅銭などの漢字や、日本で発掘された3世紀頃の土器に書かれた漢字はどの程度文字として認識されていたか不明で、言語記号体系としての文字の伝来とは言い難いようです。

古 事記では応神天皇の時、和邇吉師が論語十巻、 千字文一巻を百済から貢進したとあります。

これについては、古来から論語の巻数や千字文の成立期などからみて疑問視されていますが

、応神紀の事は干支二回り即ち120年ずらして伝えられている事が多いとの説もあり、

それを考慮するとほぼ漢字伝来の経緯と重なります。
さらにこんな記事を転載。上記ジョンさんの記事ですが。
こんな風に6世紀には儒教、道教、仏教が大量に文字として入ってきたわけだから、それに触発されて一書がたくさんできてもおかしくないですね。




日本へ儒教が伝わったのは仏教よりも早く、

継体天皇の時代の513年、百済より五経博士が渡日して以降のことである。

さらにはこれ以前にも、王仁(わに)が『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』などにあり、

概ね5世紀頃には伝来していたものと考えられている。

儒教の思想は多神教を奉祀する神道と相入れやすかったと考えられ、



儒教よりもさらに以前(4世紀頃とされる)に入ってきていた道教、儒教と同時期に入った

陰陽五行思想を併せ、

それまでの呪術的な側面に科学的な論拠を与えて後の陰陽道につながる素地が生まれていた。

ウィキペディアより
>>[29]
はじめまして。
今、訪問させてもらいました。

これからもちょくちょく訪問いたします。
>>[30]

漢字とかはいってるんですね。

でも、何故、古事記712年のが口伝なのかな?
>>[33] やっぱ、使いこなすのに時間かかったということですね。

古事記だって、漢文ではなくて当て字の羅列的なものですね
文字が入ってどう使うか。
当初は中国語として使ってどれを日本語をそのまま表現する方法として
試した最初が古事記だったのでは。
その間一五〇年くらいですね。
>>[34]
なるほどね。

でも、日本書紀 720年。8年後には ある一書 とかが たくさんあるような???
>>[35] この日曜に日本書紀を借りてきました。
なかなか読めませんが。
古事記は各豪族の公伝をまとめたもので
日本書紀は各豪族の記録書をまとめたものだという説。

一書とは九州王朝の歴史書、日本旧記などのことだという説。

いろいろあります。
>>[36]
日本書紀とか読むと頭いたくなりますね。

訳したのは、かなり訳者の考えはいってるし、、、

のんびりといきましょう、、、、

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