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最新邪馬台国コミュの邪馬台国は何故ドロ沼化したか?

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ドロ沼の原因は、単純なことである。国名のみの21か国が、邪馬台国の南にあるか?北にあるか?である。
ほとんどの研究者は、21か国は、邪馬台国の南としている。何故か?それは陳寿が南にあると誤解したからである。そして、女王国の北は、略載できるが、21か国は遠いのでわからないの一文を追加してしまった。
しかし、実際は、21か国は、邪馬台国の北にあった。
これがドロ沼化の原因である。
邪馬台国は、倭国の最南端にあるのが正解である。

コメント(125)

巻向遺跡は、住居跡がない。遺跡としての要素が1つ欠ける。また、各地の土器がでるのも他の遺跡と異なる。これらから得られる結論は、巻向遺跡は捏造されたものである。各地から土器を集め、巻向にばらまいた。巻向からでた土器すべてが1片の欠損もなく復元できればいいが、はたしてどうなのであろうか。当然、集めてきた土器のススの年代はなんの意味ももたない。
射手座>85

後半、OR式がいいのかどうかよく判りませんのでパス。
纒向遺跡、まだ5%内外とか。そう急がなくてもよろしいのでは。

捏造論てあるのですか?
巻向 各地の土器がでるのは、変。他にみられない。街としては変。やはり、捏造を考慮して考える必要がある。確か、土器復元して、欠けてた1片が他地域からでた例があったと思って、検索したけど、見つからなかった。

and式はあやまりというのは、なんども式で示してあります。or式では、不彌国ー邪馬台国は水行30日→水行1月→陸行3月。隋書の南北3月行と合う。鹿児島などの南部九州に邪馬台国があっても矛盾はしない。
水行10日=陸行1月=75km は、隋書の南北、東西で証明できたので、仮説ではなく正解です。
射手座纏向の発掘の歴史は1971年から始まり、現在までに153回行われ、住宅開発など緊急開発が130回を数え、>85で示された領域の5%を調査(読売朝刊/2008-01-09)

石野博信氏によると、外来土器の内訳、東海49%、山陰/北陸17%、河内10%、吉備10%、関東5%、近江5%、西部瀬戸3%、播磨3%、紀伊1%、総数123個となっている。

射手座その外来系土器の搬入時期が纏向1類(10%)・2類(20%/ホケノ山期)・3類(30%/勝山古墳期)と時期が下がるほど多くなる。これは纏向の勢力が、大和を中心にドーナツ状に拡大していった証しではないのか。纏向の建設が在地集団から広域連合へと、作業形態が変遷していったのではないでしょうか。

>結論は捏造

石野本によると、纏向1類を西暦180年頃、2類を210年頃、3類を250年頃、4類を270年頃とする。ある種の集団が一世紀にわたり悪意をもって埋め込んだことになります。これだけ長期間の捏造はあり得ないお話だと思います。
いや、魏志の記述が捏造されてる可能性もないわけではないわけで、
捏造されてるから正しい答えが導き出せず矛盾が生じるとも考えられるわけです。
つまり魏志から邪馬台国の位置を割り出す作業など不毛です。
90わりだしましたよ。まあ、安本さんなどは、魏志つかってませんね。

89 長期の捏造ってどうやってしらべたのですか?みてましたか?新しい時代にまとめて、ばらまけばいいだけです。だいたい、住居も倉庫もないのですよ。それは街ではない。なんのための遺跡か?箸墓つくるためですか?それなら住居がひつようでしょう。捏造が一番可能性が高い。
巻向 巻向には、ホテルがない。だから東海とかから人は来てない。なのに、何故土器があるのか?捏造以外考えられないでしょ?他の古墳のまわりから、各地の土器がでてる?でてるならいいが。
昔は交通も整備されてなく、何日かかるかなどは季節によって大きく代わるのに、余りにも疑史の記述にこだわりすぎでは?
ましてや、重い荷物を持った人間がそんなに歩けるわけもなく、九州から近畿まで行けるとは思いませんが。。。
瀬戸内ルートを使い船で移動すればなんとかならないこともないのですが、
魏の使者はおそらく、伊都国までしか行ってませんね。

あと例えば卑弥呼の邪馬台国は巻向にあり、台与の邪馬台国は北九州にあった可能性もなきにしもあらずなので、
可能性を言い出したらきりがないのです。この時代の日本古代史は学問というより、空想の領域ですよ。
93 何日とかかれてるから、里数はいいということですね?日数は、隋書から倭人に聞いたと考えて問題ないです。倭人は何回もいききしてるので、日数表示は倭人伝でも、もっとも正確です。里数表示よりも正確。陸行1日は、2.5kmで確定してます。これで計算すればなんら問題ありません。不彌国から邪馬台国までは、水行なら30日、陸行なら3月、225kmです。不彌国は行橋市として、邪馬台国は宮崎市とすると内陸になるが直線距離は200km。国東半島うかいを考慮すれば行橋市から南225kmはぴったり宮崎市になります。

94>可能性を言い出したらきりがないのです。この時代の日本古代史は学問というより、空想の領域ですよ。

魏志をよまないから、空想になるのですよ。空想と学問は別です。あなたは自ら学問をしないで空想を選ばれただけです。
>91長期の捏造ってどうやってしらべたのですか?みてましたか?新しい時代にまとめて、ばらまけばいいだけです。

射手座これはいただけないですね!たとえば落とし穴の獲物、なぜ年代が判ると思います?100年前の地層付近から出ても落とし穴の土相が、現在の地層を反映しているからです。

>92 巻向には、ホテルがない

射手座5%ですからね何とも言えないですが、ないとは言い切れない。

>93 レックスさん
>余りにも疑史の記述にこだわりすぎでは。ましてや、重い荷物を持った人間がそんなに歩けるわけもなく、九州から近畿まで行けるとは思いませんが。。。

素直なところで
重い荷物はポーター的な現地の人夫が背負った。
上級郡吏は輿に載って移動した。
郡吏一行は履き物を履いていた。
郡吏一行は箸を使用していた。
水行とあるので、船も利用した。

射手座ご感想を賜りたいm(__)m。




中国からの使者は、2,3人ではないですよ。動植物の学者など、すくなくとも2,30人はいる。へたすると100人以上かも。兵になる、人口、食料の畑の大きさ、距離など、来た時、専門家が調べてる。だから、動植物などがわかる。竹でも3種くらいかいてるのでは。まあ、空想って考えもあるけれど。
落とし穴は、1500年前の地層の上に1mつもってると、10年で6mmの地層ができる。土器は破片でもあつさ1cmはあるでしょう。地層で50年100年はわからない。土器で年代きめてることがおおい。同じ地層でも場所がことなると土器により年代がかわる可能性がある。出土の地層写真や土器の出土状況の写真など生データから考えないと、報告書で論議しても意味はない。各地からの土器が多い類似の遺跡はないということは、捏造と考えるのが普通。
巻向 東海から、九州南部までの土器がでる。この事実、変だとおもいませんか?ほかからでるなら、支配してたでいいのですが。埋めてる写真がでてこなければいいが。
>98

射手座100年は流れで。1000年でも万年でもかまいません。
地層が同じなら同じ年代観が与えられる、と思っておりますし、地域が変われば並行期として表わされる、と捉えております。

同層で年代が変わるようなことがあれば考古学もお終い。

>99

射手座良くは判りませんが、その時その場所の首長さんの版図・勢力範囲を明示したものと捉えております。石棺石しかり、です。
99卑弥呼の時代、九州を支配してるとなると先進地域を支配してたことに。どうも不自然。巻向だけっていうのも。もっと慎重に判断したほうがいいですよ。旧石器の例があるからな。教科書にでてるから正しいっていえないような???
後の、イワイの乱とか、隼人などみても、卑弥呼の時代(巻向だけ)南部九州まで支配できるのかな?少なくとも狗奴国と対立してた。狗奴国、九州?東海?関東?
100レス突破してたんだ。祝100ビール

射手座北部九州の集落(国)の衰退がどの辺り(時期)になるのかよく判りませんが、平原1号あたりが九州での最後の王墓になるのでしょうか。
平原1号墳の次に王墓と考えられる墳墓が現れるのが畿内大和、纒向地域だと我田引水ながらそのように認識いたしております。纒向が箸墓を築造した時には西日本を版図に組み入れ、新しく東海地方に勢力を延ばしていた、と考えます。
そうですね。北部九州衰退する時期が私もわからない。広開土王碑の392年に北部九州無人化だと思ってるけど。弥生末期であうのかな?領土は時期が立つと減るの?段々大きくなるのではないのか?

地層ってみなさんはわかるのかな?年輪みたいに毎年つくられるものではないですよ。大きな変化がないと地層の変化は出ない。例えば、森林が街になったら地層変化します。それまでは変化なしです。落とし穴がわかるのは土の密度の違いです。よく言いますね、土がこの部分柔らかいって。まあ、レーダーかけるとはっきり違いでます。
イワイの墓といわれてる江田船山古墳(?)のまわりに、石造の武人がある。これって、飛鳥の猿石とかと同じでは?酒船石とかも。高句麗の流れ?
キトラ古墳だったかな?天井に星座がある古墳。確か、高句麗あたりで見た星座って研究があった。イワイは、負けたのか?勝ったのか?
わからん、、、
>102

103は>102を反映しておりません。
因みに、狗奴国を東海とし、狗奴国は邪馬台国に勝つことがなかった。
また、正始8年の男王は奴国の王ではなかったか、と考えております。

>104
>落とし穴がわかるのは土の密度の違いです

落とし穴を含めて、密度も重要な要素ですが、地層の色とか、地層の種類(礫、砂、シルト、粘土)も判断材料ですね。当時の住居跡(地面)とか環濠とか掘立柱の抜き穴なんかは、特にきめ細かく調査されているようです。当然といえば当然ですが。

先年、京都・亀岡の発掘現場で珍しい現象に出会いました。
弥生期の竈遺構を有する遺跡の上層1mぐらいの地層から縄文土器が大量に出土、本来なら縄文土器が出たところで発削は終了。縄文遺跡として登録されるのだが、たまさか地層が乱れていたのか、その下の弥生遺跡に到達できた。
(実際の発掘はどうだったのか現説失念、洪水で流されてきたとか云々)
畑作ってて土器がでてきたら、邪魔ですから集めて、近くの堀にすてるのでは?

地層 関東は1mくらいまで黒い表土です。これは腐葉土。その下は赤い関東ローム層。10mくらいあって、そのしたが礫、粘土、礫です。これしかありません。まあ、洪水のあとはのこるでしょうね。奈良は湿地帯かな?
>因みに、狗奴国を東海とし、狗奴国は邪馬台国に勝つことがなかった。
>また、正始8年の男王は奴国の王ではなかったか、と考えております。
>

奴国は、金印もらってるので、卑弥呼となにかつながらないと変ですよね。奴国の敵には金印ださないでしょう。親魏倭王の印。
国が変わってれば関係ないか。

でも、南九州で東海の土器とかが何故でないのかな?米みたいなものを税として土器に入れて巻向へ持っていったので、一方通行?
射手座11日・12日と備中、讃岐、淡路島と巡ってきました。
備前一宮・矢藤治山・宮山・楯築/讃岐一宮と各地古墳群、及び淡路のイザナギ神宮と垣内遺跡(鉄鋳造遺跡)等々を回ってきました。大いに勉強になりました。
鉄 鋳造ですか。それはいい。重要な遺跡ですね。
射手座>110 訂正

垣内遺跡、鋳造遺跡ではなく、鍛冶遺跡とか。
どこがどう違うのか!よくわからない。
鍛冶ですか。塊をたたいて延ばすのですよ。鋳造は、鉱石から鉄の塊つくるのでは?どなたか、詳しいかたいらっしゃらないのかな?鉄は農機具とともに、争いに使えるからな、、、
射手座あらま! 
製鉄は熱した炉に、鉄鉱石と酸化剤をいれ、インゴットを得るもの。
鋳造はインゴットを溶解、鋳型に入れかたどるもの。
鍛冶はインゴットを熱し、たたきかたどるもの。

と一書にありました。
114 勉強になりました。ウイペジアとかなんとかのインタネに百科事典ありましたね。
諸々

>奈良は湿地帯。
奈良盆地東南部(ホケノ山G+90m〜纒向遺跡G+74m)は盆地中心部の大和川_G+59mに向かって微傾斜地(三輪山_大神神社G+101m→大和川_G+59m)(国土地理院)。決して湿地帯ではないと、ただし、纒向川の氾濫原であることは確か。範囲の狭い三角州を形成し、自然堤防もできていたでしょう。

狗奴国。卑弥呼との争いには敗北したのであろう、なぜなら邪馬台国には手を変え品を変えての魏のバックアップがある。魏として、正吏が滞在し、卑弥呼の葬儀を目の当たりにして、不首尾な記述は為されないであろうし、国内も安定したのか官吏帳政等を送り届けている。ちょうどその頃に、東海の土器が濃密に搬入され、西暦266年壹興が、魏から新生晋となった中国東晋皇帝へ朝貢が行われている。

奴国。後漢初期の奴国と魏代の奴国が同一か否かよくわかりません。しかしながら、金印奴国が、この後200年の長きに渡って存続するのは理に適わん。吸収・消滅・移動、何らかのアクションがあったとする方が理解し易い。朝貢使節が大夫と名乗ったところから皆、同一の国になっている・・・?なんかこの辺りにヒントがありそうな気がします。

>115

射手座この業界では使わない。が通説になっているようですね。通説に賛成です。
射手座トピ主様の主張。

>21か国は遠いのでわからないの一文を追加してしまった。

21カ国。国の定義とか規模を教えて戴けますか?
遠いので分らない。陳寿が、この文言を付け加えた意図は、どのようなことが想定されますか?

思いますに、北部九州の当時のメーンルートから外れた国々を表現するには「遠絶」など、大袈裟すぎる気もいたします。倭人伝の文言から得られる国々のイメージは、国の境を有し、各々が相当の広がりを持つように受け止められます。
見聞きする以外に伝聞でしか確認できない国もあったのではないでしょうか。

>実際は、21か国は、邪馬台国の北にあった。

UPされておられる行程路を確認させていただきました。
南下は海上、宮崎でUターン後内陸を北上。この内陸北上は日常的に利用される交通路が整備されていた、とお考えなのですか?

延喜式駅家にみる街道らしきものが、3世紀中ごろに通っていた!とお思いなのですか?南から北を貫く九州山脈懐深く、ブッシュかき分け進むのですか?少し、無謀ではありませんか?

>邪馬台国は、倭国の最南端にあるのが正解である。

複数の中国正史を駆使せずに、この結果は得られるのですか?邪馬台国は確かに共立国8国では最も南に位置するようですが、21国は東西南北いずれも書れていない。国の列挙で邪馬台国の記述のあとに「次」とありますが、南に限定する必要は無いように思います。されど、北に限る、とする記述はどこにも見当たりません。東西南北、いえ、境を接しない海の彼方の島の国かも知れません。

確か後漢書には「倭奴国は倭国の極南界也」とあります。今の通説では倭の奴国とされるが、後漢書のこの場合、奴国といいあらわすのに冠言葉「倭」が必要なのか疑問です。引き続いて倭国と記すのだから不要と思います。魏志倭人伝に云う、二つ目の奴国(21国の最後にみられる奴国)の可能性はないのですか?
>>118

>複数の中国正史を駆使せずに、この結果は得られるのですか?邪馬台国は確かに>共立国8国では最も南に位置するようですが、21国は東西南北いずれも書れて>いない。国の列挙で邪馬台国の記述のあとに「次」とありますが、南に限定する>必要は無いように思います。されど、北に限る、とする記述はどこにも見当たり>ません。東西南北、いえ、境を接しない海の彼方の島の国かも知れません

邪馬台国最南端複数の箇所で確認できます。中国の文献は流れを考えれば、魏志が基準ですから、数」で正当がわかるわけではない。邪馬台国までが12000里ですから倭の端にあることが証明される。だから21国を邪馬台国の南にすると、倭をオーバーしてしまう。

奴国が2つあるなどということが理解できない。A4の文書で日本が3つでてきたら、日本は3つあるってことですよね?奴国は金印から考えて、福岡ですよ。これに合う解釈が正しいのです。つまり、2つめの奴国を福岡に出きる考えが正しいのです。
こんな九州説もあるのですね。

結論から言えば、投馬国が邪馬台国の南になるので明らかに間違いです。トンデモ説の典型です。

http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/
陸行1月 ここは起点国名、方位がないのでor式に解釈してます。アンド式解釈をとるには証明が必要です。
方言で「やまたい」は、何の論証にも根拠にもならない
タイムマシンでも無いと科学的証拠と言えない
言葉は変化するものである
昔の言葉を知るのには、記紀や風土記からでは微妙
ただ、「ら行」から始まる名前は無いと言える
(記紀に無い)
あったならば、使わなくなる理由は無い
日本の環境は、寒すぎも暑すぎもしない
環境による変化の可能性は無い

金印は返す理由が無い
わざわざ、掘り起こす理由も無い
伝世も微妙
中国の権力が国内に伝わらなければ、持っていても意味が無い

物事の根底が間違っている、小中学生でも簡単に論破できる様な話を、「論文」を称するだけで相手してても意味が無い
だが、「トンデモ論」かどうかは個々の主観によるものもあるので、読む価値はある
だいたい、完全な論証なんて中々無いだろう

奴国か倭奴国かはわからないが、57年頃第五代が金印を貰って、博多の洞が墓であればおかしくは無い
107年頃「王師升等」が、第六代「おしひと」であればおかしくは無い
(五代と六代は逆だっけ?)
「升」は「飛」ぶの略字
難升米も略字で、「なぎひめ」と読むのではないのか
都市牛利は、「とちにいり」では無いのかと思う
(言い切らない話)

墓、中国は墓あらし対策か何かしらの理由で、王墓は王都から離れている
(後漢書などを参考)
金印などが見つかれば=その国では無い
非科学な者が、無理やりに比定しているとしか言えない
周りをみて、王都にふさわしい住居跡・武器などはあるのかと言う話
墓内部・外部が同じである文化圏の中であれば、どの地域でもおかしくは無い


過去レスにレス怠い
某国は、「傍ら国」と書いてある事だけは勉強になった
(確認と考察はした)


年輪法・炭素法をした人は、本(書)で近畿地方以外では「使ってやらない。」とか言ってるらしい
言ってる事が何から何までもがおかしい
「タイムスリップした。」「過去の人物が未来の書を参考にした。」とかくらいしか言わない
三段論法で求めても、何も言わない
会話の永遠ループでしかない
文献も遺物も捏造するのは近畿説くらい
近畿説でも、まともな人が居るのに迷惑(´・ω・)


本当、近畿説は自由過ぎるかとも思うわ


トンデモ説は、根拠が自分でそう思うであり、文献とかで裏がとれない。想像を追いかけ考察は

意味ないとは思うが、まあ、+になることもあるかもしれない。時間を考えると無駄とは思うが

個人の自由である。
>>[76] 地図上で倭人伝の行程を測ってみると、九州上陸までの1万里についてはぴったし一里が50mの縮尺になっていますね。里程問題はあるけど、それはおいて倭人伝のなかでは一里が50メートルとなっている。九州上陸以後、末盧国から1里が500mにならないと、近畿まで行けないとかいろいろありますが、全体で12000里と言ってるので、帯方郡から末盧国までの1万里は5測ると約500キロですから、上陸後あと2000里、100キロの移動の問題かと。

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