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卑弥呼=神功皇后説コミュの九州以外の西日本の古代遺跡

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大陸からの玄関口だった九州以外にも、縄文時代から多くの倭人・渡来人が暮らしていました。

その中でも重要な遺跡、遺跡群を紹介してください。

邪馬台国とは何だろうか?(参考サイト)
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/index1.html


○巻向遺跡
大和川を上り、神武天皇が建國した橿原市から東海地方に抜ける道・川筋の先に、奈良盆地の端の桜井市に三輪山、その裏に巻向山があります。その麓に発見された、卑弥呼の時代の遺跡。その近くには、卑弥呼の古墳とされる箸墓古墳、神功皇后の甥の崇神(垂仁)天皇の古墳などがあります。
東西2km、南北1.5km。初瀬川と箸墓を繋ぐ距離2600m、幅5m、深さ1mの運河や、下水機構も見つかりました。
住居は(東日本では平安時代まで使われる)竪穴式の跡がなく、高床式や平地式です。

祭祀用具や農具が多く発掘されています。土器は韓国製から関東製までが見つかり、搬入されたものは全体の40%(唐古・鍵遺跡を含め、他の遺跡は通常5%以下)で、その中では、初期では吉備地方の傾向が見られるものが多く、後期には東海地方の傾向が見られるものが47%を占めています。
遺跡は約150年ほど使用されて消滅されたといいます。
奈良の中心地は、奈良盆地の北部に移っていきます。
摂津の多田銀銅山、飛騨の神岡鉱山を始めとする北陸、山陰方面への影響力が拡大したと考えられます。

三輪山(三巻山)は砂鉄が取れる山であり、大国主を祀る大神(ミワ)神社があります。ヒスイや水銀も取れたといいます。
海部(あまべ)氏や三輪氏の所領で、饒速日(天火明)命の墓とも言われ、発掘は許可されていませんが、伊勢神宮より歴史が古く、裾野からは多くの発掘があります。
http://www2.begin.or.jp/sakura/sai06.htm

○箸墓古墳(箸中山古墳・大市墓)
(旧十市郡)桜井市の纒向古墳群の1つ。全長約280m、後円部は径約150m、高さ約30m。
箸墓以前の古墳群は、前方後円墳の前方部分が短く、大きさも半分に満たない。九州を含めた全国にも例が無い、本格的な前方後円墳の初期型と見られる。
1000人が毎日8時間働いて6年以上かかると言われる。年輪年代法により、250年代から260年代のものとされます。

箸とは厠で使う箆。
丹後の籠神社から見つかった日本最古の系図によると、箸墓は、日女命(ヒメノミコト)の古墳であり、彼女の別名として、吉備津彦の姉である倭迹迹日百襲姫、日神、神大市姫命も記されている。宮内庁による箸墓古墳の記録名は大市墓で、市場があった事を窺がわせる。発掘された木柱は卑弥呼の時代のものと鑑定されたが、馬鞍や円筒埴輪は1世紀下るとされ、五社神古墳ともども、初期型の古墳が後代に聖廟として改装された、祭祀場として使われた、廃棄場になったなどの解釈が必要になるとも言われます。
http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai08.html

○纏向勝山古墳
奈良県桜井市にある、全長110m、後円部の直径は約65m、最高部7mの前方後円墳。ここで発掘された木材を使った、年輪年代法により、「199年から、削られた部分を考慮してもプラス12年以内の伐採であり、再利用の跡も無し」とされ、卑弥呼の時代と一致する。古墳時代の開始時期の繰り上げに疑問を持つ九州説学者などからは、検査の精度に疑問を持たれている。同時に発掘された布留0式土器の編年(260〜290年)の見直しはこれから。

○纏向石塚古墳
巻向遺跡内では最も古い可能性がある前方後円墳。全長96m、後円部は、長径64m、短径61mの不整円であり、帆立貝式の可能性も残されている。

後円部は、第二次世界大戦中に平に削られたが、そこからの発掘物はなかった。濠からは252年から10年間のものと見られていた土器や農具などが見つかっているが、勝山古墳の年代が引き上げられた事で、これらも古いものである可能性が高まっている。一方で、簡単に予想編年が変わる事による批判もある。


○唐古・鍵遺跡
大和川上流で、橿原に繋がる飛鳥川の中流の、奈良県田原本町にある、丘を利用した弥生時代中期からの環濠集落。広さは30万?。
巻向以前の中心地。銅鐸などが生産される。
この地に収まりきれなくなった人口が、巻向や平城京に広がっていったと考えられます。
古墳時代の後期になると陵地となり、唐子氏の集落になる。

○池上・曽根遺跡
大阪平野南東部の和泉市池上町を中心に広がる、全弥生時代を通じる500年以上続いたの最大規模の環濠集落。南北1.5km、東西0.6km、総面積60万?。大型のヒスイの勾玉、龍や鹿が描かれた土器、蛸壺、冶金工房跡、80畳の広さを持つ高床式倉庫跡などが見つかっています。また、年輪年代方により、使用された巨木は紀元前52年のものと鑑定されています。

○二上山、白庭山
二上山(にじょうざん)は「ふたがみやま」と呼ばれ、大阪府太子町と奈良県葛城市にまたがる死火山。南の裾野には記録に残る最古の公道である竹内街道が通る。
山頂から河内平野と大和盆地を眺めるによく、平地からはランドマークにもなった。
縄文時代から肉や皮も切れるサヌカイトが取られていた。
竹内街道を挟んで南に連なる金剛山系には高天という地名が在り、高天原という説もある。

白庭山は石切神社が祀る天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アメノホアカリ)が降臨した地と言われます。
河内と大和にまたがるこの地方一帯は、斑鳩と呼ばれていました。

○瓜破遺跡
旧大和川(長良川)沿い大阪市平野区の遺跡。王莽が造らせた新(紀元前8年−紀元後22年)の貨幣である貨泉が見つかり、この時代に大陸との交流があった事を窺がわせる。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/koukogaku/koukogaku050811.html

○東大寺山古墳
天理市にある4世紀後半の古墳とされる全長140mの前方後円墳。和邇氏の間で伝承されていたと考えられている後漢末期の「中平■年(184〜189年)」の銘のある鉄剣が出土しています。


○琵琶湖沿岸の遺跡群

琵琶湖東部には、縄文時代から多くの人が住み、湖中からも多くの古物が発見されます。

安土町の大中南遺跡は、昭和30年代の干拓により発見された、弥生時代中期には、唐古遺跡と同規模の遺跡です。

守山市の下之郷遺跡は、弥生時代中期の紀元前2世紀から300年続いた環濠集落。三上山を頂点に、野洲川下流に広がる。広さは2万5千?。周囲に他の遺跡も多い。
折れた銅剣や焼けた弓、幅5m以上の9重の堀など、多くの戦いの痕跡を残します。

伊勢遺跡・下鈎遺跡は1千?以上の倭国大乱頃まで中心的だった遺跡。40畳の倉庫や、前漢鏡の破片、青銅や水銀などの加工の痕跡が見られます。

下長遺跡・十里遺跡は、弥生後期から古墳時代の遺跡。
準構造船や装身具が発掘されています。

○古曽部・芝谷遺跡
大阪府高槻市にある、弥生時代の3千?の、標高80m以上の高地性環濠集落。住居や木棺の他、鉄の斧や鏃も見つかる。

○妻木晩田遺跡
鳥取西部に広がる、弥生期最大の約170万?の遺跡。池上・曽根遺跡の約3倍、吉野ヶ里遺跡(約40万?)の4倍以上、唐古・鍵遺跡の5倍以上。

○青谷上寺地遺跡
鳥取県鳥取市にある遺跡。
質の高い鉄剣や、ヤジリの刺さった人骨が見つかるなど、戦いの痕跡を残しています。
http://www.pref.tottori.jp/bunka/aoyakamijichi/

南には日本海と瀬戸内海を眺望でき、イザナギとイザナミの降臨の伝説に由来する那岐山がある。


○加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡
紀元前2〜1世紀頃の遺跡と見られる。
島根県雲南市にある加茂岩倉遺跡から、一挙に36個の銅鐸が見つかった。これにより、銅鐸文化である出雲の影響力が北九州から北陸にまで広がっていたと考える事ができるようになった。
加茂岩倉遺跡から南東の山を隔てて僅か3.4kmの神庭・荒神谷遺跡からは、1984年、それまで見つかった全国の総数を超える358本の銅剣が一挙に見つかった。こちらで見つかった銅鐸6個は大半が近畿産、銅矛16本は全てが北九州産と見られている。これにより、否定的に見られていた出雲王国の存在が肯定的に見られるようになった。

○奈具岡遺跡・籠神社
旧丹波国の中心地であった、京都府京丹後市にある紀元前1世紀から300年ほど続いた弥生時代中期の遺跡。
弥生期の鉄斧400個分以上の鉄器の存在を窺がわせる大量の鉄片や、ガラス製の勾玉や管玉、水晶、巻向でも見つかった前漢鏡の辺津鏡や奥津鏡などが見つかっている。
近くの天橋立の砂嘴は、イザナギが高天原を昇り降りするのに使用したといわれる伝説がある。
高天原の候補地の1つであり、鬼伝説で知られる大江山も南にそびえる。
3世紀頃の大風呂南遺跡群は、方円や円墳など様々な古墳があるが、そこから、大陸製とみられる鮮やかな青のガラスの腕輪などが見つかっている。
第五代幸昭天皇の后の世襲足姫などが出ている海部氏が祭祀を務める籠神社からは、モモソソ姫を日神・日女命とする勘注系図が発見された。

コメント(1)

枚方・禁野車塚古墳:北河内最大級、“卑弥呼の墓”そっくり /大阪
12月12日16時3分配信 毎日新聞

 ◇3世紀後半〜4世紀前半、奈良・箸墓古墳と同時代
 北河内最大級の前方後円墳で国史跡の「禁野車塚(きんやくるまづか)古墳」(枚方市宮之阪5、全長約120メートル)の形状が、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、全長約280メートル)と酷似していることがわかった。府内で箸墓古墳の類型と判明したのは初めてで、近距離にあることから被葬者も同古墳の被葬者と密接な関係性があった可能性が高いという。【宮地佳那子】
 ◇被葬者も密接な関係?
 8月に関西、京都橘、京都府立の3大学の教授、学生らと枚方市文化財研究調査会の延べ260人による「淀川流域前期古墳研究調査団」が調査を実施、今月、結果を発表した。
 それによると、前方部の形が細長い(三味線の)ばち状で、古墳の最も狭い部分が前方部側であるなど、箸墓古墳の顕著な特徴が数多く認められた。近畿から九州北部に22の類型が確認された中でもよく似ており、主従関係や政治同盟などの結びつきを示すという。
 また、築造時期は出土したはにわの形状などから4世紀代とされていたが、箸墓古墳と同時期と考えられるため、3世紀後半〜4世紀前半に造られた府内では珍しい早期の古墳と考えられるという。
 前方後円墳に詳しい都出比呂志・大阪大名誉教授(日本考古学)は「初期の王の古墳は奈良県に集中しており、禁野車塚古墳の被葬者は、初期の王権と上下関係があったのではないか。国家成立の解明のため欠かせない貴重な古墳だ」と話す。
 枚方市は同古墳と周辺の整備をし、史跡公園を作る計画を進めている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081212-00000217-mailo-l27

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