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卑弥呼=神功皇后説コミュの何故、卑弥呼=神功皇后説は衰退した?

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記紀により示され、南北朝時代の北畠親房に始まり、
九州説の始まりであるものの新井白石などを代表とする卑弥呼=神功皇后説は、何故衰退したのでしょうか?

コメント(3)

大阪平野にある古墳は、記紀などでは神功皇后よりも前の時代の天皇の墓であるとされる事が多いのですが、それが近代になって、卑弥呼の時代よりも後のものである事が判明しました。

そこから神功皇后の時代も、卑弥呼の時代より繰り下げられてしまったのでしょうか。

それと同時に邪馬台国九州説が広まり、卑弥呼=天照が都合が良かった事もあるでしょうか。

また、近代では河川を利用した水運が衰退し、奈良盆地説が交通に不便であると思われた事も理由に考えられます。
記紀は、かつての大和朝廷による地方への見方が記されていて、大よその人の流れを見せてくれるけど、7割がたはノイズとも言えます。
私たちに、4代前の先祖の記憶がなく、江戸時代の戸籍が曖昧なのと同じです。

大陸、諸豪族や各地の記録との辻褄を合わせられたところだけが真実に近いといえます。
また記紀も、それらの辻褄を合わせた著作だとも言えます。

半島の記述に関しては、製作までに1000年以上の時間があるので、若干年代の正確さが欠けるようです。
卑弥呼=九州酋女説が生まれた江戸時代を見れば、徳川幕府の鎖国の時代。
国際感覚も失われ、造船、航海術も失われました。
そして、政治の中心地は江戸に移り、平地での暮らしにも慣れ、ゆっくりとした時代の流れに、渡来人が流れ込んだ時代を想像できなかったのでしょうか。

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