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卑弥呼=神功皇后説コミュの通説・他説・新説・自説・仮説・奇説・珍説

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卑弥呼は天照?
天照は卑弥呼? 倭迹迹日百襲姫? 倭姫命? 神功姫? 額田王? 皇極・斉明? 持統? 推古?
倭建命は何処の人? 邪馬台国? 周? 燕? 晋? 日向? 出雲? 播磨? 丹後? 尾張?
邪馬台国は何処ですか? 近畿? 九州? 中国? 四国? 東海? 関東?
草薙の剣は銅剣? 鉄剣? 銅矛?

日本人のルーツは?
半島、大陸との関わりは?

古代史の謎を自由に解釈するトピックです。
それらに対しての質問、検証、利用法などもお願いします。


なお、私がこのコミュニティのタイトルを『神功=卑弥呼説』としましたのは、住吉神社や生田神社での神功姫の神話での独立性と、水神としての位置づけ。
大和朝廷は、長く半島での活動は記されていますが、もし神功姫が卑弥呼よりも下った、例えば雄略天皇の時代に活躍した女性なのであれば、わざわざ記紀において、卑弥呼を英雄として扱う必要は無く、ただの巫女で三韓遠征は行わず、功績は雄略天皇のものとして描いて終わっていたと思われるからです。
そうではなく、卑弥呼が実際に三韓遠征のような事跡を残したからこそ、伝説をもとに神功姫が創作されたのではないかとの印象を持ちました。

天照に関しては、生田神社に稚日女尊、宇佐神宮に大日ルメ貴が、別に祀られ、特に宇佐神宮では、神宮皇后と大国主命はスサノオの子供とされています。
鬼道を持って衆を惑わすといった記述も、弟の横暴に耐えるといった印象に合いません。
そこから、神功姫の前に1〜2人は女王がいた可能性を考えられると思いました。

もちろん、仮説に過ぎませんので、皆さんも、ご自由に想像力を働かせて古代史を語ってください。

コメント(47)

こんにちは。
系統については良く分らないところです。
神功皇后の活躍がありながら、
推古天皇以前に女性天皇が全くいないのも不思議ですし、
仮に物部氏みたいな系図があったのだとしても、
海部氏や、あるいは蘇我氏、葛城氏、息長氏あたりの系図を引っ張ってきたのかもしれないですしね。

台与の後が、応神か崇神かは分らないのですが、
恐らくはその頃に、ヤマトトトヒモモソ姫などの
山稜を、長年かけて造りつつ、
三輪山周辺を神域化、あるいは要塞化したのかもしれませんね。
飛鳥時代以前からあった、「東海」や「東海道」という行政区分の地名を考えれば、伊勢湾が倭人伝のいう東の海である可能性は十分にあると思います。

江戸時代まで、東海道を往来する裕福な旅人は、伊勢湾を海で渡るのが一般的でした。
桑名から熱田までは、10km以上ありますが、七里の渡しと言われてたようです。
長良川、木曽川などの数本の川を、一々船で渡るよりは、合理的だったのではないでしょうか。
再修正

今度は南からです。

「女王国より以北は、其の戸数と道里は得ているが略載。
その余の某國は遠絶にして詳しくないが、列記する。」と解釈してみました。

筑紫国と吉備国を除いた神功皇后の伝説がある地を含めてみました。
倭の地を、「倭國(周旋5千里)=女王国の勢力範囲内」という可能性も、少し踏まえています。

東の海を越えたクニは、東海地方に比定しました。

1.次有、斯馬國。  志摩
2.次有、已百支國。 九鬼 
3.次有、伊邪國。  印南
4.次有、都支國。  十津川
5.次有、弥奴國。  三重
6.次有、好古都國。 河内
7.次有、不呼國。  深日
8.次有、姐奴國。  津名
9.次有、対蘇國。  土佐     
A.次有、蘇奴國。  讃岐 
B.次有、呼邑國。  阿波     
C.次有、華奴蘇奴國。 金沢
D.次有、鬼國。   木之本 
E.次有、為吾國。  伊賀
F.次有、鬼奴國。  日野
G.次有、邪馬國。  山城
H.次有、躬臣國。  桑田
I.次有、巴利國。  播磨   
J.次有、支惟國。  木津(泉津)
K.次有、烏奴國。  稲葉   
L.次有、奴國。   島根

(+).狗那国      桑名

どうでしょうか?
今回は並び重視でやってみましたが、弥奴國=美濃、烏奴國=猪名川などの候補でも、並びは変ではないでしょうか。
今回は、息長帯足姫とも縁のある、因幡と根の国の出雲地方を含めてみました。
大陸から見れば、倭人の國は、こんな並びだったのではないでしょうか。
上2つで、九州の奴国が出雲とくっ付いてしまったので、
もう少しイメージを膨らませて、記紀などの記述も組み合わせて、
倭國相関図を考えてみました。
吉野ヶ里遺跡よりも大きい妻木晩田遺跡や曽根・池上遺跡をはじめとして、他にも大きな遺跡はあるのに、倭人伝にそれらの事が記されておらず、北九州の小さい村が細かく記されていると考えるのは、合理的ではないですよね。

それに、九州と畿内の勢力関係の入れ替わりである、畿内の古墳時代の始まりが3世紀後半だったとしても、それ以前から発展があってこそ、そのようなものが作れるようになると思います。

16世紀のアメリカの移民の歴史を考えても、本国イギリスと対等になるのに1世紀、大量に移民を受け入れられるようになるのに2世紀以上を要しています。
古代の移民の定住の困難さを考えれば、畿内でも移民たちの努力は、紀元前からのものがなければ難しいのではないでしょうか。

そうすると、卑弥呼以前にも、神話自体は九州などからのものが、混じっていたとしても、同じように語られるような人物達がいて、卑弥呼は、息長足姫のような次世代の人物と考える事も出来る気がします。

息長氏の古さの事を考えると、御気津姫神や、奥津姫命など、
それに近そうな名前の姫神もいますし、姫氏や紀氏にも縁がありそうにも見えます。
息長氏が、穀物処の琵琶湖沿岸や、水運に関わりが深い一族であった事も、イメージに近い気がします。

大日女尊や稚日女尊と争って追放されたスサノオを、若き息長足姫が助け、出雲での活躍を支え、稚日女尊との間を修復し、やがて摂政となり、稚日女尊に代わり、息長足姫が卑弥呼となり、竹内宿禰や、後の崇神天皇と活躍をするというストーリーを考えてみても、大きく辻褄が合わないという事はない気が、するのですが、どうでしょうね。
九州説であっても、ある程度の警備の数は置いていたとは思います。
しかし九州説の場合は、上陸阻止や侵入防止のための兵を、他の地点にも置いていたでしょうから、特筆する事ではなかったかもしれませんね。

やはり、純粋に湊や航路の安全のため、そして出先機関としてと考えたほうが、すんなり来ますよね。
半島や周辺諸島からの海賊船や、熊襲の侵入があった時に、出雲や吉備勢力から要請を受けて出動するといった役割ではないでしょうか。

まあそれも、九州と畿内の主従逆転が何時起こっていたかという事ですよね。
九州や中国地方は、戦国時代でも幕末でも、鉄砲などの先進技術を他の地より先んじて持っていましたが、大陸に出兵するような例は除いて、首都機能が移ってくることはありませんでした。

大陸からの移民も、最初は九州に拠点を置いたでしょうが、畿内の開発が進んだら、すぐ移ってきたんじゃないでしょうかね。
魏志倭人伝の解釈のページを見て、
狗奴國との不和で、帯方郡に遣わした載斯烏越が、スサノオや武内と読むんじゃないかという解説をみて、面白いので他にもないかと読んでたら、難升米を、率善中郎将、牛利を率善校尉と為すと書いてますね。

率善とは、崇神、垂仁と読めるんじゃないでしょうか。
そう解釈すれば、卑弥呼が狗奴國との戦いの最中で矢に倒れ、難升米が張政から黄幢を受け、その後、四道将軍を派遣し、戦いを治め、牛利に地位を譲ったが、国が纏まらず、豊鍬入姫命が後を継いで、遂に治まったと繋げる事も出来るのでしょうかね。

そして四道将軍か四道将軍の子供の活躍が、倭武尊の伝説に集約されたのでしょうか。

倭武尊の子で神功皇后の夫の仲哀天皇は、腹に矢を受けて亡くなったという説もあるところから、倭迹迹日百襲姫を思わせる処もあるんですね。
難升米と都市牛利の5年後には、率善中郎将は8人にまで与えられ、狗奴國との戦いを収めた張政が帰るときも、台与の代行として、率善中郎将の掖邪狗が見送った。
率善が崇神、垂仁だとすれば、魏が健在だった265年までの人物という事になるでしょうか。

Wikipediaによると、崇神、垂仁は、実名であるという説もありますし、その次の景行天皇が、記紀によると都を纒向にしており、陵墓もそこにあるので、それ程は大きく外れてはいないのでしょう。

日本書紀に記される、崇神天皇が四道将軍を派遣したのは、北陸、東海、西道、丹波の道。
しかし、古事記には一括しては取り上げられず、各個に陳べられ、しかも吉備については書かれていない。
これについては、吉備は既に友好関係にあったと考える事も可能にしていると言えるでしょうか。

纏向遺跡の初期に吉備地方の搬入時が多かった事、箸墓古墳から出てきた、吉備の影響が見られる埴輪の事を考えると、それも裏付けられている気がします。
埴輪については、魏の黄幢を使って戦いを収めようとしたくらいですから、最初は脅しや囮として使うという発想があったとしても、おかしくは無いでしょうか。あるいは、魏の兵や馬をを讃えたのかもしれません。

なお、四道将軍の1人、丹波道主命は、母は息長水依比売娘。
娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫で、超有力者。
古事記に寄ると、丹波に派遣されたのは、父の彦坐王。

景行天皇の面白いところは、后から生まれた倭武尊を含む3兄弟以外に、継承権のない77人の子供を生み、それらが全国のクニノミヤツコ(国造) やワケ(別)やイナギ(稲置)やアガタヌシ(縣主)に任命された。
大型古墳を作る力があるのだから、子供も沢山作れても不思議ではないけど、比喩と考えると、その頃に飛躍的に支配力が増したということでしょうか。

倭武尊の記述を読むと、四道将軍の記述によく重なる。
倭武尊の墓が4つあるというのも象徴的。

神功皇后は、中哀天皇と共に熊襲征伐に出て、そしてその戦いの最中に夫を失う。
中哀天皇の陵墓は藤井寺に否定されているが、雄略天皇のものではないかとも言われる。平城京の側の神功皇后陵と離れている事も謎とされる。

倭武尊の墓の中で、最も西とされるのが、羽曳野市。
中哀天皇陵と目と鼻の先。
熊襲征伐では、女性に返送して熊襲建を討つ。
2人目の妻は近江の美夜受媛。
関東から戻ってきて、なぜか最後に近江の近くの伊吹山で神による病を得る。

景行天皇が最後に都にしたのが近江だったり、ヤマトタケル神社も近江にあったりと、巻向時代に、息長氏の地元に近いところで何か集約している気がします。

仮説に、卑弥呼の時代に、息長足姫が、四道将軍の1人と一緒に、九州にいたというものがあっても、それ程おかしくはない気はします。
大夫難升米と都市牛利の5年後には、率善中郎将は8人にまで与えられたという所で、欠史8代の時期が思い浮かびますね。

有力者の名前を系図に並べただけではないかという説もよく聞きますが、崇神、垂仁、景行が本当に巻向にいたとすると、橿原周辺に存在するこの8人という数が、何か暗示的でもあるでしょうか。

奥津で検索すると、岡山県東部の鏡町奥津が出てきました。
丁度、奈良へ向かうための妻木晩田遺跡の出口。

更に検索すると、奥津は、大神宮原などの地名を残す、吉備邪馬台国説のど真ん中で、高天原の比定地でもあるようです。
鏡町や、隣接する津山市や加茂町というのも、何やら思わせぶりです。

息長氏の出身地だったり、熊襲や三韓征伐の拠点といったいわれがあるかどうかは不明ですが、仮に拠点であり、神武天皇が橿原に地盤を気付いていた葛城氏あたりだとすると、どういった年表になるのでしょうか。


まず、奥津が、交通の要所である事は間違いないです。
出雲、奈良、吉備方面への諸街道の交差点に出られます。

息長足姫の伝説を考えれば、倭國大乱の時期において、まず牛窓方面に進出し、瀬戸内の交通を確保する。

次に、武内宿禰と虚空津姫の後継という伝説もあるような葛城氏のような一族と手を結び、淀川河口の中津、猪名津にまで勢力を伸ばす。

更に畿内における倭國大乱に際し、葛城氏などに協力し、物部氏などを破り、争いを収めることに成功する。
橿原に入府。

息長村の設立。

それから丹波、出雲を収め、属州とする事に成功する。

更に吉備、出雲の要請に従い、筑紫にまで進出し、大宰府を設置。
大陸との航路を確保。

女王に推戴される。

巻向の造営を行う。

魏へ使者を送る。

高千穂に率善将軍らを派兵。

親魏倭王に任じられる。
241年、辛酉の年に使者帰還。

狗奴国との戦いで戦死。

こういった粗筋は、歴史に詳しい脚本家の方が見れば、どんな感想でしょうね。
漢委奴国王の金印が何故志賀島から出てきたかを考えると、
ここに金印を贈られた人物の末裔が住んでいたとの仮説が成り立つでしょうか。

志賀島には、志賀海神社があり、神功皇后の三韓遠征時の、阿曇磯良の末裔の神社とされます。
磯良は、磯武良とも書かれ、五十武命の事とも考えられるようです。

五十武命とは素戔嗚尊の子供で、牛頭天皇の関連も考えられる人物。
倭武尊の小碓命、ニニギの尊との近さも感じられるでしょうか。

金印が素戔嗚尊の出雲王朝に与えられたものだとすると、本来は島根か鳥取にあるはずのもの。
これが移動した理由を考えると、大国主命のクニ譲りとは、金印を邪馬台国に引き渡す事だったり、金印を持って移動する事だったとも考えられます。

因幡の白兎の兎とは金印の事だったり、少彦名とは彦根にいる息長宿禰のような人物だったり、大国主命が80人の兄弟に殺されてから蘇るのも、国造たちによって一旦地位を失ってから、邪馬台国の中で復活する姿を現したものかもしれません。
もっとも、桃太郎も、お爺さんとお婆さんが中哀、神功夫婦で、猿田彦、犬上氏、奥津氏だというようなレベルの話しかもしれません。

卑弥呼が親魏倭國王の金印を受けた後は、漢委奴国王の金印は不必要になったと思います。
そこで、大国主命の関係者に渡され、志賀神社に納まったのではないでしょうか。
途中で宇佐や高千穂を経由した可能性は考えられます。
石室のような場所に隠されたのは、後の時代に、熊襲や新羅に奪われる事を恐れたためではないでしょうか。

もちろん志賀神社は、交易路の安全を確保する拠点としてで、神道が五斗米道に関係があるのであれば、そこには食堂としての機能も備わっていたのかもしれません。


ところで、志賀と滋賀が似ているという所で、神功皇后の関わりが感じられるところですが、筑紫と大和の近似性は、神功皇后の近くにいた1人の人物が、両方を手がけたという事も考える事ができるかもしれませんね。
現代の建築にしても、戦国時代の城にしても、それぞれに個性はありますが、設計、縄張りをする人物や業者によって、近似性が見られます。
五十武命と息長氏の関係をアバウトに考えてみます。

息長の名前を、現代風にすれば、沖永や、奥永。
奥津への変化を考えれば、沖津、興津、阿久津、奥田や沖田なんかも近いのでしょうか。


五十武命の場合は、磯良神社に祀られてるのですから、磯城氏との関係を考えてみてもいいと思います。

牛頭というのは、大陸の読み方なのでしょうか。
牛の字といえば、都市牛利ですが、こおりとでも読むのでしょうか?
そうすると、難升米も役職名なのでしょうか?
那津見という感覚でしょうか?

シキと読めば、河内の事を指してたそうで、イソと読めば、なんとなくイソノキ、イザナギと読める気もします。

ではイザナミは?というと、那津見のパターンで、イソの見でしょうか。それとも、イソの(甕)神酒というところでしょうか。
意外と、神酒とか三輪というのは、見るという言葉から来ていたりするのでしょうか。

何にせよ、謎の磯城氏なので、息長氏と同様に、古そうです。

磯城と書いてシキと読むとして、何を意味するか考えましたけど、牛頭も関係する事ですし、仮説として、秦の城というのもありでしょうか。

後に河内の事をサカと言うようになった訳ですけど、九州説の佐賀と混じる前にサカだったのか、逆輸入されたのか、どちらかなのかなどとも考えます。


住吉大社のある、住之江は墨の江、住吉は墨よしだったのですが、住吉は人が住める所ではなかったとも聞きますし、墨作りをするような土地でもありませんし、当て字っぽいところです。
イザナミが磯の見だったとすれば、住吉は津見良し、住之江は、津見の江だったりするのでしょうか。
牛窓で、牛鬼を倒したというのは、シキの勢力を、後の難波津見が破ったとでもいう伝承でしょうか。

あまり名前からこじつけると、宇治や宇陀は、呉津や呉田、侏儒は秦津、狗奴は漢那などというように怪しくなってくる気がしますので、この辺りで置いた方がいいでしょうね。

しかしそれにしても、牛鬼だけではなく、唐琴、その上に配下のチンリンキは息長足姫が自ら弓で撃ち倒したという伝説から見えるのは、海賊の姿そのままのような気がします。
4の都支國をオオゲツ姫に縁のある、多気に変更してみました。


また、モモソソ姫の要請下にある息長足姫とその勢力の水行経路の予想図というのを、以下の想定の元に作りました。

・オオゲツヒメやウケモチノカミ、北九州の宗像神社や瀬戸内海の厳島神社などに祀られる奥津姫とは、息長足姫。
・漢委奴國王の金印は、出雲にあって、隠岐の島や、高千穂を経由した後に、志賀神社に移された。
・ヤマトタケルの熊襲征伐の描写は、奥津姫によるもの。
・欠史8代と崇神、垂仁は、率善中郎将・率善校尉で、関東征伐は彼ら以降。
・新羅との本格的な戦いは応神以降。
・桃太郎伝説は、奥津姫と、足仲彦(中哀)や諸氏(武内宿禰)などにより、モモソソ姫が九州に勢力を伸ばし、財貨を得た説話がモデル。
・前方後円墳は、今でいう平城に相当し、奥津姫などが増築した。

一応、説を補強しそうなもの。

・神功皇后の伝説は、西日本に偏り、新羅に瀬戸内海にまで攻め込まれる不安定さにしては、既に先々代以前が勢力を伸ばしていた東方への記述がないのはおかしい。
・中哀天皇の都は下関や香椎、神功皇后は敦賀や大津など、不自然な遷都が見られる。
・昔は大きく箸墓に近い方が崇神陵で、後に景行陵とされた。
・古墳は、奥津城とも言われた。
仮説の上に仮説を重ねてみます。

国生みは、磯城氏の神話が中心のものと考えてミックスしてストーリーを構築してみます。

畿内では、磯城氏が当初は西の勢力と協力し、勢力を拡大していた。
しかし、やがて高天原(畿内)でも、中ツ国(津根・常世の国)でも戦乱になった。

ウジ(牛頭・呉津)や雷(ニギ速火)、櫛(クシナダ姫、越・辺津)、桃(モモソソ姫)、蔓(葛城)、奥津などの勢力と協力し封じた。

やがて、戦乱が終わり、勢力は筑紫へと移り地盤を築き、そこで渡来人を受け入れ、大いに繁栄した。
後世、筑紫で神話が作られたため、イザナギは筑紫から根の国に行って戻ったという形式になった。


天照と月読とスサノオのあたりは、重なる部分が多いので、あるいは海部氏などの神話と考えてみます。

大きく分けて、天照(畿内)、スサノオ(出雲)、月読(筑紫)が生まれたが、
それぞれに眷属が分裂、更に内乱状態にもなった。
その中で大日女が倒れ、海部氏も籠神社に立て籠もる状況になってしまった。
しかしそこから、奥津氏の援護などを元に、稚日女のモモソソ姫を中心に建て直す。
筑紫を押さえ、大陸と結び、出雲を降伏させ、卑弥呼と共に畿内に朝廷を樹立する。

海彦や山彦、大国主の部分は、一旦は北陸にも勢力を伸ばすが、後に追い詰められた出雲を連想させます。
そこから筑紫に移り、やがて畿内に戻り、今度は東の土蜘蛛(美濃・加茂)、侏儒(諏訪)などとの争いになった。

国生みの神話で見られるのは、最初は勝者がいないということ。
これは、土地や一族という事に関係なく敵味方に分れ、入り乱れて混沌とした状態なのかもしれません。
そこからやがて、有力な勢力が現れ、まとまり、勝者の側からみた神話が生まれる。
その後に、比較的具体的な、息長足姫や崇神以降の話しが続く。
丁度、群雄割拠から統一されていく、同時代の三国志の様相とも重なっているように見えます。
天照大神が男性化している事が出雲近辺に多い事も、出雲から機内へ中枢が移って行ったという解釈との食い違いは小さいでしょうか。


これらの仮説を踏まえて、息長足姫のキャラクター予想をしてみます。

息長氏の本家筋は、出雲国の王家に近い、津山・奥津周辺の有力者の奥津氏。
出雲と吉備を繋ぐ、吉井川と天神川の水運を握っていた。
そこから機内へ勢力を伸ばし、淀川水運の海部氏、大和川水系の葛城氏などと協力し、特に琵琶湖南湖から山城に地盤を気付いたのが、息長宿禰や彦坐命のような人物。

宿禰は少名彦名に存在が近いと感じられますので、新羅からの渡来人という可能性はあります。
そうすると、どのような理由で渡ってきたのかを考えなければならないのですが、ここまで神話を見てきて、呉に関係しそうな地名が多いです。
魏の曹氏に協力したのは、孫策、孫権に故郷を征服された勢力だったからとも考えられるでしょうか。

東西の交易を営み、新羅、吉備、近江などで、銅や鉄を扱う冶金術に長けていたのが息長氏で、息長足姫という名前も、奥津のタタラ城の姫というニュアンス。

魏志の記述の頃には年が長大とありますが、流石に、倭王となったのが239年としても、この時代に記紀の100歳は老い過ぎている気がします。
これも、魏志に倭人の寿命が100、あるいは80〜90とあり、やはり影響が、かなり大きいものだったのではないでしょうか。
170年生も、魏志の女王台与の記述がようやく終わり、記紀もここで応神の記述に移りたいという意味の269年没で満100歳にするための逆算ではないかと考えられると思います。

しかし、201年頃の住吉大社や生田神社の前身を建立しているような記述を見ると、この頃には成人していたのではないでしょうか。
新羅本記の173年の外交の記述をどう見るかという事で、干支を60年遅らせて、233年以前には指導者になっていたというくらいが無難な処ではないでしょうか。
その15年前に倭の使者が新羅を訪れているのも、下関や筑紫にまで勢力を伸ばした息長足姫ゆかりの人物だったとしても、おかしくはないでしょうか。

200年〜240年頃までが働き盛りだったとすれば、180年頃の生まれで、大陸でいえば、諸葛孔明や孫権の生れ年に近いと考えるのはどうでしょうか。
孫権は、182年生〜252年没の享年70歳で、三国志では代表的な年が長大な人物とされています。


まとめますと、息長足姫は、奥津タタラシ姫。倭國大乱の直前に、大津や守山の辺りで生まれる。
好奇心もあり、気さくで人付き合いも上手かった。
精鉄も営む邑では、船乗りや持衰や鍛冶職人たち、館では父や彦坐命のような豪族などの話しを聞く事ができ、呪術に興味を持つ一方、自然の力、科学の知識を得、合理的な判断も学ぶ事ができるようになっていった。

大乱の中で、特に重要な水路である琵琶湖沿岸の集落は、何度も戦火に包まれ、砦は焼け落ちたが、その中で、邑を守りぬき、他の有力者と結びつき、発展した数少ない勢力の1つが息長氏だった。
その中で息長足姫も、使用人や弟の奥津足彦などを管理し、時には大型船に乗り、釣りや食事や掃除の手伝いをしたり、あるいは持衰の真似をして、枝を振って風を呼ぼうとしたり、天や海に向かって波が鎮まるのを願い、雲や風の読み方を知り、また多くのクニや邑の仕組みや人々の生活を見てまわり、知識を得、観察力や外交能力を持ち、やがて弓を扱う姫武将から水軍の長の1人となる。

吉備の吉井川、阿波の吉野川、小豆島や淡路島を押さえ、モモソソ姫やヒバス姫ような姫祭主や斎女たち大和の斎王と友好関係を持てるようになった。

更に下関、淀川水系、敦賀を押さえて、水運を支配。
香椎、宇佐に下り、親しい大将を失うなどするものの、233年、三韓との交易路も得る。

西日本をほぼ制圧した後、モモソソ姫や他の豪族より邪馬台国王に推戴される。
魏と共に公孫氏攻めに加わり、魏と親交を結び、親魏倭王に任じられる。

鏡を増産、配布する事により、倭王就任を伝え、241年に公式に倭の王となる。
全国に社や奥津城の建造を始めていく。
247年、狗奴國などの反乱により、戦死する。

壮大な三国志に並行する、東方の島国の女王のストーリーとして、これくらいのイマジネーションは、許容範囲内ではないでしょうか?
現代の感覚なら、土蜘蛛は、出雲の忌み名にも見えますよね。
「出雲→土雲→土蜘蛛」。

筑紫から畿内から東日本にまで記述があるという事は、出雲系の豪族が、各地に飛び散った。

局地的な抵抗は鎮圧され、出雲の王族も降伏したが、やがて倭国の支配が広がり、役人が派遣されるにつれ、既得権を奪われることに危機感を持ち抵抗しようとした旧勢力に、出雲から落ち延びた勢力が加わって起こした反乱が、魏志に記された、247年の、狗奴國との1年戦争でしょうか。

よく言われる日蝕も、天の怒りというようなネガティブキャンペーンに利用されたというのもあるかもしれません。
神功皇后の実在性の根拠になりそうなものの1つに、記紀の神功皇后記の201年3月の日蝕の記述と、実際に201年の3月22日(世界標準時の21日)の朝に畿内で部分日蝕が起こっている事の整合性です。

http://takesako.homeip.net/nlinux1/emap/index.html

蝕の小さい部分日蝕ですが、後漢の記録にも残されているそうです。
春分の頃の朝の7時〜8時台の事なので、確認も可能なものだったのでしょうか。
神話や神秘に関する理解というのはこれから特に重要な時代になるのではないでしょうか。ほんとうの真実をしれば世界や社会はまったく今とは違ったあり方になってゆくのだろうとおもいます
平安時代に成立したと言われる竹取物語も、古くからの民間伝承であるとも言われ、舞台は景行天皇の時代であり、普賢寺のある山城の京田辺であるともされてます。

ここに邪馬台国の時代を当てはめれば、倭國大乱の様子が伺え、かぐや姫の光を満ちさせたり月に帰る描写も天照大神などを連想させます。
また普賢寺につけられている山号は息長山で、かぐや姫とは神功皇后ではないかという意見もありました。

かぐや姫は垂仁天皇の后の1人とされる迦具夜比売がモデルだと言われますし、似た音の迦具矢に関わる天稚彦の説話からも、やはり似た雰囲気を感じられないでしょうか。

竹取物語の、最大の謎とされる大陸的な情緒が、古い伝説に由来するものだと考えたり、富士山の地名起源説話が記紀になく、竹取物語にある事から、古くからセットだったも考えられるでしょうか。

以上から、息長足姫も、やはり国生み神話の時代に、より近い存在だとも思えるのです。

竹取の翁は武内宿禰で、求婚者の5人はその眷属。
5人に求められた御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の裘、龍の首の珠、燕の子安貝などは、女王が必要とした石材、金属、衣服や甲冑、真珠、貨幣などと見るのはどうでしょうか。
邪馬台国と狗奴国の戦いの参考にと、同じように古代の伊勢周辺で行われた壬申の乱の戦いを追ってみたのですが、邪馬台国の年代頃の記述に、似た部分が多い気がします。


卑弥呼に親魏倭王の金印が贈られるのは通説で景初3年239年。240年の正始元年に使者が還り、その明くる241年が辛酉。
当時の大陸の風習では、元号の変更は年始に行われるものだったようです。
没して、男王が立ったと考えられるのは、247〜248年頃。

天智天皇は、母で先代の斎明(皇極)天皇が百済救援の途上で筑紫で661年、辛酉の年に死去した事により、叔父を皇位につけ孝徳天皇とし、即位しないまま政務を取る。
建国の辛酉の年に関係があるかとも思いましたが、645年の乙巳に、大化の改新の年より重要でもないでしょうか。

更に、247年の丁卯と同じ667年、詳細が不明な近江大津宮への遷都を行い、そこで即位。
3年後に大海人皇子(天武)の娘で大友皇子(弘文)の后の十市皇女が死去、翌年の671年に天智天皇も死去。
その次の年に壬申の乱が起きる。

248年と同じ戊辰の128年に景行天皇は近江に3年滞在し死去。
纏向の王、崇神天皇即位の10年後に倭迹迹日百襲姫が死去。
崇神天皇の娘に十市瓊入媛命があり、別名に神大市姫の名がある倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓は十市墓とも呼ばれる。

天智天皇(中大兄皇子)の娘で天武天皇の后で持統天皇の同母姉である太田皇女が、百済救援の同行中の筑紫で、665年に大伯皇女、667年に大津皇子を出産して後に死去し、
大伯皇女が持統天皇が大津皇子を処刑し草壁皇子を皇太子にするというのは、
確かに描写は、品夜和氣命と大鞆和氣命を産み、大中姫の子の香坂王と忍熊皇子を討った神功皇后に似通っています。

持統天皇の同母弟に夭逝した建皇子がいたり、大伯皇女が伊勢斎王になったり、天智天皇の后に、蘇我馬子を外祖父に持つ異母弟の古人皇子の娘が倭姫王であったりと、
持統天皇が神功皇后のモデルであるという説もありますが、説得力もありますし、また混じっている事も考えられます。
壬申の乱の時に唐人や新羅兵が吉備に攻めてきたという話しもあります。

大友皇子の大臣に、蘇我果安、蘇我赤兄、巨勢人、紀大人などがいますが、
崇神天皇と倭迹迹日百襲姫に反旗を翻した、武埴安王、吾田姫(神吾田津姫=木花開耶姫)がいます。
紀大人も、息長氏に絡むのかもしれません。

大海人皇子の檄に参じた中に、大伴馬来田や大伴吹負がいますが、
崇神天皇がミマキ入彦、垂仁天皇がイクメ入彦です。
また、崇神天皇の后で垂仁天皇の母で東海道将軍の武渟川別の姉妹が御間城姫で、崇神天皇の別の后で十市瓊入媛命の母が尾張オオアマ姫です。
吉野から美濃へ向かう途中に、伊勢に拝する描写もあり、関東に向かう前に倭武尊が伊勢斎宮の倭姫命を訪れる様子に似ています。


その他にもありそうですが、こういった事から、壬申の乱の描写も、あるいは、過去からの言い伝えや遺跡から、卑弥呼の死後の乱と混じるようになったのかもしれないと考えてもいいのでしょうか。

天智天皇という呼び名も、天津神に近く、白村江の戦いの後に築かれた山城や水城も、
倭大乱の時期の高地性集落の言い伝えが混じる。
大友皇子と大海人皇子も、投馬国や海部国から来た酋長たちの戦いが含まれている。
大海人皇子の進路である、桑名、美濃、不破の関といったルートや、
大海人皇子の元に、東海道、中山道の兵が簡単に集結し、近江の戦いで勝利するといった描写は、
倭姫命が辿った道や、狗奴国との戦いから、卑弥呼の死後に立った男王に諸国が従わなかった状況と重ねる。
大海人皇子が桃を配ったとされる関ヶ原の桃配山は倭迹迹日百襲姫にちなむ。

そういった事があったのであれば、その理由としては、日本書紀の編纂者が時代の違う事跡を取り違えてしまったのか、蘇我氏などが隆盛を誇っていた時代の記録を書きかえるための創作として利用したかったのかといったようなものでしょうか。
上のように、卑弥呼の死後の乱、倭武尊の物語、壬申の乱の記述を対比させてみると、倭武尊と兄の大碓命の関係が、オオゲツ姫とスサノオの関係に似ているようにも思えます。

大碓命が、父景行天皇の望んだ美濃の姫姉妹を騙して奪い、しかも食事の席に着かなくなった。
景行天皇は倭武尊に出てくるよう諭すように命じられたが、誤解し兄の体を引き裂いて殺してしまう。

それを恐れた景行天皇は、熊襲と出雲を征伐に出す。
倭武尊が戻ってきた後、関征に、何故か大碓命が命じられ、大碓命がそれを嫌がったので、再び倭武尊が派遣される事になる。

この場合、美濃の姫姉妹がアマテラスの眷属、大碓命がオオゲツ姫の眷属で卑弥呼、小碓命がスサノオの眷属などと考える事もできるのでしょうか。

こうなると、ツクヨミもオオゲツ姫に関わってくるようにも思えます。
http://wsv.library.osaka-u.ac.jp/tenji/maps/maps.htm
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9222760&comm_id=1168251

最近は古地図をネットでも見る事が出来るようになっているのですね。
その中で感じた事が、1600年代前半まで、日本は東西に長いと見られているようですが、それが徐々に北東と南西に長い、正しい位置で描かれるようになってきています。

新井白石などによって九州説が誕生する時期と、丁度重なっているように見えます。
邪馬台国が畿内にあったのであれば、正しい地理の知識を得る事によって、古代を見失ったのかもしれません。
愛知県東部には、豊のつく地名が、豊田、豊明、豊橋市豊城、豊岡、豊川、豊根などがあり、ここには豊受姫、豊玉姫、豊鍬入姫などが多く祀られています。

台与がこの地方に縁を持つと考える事も出来るでしょうか。

その地に額田という地名があり、壬申の乱が卑弥呼の死の前後の争いをオマージュしたものであるならば、そこからも台与との繋がりを想像する事が可能でしょうか。

卑弥呼の宗女という倭人伝の記述をどう考えればいいのでしょうか。
また、旧唐書倭国・日本国伝に、このような記述があります。
「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。」
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun10-kyutosho.htm

狗奴国は邪馬台国に属してはいなかったが、血縁関係を組んだか、あるいは元から連なっている人物がいて、台与もその1人だった。
卑弥呼の死の前後に、狗奴国と邪馬台国が争い、投馬国のミミなども絡んだが、最終的に台与が擁立されたのでしょうか。


ところで、近畿と九州の地名が同じように付けられている問題ですが、豊前備後に対応する(東海を含む)近畿の東は三河の豊までです。
南にある宮崎の日向は、近畿では伊勢の日向です。
三河から東と北は山が多く、旧唐書の記述に近いです。
畿内説であれば、台与女王の頃に、九州南部に邪馬台国の支配が及んだのでしょうか。

三河の東の静岡県には富士山の化身で、かぐや姫と関わりがあるのではないかとされる、木花咲耶姫を祀る浅間(せんげん)神社も多いです。
九州で木花咲耶姫を祀るのは、宮崎の都萬神社です。共にアズマに関わりそうな神社ですが、木花咲耶姫もまた、台与のような立場の姫だったのでしょうか?
その時歴史が動いたでの箸中山古墳がCGで再現されてたのは良かったのですが、土台を石で舗装してあるだけでした。
私としては、中央部だけ空き地で、周囲を木が立ち並び、いざという時は逆茂木で囲って矢や切り込みを避ける、砦のようのようなものだといいなと思ったのですが。
墓は西洋の地下墓地のようなもので、合理的に土地を活用したものであったというのはどうなのでしょうか。
古道を辿れば、よく古い寺や神社に行き当たります。
そういった場所に人が住むのは、市井の住民が普通に生活する上で、目の届きにくい場所を観察するには適っていると思います。
水利権の問題も、しばしば上流と下流の住民の間で問題が起きますが、更に上流にいる人が監督すれば、問題を解決しやすかったのではないかという意見もなるほどと思えます。
もちろん、高いところからは、低い土地の住民自身が見えにくい問題も見えやすいということもあるでしょう。
困った時に頼りにされていたのではないでしょうか。

そして神社は、やや低地にある墓地とセットになっているお寺とは異なり、特に高いところにあるというイメージが、昔の人にはあったのではないでしょうか。
そういったことから、上という意味である「カミ」という読み方を、神という文字にも用いられるようになったりしたのでしょうか。
神同士が争う場面では、火や機織などの描写が出てきますが、尾張や美濃などには、火之迦具土神や天火明命など、火に関わる神を祭る神社を良く見かけました。
また、このあたりは昔から養蚕や機織が盛んな地域でもありました。

神同士の争いの描写に、邪馬台国と狗奴国の尾張や美濃での戦いなどの様子も含まれているのであれば、大国主に嫁いだ、越の沼川姫がトヨだったりする事もあるのかもしれないのでしょうか。
帥升(後漢書東夷伝に捕虜160人を献上した、日本史上、外国史書に名の残る最初の人物で)を須佐(スサノオ)に比定する説を、近年よく聞きますが、奴国をこの須佐地域を中心とした、福岡北部(那の津)から島根(根の国)と比定すれば、戦国大名の大内氏や毛利氏の勢力範囲と重なります。その大内氏や関ヶ原後に長門国と周防国の2国に減封された毛利氏が本拠地としたのは、須佐に近い地域でした。

大内氏が百済王の末裔を称したのが確認できるのは、14世紀末以降と言うことですが、大内氏の前の守護職の厚東氏が物部氏の末裔を称するなど、歴史の古さを感じさせてくれる地域です。
邪馬台国時代の初期の東海地方には、古墳や土器の形状などから、西日本とはまた違った文化圏があり、それが少しすると巻向遺跡周辺にも多く伝わる事が知られています。この事から、『幻の王国・狗奴国を旅する―卑弥呼に抗った謎の国へ』を著作された愛知県埋蔵文化財センター勤務の赤塚次郎氏などに、狗奴国東海地方説が取り上げられています。

東海地方の中でも、木曽川の愛知県側である、最古の前方後方墳が見つかっている一宮市の西上免遺跡の前方後方墳の周辺からの出土品S字甕が、炭素年代測定により邪馬台国の時代に合致するというデータが出ています。ここが狗奴国王都の候補地の1つとして取り上げられています。また、S字甕は三重県の雲出川の砂が遠くは関東にまで運ばれてから製作されたと考えられることから、邪馬台国に対抗しうる力を備えていたと考えることも可能です。

http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E4%B8%80%E5%AE%AE%E5%B8%82%E9%96%8B%E6%98%8E%E5%AD%97%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E5%85%8D&ie=UTF8&hq=&hnear=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E4%B8%80%E5%AE%AE%E5%B8%82%E9%96%8B%E6%98%8E%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E5%85%8D&gl=jp&brcurrent=3,0x6003a6e4f1c97c87:0x3ec88e90852b3394,0&view=map&z=14

岐阜県垂井町の美濃国一宮である南宮大社と、尾張国三宮である熱田神宮を繋ぐ美濃路の中間に、尾張国一宮である愛知県一宮市の真清田神社(ますみだじんじゃ)があります。西上免遺跡は、その真清田神社と木曽川左岸との中間に位置します。更に熱田神宮方面へ下れば尾張国の国府稲葉宿や、朝日遺跡そばの清須宿と清洲城跡などを通ることになります。交通上、非常に重要な場所だった事は間違いないのでしょう。

南宮大社の、主祭神は金山彦神(カナヤマヒコノカミ)です。記紀の神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から生まれたという奇妙な神ですすが、狗奴国の神としては相応しい気もします。金(カナ)の下の山彦の部分も、兄の海彦と争い、豊玉姫と結ばれた火遠理命こと山幸彦の山などと考えれば、邪馬台国の台与との関係も考えられる気がします。

なお、真清田神社の祭神は天火明命で、その子に天香山命がいます。天香山命の別名に、神武天皇を助けた高倉下がありますが、もう一つ、手栗彦(たくりひこ)があります。東海地方を中心に祀られている手力雄(たぢからを)との関係もあるのでしょうか。
私的推測なのですが…
私も、色んなネット記述や神話のツジツマが合わず混乱してた。
けど、これは「色んな結社員が日本の天皇話を我が物にしようと画策したが為、数々の「私神功説話」が誕生した」かな?と(ヾ(´・ω・`)

で最近気付いたのが「西太后神功皇后説」
聖書も、戦後の記録書?みたいな感じ。でフリーメーソンが歴史を捏造した感があるんです。
「日本は世界結社の一部」で…。
西太后については、清王朝が「十字軍」に壊された頃から時代が止まっていて、その頃録ったスカラー波が今も働いている?
清が無くなり、後に日本を乗っ取ろうとした為に
「日本の遺跡は西太后筋の歴史」を捏造せねばならなかった。
同筋の「西行法師」「西郷どん」「龍馬」ここら辺りの歴史説話は捏造で、建造物は昭和後期の物が多いかも?
フリーメーソン隊が自分達の「英雄話」を捏造しているのでは。
天皇話も、結社員活動。
現「今上天皇」はキンジョウと読むし、金正日と同じ結社陰謀なのでは。
西太后も同じ筋?かなと考えてる。
色んな本を読み日記にまとめていたんだけど、最近まとまってきました!(^_^ゞ
凄い興味深いです!
良い仮説をありがとうございます。
ではでは♪
この卑弥呼と神功皇后が同一人格ではないかというコミュニティを作ってから、間もなく10年になります。特に卑弥呼とその弟、そして台与ですが、神話や神名を辿ると、ほぼ同時代の特定の人物の伝承や人格が、神話の中の多くの神々や人々に分け与えられていると、考えることが出来ます(もちろん彼女たちのそれらの一部分は、分け与えられた人々の物を、逆に集合したものでもあるでしょう。)。

開設当時は余り掘り下げられていなかった考察ですが、近年はネット上や出版物などで拝読する事が出来て幸いです。解りやすい事例が、伊勢神宮には、天照大神の弟神で有名な須佐之男尊は祀られず、もう一人の弟神の月夜見が、ほぼ同じ神話を元に祀られている事です。

須佐之男は山口県の須佐に縁の神ですが、月夜見も名前からほぼ現在の福岡県に当たる筑紫に縁があると考えられ、その両国は、戦国時代にも大友氏や毛利氏などが水軍を用いて同時に支配していました。月夜見と須佐之男は同一人物、少なくとも関係の近さが考えられます。

伊勢にはヒントになりそうな物が比較的多くあります。伊勢国風土記逸文にある地名由来譚に、伊賀に座して伊波礼彦命(神武天皇)の命により天津神の天日別命に殺されそうになり、風を起こし波に乗り、光り耀きながら東へ去った国津神の伊勢津彦が出てきます。これは出雲建子の別名であり、伊勢は石城が訛ったものと在ります。須佐之男や已百支國との繋がりを思わせる逸話です。

訛りと言えば、伊勢神宮のほとりを流れるのが五十鈴川ですが、元は伊勢津川でしょうか。伊邪那美は出雲に縁のある女神ですが、伊邪那岐は伊勢の見なのかもしれません。[27]で述べた、土蜘蛛は、出雲の忌み名ではというような考察は、当時は他所では聴き馴染みませんでしたが、最近では出雲族という言葉で、良くお聞きできるようになりました。

ただし、出雲国にも深く関わっているとされる、筑紫の安曇(アヅミ)郷の安曇族が先にありました。安曇はアモとも読め、天津神のたちのアマに訛った可能性も考えられます。伊波礼彦の東征で、饒速日命と弓矢を見せ合って共に天津神である事を確認した神話が思い出されます。

天日別命は桑名宗社に祀られ、戸隠の際に弦楽器を演奏したという、阿波の忌部氏または伊勢の磯部氏(豊姫を祀る伊勢神宮外宮の祢宜家で奈良時代に度会氏)の祖神である天日鷲命と同神とも見られています。日別は主に筑紫島の神々にも見えます。日鷲は演奏中の弦楽器に鷲が止まった事によるそうですが、伊波礼彦に高木神の命により従った八咫烏(建角身命)の話も思い起こされます。
伊勢津彦に似た神話を持つのが、本居宣長にも同神とされた建御名方神で、祖父の大国主大神と父の事代主に国譲りを認めさせた建御雷神に、力比べを挑んだが敗れ、諏訪湖まで逃げて降伏し、葦原中国を差し出したとされます。建御雷は十束剣の化身である天尾羽張神の子であり、経津主神を従え、それぞれ利根川を挟んで常陸国と下総国の主祭神となっています。

葦原中国は、美濃国喪山や豊前国宇佐などに関係が見えますが、常陸風土記逸文を読んでも、常陸国一帯に及んでいるように見えます。足柄山、芦ノ湖、足利荘、足立郡などといった地名と、関係は有るのでしょうか? 尾羽張神と尾張国はどうでしょう。

伊勢の神である猿田彦大神にも似た神話があります。高天原から葦原中国までを照らし、天宇受売命に迎えられた国津神ですが、邇邇芸尊が天照大神に葦原中国を任され、雲をかき分け、筑紫に降臨した天下りを先導した後は、天宇受売を妻として帰国し、伊勢松原の海で溺死します。宇受売は安曇の訛りでしょうか。

大足彥尊(景行天皇)の子の倭建命も、(紀では弓の上手な美濃国の弟彦を連れ、)女装して熊襲の兄弟を打ち、(記では出雲建の剣を木刀に取り替えて、紀では吉備と難波の荒神を討ち、)最後は伊勢神宮の倭姫に行きたくないと泣きつくも励まされ草薙剣を受け取り出立し、(記では足柄山で白い鹿を倒し、紀では吉備武彥と大伴武日連を連れて)東夷を征伐し、最期は大和国に辿り着くこと叶わず三重県で亡くなりました。

なお、紀では大足彥の祖父の崇神天皇が出雲の神宝を見たいと言い、出雲振根が筑紫に下って不在の際であったため、弟の飯入根が渡してしまい、年月を経てなお恨めしく思った兄が、弟の剣を木刀と取り替えて討っています。

想像するに、大陸が三国志の時代に、倭国にも大乱が起き、先に出雲や畿内や東国まで広がっていた安曇族で、天之日矛のような渡来人と結んだ勢力が他勢力を、ある時は滅ぼし、ある時は臣従させ、その狭間に女王卑弥呼や台与が共立されていた物語が、時代や距離を経るごとに様々に脚色され、それが集められ違う時代の神話としてまとめ直された物が、記紀の中にあるのでしょうか。

倭姫や宇受売などは台与、伊勢津彦や建御名方が狗古智卑狗で、国津神は狗奴国の神なのかも知れません。皆様は、どのようにお考えになるでしょうか。
海の彼方にあり、鳥取の少彦名神や兵庫北部の田道間守、ヤマトタケルに似た伝承を持つ神武天皇の兄の三毛沼のミコトが関東平定の前に訪れた、不老不死伝説にも関わりが深い常世の国は、愛知県東部の豊川市豊川などに名残を残す三河湾周辺、つまり東海説の狗奴国支配地域にあったのではないでしょうか。
神話というものは案外、元は暗記用の語呂合わせなのかもしれません。
三河国の豊川から東へ徒歩数時間の、遠江国の浜名湖周辺には、漂流物を常世国の神ご宿ったものとして崇める風習があったそうです。
遠江国は三河国の、通常の黒潮の下流にあたります。

更に東隣の駿河国では、7世紀に大生部多という人物が、蚕に似た緑色の幼虫を常世の神として祀れば富と若さが得られるという宗教を興し、聖徳太子の側近とされる秦河勝に討伐されています。

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