ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

懐かしい物ふぁんくらぶ♪コミュの鶴瓶上岡パペポTV

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
鶴瓶上岡パペポTV(つるべ かみおか パペポてれび)は、讀賣テレビ放送が制作し、日本テレビ系列で放送された深夜トーク番組。1987年4月14日から1998年3月31日まで、讀賣テレビ放送の本社スタジオでの公開収録という形をとって放送された。番組開始当初は毎週水曜日に収録していたが、1991年頃から月曜日収録に変更。(生放送はパペポシアター開催時と500回記念の2回だけ)。「パペポTV」としては1998年で終了したが、番組は同年7月から同趣旨の「LIVE PAPEPO 鶴+龍」に移行し、2000年まで続けられた(後述)。

概要・エピソード

放送状況
讀賣テレビ放送での番組開始当初は火曜日の深夜24:50 - 25:45の放送であったが、後に金曜日深夜25:10 - 26:05に枠移動。その後、前番組の放送時間帯が深夜枠に食い込むに従い、25:25 - 26:20放送→25:40 - 26:35放送と少しずつ放送時間帯が遅くなって行く。最後の半年は再び火曜日の放送(深夜 25:40 - 26:35)に戻る。

日本テレビでの放送は、1988年10月のネット開始当初は月曜日深夜 25:10 - 26:05に放送されていた。最初の3回は「入門編」と称して過去の内容が放送されていた。そして、湾岸戦争時の影響による1990年12月〜1991年3月の放送休止時期を経て(フジテレビの『上岡龍太郎にはダマされないぞ』で突然発表された。ただし、1991年の新春SPだけは放送された)、復活後は当初水曜日深夜26:30 - 27:25の放送となり、2ヵ月後元の曜日と時間帯に戻り、1994年10月にいったん木曜日深夜25:40 - 26:35に移動し(これは東京タワーのアンテナのメンテナンスのため月・火が早終了のためだった)、1995年4月には関西と同じ曜日で35分遅れの金曜深夜26:15 -27:10に移動し(ただし当日のものではなく、原則1週遅れでの放送であった)、番組終了まで続いた(ただし、最終回に限っては放送日の都合上、日本テレビでの放送が読売テレビよりも先行されたため、日本テレビでは最終回前週分は未放送)。

地方局での放送も深夜時間帯で、地方によっては途中でネットが打ち切られたり、逆に開始された局もあり、中には東海地区の中京テレビなど、途中で一度打ち切られた後しばらくしてからネットを再開した地域もあった。放送曜日・放送時間は地域によりバラバラであったが、石川県のテレビ金沢に限ってなぜか土曜日の朝 9:30 - 10:25に放送されていた時代があった(開局当初はNTV同様月曜日深夜 25:10 - 26:05の放送であった)。(※以上の時間表記は全てJST)


ルーツ
この番組は、讀賣テレビ放送ディレクター(当時)の白岩久弥と構成の疋田哲夫が「(笑福亭)鶴瓶で番組を作ろう」と企画したのが始まりで、鶴瓶が共演相手に上岡龍太郎を指名して番組が始まることになった。しかし、肝心の番組内容がなかなか決まらず、結局「2人に決めてもらおう」ということで、1987年3月に特番で「鶴瓶上岡・激突夜話」(つるべかみおか・げきとつやわ)が組まれる。ここでの2人の会話が後のパペポTVのスタイルになっている。

実は番組開始前、上層部やスポンサーは鶴瓶と上岡の2人のトークだけで60分の番組を作るという企画内容に難色を示していた。このため白岩は、実際の番組企画とは異なった色々なコーナーを織り交ぜたニセの番組企画書を作成し(数人の一般参加者に面白エピソードを披露してもらい、誰が一番面白いかを決める「全日本雑談選手権」など)、企画が通るや否やこれを翻し、自分のやりたかったトーク一本の番組を作るという強引な手法で番組の放送枠を獲得したというエピソードがある。

2008年8月3日に放送されたヤングタウン日曜日での鶴瓶と疋田の発言によると、当初の企画では上岡ではなく野坂昭如とのコンビで番組を作る予定であったという。しかし様々な諸問題があったために、この企画は立ち消えになった。


番組タイトル
「パワフルな二人がペアを組んでポップなノリで話を提供する」の略と一般的に言われているが、これは後からあいうえお作文として作られた文章であって、タイトルの由来ではない。本当のところは、大きく口を開けて、その中に握りこぶしを突っ込みながら、関西弁で女性器を発音すると、そう聞こえることから名づけられた。番組タイトル案は50種類用意されていたが、49番目に作られたこの意味不明の余り物的なタイトルがスポンサーの郵便局(=当時の近畿郵政局)に気に入られて、採用されたという経緯がある。鶴瓶は新春番組「おめでとう!パペポ」のタイトルを、番組内で「おめポ」と略したことがある。また上岡も「マラソンパペポ」という企画はどうかというを話をしていた際に「マラポ」と略して言ったことがある。


ぶっつけ本番のトーク番組
タイトルが示すとおり、鶴瓶と上岡の2人が、60分間トークのみという形式。最近の時事問題から2人の身近な話題に至るまでシナリオなし、ぶっつけ本番の毒舌トークを展開。放送禁止用語も多く飛び出し、観客・視聴者を笑いの渦に巻き込んだ(実際には台本はあったのだが、「オープニング、2人が登場、舞台の中央に立ってエンディングまで止めずに収録」というように、番組の進行上の取り決めが記載されているのみで、どういう話をするかと言う、内容上の事は全く書かれていなかった)。また、60分番組(CMを除くと実質47〜48分)であるがスタジオでの収録時間も50分〜60分前後しか行われず、エンディング後の観客とのやりとりを除いてほとんどカットされずに使用されていた(ただし、後期には収録終了後の模様も時々放送されていた)。

ゲストは通常呼ばずに2人で進行するのであるが、ほぼ毎年恒例となっていた新春スペシャルでは横山ノックが登場。大阪府知事になった後でもよほどのことでない限り登場した(1993年のみ出演しなかった)。他には通りすがりに横切ったあのねのね、酔って乱入し暴れた桂ざこば(当時は桂朝丸)、交通標識を倒し逮捕された顛末を話した北野誠、横山ノック以外では唯一複数回(3回)ゲスト出演した大空テント、客席から引っ張り出された甲斐よしひろ、相撲甚句を歌わせるために呼ばれた桂文福、そして第8回目の放送で乱入して性的な発言を連呼し、この回に限り郵便局がスポンサーを降りる事件にまで発展した元AV女優の黒木香、鳩に色彩をつけようとしてスプレーを吹き付け、羽を固めてしまったことが番組で話題になった手品師、一陽斎蝶一などがある。 ゲストではないが、鶴瓶の話を補足するために笑福亭晃瓶・笑福亭瓶二も登場した回があった。


関西ローカルから全国ネットの人気深夜番組へ
元々は関西ローカルの番組であったが、たまたま出張で大阪に来ていた日本テレビのプロデューサーの目に留まったのと、1988年10月から関東圏の民放各局が24時間放送体制を取ることになり深夜番組を大幅に追加する必要性が出たこともあって、同月より月曜日深夜の「週刊テレビ広辞苑」、水曜日深夜の「藤本義一のおもちゃ箱」とともに東京進出、全国ネット化する(全国ネット開始当時、日本テレビではこれらの番組はすべて月曜日の深夜に放送され、深夜1:10 - 2:05に「パペポTV」、2:05 - 2:35に「週刊テレビ広辞苑」、2:35 - 3:05に「藤本義一のおもちゃ箱」と、3本続けて放送されていた)。これが、その後、鶴瓶・上岡両名が全国的人気を定着させるきっかけとなった。

1990年頃のデータによると、平均視聴率は深夜1時過ぎからの放送にもかかわらず関西で5%、関東でも3%前後取っていた。テレビ番組ガイド誌の企画で「放送時間中は寝ているが、後でビデオ録画したものを視聴している層」を含めて視聴率を調査し直したところ、その合計はゴールデンタイムの人気番組並みの19%にものぼることが判明した。また、関東でも5%近いビデオ視聴者層がいた。このことからも、深夜番組としては異例の人気ぶりであったことが伺える。

また、芸能界にもパペポファンは多く、番組で紹介されただけでも黒柳徹子、加賀まりこ、梶芽衣子、萩原流行、加藤茶、仲代達矢などがいた。また、松山千春は仕事で大阪で来た際、宿舎のテレビで当番組を見ていたく気に入り、「なんでこんな面白い番組を東京でやらんの? もったいないよ。ぜひ(東京で)放送するべきだよ」と自身のコンサートのMCで言っていた。

さらにロンドンブーツ1号2号の田村亮は「高校時代、毎週のように観覧し、単位を落としそうになった」と鶴瓶に別の番組で共演した際に打ち明けた。

週刊少年ジャンプの「ジャンプ放送局」で有名なさくまあきらも、当番組の大ファンであり、前述の一時関東でのネットが中断されたときに復活を強く希望するコメントを寄せていた。


無駄を省いた編集手法と「マル禁マーク」の発明
パペポでは、現在のトーク番組の基本ともいえる、突っ込みテロップ・話題になった人の顔写真・サイドスーパーなどを全くと言っていいほど使用しなかった。1996年の新春スペシャルのエンディングで客席へ質問を募集した際、観客から鶴瓶に対する質問の声が聞き取りにくかったため、フォローするためのテロップを使用したことがあるが、「鶴+龍」時代を含めて13年間の放送の中でトークの内容についてテロップ・スーパー類を使用したのは、このときの一回限りである。このことから、この番組では純粋にトークだけで勝負をしていた番組と言える。

ただ、さすがに放送禁止用語や放送上不適切な発言をした場合は、当初は音のみをカットしていたが視聴者から「何を言っているのか分かる」と指摘されたため、テレビで見ても分からないように、口元を黒枠で隠し、後に顔全体を「○の中に『禁』」と書かれたサイドスーパーとサイレンの音で覆い隠した。「マル禁」と言われるこの編集手法は「パペポ」が発祥であり(初めて口元をマル禁マークで隠す手法を用いたのは第68回放送分、マル禁マーク自体の初出は第62回放送分)、後に形を変えて他の番組でも使用されていくこととなった(ただしあまりに話が長く続く場合は「そんなこんなで○分経過」の字幕もしくは砂嵐を挟んで次の話題に移ると言う手法をとった)。

また、稀にオープニングでの放送禁止トークが修復不能の状態に陥るときがあり、そのときはいったん収録を打ち切って再度オープニングからやり直したこともあったが、実際は修復不能となった部分もマル禁で対応してオープニングが二度流れる形で放送していた。(例 1990年6月8日放送)

1990年5月4日放送分で、鶴瓶・上岡両名が「今日はCMを気にせずトークする」というような発言をしたところ、番組開始から44分30秒経過するまでCMが一回も挿入されることなく放送された。その結果、最後のふるさと小包プレゼントコーナー(実質2分程度)の間とその直前にCMが4回まとめて放送されるという前代未聞の凄まじい編集が行われた。番組の編集を担当していた白岩久弥が二人の要望に対して柔軟な対応を見せていたことがよく分かるエピソードである。なお、立ちトークだけで終了した回はその後もう一回あったが、担当ディレクターが変わっていたこともあり(高津英泰・3代目ディレクターが担当)、このときはオープニングトークの合間に適宜CMを挟み込む編集がされていた。


「原則当日先着順」異色のスタジオ観覧募集
収録は第1回〜第65回放送分(1988年7月8日)までは讀賣テレビ放送旧社屋で行われ、新社屋移転後の第66回放送分(1988年7月15日)からは主に讀賣テレビ放送本社第2スタジオ(収容限界人数約300名)を使用(※ただし1988年秋〜90年秋は第2スタジオを夕方の帯番組「ざまぁKANKAN!」が使用していたため、第3スタジオ(面積及び収容人数は第2スタジオと同じ)または第1スタジオを使用していた)。また、新春スペシャルの収録や春休み、収録日が祝日に当たる場合等、観客の増加が見込まれる回の収録は通常のスタジオより大きい第1スタジオ(収容限界人数約600名)を使用していた。第1スタジオを使用する時の告知は番組内で「次回はちょっと大きいスタジオで収録します」というテロップが表示されていた。第216回放送分(1991年7月12日)には、新橋演舞場で収録が行われたこともある。(鶴瓶がそこで上演されていた松竹新喜劇に出演していたため)

公開収録も原則として事前申し込みが必要なく、事前に予告された収録日に配布される入場整理券を入手すれば、自由に見学することが出来た。整理券の配布は番組開始当初収録日の夕方に配布されていたが、観覧希望者がスタジオの収容限界人数を大幅に上回るファンが集まるようになり、早朝から並ぶ観覧希望者が後を絶たなくなったため当日正午配布に繰り上げられ、その後更に朝9時半に繰り上げられた(観覧希望者は朝に整理券を受け取り一度解散して、夕方に再集合していた)。

しかし、上岡の「女性最々優先!!野郎(男)どうでもええ」という趣向のおかげで、女性グループ・単独女性が優先的に整理券を受け取ることとなる。入場の際も女性が全員入りきるまで男性は入場できない(男女混合グループは男性と見なされる)。そのため、早朝から並びやっとこさ整理券を受け取った男性ファンは夕方に再集合するが、夕方受付ぎりぎりにフラ〜っと立ち寄った女性ファンが先に会場入りできるため、正午ぎりぎりに整理券を受け取った男性は入場出来ないこともあった。番組最盛期は、配布直後にも整理券が入手できないということがあり、入手できなかった男性達は後日電話で申し込むこともあった。

観客がスタジオに入場する際にスタッフから小さな座布団が手渡され、床に敷かれたカーペットの上にそれを敷いて座って観覧するスタイルで、それが1人あたりの占有スペースの目安となっていた(カメラより後方はパイプ椅子、立ち見席が用意された)。また、本番中のカメラ撮影もフラッシュ禁止ではあるものの原則自由という、公開番組としては異例のファンサービスも行っていた(ただしフラッシュ付きのカメラにはスタッフが本番前にガムテープでフラッシュ部分を隠すという処置がなされていた。現代ではインターネットの普及とプライバシーの観点から、このようなファンサービスはまず不可能と考えられる)。

観覧スペースはほぼ毎回満杯の観客で埋まっていたが、大学の試験シーズンに当たる1月中旬〜下旬だけは普段よりも相当閑散としており、男性客も前列で収録を観ることができた。なお、最終回の収録では最終的に1600人もの観覧希望者が詰め掛け、収録に使用した第1スタジオに入りきれなかった観客は第2スタジオ及びロビーに設置した巨大スクリーンで収録の様子を見るという処置が施された、という話がある。

讀賣テレビ放送旧社屋で収録が行われていた時代、観客は基本的にカメラの後方で観覧することになっていた(1988年新春スペシャル、1988年6月3日放送分を除く)。そのため、番組のエンディングの際に、鶴瓶・上岡両名が通称「鶴瓶ダンス」をしながら番組セットからカメラの方へ飛び出したり(1987年7月14日放送分)、「浜寺の水練学校」をテーマにした即興漫才が行われた際に、鶴瓶がオチとして「後は任したー!」と叫びながらカメラの方へ泳ぐようにしてフレームアウト(1988年7月8日放送分)というようなことがたびたび行われていた。新社屋移転後は、観客が番組セットの目の前に座って観覧するようになったため、前述のようなことは一切無くなった。(例外として、第176回と第370回放送で無観客による収録が行われた際には、昔を懐かしむ形で前述の行為を再現していた。)

番組開始当初から中期頃までは両名のスケジュールの関係で2、3週分のまとめ撮りとなる場合も複数回分の収録を続けて観覧できたが、冬場に2徹した(月曜の収録を見るために土曜の深夜から並んで整理券の順番待ちをした)ファンが出現し「このままでは死者が出る恐れがある」と言う現象が起きた。この事件が起きてしばらくしてから1本目は収録当日の受付、2本目については葉書による事前申し込みで当選した者が観覧できるシステムに変更された。このシステムは朝から並べない京阪神地区以外のファンやサラリーマン、OLに対する救済措置にもなった。

新春スペシャルの収録が終わった後は讀賣テレビ放送1階のロビーに観覧客を集め、その前で鶴瓶、上岡、ノック、及び白岩プロデューサーらが挨拶し、缶ジュースで乾杯して一年を締めくくる(新春スペシャルではあるが収録は年末に行われるため)のが恒例となっていた。また、新春スペシャルでは録画放送であるにも関らず「生放送」と嘘をつき、それを聞いた観客が笑うと鶴瓶が「何がおかしいんや」とツッコミを入れるシーンが毎年恒例となっていた。その際は、かならず「住吉神社」にみんなで行く、という設定になっていた。ジェットヘリで鶴瓶が東京から急いでやってきた、という設定も。また、大晦日の夜にフジテレビ系で鶴瓶と上岡のコンビが司会の特番が放送された年度の新春スペシャルは、日本テレビのスタジオから生中継という設定で放送された(もちろんウソ)。


主なスタッフ
構成
疋田哲夫
鹿児島俊光(番組初期)
藤本多賀雄(番組後期)
プロデューサー(1993年1月まで1人、1993年2月より2人体制)
岡島英次(番組開始〜90年7月)
池田智(1990年8月〜1992年9月・1993年2月〜1996年7月)
白岩久弥(1992年10月〜番組終了まで)
西村良雄(1996年7月〜1997年2月)
松下泰紀(1997年2月〜番組終了まで)
ディレクター(1991年1月まで及び1993年1〜3月は1人、1991年2月〜1992年12月及び1993年4月以降は2人体制)
白岩久弥(番組開始〜1992年12月、1993年4月〜1996年4月。1991年2月よりチーフディレクター。1992年10月以降はプロデューサーを兼務)
武野一起(1991年2月〜1993年3月。番組開始から1991年1月まではADとしてエンドロールに表記されていた)
高津英泰(1993年4月〜番組終了まで。1996年5月よりチーフディレクター)
内海博久(1996年5月〜1997年6月)
西川義嗣(1997年7月〜番組終了まで)

テーマ曲とセット
テーマ曲は番組開始〜提供までの立ちトークの間とエンドロール時に使用。立ちトークがいつ終わるかわからないため、エンドレスに加工して使用していた。選曲はすべて白岩プロデューサーが行い、番組の雰囲気に合う最新洋楽ナンバーを中心に選曲されていたが、一部例外として邦楽の英語詞ヴァージョンや、CD化されて再発売されたクラシックヒットナンバーの中から選曲されたケースもあった。また、スタジオ内のセットは低予算番組が多い関西発深夜番組の割にしっかりした造りのものが用意され、全国ネット化後もほぼ2年おきにかなりの予算をかけたと思われるセットが用意された。全国ネット化に伴う予算アップもあったと思われるが、当時上岡龍太郎が「関西制作の番組は安っぽいセットのものが多くて、東京で見ていても在阪局制作の番組だとすぐわかってしまう。東京の番組に負けないセットを用意してほしい」とよく言っていたことが影響していたと思われる。もっとも、上岡と鶴瓶のギャラ以外に金をかけるところがほとんど無かったため、このようなことが可能であったことも考えられるが。初期のセットで、ピンクの大砲が用意されており、柔らかく毒舌を吐く象徴として、これを藤山寛美が絶賛していたとされる。

1代目セット時代
(87年4月〜89年3月。正面背後にピンクの大砲を配置した、パペポTVの象徴ともいえるセット。関西ローカル時代に作られたもので、最もシンプルな雰囲気の造りであった。)
INFIDELITY(SIMPLY RED)
GONNA GET YOU(MICHAEL FORTUNATI)
I HEARD A RUMOR(BANANARAMA)
LOVE IN THE FIRST DEGREE(BANANARAMA)
MONKEY SHOP(PRESET)
POWERFUL PAIR(田中一郎)
I MISS YOU(KYLIE MINOGUE)
TWO HEARTS(PHIL COLLINS)
2代目セット時代
(89年4月〜91年7月。全国ネット化半年後にセットの模様替えを実施。1代目セットをベースに、PAPEPOの文字の電飾看板を配置するなどグレードアップしたもの。ピンクの大砲は舞台向かって左側奥に移設された。)
HE AIN'T NO COMPETITION(BROTHER BEYOND)
IF I DON'T HAVE YOU(JASON DONOVAN)
CAN'T DENY A BROKEN HEART(ANNICA)
SECRET LOVE(BEE GEES)
3代目セット時代
(91年8月〜93年5月、全面模様替え。より大きなPAPEPOの文字の電飾や、背景ホリゾントに回転する「PAPEPO」の文字を映し出すライトを配置。茶色系配色を中心としたセットで、舞台背景全面に電飾を使用していた。)
WHEN THE LIGHTS GO OUT(GERARDO)
GIVE ME JUST A LITTLE MORE TIME(MIC MURPHY)
ADDAMS GROOVE(HAMMER)
CHIC MYSTIQUE(CHIC)
TAKE MY ADVICE(KIM SIMS)
GET LOVE〜ENGLISH VERSION(横山輝一)
FULL TERM LOVE〜ボーナストラックREMIX(MONIE LOVE)
4代目セット時代
(93年6月〜95年12月、回転する「PAPEPO」の文字のライトを除き全面模様替え。巨大な本や文具、スタンドなどを模したセットが置かれた机の上、背景は橋や高層ビルの町並みをイメージして造られたセットが用意された。)
TWENTY-FIVE HOURS A DAY(THE HOOTERS)
TUESDAY MORNING(THE POGUES)
I ONLY WANT TO BE WITH YOU(BLIDGETTE WILSON)※OPのみ
STAY(ETERNAL)※EDのみ
GIVE IT UP(CUT'N'MOVE)
SWEETS FOR MY SWEET(C.J.LEWIS)
DAYDREAM BELIEVER(THE MONKEES)
WON'T WALK AWAY(NELSON)
TOTAL ECRIPSE OF THE HEART〜ボーナストラックREMIX(NICKY FRENCH)
I'LL BE THERE FOR YOU(THE REMBRANDTS)
5代目セット時代
(96年1月〜97年9月。4代目セットをベースに、より派手な電飾を施したセット。机の上を模した舞台は変わらず、「TK」の文字の形をした電飾ミラー、アーチ状の建物、受話器を天井から吊り下げたピンク色の巨大な電話のセットなどを配置。PAPEPOの文字の形をした謎の生物6体がペンキを塗ったりこぼしたりしている様子などを表現していた。)
DUB-I-DUB(ME&MY)
THE RIGHT TIME〜ディスコバージョン(THE CORRS)
LAST NIGHT(C.J.LEWIS)
SOONER OR LATER(THE GRASS ROOTS)
RING A LING(TIGGY)
MY OH MY(AQUA)
6代目セット時代
(97年10月〜98年3月。全面模様替え。これまでの派手な電飾路線から一転して、砂漠を背景にした西部風の落ち着いたイメージのセットに変更されたが、僅か半年後に番組が終了することとなった。番組終了の背景には、白岩プロデューサーが98年4月付で吉本興業系番組制作会社のワイズビジョンへ出向することとなり、松竹芸能系番組であるパペポTVの制作に関わることが実質不可能となったことが大きく影響したと考えられている。)
UNTOUCHABLE(RIALTO)
WHAM BAM(THE SCARLET)

LIVE PAPEPO 鶴+龍
パペポTVは1998年3月で一旦終了するが、同年7月7日から、「LIVE PAPEPO 鶴+龍」(らいぶぱぺぽ·つるとりゅう)と題し、30分番組として復活した。

放送時間は当初火曜深夜24:50 - 25:20で、1999年4月から「DO-YA」枠の土曜深夜24:55 - 25:25に枠移動した。関東・日本テレビでは「パペポTV」と同じ金曜深夜26:15 - 26:45の枠で放送された。なお、パペポTVをネットしていた局がすべてこちらもネットした訳ではなかった。

こちらはスタジオ収録ではなく、スタジオを飛び出して全国各地の観光地などでのゲリラ的収録を敢行した(ただ「いつ、どこで収録します」という告知は番組でなされていた)。収録会場は主に京阪神地区の中から選ばれ、1回で2本分(60分)収録するスタイルが基本となっていたが、数回に1回の割合で関東や中部、その他地域への遠征も行われていた。また、ごく稀に3週に分けて放送された回もあった。





(*´∇`*) これは観てました 面白かったですよね〜

コメント(8)

パペポの名前の由来がわかって、スッキリしましたW
探偵ナイトスクープみたいに傑作選DVD出してほしいなぁ。
(´・ω・`) DVDにまとめるのが大変かもしれませんよw
でも出たら私も見たいかもwww
整理してたら、こんなん出てきました↓
みえはるさん
それってヤフオクとか出したら高値がつくかもよw
馬頭さんになら、右の「御見事で御座います」をご婚約のお祝いに差し上げてもよろしいですよ。
いつもいろいろと懐かしい情報を取り上げていただいてますし…。
メッセージでご連絡いただけましたらお送りいたします。
ただし、転売厳禁ですw
今頃レスみてしまったw 遅ればせながらお気持ちのうれしさに感激^^
こちらこそ、今頃になってレス確認しました。
まだ売らずに貼らずに置いてあります。
我が家には
パペポ新聞があったはず、、、

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

懐かしい物ふぁんくらぶ♪ 更新情報

懐かしい物ふぁんくらぶ♪のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング