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懐かしい物ふぁんくらぶ♪コミュの原田 真二

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●本名 原田真二 ●出身地 広島県広島市 ●誕生日 1958年12月5日
  ●デビュー 1977年10月25日(18歳時)

デビュー以前
1970年のある日、当時12歳だった原田真二少年は、TVの衛星中継に釘付けになっていた。それは、エルビスプレスリーのコンサートの中継であった。そして、この7年後、ミュージシャン原田真二が誕生するのであった。
ギターを練習し始めたのは14才、そして高校に入学したころからピアノを弾き始める。
勿論、始めから流暢に演奏できたわけではないが、約3年後にはヤマハのビッグバンドでギターを演奏し、しばらく後にプロデビューをはたしたときには、当時目新しかったピアノの弾き語りをTVで行なったことを考え合わせると、ただ才能というより、今回の人生だけでは推し測れないバックグランドが、彼には既に備わっていたようだ。
話は少し戻るが、彼が15才のとき、生涯の師と仰ぐ恩師にめぐり合い、心の大切さ、その力の偉大さを学び、それによって、彼の音楽の方向性が決定づけられた。
事実、彼の音楽には、退廃的なもの、破壊的なものは一切見られず、常にプラスの波動で聴く者を勇気づけてくれる。これにはもう一つ、彼が広島で育ったということも大きく影響していると思われる。平和の大切さが、感受性の強い子供心にしっかりと刻み込まれていたようだ。
近年、ミュージックセラピー、環境音楽など、音楽が、人間も含めたすべての生き物に、いかに影響を及ぼすかが、解き明かされつつあるが、彼は、このとき既にその重要性を感じ取っていたのかもしれない。

デビュー後
1977年いよいよデビューの年をむかえる。
きっかけは、その前年にフォーライフレコードが募集したオーディションに自作の曲で応募したことから始まる。
応募作品約3千曲の中から1位で選ばれた彼は、大学入学で上京すると同時にデビューすることとなった。
そして、10月25日「てぃーんず ぶるーす」11月25日「キャンディ」12月20日「シャドーボクサー」と、3ヶ月連続してシングルをリリースするといった前代未聞のデビューを飾ったのであった。これは、彼の多様な音楽センスを、一つの作品だけで表現することが難しく、このような異例のデビューとなったわけである。異例と言えば、リリースした3曲ともベストテン入りするというそれまでの日本音楽史上例を見ない現象が起きたのもこのときである。また、1978年にリリースされたデビューアルバムは、初登場1位となり、そのまま数週間連続トップを独走した。

勿論、この時期の彼は、ミュージシャンであると同時に、ものすごいアイドルでもあった。これは、本人が好むと好まざるとにかかわらず、強力な力で彼をスターダムに押し上げていった。
3万人を越えるファンクラブの会員、当時の表紙を飾った雑誌の数といった、客観的な数字からみただけでも、そのアイドルぶりのものすごさは容易に想像がつく。
そのころ本人は、自分が目指していたものと現実のギャップに、心悩ませていたのであった。このまま時代の波にあらがうことなく、アイドルとして超過密スケジュールをこなし続けていくか、ミュージシャンとしての自らのリズムを取り戻すべきか……二者択一を迫られていた。勿論これは、外部からというわけではなかった。
歌手ということだけでなく、アーティストとして自らの作品を創造していた彼にとっては、それらのバランスをとることは、芸能界のリズムでそのまま進んでいったのでは、ほとんど不可能なことに思えた。今ほど多様性のなかった当時の芸能界を思いやると、致し方ないことであった。
かくして彼は、自らのリズムを取り戻す道を選んだわけである。
それは、デビュー3年目のことであった。それまで所属していたプロダクションより独立し、自らの会社、株式会社クライシスを設立。(1988年?エアーフィールドに社名変更)そして、その代表となった彼は、TV、マスコミからもある程度の距離を保ちつつ、アーティストとして本来の活動に専念することとなったわけである。
現在までにリリースされたアルバム、シングルは、70枚以上。他のアーティストに提供された楽曲は、200曲以上となり、メロディーメーカーとして揺るぎない地位を築き上げたのであった。
その他、多くのCMも手がけ、その卓越したセンスは、業界内で高く評価されている。
TV番組では、龍村仁監督の「命の響」のテーマ曲「生命交響楽」が放送されている。
1995年には、東京都八王子市立下柚木小学校の校歌を作詞・作曲し話題となった。この校歌「下柚木の丘はいつだって」は、CD化され一般発売された。教育委員会始まって以来のことであった。
96年には、パシフィコ横浜にて行なわれた環境庁主催、入場料100%寄付のチャリティーライヴの制作にたずさわると同時に演奏も行なった。この収益金は、ボスニアヘルツェゴビナへ寄付された。その他、特殊法人、環境事業団協力の環境チャリティーコンサート「SEEDS IN THE FIELD」に数回出演。
その他98年には、細川俊之、遠山景織子、坂本昌行出演のミュージカル「奇妙なゲーム」の全音楽を書き下ろしプロデュースした。これは、追加公演も行なわれるほどの大好評を博した。
99年5月には国際環境会議に参加し2001年10月には、同会議のレセプションにて演奏した。

2000年最後の12月30・31日、椿山荘のフォーシーズンズホテルにて、2日間のディナーショウ
「ミレニアムカウントライヴ」が行なわれた。
この年より松田聖子の音楽制作に関わるようになり、2001年から4年間シングル、アルバムとも楽曲を提供し、コンサート及びディナーショウのプロデュースを行なった。
2002年には、日韓合作映画「白神渡海」hakujin tokai の音楽(テーマ曲・挿入曲)を担当した。
2004年11月東京都八王子市立緑が丘小学校の校歌を作詞・作曲し校歌の制作は2つめとなった。
2000年より森作りのためのチャリティーコンサート「鎮守の杜コンサート」をスタート。
4年間で明治神宮、伊勢神宮、厳島神社を含む全国13箇所の神社でコンサートを行なった。
2005年にこの活動は「NPO法人 ジェントル・アース」を設立することにより、更に発展しつつある。

現在、原田真二は、他のアーティストのプロデュースにも力を入れる一方、永年の夢であった、地球規模での活動を展開するため、その第一歩として、英語圏での活動をスタートすべく準備を進めている。 「いい音楽」の持つ力を信じ、生かし、育み、生かされていく暖かい波動を世に送るべく、ますますアクティブにポジティブに活動を続けている。
少年の頃灯った種火が、新世紀スタートと共に、大きな炎へと燃え盛り始めたようだ。


Modern Vision
http://www.youtube.com/watch?v=IpOdNzOCQAQ

 タイム・トラベル
http://www.youtube.com/watch?v=220QgnxGG5s

every night
http://www.youtube.com/watch?v=CSE-w9Alat0

Our Song
http://www.youtube.com/watch?v=Y452FQ0pdcQ

Machiko Watanabe×Shinji Harada / That's what friends are for
http://www.youtube.com/watch?v=aCYUrIwvRcM

サゥザンド・ナイツ
http://www.youtube.com/watch?v=py0mJXo3BCQ

■ 原田真二HISTRY ■

 原田真二は、アーチストであり、日本音楽界にとってかけがえのない存在であると思う。

 シングルでのトリプル・デビュー(「てぃーんず・ぶるーす」「キャンディー」「シャドー・ボクサー」)は当時(1977年)は、大変インパクトがあった。デビューに当たってどれをシングルにするかまとまらなかったという。それほど「類まれなる才能」と評価されていたのだ。

 そしてデビュー当時それまで君臨していた「アイドル新御三家(郷ひろみ、西条秀樹、野口五郎)」を文字り、ちょうど同じころデビューを果たした「チャー(竹中尚人)」※ 「世良正則&ツイスト」とともに「ニューミュージック御三家」あるいは「ロック御三家」と称された。

 彼らは積極的にTVに出演した。これは、それまでのニューミュージック(フォーク)のシンガーソングライターとは一線を画し、「ニューミュージック」のネーミングはむしろ彼らの代名詞となったといってよいだろう。また、彼らはそれなりの容姿も兼ね備えていたため、アイドルとしての地位も確立することとなり、ここに誤解が生じるハメとなった。特に「原田真二」はそうであった。

 また、シングルを発売するとき、A面に力を注ぎセールスするのが当時のスタイルであったが、この「類まれなる才能」はそのような器には収まらない。ついに「両A面」というシングルを出す「タイム・トラベル/JOY」がそれだ。両A面なんて、なんだか有難くて、拝みたくなるようなシングルである(笑)。
 この時期、彼がもっともTVに出演し、表舞台の活躍華やかな頃でもあった。
 デビュー10ヶ月目にして日本武道館のステージを行うこととなる。この模様を含めて、「OUR SONG and All of you」というドキュメンタリー映画が龍村仁監督の手によって作られるのである。この映画をご覧になれば、単にアイドルではないことがわかるだろう。確か龍村監督は「真二自身、音楽そのものだ」と言っていたと思う。

 シングル「OUR SONG」には彼自身多くの賭けがあったと思う。
 この頃は完全にアイドル化していた彼は、よりアーチステックな活動を標榜していたことは間違いないし、それを認めさせる上でもどこかでやらなければならなかったことだったのだろう。彼自身、歌詞に思いを乗せていくことになる。それはあまりにダイレクトなメッセージであり、当時の社会には受け入れ難い部分があった。

 しかしその明確なる主張ゆえに「衝突」もある。「レコード大賞」という当時の日本音楽界の権威の象徴を彼はなんと「拒否」したのだ。これは当時考えられることではなく、音楽界を牛耳る関係者にとって「暴挙」以外の何ものにも映らなかっただろう。当然、マスコミに毒された一般国民は付和雷同したことはいうまでもない。

 センセーショナルなデビューとは裏腹に彼の音楽に対する態度はあくまで真摯であった。
 決して現状に甘んずることなく、常に「変化」を求めて行ったのである。ファンはこの変わり方についていけなかった部分もあるのかもしれない。まさに「早すぎた天才」である。
 当時そのようなことまで理解してくれるファンは少なかった。今でもそうだが、コンテンポラリーな(ミーハーな)ファンとは「流行」を追うだけの存在かもしれない。

 当たり前の話だが、音楽の素人にその革新的な要素を理解するのは不可能である。
 ここで不思議な現象が起きるのである。プロの間では、原田真二はリスペクトされていたところは当時の音楽シーンをみていると感じとれるところでもあったし、それを裏付けるように吉川晃司が「アルバム「モダン・ビジョン」は最高だ」とか、後述する佐野元春との鼎談、数え上げたら切りがない。何より彼をサポートしてきたミュージシャンの面々をみるとよい。

 問題は彼のとったスタンスである。というかとりようのなかったスタンスである。
 アイドル時代と並存し、日本の音楽を高めるということは、時代がそこまで追いついてなかったのだ。
 いまでこそ、主義主張しても世間の反応は別に大した事はないが、原田真二が登場した時代は今とは全く状況が違う。

 そんな彼がダイレクトに自身の気持ちをぶつけた曲が「OUR SONG」である。この曲を境に表舞台から消えてゆくことになるが、それは当時の事情を省みないとなかなか理解できることでない。

 当時の事情としては、ロック御三家の後を追うように新興勢力(サザンオールスターズ、ゴダイゴなど)が台頭してきていた。そして何より重要なのは、その時代は「意味のあるものをすごく嫌った」時代でもあった。そこへ原田真二は誰よりも明確な主張をしていたのだ。

 レコード(当時はまだCDはなかった)上では、「マーチ」やアルバム『Human Crisis』に見られるように彼自身の主張を貫く形を完成させる。特に最近のものに近くなるものに従って、すごく理解しやすい部分と彼の思想的背景(精神世界への追求)を理解しないとわからない内容の歌詞が多く出てくることとなる。しかし首尾一貫しているのは『Feel Happy』という主張に他ならない。

 アルバム『Human Crisis』の発売と同時にファンが二分した。これは彼自身が語るところでもある(「アコーステック・ナイト?」)。
 このアルバムでは、前作『Natural High』同様、英語の歌詞を除いて、すべて彼自身の歌詞である。
 生命の息吹である「鼓動」のドクン、ドクンという音からこのアルバムはスタートする。A面を「NATURE side」とし、B面を「URBAN side」としている。(CDではこのあたりの事情は消えてわからなくなっている)
 そしてラストを飾る「Human Crisis(旅人よ)」では、人類全体にメッセージする。「足を止めて、振り返れ」と。
 しかし思うのだが、当時Crisisに参加していたのが、古田たかし、関 雅夫、北島健二であり、豊田貴志であった。以前のシングル等を見るとかなり豪華なミュージシャンが彼の曲に参加していることがわかる。たとえば、「シャドー・ボクサー」には坂本龍一の名前がクレジットされている。

 つづいて出したアルバム『ENTRANC∃』。その端境期にシングル「LIFE」「熱思考(She became cold)」があるが、歌詞的には、とにかく「わかりやすく」を強調していた。そのアルバムにある「NEWS CASTER」「Let's have a dinner」あるいは「ライオンと白くまときつね」などは、具体的に比喩しながら「愛」を説いているのではないだろうか。

 そしてこのあと「エヴリサンデー」というシングルを境にアメリカ武者修行に旅立つのである。
 このあたりの事情は、佐野元春の当時のラジオ番組('82.2)で相棒、古田たかし(後に佐野元春withハートランドの正式なドラマーとなる)とともに鼎談が行われている。
 特に印象に残っている言葉を挙げるなら、「日本人のためのメロディーを作りたい」「ポップっていうのは、普遍的なメロディーだと思う」というところか。

 そしてそれから約1年を海外で過ごすこととなる。しかし、この間の仕事もきっちりこなしており、特に他のシンガーへの提供曲の多くはこの時期に書かれている。幸いにもshinjiファンでもある「OTOMARU」氏の手によって提供曲のデータベースがしっかり出来ている。私もこのデータベースを見るまで、その数の多さを知らなかったのだ。また、面白いのは、「見つめてCarry on」という曲(シングル、アルバム「Doing Wonders」の収録)が進化していく過程も楽しめたりする。歌詞違いのバージョンなどもあったりして。。。

 さて、帰国後(1983年)、シングルとして「雨のハイウェイ」(作詞 松本隆)を出すが、裏話では「Spring Shower」という曲と最後までシングルを争ったと聞く(結局、Spring Showerは次のアルバム『Modern Vision』に収録され、シングルとはならなかった。)。

 帰国後第一弾に出したアルバムが『Save our soul』(頭をとるとS.O.Sとなる)である。すべてシングル・カットしてもよいと本人が言うくらいつぶぞろいの曲がひしめくアルバムである。しかも渡米前に語っていた「日本人のための音楽(ポップス)」を実践してみせた曲「愛歌」というのがフューチャーされている。しかし、より親しみを持つのはシングルのみで発売された「愛して、かんからりん」であろう。

 某NHK-FMで放送されたラジオ番組(スタジオ・ライブ)で、司会のタカハシモトコさんが、「愛して、かんからりん」を聴いて、涙したほどだ(笑)。

 そして、彼は次にやるべきことを「ヴィジョン」に置いていた。この頃になるとステージも一種芝居がかったものとなってきている。「アクト」を取り入れようとさまざまな試みがなされる。

 そういう発想の中で『Modern Vision』というアルバムが作られる。彼のアルバムはデビュー当時からそれまで日本のアーチストがあまり手がけなかった「トータル・コンセプト」を持ったアルバムとしてそれぞれ作られている。ここは他のアーチストには見られないところである。

 よりアクティブによりヴィジュアルに、彼のコンセプトは、ステージにおいて開花されていた。しかも、次のアルバム『Magical Healing』では音楽のみだったオリエンタル・ムードをヴィジュアルにも取り入れてく。

 しかし驚くのは1985年において「Healing(ヒーリング(癒し))」という言葉を使っていることである(注)。誰がこの時この言葉を使っていたであろう。それほど彼の音楽性や視野は先を走っていたといえる。

 こののち『Friday Night Club』、LPサイズのシングル『伝説KISS』、『Doing Wonders』(このDoing Wondersの頃からCDというものが出てくる)・・・と常に日本音楽界の指針として活躍していく。

(注)・・・なると様よりHealingという言葉についてご指摘がありましたので、ご紹介します。「マーヴィン・ゲイの1982年10月の大ヒット「セクシャル・ヒーリング」からインスパイアされたタイトルだと思われます。」ということです。ただ日本人の有名アーチストとしては原田真二がはじめて使っていたような印象が私にはあります。

鎮守の杜コンサート 原田真二さんはこんなこともやってます。

コメント(4)

「キャンディ」は、今聴いても古さを全く感じさせませんね。
直接あった事がありますがとても言い方でしたよ^^
好きだったのは「シャドウボクサー」とか「ティーンズブルース」ですね「愛してカンカラリン」なんかも綺麗な曲だから好きです(=^◇^=)

突然アメリカに行ってから忘れられた存在になってた時期も有りましたけどね
松田聖子と変な噂になったときは勘弁してほしかったですよw
私、松田聖子のあのキャラ大嫌いなので( ゚Д゚)
あれは完全に、松田聖子の話題づくりのダシにされてましたね( ; ゚Д゚)
直接あった事があるんですか!羨ましい・・・

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