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キリスト教改革派何でもコミュコミュの鍵の務めについて

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コメント(58)

「鍵の権能」と言った時に、本来は天国の鍵を開いて人々を迎え入れる務めと、
鍵を閉じてサタンを入れない務めがあるはずですが、

鍵の権能=教会戒規=人を裁くこと←「裁いてはならない」に反する

という反応を示す方が多いと思います。
これは戒規が正しく行われなかったことがしばしばあるためかと思います。
そして、戒規についての正しい教育が行われず、処罰規定のような理解を持ってしまっていることによると思います。

discipline は訓練なのですがね。
22 sundayさん

「鍵の権能」というのは、教会がキリストから託された権能です。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。
あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 マタイ16:18-19

教会は天国の鍵を授かっているのです。重大なことです。

具体的には「御言葉の説教と聖礼典」、および「戒規」によって鍵が開かれ、また閉じられます。
わたしは常々疑問に思っていることがあるのですが、

「鍵の権能」
↓
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。」マタイ16:18
↓
「あなたこそ、生ける神の子キリストです」マタイ16:16
↓
「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。」?コリ12:3
↓
つまり、鍵の権能は聖霊に帰せられる!

が、正しいのではないかと思いが離れません。


もちろん正当教義(ウェストミンスター信仰基準で確認)でも確認したけど、もっとわかりやすい説明、または書籍の紹介があるとうれしいです。よろしく。
24 きょろすけさん

> 「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。」?コリ12:3
> ↓
> つまり、鍵の権能は聖霊に帰せられる!
>
> が、正しいのではないかと思いが離れません。

何と比較して「正しい」のですか?


あ、つまり、正統教義では
「鍵の権能」=「御言葉の説教と聖礼典」、および「戒規」
となっているわけです(23 にもそう書かれてますし、わたしもウェストミンスター信仰基準で確認しました)

しかし、24のような聖書の読み方、解釈も成り立つのではないか、つまり
「鍵の権能」=「聖霊」
とも読めるのではないか、ということです。

もし、正統教義(「鍵の権能」=「御言葉の説教と聖礼典」、および「戒規」)を裏付ける理論の説明、またはそれが記述されている本の紹介があれば幸いです。
きょろすけ さんの教会では、「ペンテコステは教会の誕生日」と言われていませんか?
聖霊なる神様が降ってくださったことによって教会が誕生しました。(と、わたしたちは教えられています)
キリストの教会は、聖霊なる神様のお働きによって、鍵の務めを果たします。
>27 はるひメさん
>きょろすけ さんの教会では、「ペンテコステは教会の誕生日」と言われていませんか?
>
昔に聞いたことあるように思います (^〜^ヾ)

>聖霊なる神様が降ってくださったことによって教会が誕生しました。(と、わたしたちは教えられています)
>キリストの教会は、聖霊なる神様のお働きによって、鍵の務めを果たします。
>
そういうわけなんですか。つまり、正統教義も、「鍵の権能」=「聖霊」も矛盾しないということなんですね。
回答ありがとうございます。あっかんべー
きょろすけさん

「鍵の権能」=「聖霊」というわけにはいきません。

「鍵の権能」と「聖霊」は同等ではありません。
聖霊は信仰者「個人」に対しても働きます。つまり聖霊の賜物は個人個人に対して与えられるものが多いのです。
しかし「鍵の権能」は個人的に与えられると考えられていません。あくまでも「教会」の権能です。
そこはしっかり区別しておかないといけません。

なお、ローマ・カトリック教会は、教会をペテロという一人の人物の上に建っているものと考えます。従って「鍵の権能」もペテロ(とその後継者であるローマ教皇)に与えられたものと理解しているはずです。

聖霊による というのは、鍵の権能だけではありません。
おおよそ説教も聖礼典も礼拝全体も、教会の活動すべては聖霊によらなければむなしいものになります。
だから、鍵の権能を行使せしむるのは聖霊であるというのは前提です。
むしろ、ここでの関心は

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。
あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 
教会には人を天国に招き入れ、あるいは閉め出す権能が与えられている

ということです。
特に、後半の「閉め出す」に関わって「戒規」がこのトピックの主題になっています。
> 28 きょろすけさん

貴方のおっしゃることが、よくわかりません。
実際、貴方と他の方の対話が成立しているようにも思えません。
にもかかわらず貴方は自分で都合よく自説にお墨付きつけてるような印象です。

貴方のおっしゃることが成立するようにこちらで言葉を補うことは出来ますが、
そういう善意の解釈のつもりのものが貴方が考えていることと一致する保証がないので
言葉を省略しないで厳密に使って貴方の意見を述べなおしていただけますでしょうか。

さしあたり、安易に等号を使わないで下さい。
「鍵ないし鍵の権能=聖霊」というのは
聖書に出てくる聖霊を指すと思しき語を全部「鍵」に置き換えても
難なく意味が通じるのでなければ、不成立です。

その一見もっともらしく実は意味のあること言えていない表現で
伝えたかった内容を、もう少し具体的に丁寧にお願いします。




>30 LucifeRさん

>貴方のおっしゃることが成立するようにこちらで言葉を補うことは出来ますが、
>そういう善意の解釈のつもりのものが貴方が考えていることと一致する保証がないので
>言葉を省略しないで厳密に使って貴方の意見を述べなおしていただけますでしょうか。
>

26 の質問の内容はおわかりになりますでしょうか
31 きょろすけさん

29の私の発言の「イコールではない」ということ、30のLucifeRさんの発言の
「さしあたり、安易に等号を使わないで下さい」ということの意味はおわかりでしょうか?

26 きょろすけさん
> あ、つまり、正統教義では
> 「鍵の権能」=「御言葉の説教と聖礼典」、および「戒規」
> となっているわけです(23 にもそう書かれてますし、わたしもウェストミンスター信仰基準で確認しました)

正統教理では、「鍵の権能」=「御言葉の説教と聖礼典」、および「戒規」
などとは言いませんし、ウェストミンスターも私の23の発言も、
この両者の関係がイコールだなどとは言いません。

あなたの極めて粗雑な「=」や「↓」の使い方をやめて、正確な言葉で表現してください、というのがLucifeRさんの求めです。

教会の歴史をひもとけばわかることですが、ちょっとした言葉の違いがもたらす内容の差は相当大きいものであり、教会を分けてしまうほどのことになります。
雑な質問だったことを謝ります。

発題の雪ノ下ONLINEのページはハイデルベルク信仰問答の問84(問65)、問85に関してでした。あんまりよく読んでなかったのは申し訳ないと思います。
以下に、(またもや間違ってるかもしれませんが)自分の理解を述べたいと思います。

●まず、問84、問85の前に、問83が前提になっていることがわかりました。
「信仰問答の問83において、教会に託された『鍵の務め』、『鍵の権能』とは、『聖なる福音の説教』と『キリスト教的戒規』の二つであることが教えられます。」(発題の雪ノ下ONLINEのページ)

●その、問83の聖書根拠は以下の2つです。

21 イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』。22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう』。
(ヨハネ20:21−23)

19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう』。
(マタイ16:19)

●つまり、問84が説き明かす『聖なる福音の説教』、問85が説き明かす『キリスト教的戒規』は、問83の説き明かす『鍵の務め』、『鍵の権能』のことでした。

●さらに、問83の根拠となる聖書箇所には聖霊の働きであることが示されていますので、問84、問85も聖霊の働きといってよいと思います。

●ちなみに、マタイ16:19が聖霊の働きであることを>24で言おうとしたんですが、ヨハネ20:21−23で聖霊に言及されているので言うまでもなかったのだと思います。

ていねいに書いたつもりです。読む人が不快にならないことを祈ります。
きょろすけさん

今夜は体調が悪いのでじっくり読まずにもう寝ます。
ただ一点だけ。

> ていねいに書いたつもりです。読む人が不快にならないことを祈ります。

あなたは私が「粗雑な」と書いたので、不快になったり、あるいは恐いと思ったのかもしれませんが、私は自分の感情を問題にしていません。
つまり、不快になったわけではありません。

不快にならないことを祈るよりも、自分が考えていることを正確に書くことができたかどうか、また読む人に意図が正確に伝わるかどうか、そちらを気にしてほしいのです。
>きょろすけさん
 自分が述べたいことを述べるばかりで、相手がわかるように書くことをなさらないから、皆さんは「わかりません」と言っているのです。あまり言いたくないですが(当たり前のことだから)、言葉が相手に届いて何らかの応答を期待することよりも、理路は自分には明白だからあえて説明するまでもないという態度ではコミュニケーションをし続けたいと動機づけられる人はいないでしょう。

 別にあなたが実際にそう「思っている」と言っているのではなくて、書き方がそういうものに思えるということです。

 コメントをされている方たちは、あなたが何を言おうとしているのかを理解しようとして質問しておられるのですから、「わかりません」とか「粗雑である」ということに臆せず、自分の考えの理路が相手にもわかるように述べていただければ、と思います。

 私も矢印や等号を用いたあなたの考えはよくわかりません。何を言おうとしているのかも、なぜ「鍵の権能は聖霊である」という結論になるのかも全くわかりません。
きょろすけさん

だいぶていねいに説明してくださったので、あなたの言いたいことはおおよそわかったつもりです。

私が29で
> 聖霊による というのは、鍵の権能だけではありません。
> おおよそ説教も聖礼典も礼拝全体も、教会の活動すべては聖霊によらなければむなしいものになります。
> だから、鍵の権能を行使せしむるのは聖霊であるというのは前提です。

と簡単に書いたのを、前提と言って通過してしまうのではなく、「あ、これも聖霊の働き」「あ、そっちも聖霊の働きだったんだ」と驚きをもって受け止める、ということだろうと思います。
昔、北森嘉蔵という先生が「西洋人はキリストが十字架にかかって死なれたことが当たり前になっていている。もっと驚かなければならない」というような意味のことをおっしゃっていました。

教会の現実の問題として、ある信徒を陪餐停止という戒規に処するときに、それが本当に聖霊の業としてなされるのか、それともその人に対する他の信徒たちの感情によってなされるのか、はたまた世間体を気にしてなされるのか…
「戒規は聖霊の働きだ」という理屈ではなくて、聖霊の導きを求めつつ、その人の立ち返りを期待して長老会が議論して決断します。
>36 sundayさん
 すみませんが、「精霊」ではなく「聖霊」です。細かいとお思いになるかもしれませんが、これは譲れないラインです。「精霊」という表記のあなたの文章を読んでいると、とてつもない違和感を覚えるのです。まるでキリスト教とは違う話をしているかのように。
> 33 きょろすけさん

まず前談にいくつか。本格的な返信は後ほど。

1.雪ノ下通信ONLINEが少なくともこのトピで紹介されるのは
初めてですので、URLを提示してください。
http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/k0603.htm
ですね。私ですら、瞬時には何処だかは判りません。

2.また、res26にあるウェストミンスター信仰基準というのは
ハイデルベルク信仰問答の誤記でしょうか?
もしそうでないとしたら、ウエストミンスターの
どの辺を見れば貴方のご覧になった部分を共有できるのか
指示願います。目次見ただけでは埒が明かず途方にくれていました。

3.ウルジヌスがハイデルベルク信仰問答で何を言っているかを
正確に読み取り学ぶことは意味がありますが、所詮は信仰問答、
人の言葉です。即、正統教理(というのは全派共通のはず)
とするのはどうか。
少なくとも今日の改革派はそこまで傲慢ではないはずです。

 また、説教の権威付けに鍵の権能を持ち出すなどという
アクロバットを私は支持しません。
 説教によって何が起こるかという描写はまったく異論のないものですが
それはメカニズム的に「鍵」でも「権能」でもないでしょう。

 これは、実は説教の権威を説明できなかったので、本来
別のものを無理やり担ぎ出さねばならなかったのだと思います。
 さもなくば、単純にアタマがワルいか。
「説教」という言葉で意味することは,礼拝の中で語られている説教と,説教集の中の説教や明日語ろうと準備されている原稿の説教も全て文字にすれば「説教」です。
しかし,礼拝の中で語られている説教と説教集や説教の原稿とは違うと考えます。
出来事になっていないからと言えるでしょうか。
説教集が読まれる,原稿が語られると同じ意味になります。

この言葉の理解の違いが,話し合われている方々の「鍵の権能」の言葉の理解の違いにありませんか?


「鍵の権能」が語られていない説教という意味で使われているなら,行使するのは聖霊です。
「鍵の権能」が語られている説教という意味で使われているなら,聖霊がお働きになっている,=とまではならないと考えますが,24で言われていた聖霊に帰せられるとも言えるかと考えます。


鍵の権能は主イエスより教会が与えられたもの。
聖霊は神さま自身です。
>41 えちゃんさん
>礼拝の中で語られている説教と説教集や説教の原稿とは違うと考えます
 この理由が「出来事になっていないから」とあなたは仰る。しかし、ある説教が「出来事になっていない」とご判断なされた基準と理路が示されていないので、私にはあなたのご説に対して肯定も否定もできません。いや、そもそもなぜ「説教」という言葉の意味がどういうものであるかが「鍵の権能」の理解の違いを生んでいると推論できてしまったのか私にはよくわかりません。

>この言葉の理解の違いが,話し合われている方々の「鍵の権能」の言葉の理解の
>違いにありませんか?
 このあなたの問い自体、私には何を言おうとされているのかよくわかりません。
 そもそも誰も、「説教」で意味するものが礼拝説教か説教集かなんて言っていません。

 あなたが何を仰ろうとしているのか、他人にもわかるような書き方をしてください。説教の中身のとらえ方の違いが理解の違いを生んでいると推論された筋道をご説明ください。あなたには自明なのかもしれませんが、あなたではない他人には、少なくとも私にはあなたの仰っていることは全くわかりませんでしたから。
>35 ヒソカさん
>24,26のわたしの書き込みは確かにわかりにくかった上に、神学上重要な概念を雑に取り扱っていて、二重の意味でまずかったおもいます。

さらに>31の書き込みは
>自分が述べたいことを述べるばかりで、
といわれても仕方のない態度でした。LucifeRさんをはじめ真面目に議論に参加しておられる方々に謝ります。

>33 に改めて、トピックの最初にあるURL(http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/k0603.htm)をよく読みなおした上で、できるだけわかってもらえるように、丁寧にかいた書き込みをしました。意見がありましたら書き込んでください。
>40 LucifeRさん

>1.雪ノ下通信ONLINEが少なくともこのトピで紹介されるのは
>初めてですので、URLを提示してください。
>http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/k0603.htm
>ですね。私ですら、瞬時には何処だかは判りません。
>
これについては、トピの先頭にはるひメさんが提示しておられます。わたしの >33 に「発題の」とかいてあるのは、トピの先頭にはるひメさんの書き込みのつもりだったのです。これも、わかりにくくてすみません。

>2.また、res26にあるウェストミンスター信仰基準というのは
>ハイデルベルク信仰問答の誤記でしょうか?
>もしそうでないとしたら、ウエストミンスターの
>どの辺を見れば貴方のご覧になった部分を共有できるのか
>指示願います。目次見ただけでは埒が明かず途方にくれていました。
>
これは、http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/k0603.htmをよく読まずに、ハイデルベルク信仰問答に関するページだと気が付かずに「改革派だから何でも一緒だろう」と思ってウェストミンスター信仰基準に言及したのですが、杜撰だったと思います。すみません。
ただ、ウェストミンスター信仰基準について、これ以上深く議論しない方がよいと感じています。こちらの方も精読できていませんし、トピの主題からずれると思います。

>3.ウルジヌスがハイデルベルク信仰問答で何を言っているかを
>正確に読み取り学ぶことは意味がありますが、所詮は信仰問答、
>人の言葉です。即、正統教理(というのは全派共通のはず)
>とするのはどうか。
>少なくとも今日の改革派はそこまで傲慢ではないはずです。
>
「正当教義」というのもうっかり使ってはならない用語でした。十分な思慮があって使ったわけではないです。すみません。

> また、説教の権威付けに鍵の権能を持ち出すなどという
>アクロバットを私は支持しません。
> 説教によって何が起こるかという描写はまったく異論のないものですが
>それはメカニズム的に「鍵」でも「権能」でもないでしょう。
>
> これは、実は説教の権威を説明できなかったので、本来
>別のものを無理やり担ぎ出さねばならなかったのだと思います。
> さもなくば、単純にアタマがワルいか。
>
これについては、各人意見が分かれると思います。
わたしは、>33 に書いた内容の繰り返しになるのですが、ハイデルベルク信仰問答は
・問84が説き明かす『聖なる福音の説教』
・問85が説き明かす『キリスト教的戒規』
は聖霊の働きであると主張していると思いますし、かつ自分もそれを信じます。
> 41 えっちゃんさん

>  説教によって何が起こるかという描写はまったく異論のないものですが

と私が述べた行を読み落とされていませんか。

私が言ってるのは、
ウルジヌスに対してだか当時のプロテスタントスコラ主義になんだか
宛先はまあ考えるとして、
「あんたのいう説教の性格や作用は判った、俺もそう思う。
だが、それをもっともらしく鍵にコジツケるのは苦しすぎて無理」。
別の言い方をすれば「あんた『鍵』って知ってる?」。

鍵というのはゲートを開け閉めする道具であって、
モノを選別するツールじゃない。
別途選別した「後に」「判断に基づき」「能動的に」用いるものです。

説教てのは神の言葉なので、
いってみりゃレストランやパーティの料理の「匂い」であって、
それに惹かれてくるものをドレスコードや紹介状等チェックして
通すか通さないか決めるドアボーイの持ってるのが「鍵」です。
匂いに反応しないとか、それを悪臭と感じるとかは
鍵を使うまでもないそれ以前の問題です。

とまあ、こういう程度に意見が合わんのですね。
> 41 えっちゃんさん

(承前)
さて、それとはまた別に。
説教原稿ないし説教録を正しく読む、説教録音を正しく聞く、
という場合に起きる出来事は、
礼拝の中で説教を正しく聞いた場合とは
必ずしも別だとは、私はおもいません。

聖霊が何時どのように働かれるかなど、我々にわかる筈も、
まして制限することなど出来はしません。
> 44 きょろすけさん

先に言わなきゃならないこと(2)

> これについては、トピの先頭にはるひメさんが提示しておられます。わたしの >33 に「発題の」とかいてあるのは、トピの先頭にはるひメさんの書き込みのつもりだったのです。これも、わかりにくくてすみません。

いえ、これは全面的に私の失態&勘違いです。
(粋のつもりかURLしか書いてない
はるひメ女史にやつあたりしたくなったのは秘密)。
こちらこそ大変失礼しました。

> >アクロバットを私は支持しません。
…
> これについては、各人意見が分かれると思います。

ええ、むしろそれを大いに活用して、
私は「なんかチゲくネ?」といってるわけです。
全員が同意する必要なんかないし、
期待していませんw。

> わたしは、>33 に書いた内容の繰り返しになるのですが、ハイデルベルク信仰問答は
> ・問84が説き明かす『聖なる福音の説教』
> ・問85が説き明かす『キリスト教的戒規』
> は聖霊の働きであると主張していると思いますし、かつ自分もそれを信じます。

ここからが本題。で、長くなるかとおもったらそうでもなかったですw。

つまりですね。

○ 車は人間が運転します。
× 車=人間

○ 車はガソリンで動きます。
× 車=ガソリン

○ (                         )
× 鍵=聖霊

の( )のカッコの中を埋めて欲しかったんです、私は。
多分それほどおかしくないだろうとは思いつつ。

で、すでに励ましの言葉が出てますように、
「あっちでもこっちでも、身近なところで聖霊ってはたらいているんだねえ」的な
聖霊安全保安協会のPR的な受け止め方をされているということを
仰りたいのであれば、それは賛同できます。

でも結局人間がするんですよ、説教も試問もサクラメントも戒規も。
「我々に逆らうことは聖霊に逆らうことだ」といえるほど
祈っているかということが、執行する側が、常に問われます。
だから今時そんな風に言うのはカルト教祖とその奴隷ぐらいのもんです。
そっち方向に逸れてないかを確認できないと
いいとも悪いともいえなかったんですね。







LucifeR さま

「鍵の務め」、「鍵の権能」とは、「聖なる福音の説教」と「キリスト教的戒規」とURLの教理の窓に書いてあります。

46は,41で説教集が読まれる,原稿が語られると同じ意味になります。
と言う言葉で考え方を示しております。
同じ意味とは,礼拝で語られた説教と同じということです。
言葉足らずでしたか?

それから,最後まで読んでいただけましたか?
神が与えられた権能と,神ご自身(聖霊)をイコールには出来ません。

また,わたしは例えば赤色を見て綺麗と考えられても,怖いと考えられてても良いという考えですので。

> 48 えっちゃんさん

> 「鍵の務め」、「鍵の権能」とは、「聖なる福音の説教」と「キリスト教的戒規」とURLの教理の窓に書いてあります。

ウルジヌスがそういい、東野はそう解説している。
それは存じております、手書したんですもの。

> 46は,41で説教集が読まれる,原稿が語られると同じ意味になります。
> と言う言葉で考え方を示しております。
> 同じ意味とは,礼拝で語られた説教と同じということです。
> 言葉足らずでしたか?

はい、というと失礼にあたるのでしょうがw、

> しかし,礼拝の中で語られている説教と説教集や説教の原稿とは違うと考えます。
>出来事になっていないから

=「それは神の言葉たる説教ではなく単に人の書いた文字列にすぎない」
(多分これは合ってる)に引きずられて、
「説教集が読まれる,原稿が語られると同じ意味」
=「(み言葉の)語られていない説教」
=「人の言葉の講演に等しい偽りの説教」
という大意であると誤読した、とは白状いたします。

とまあ、頓珍漢だったらしい応答の言い訳をさせていただいた上で、
以下がまだよく判らない、とも申し上げます。

> 「鍵の権能」が語られていない説教という意味で使われているなら,行使するのは聖霊です。
> 「鍵の権能」が語られている説教という意味で使われているなら,聖霊がお働きになっている

「正しく聞く/読む」ことに聖霊の助けが不可欠としてですよ、
その助けの与奪が鍵の開け閉めなら、
それは聖霊がちゃっかり合鍵もってるってことで
ペトロなり教会なりが預かった鍵を使ってる場面じゃないですよね?











37〜まとめて読みました。

ごっめ〜ん!

URLのみ貼付けたのは、ええと、いつもそうしてるかも知れない。
ご迷惑をおかけしました。ごめんなさい〜〜。

取り急ぎお詫びのみ。
>49LucifeR さま

ある本に下記のようにありました。
「鍵の権能はただ福音の説教にだけあるのではない,確かに,福音の説教によって,キリストのおかげによる罪の赦しが宣べ伝えられ,天国が開かれるが,不信仰者と偽善者には,彼らが回心しない限り,永遠の断罪が宣告され,天国は閉じられる。しかし結びかつ解く権能としての鍵の務めは,福音の説教以外に,キリスト教的な悔悛の戒規によっても担われている」


主イエスはたとえを用いて話す理由を語られていますね。
それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』
ようになるためである。

説教が語られることには,聖霊(牧師と教会の上への神ご自身のお働き)は不可欠ですが,聞く者がどう聞くは個人でしょう。

次々と私が想定できない考えを,お考えになるのは,吃驚です。
ほかのコミュニティに書いたのですが…

誤解と言えば
日曜日の説教にFUJIWARAの話が出ました。
たまたま,○山県の方が数名,礼拝に出席されていました。
礼拝が終わったあと,「今日の説教に出てきたお笑いの人はどの人?」って聞かれました 。
売れっ子FUJIWARAが小さい田舎の教会に来るなんて考えられないんだけど,誤解って恐ろしい…

しかし,聖霊は「鍵の権能」を授けた方でもあられるのですから,合鍵くらいは,お茶の子さいさいかもです。
> 50 はるひメさん

いや、だから最初からヤツアタリっていってるじゃないのw。
マヌケはオイラなんだってば。
> 51 えっちゃんさん

> 「鍵の権能はただ福音の説教にだけあるのではない,確かに,福音の説教によって,キリストのおかげによる罪の赦しが宣べ伝えられ,天国が開かれるが,不信仰者と偽善者には,彼らが回心しない限り,永遠の断罪が宣告され,天国は閉じられる。」

これ、説教によって閉じられたんですか? 聞かなきゃ開いてたの?
すると、説教によって開かれる、という表現は何。

それに同じ説教によって、人によって開いたり閉じたりするんですか?
だとすると、「鍵」は「その差を生じさせた、聞く側のなにか」であって、
共通部分の「説教」じゃないじゃないですか。
そこで、説教が投光機や指示薬や試金石のような役割を果たしているのは
わかるんですが、それを「鍵」に例える人物の「リアル鍵錠理解」を私は疑います。

「そんな駄トークでは天国の扉はあかない、貴様の羊が迷った責任は貴様が負う」
みたいな、牧師宛の説教論してるなら、そこで鍵論になるのもまだわかります。
でも、例示されている閉門事例が全くもって整合していませんし、
そもそも「回心しない限り」って、個人に属する開門条件がちゃんと書いてある。
「彼らを回心させられない限り」ではない。
提示いただいた論は、このように納得いかないわけです。

> 説教が語られることには,聖霊(牧師と教会の上への神ご自身のお働き)は不可欠ですが,聞く者がどう聞くは個人でしょう。

その個人を判別して、預かりものと無関係に
天国の自動扉が開いたり閉じたりしてる、
という話にしかならないんですよ、この説明ではね。
で、話す側への聖霊関与は勿論考慮するとしても
聞く側には聖霊ノータッチという発想なら、
それは少なくとも改革派的ではないように思います。

余談:FUJIWARAは、真意も誤解もどっちも判りません。
そういう芸人さんがいらっさるんですね、という誤解側は見当ついたけど。

> しかし,聖霊は「鍵の権能」を授けた方でもあられるのですから,
>合鍵くらいは,お茶の子さいさいかもです。

合鍵持ってるのがケシカランとは申しませんのです、もともと。
上が独自の裁量で何するかは下々には計り知れんので。
それはそれでおいといて、
まずは自分達が預かったものの使い方の話に集中したらどうか、
とまあ、そういうことを言ってるんです。
>51 えっちゃんさん
 引用をされる場合は、著者名・書名・出版社名とどういう文脈での文章なのかを明記していただきたく思います。

>説教が語られることには,聖霊(牧師と教会の上への神ご自身のお働き)は不可
>欠ですが,聞く者がどう聞くは個人でしょう。
 これは「聞く者がどう聞くかは個人の自由」という意味だと思いますが、舌たらずで最初、何を仰りたいのかよくわかりませんでした。それで、この論ですと、話す側には聖霊が関与するが、聴く側には聖霊はノータッチだという理解になりますね。では、説教前の祈祷で、「聞く私たちの耳と心を聖霊によってお開きください」という祈りはどう理解したらよろしいのでしょうか?「説教をどう聞くかには聖霊は関与しておらん。聞く人の自由だろう」というのは改革派はもちろん、私のいる会衆派教会の考えとも合致しないように思います。


>次々と私が想定できない考えを,お考えになるのは,吃驚です
 そうではありませんよ。LucifeRさんは何とかあなたの述べていることを理解しようとして、知恵を絞っておられるのです。それはつまり、あなたの文章が他人にとってそれほど明解ではない、ということです。

ですから、42で私はこう書いたわけです。「あなたが何を仰ろうとしているのか、他人にもわかるような書き方をしてください」と。

 読む人にとってはあなたの思考回路などわかりませんから、他人にも理解できないような論の運びをすれば、そりゃ、他人から「よくわからんのですが」と言われます。
>54ヒソカさま

著者名  ヤン・ロールス 芳賀 力 訳
書名   『『改革教会 信仰告白の神学』』
出版社名 一麦出版社
引用したのは,418ページです。

>「説教をどう聞くかには聖霊は関与しておらん。聞く人の自由だろう」
これは,ヒソカさまの言っておられることです。(ちょっとイエスさまの真似をしてみました。マルコ15:2)

わたしは,一文字もそうは書いていませんよ。
>聞く者がどう聞くは個人でしょう。
って,書いています。

鍵の権能においては教会に与えられた権能であるという関連において,教会の祈りに聖霊がお答えして下さるという事です。

個人が祈れば個人に聖霊はお答えくださるでしょうね。
もっと広い意味で使われるなら,讃美歌21の430としていてくださると思いますよ。

わたしは,あほですから,すべての人が理解できる文章は書けませんし書くつもりもありません。
また,解らないと言われたからと,それに,逐一お返事する義務もないと考えております。
55 えっちゃんさん

> 聞く者がどう聞くは個人でしょう。

これは、私もヒソカさんと同じように
「聞く者がどう聞く《か》は個人《の自由》でしょう。」
と補って読みました。
そうでないと、普通の日本語として意味が通りませんから。

あなたの意味の通じない文章を、意味を読み取ろうと努力しているのを
イエスさま気取りで馬鹿にするのはやめてください。

私もヒソカさんがあなたに言ったことを私も言っておきます。

 あなたが何を仰ろうとしているのか、他人にもわかるような書き方をしてください。…あなたには自明なのかもしれませんが、あなたではない他人には、少なくとも私にはあなたの仰っていることは全くわかりませんでしたから。(42 ヒソカさんの発言から)
言葉が足りなくて申し訳ございませんでした。

>イエスさま気取りで馬鹿にするのはやめてください。
そういうつもりは,ございませんので。

牧師先生にしては,ひどいことばですね?
>57 えっちゃんさん
 馬鹿にするつもりがないなら、

55で
>わたしは,あほですから,すべての人が理解できる文章は書けませんし書くつも
>りもありません。
>また,解らないと言われたからと,それに,逐一お返事する義務もないと考えております。
 とは書かないでしょう。あなたには他人が理解できるような文章を書く力はないかもしれない。でもその能力がないからといって、理解してもらおうと努力する気がないことが論理的に導けるわけではありません。

 また、54で私は「これは「聞く者がどう聞くかは個人の自由」という意味だと思いますが」と書いています。

 それに対して、55で
>これは,ヒソカさまの言っておられることです。(ちょっとイエスさまの真似を
>してみました。マルコ15:2)
 と返答しておいて、バカにしていないと考えてもらえるわけないでしょう。

 実際、私はバカにされていると感じましたし、AGIOSさんも同様です。本気で他人をバカにしており、他人に理解してもらよう努力するよりも、自説を不明瞭な文章で述べて、場を荒らすことが目的ならば、ここのコミュにふさわしいふるまいではないと思います。

 
 これは管理人として申しますが、議論に参加したいなら歓迎します。しかし、人をバカにし、他人のあなたの考えを理解したいという思いを踏みにじり、場を荒らすならば、出ていっていただきたく思います。

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