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クリスチャンコミュの初詣

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こんにちは。
初めてトピ立てさせていただきます(というか、書き込み自体初めてです)。

私は受洗1年半の新米カトリックです。そして日本人です(民族的?にも国籍的にも)。
節分や雛祭り、端午の節句、七夕、お盆、七五三など年中行事にも親しんできましたし、花見や月見、盆踊り、秋祭り、神輿担ぎも好きです。

でも、初詣はどうでしょう?

先日、クリスチャンの友人から「初詣は偶像崇拝。キリスト教信仰と相容れない。容認できない。教会が初詣を一定程度容認するのは、家族の中でクリスチャンが少数の場合の救済策であり、家族全員が信者のクリスチャンホームが絶対に神社には行かない。初詣を単なる日本人の『伝統習俗』と捉えるなら、侵略戦争美化の靖国神社に初詣した小泉首相を批判できないばかりか、靖国は宗教ではないと言うに等しく、ナショナリズムの高揚を目指す右翼は小躍りして喜ぶだろう」と言われ、困惑しました。

カトリックの司教様は「神道を生活の指針に据えるのではないから問題ない。伊勢神宮の近くの教会の司祭は新年ミサの後に信者とともに神宮に初詣に行く」とおっしゃっていました。古くからの信者の方も「手を合わせる先に何があるかは、キリスト者は問題にしない。三位一体の神への信頼が揺るがなければ、初詣だろうが座禅だろうがかまわない」とおっしゃっています。カトリック中央協議会の広報も「そんなこと(初詣)でお怒りになるほど主はちっぽけな存在ではない」と回答をくれました。

これは実際問題である日常生活の中で異教との折り合いをどうつけるかという、大変重要なテーマを含んでいると思います。カトリックとプロテスタントでも考え方は違うのでしょうか?

「靖国」は、「敵も味方も分け隔てなく死者を弔う」という本来の神道から逸脱した特殊な神社なので、とりあえず分けて考えたいと思います。私も参拝はしません(8月15日に「見学」には行きますが)。
また、私は月に一回、曹洞宗のお寺での座禅会に参加しており、私がカトリックに入信したことを知る住職は「かまいませんよ」と笑っていらっしゃいました。

クリスチャンの皆さんはどのようにお考えなのか、ご意見をお聞かせいただければ幸いです。

pierre

コメント(56)

行っても拝まなければいいんでない?
> 宗教評論家のひろさちやが書いていましたが、「カトリックはキリスト教
> 的キリスト教、プロテスタントはユダヤ教的キリスト教」だそうです。ユダヤ教を
> 土台にしているのはわかるのですが、個人的には「旧約の契約」
> より「新約の救済」のほうが「居心地がいい」ですね。

あいかわらず,ひろ氏はひどい過剰汎化してますね.

ユダヤ教的キリスト教というのは,プロテスタントの中でも倫理主義を正面に打ち出した敬虔主義( 道徳的に生きることによって義が生きる )や道徳的福音主義だけで,ルターにおいては信仰義認論的福音主義( 信仰のみによって義とされる)だしカルヴァンに於いては神の絶対的主権( 二重予定説−−人間が何をしようと,それによって神が義としたりしなかったりする義務は全く無い,神の自由だ )で,むしろ反=律法主義的ユダヤ教的だ,と思います. 

その点,行為義認を信仰義認と相伴った要素と考えるカトリックの方がまだしもユダヤ教にちかいのではないでしょうか? といっても遠く遠く隔たっていますが.

あと,オーソドクスはそのどれでもない世界内的神秘主義なんでしょうね.
白飴姫さん

こんばんは。

>ユダヤ教的キリスト教というのは,プロテスタントの中でも倫理主義を正面に打ち出した敬虔主義( 道徳的に生きることによって義が生きる )や道徳的福音主義だけで,ルターにおいては信仰義認論的福音主義( 信仰のみによって義とされる)だしカルヴァンに於いては神の絶対的主権( 二重予定説−−人間が何をしようと,それによって神が義としたりしなかったりする義務は全く無い,神の自由だ )で,むしろ反=律法主義的ユダヤ教的だ,と思います. 

なるほど、「万人祭司」(正しいですか?)といわれるプロテスタント、色んな考えがあるんですね。

「予定説」って、「地獄に落ちる人間は最初から予定されていて善行などできない。生きてるうちに改心して善人になるのは最初から善人である」という理解で合ってますか? だとすると、もがき苦しむ人間の心の内なんか全能の神様は知らねえよ、関係ねえよ、ということになっちゃって、ちょっと怖い考え方ですね。

>その点,行為義認を信仰義認と相伴った要素と考えるカトリックの方がまだしもユダヤ教にちかいのではないでしょうか?

よく「陰徳を積む」という言い方をされることがあります。 ただ、ユダヤ教(特にイエス当時の)は「病気や貧乏は本人の罪であり、神から見放されている救いがたい人間だ。いい行いをする(つまり律法をそのまま実践する)人間だけが神に認められる」という考えが横行していたと理解しています。

この点、私がカテキズムをならった司教は「悪かろうが弱かろうが、イエスはそのまんま人間を抱えて運んじゃう。裁きは常に赦し。でも悔い改め(自分は悪いことをしたんだという自覚)がなければ神も救いようがない。たとえば、最後まで自分の罪を認めなかった宅間守元死刑囚のような人の魂は、救いたくても救う手立てがない」と言っていました。じゃあ、宅間氏の魂はどうなったのかは聞きませんでしたが、もしそうなら、陰徳を積むか積まないかはさほど重要なことではないのではないか、と勝手に解釈しています。

>あと,オーソドクスはそのどれでもない世界内的神秘主義なんでしょうね.

ごめんなさい。 「世界内的神秘主義」がわかりません。

ところで、白飴姫さんは、キリスト者が初詣に行くことについてはどのようにお考えですか?

pierre
真の神様を信じていて、何で神社に初詣に行く必要があるのですか?家族、友人と行く習慣だからですか?

私は文化遺産としての神社仏閣は見学に行きますが、手は合わせません。わざわざ人がいっぱいで混む初詣には、いくら付き合いでも
行きたくないし、行く意味がないので行きません。

申命記に、「わたしはねたむ神」という言葉がありますよね。
神様は、偶像礼拝を忌み嫌うお方だと思います。
初詣は、ちっぽけな問題ではなくて、立派な偶像礼拝ではないですか?
家族の中で私だけがクリスチャンです。
お正月になると、初詣へ行こうと誘われます。
一緒には行きますが、参拝はしません。
屋台のお店でいろいろ食べたり、雰囲気は楽しんでます。
俺らを救ってくれたジーザスがそれを見てどう思う?

喜ぶ?悲しむ?興味なし?

聖書を読んで、答えが得られるように祈っていくことが大切だよね。

あなたが神様を判断するのではなく神様があなたをだよ。
私は「クリスチャンです(なんちゃってだけど)」って感じで周りの人たちには言っています。
着物が好きで、着物友達も多いです。
お正月は着物好きにとってたまらない時期で、もちろん、晴れ着を着て初詣に行きましょう!という雰囲気もとても強いです。きっと、着物友達とお正月に出かけるんじゃないかなぁ、と思っています。
その中で、「私はクリスチャンだから初詣に行けない」とか「行きたくない」とか言うのは、かえって「クリスチャンってやっぱりきゅうくつなんだね」みたいに思わせることになってしまう、と思うし、お賽銭は心がとがめるけれど、手を合わせる先や祈る先は、あくまでも神様に向かっているので、初詣に行ったら、みんなと行動を一緒にします。多分、ですが。もしかしたら、ぎりぎりになって、やっぱり出来ないかもしれないけど。

クリスチャンって、特別、って自分でも思っていないし、周りにも思って欲しくない。
だから、あるがままでいます。
ムリをして、自分の心の中や、社会生活をする上で、どこかにひずみがきたら、きっと私は、信仰生活を送れなくなってしまうと思うんです。
(あくまでも「私は」です)

教団や教会によって、いろいろ考えはあると思います。
うちの教団、うちの教会では、初詣には行ってはいけません、って教えはしてないですし、それがあったから、私も洗礼を受ける決心がついた、っていうところもあるんですよね…。
(ちなみに、去年の12月に洗礼を受けたばかりです)

クリスチャンでもあるけれど、私は日本人でもあるので。
私は私なりの信仰生活をこころがけたいと思ってすごしています。
逆に「クリスチャンは何にでも手を合わせて無節操!」って思う方もいるかも知れませんね。
クリスマスやイースターが異教の文化から発していることは知っていますが、受け入れて、わたしたちの教会でも祝います。

キリスト教が今のように全世界に受け入れられたのはその多様性の故だと聞いたことがあります。
異教の文化でも取り込んでキリスト教化していっているということです。

ですから、わたしは元旦礼拝に行きます。
元旦礼拝は日本の文化(宗教的習慣)を取り込んでキリスト教化したものだと思います。
何人かの方がおっしゃっているように、七五三の時期に幼児祝福式をする教会も多いですよね。
それも、日本の文化をキリスト教化した例だと思います。
因みに献児式をお宮参りの代わりにする方もおられるのではないでしょうか。
また、婚約式も欧米ではほとんど聞かないようです。それは日本の結納をキリスト教化した例だと思いますし、葬儀における前夜式も通夜をキリスト教化した例だと思います。

その意義は、その国で習慣として行われているけれども偶像と関係がある行事を偶像の元に行かずに、あるいは偶像崇拝的意味を排除し、キリスト教的意味づけをして行うところにあると思います。

ですから、わたしは、初詣に行くことと、クリスマスを祝うことを同列には置けないと思います。
わたしは、初詣に行かずに「元旦礼拝」に行きます。

ただし、初詣やお祭りに行くことが悪いとは思いません。
しかし、一般に崇拝行為ととられていることをクリスチャンが同様にすることにおいては疑問が残ります。
宮司さんから牧師になった方は知りませんので聞いた事がありませんが、例えば、お坊さんから牧師になった方の話では「焼香」は仏教的立場から見て、明らかに崇拝行為であると言えるそうです。であれば、やはり形だけでも焼香をするのは、わたしとしては憚られます。
たとえ、一般の多くの人が「崇拝行為」と自認していなくても、宗教的にそのような意味があるのならわたしは避けたいと思います。

しかし、先ほども書きましたが、その場に行くことそのものが罪ではないと思います。

わたしの夫は北海道出身で、北海道には歴史的建造物が少ないので、そういう文化財を見ておきたいということで、交際中に京都の清水寺や国宝の庭(天竜寺)なども見に行きました。

やはりわたし自身は崇拝行為とその場に参加することは分けて考えたいです。

しかし、これはあくまでもわたしの確信であって、他人に押し付けることではないと思います。

今まで、教会=欧米的、キリスト教化=欧米化という風潮があった日本ですが、ようやく、2代目3代目のクリスチャンと言う人も育ってきて、岩渕まことさんの「二つのJ」ではありませんが、本当の意味で「日本のキリスト教」となりつつあるように思います。
その意味において、このような対話がなされることはある意味でとても大切なことではないかと感じています。

この日本での、皆さんの信仰生活の上に祝福が豊かにありますように。
んー。僕は手を合わせない方の人間ですけど。
別に日本文化全てを否定しているつもりもないですけどね。

旧約時代、神が忌み嫌われたバアル崇拝やそのたの出来事もあの地方、古代オリエントの文化と言えば文化ですよ。

ちなみに聖書の思考では、思いと行いを区別してはあんまりいませんよ。正しい行いをしようとしても出来ない。という葛藤はありますけど。心さえ神様へ向いていればいいんだ。 みたいなことも聖書は主張していません。
行いだけよい事して心が伴っていない偽善もいけないことですが、その逆も同じですね。

宗教と文化というのは日本だけに限らず密接に関わってきているものですから、ある意味ではその通りだと思います。
しかし、私たち日本国民であると同時に神の国の民でもあります。神の国の文化はどういったものでしょうか。

日本国民として日本の文化を守る。それは大切なことだと思います。ですから、僕はお寺や神社を爆破せよ。なんてことは思っていません。
しかし、同時に神の国の民としての文化、アイディンティティも確保する必要があると僕は考えます。


みなさん、僕のような保守的な考え方をする人を説得するのは実は簡単です。その行為をすることで私たちが信じている神様、イエス様が喜んでくださる。ということを教えてくだされば同意できるのではないでしょうか。

わたしは親族に配慮して一緒にその場にいくのでしたら、その配慮を神様は喜ばれると思います。しかし、心が別の方向に向いていようが、形だけであろうが、拝するという行為を神様が喜ばれるとはとても思えないのです。

聖書の中に「聖」という言葉がたびたびでてきます。
この言葉の意味は「区別する」、「神聖なものとして取り分ける」といった意味合いがあります。
「和をもって尊しとなす」というのは日本の文化ですが、「神の民を聖別する」というのは聖書が教える文化です。

よく言われるのは、神の国の文化は「愛」である。
ということです。これは間違いではありません。
神は愛なる方です。そして、この愛なる方から遣わされてこられたイエス様が人々にまず第一に求めなさいと言われたのは、「神の国と神の義」でした。この「第一に求めなさい」と言う言葉を「聖としなさい」というように理解してもよいでしょう。


僕は僕の意見に従ってくださいというつもりはありません。
ただ、みなさん、クリスチャンであり神の民なのですから、初詣に限らず、色々な選択をする上で祈り、賛美し、礼拝し、聖書を黙想し、神様の御心を求めて実行されるのがよろしいと思います。

十分に祈った上で、家族への配慮の本一緒に初詣へ行くのがよいと思わされたのなら、信仰によってそれをなすのが良いと思います。逆に祈りの中で平安が与えられないのなら信仰によって行かないことを選べばいいのではないでしょうか。

信仰によって日本人として歩んでいるのならよいと思います。
すみません、補足ですがもちろん「二つのJ」が内村鑑三氏の言葉に基づいていることは知っていますが、わたしとしては岩渕まことさんの歌にとても心を動かされ、記憶に新しいので、この歌を例にあげました。
同じ時間帯に色々な方が書いておられたのですねぇ。

31: Syakura

の意見に同感!です。
日本文化を否定はしないけれど、
唯々諾々に飲み込むこともしたくないです。

誰かに疑問を持たせてしまったり、
自分自身の信仰がゆらぐのが嫌なので、
神社・仏閣へは近づかないようにしているだけです。


家族の中でただ一人救われていた姉妹が、
同じ信仰の兄弟と導かれて、教会で結婚式を挙げて、
その後、子どもが与えられて、
未信者の家族を招いて、献児式をされました。
彼女のお父さんが、礼拝後の昼食の時に、
「自分の孫が、こんなに大勢の人から愛されているのが、
空気でひしひしと伝わってきました。
娘の信仰を反対していた自分が、恥ずかしいです」と。

そのお父さん、今はご自宅近くの教会へ毎週行かれてるそうです。
>みなさま
 ちょっとトピの主意から離れてしまいますが、話が発展するようなら別トピを作ります。
 そして、思いの他また長文になってしまいました。内容は福音派と原理主義の話になってしまってます。興味のない人は読み飛ばしてください。

35.りゅうちゃんさん
>ヘレニスタイとヘブライオイの対立があったように、いつの世も原理主義・・・

って、極端な言い方に振ってません?(^^;;
ヘレニスタイとヘブライオイってのは主義主張によって言い分けているわけじゃなくってギリシャ語を話すユダヤ人集団(ヘレニスタイ)と、ヘブライ語を話すユダヤ人集団(ヘブラ
イオイ)と言い分けられた言い方なんだから、この二つの対立を現代の原理主義と自由主義の対立みたいに言うのはちょっと行き過ぎな感じがします。

ヘレニスタイとヘブライオイである人たちの間では主張の違いが出てきていたのも事実ですけど、全部のギリシャ語を話すユダヤ人集団(ヘレニスタイ)と、ヘブライ語を話すユダヤ人集団(ヘブライオイ)が対立していたわけじゃないですからね。

寧ろ、対立していたのは声高に自分の主張に固執していた一部の人たちでしょう。

ちなみにパウロはヘレニスタイだったと思いますか?ヘブライオイだったと思いますか?
 彼は両方の特徴を持っている人ですよ。ギリシャ語を上手に用いることができたでしょうが、律法も律法学者とやりあえるぐらいよくしっていました。異邦人伝道に非常に力を入れていましたが、ユダヤ人としてのアイディンティティに誇りを持っている人でした。伝道に際してユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、すべての人には全ての人のように語り、その文化や風習を尊重しましたが、NOという領域を明らかに持っていました。ユダヤ教徒からみればその信仰を破壊的なものと見られましたが、キリスト教徒の中(他の使徒たち)にはちゃんと認められ、各書簡で信仰の保持を声だかに叫んだ人物でした。

りゅうちゃんさんの理解だと保守的=原理主義?
それはあまりにも乱暴な気が・・・。

僕は以下のように考えます。
 聖書が教える「信仰を堅く保つこと」、そして、現代の社会とそれぞれがおかれている文化に「その信仰を適用させること」この二つを現代のクリスチャンはしていく必要があると思っています。
 ただ、適用させるということは、他宗教や文化との融合というものではなく、あくまで基本的な信仰の現代的ありかたを問うものだと思っています。

 原理主義というものは、私の観点では聖書の時代のそのままの再現を目指すもので、「適用」というものを無視します。現代のパレスチナ問題やアメリカのブッシュ政権が戦争を続けるのもその点が問題なのでしょう。

 しかし、日本キリスト教の保守派(福音派と私たちは自分たちのことをいいますが)は、様々な教派・教理をもちながら多くの人たちは特にアメリカの原理主義・ファンダメンタルとは一線を引いています。(聖書理解が近い点ももちろんあります)
 私たちは聖書が教える教えを非常に大切にします。もしかしたら原理主義の人たち以上に熱心に聖書理解に心を裂いていると言うことができるかもしれません。しかし、それは基本をしらなければ応用ができないのと同様に、聖書の基礎を知らなければ現代に適し適用ができないと理解しているからです。信仰の基礎に根付き適用しますから、例えば極端なファンダメンタリストのように簡単に「エルサレムにイスラエル王国再建すればキリストが再臨される。」とか、「旧約聖書に戦争の記述があるから今戦争をすることが是認される」などとは考えません。少なくとも私が接した多くの牧師や宣教師の先生たちはそうですし、今、アメリカのそういったファンダメンタル的キリスト教に対する自分たちの主張というのをまとめて発表しようという準備もなされています。
 しかし、聖書を指針としますから、いくら適用してもNOという領域もでてきます。その面だけをみると保守的です。

 この福音派の現代における適用の作業は教会が指導するということも大きいですが、デボーション/黙想/静止の時と呼ばれる個人個人が日々聖書を読み、祈り、神様を知り、今の自分たちに何を教えているかを黙想して日々適用していくという作業にほとんど掛かっていることが現実です。

 この黙想というのは、実に不思議で今も神様が生きておられるということを実感することがあります。大抵はデボーションテキストに従って聖書を読み進めていくわけですが、あまりにもその日、その日に適した御言葉が与えられることがあるわけです。(一回や二回なら偶然といえるかもしれませんが)
 ですから、私が前回の書き込みしたように、「初詣」といった出来事に対しても「こうしなければならない」といった律法を求めるより、神様との交わりの中で示されることを信仰してそれぞれが歩めばよいのではないでしょうか?
 と書きました。

 それこそが、現代に生きるクリスチャンに必要な信仰を現代に適用した歩みだと思うからです。だから、日本人としてのクリスチャンとして歩む時に日本の文化だから融合してやる。というよりは、日本人として日本の環境にいるなかで生きて働かれる神様は私たちをどのように導いてくださるかを日々聞きながら日々歩む。という感じですね。
 ちょっと話がそれてしまいましたが、原理主義と福音派の違いを認識していただけると幸いです。

(日本の福音派の中にも原理主義的見解をもっている人もいないわけではありません。)
原理主義とか融和主義とかよくわかんねーけどさ、

他の人のつまずきになるとか日本の文化とか大切だけどさ、

神様とジーザスがその行為を見て、嬉しいかどうかが一番大事でしょ!?他人や自分の意思より先に神様を見ないとね!!
難しい神学論はよく分からないのですが、私は聖書の教えは、
「神以外のものを神としてはならない/人が神となってはならない(=人を神としてはならない)」ということで一貫していると考えています。神社や寺院の行事、その他の伝統文化への参加についてはその都度、考えるようにしています。
靖国については先にも指摘がありましたが、敵味方無く死者を弔うという本来の神道の伝統からは逸脱しており、国体(歴史的にはイコールで天皇)を守るために死んだもののみを顕彰して一般国民の死生観にある方向性を与えようとしていて極めて政治的な意図があると考えるので決して参拝はしません。(お花見には行きましたが。)
私は初詣には行きます。
なぜなら、家族が初詣を1年の大切な行事としているからです。
社殿の前で柏手を打つのは、少々気がとがめることもありますが、社殿にいようがどこにいようが、いつも私たちの神にむかって祈っているつもりです。そう、初詣くらいで、神様はお怒りにはなりませんよ。私もそう思います。
異教の宗教行事に出席することに目くじらをたてるのを私は好みません。アラファト議長がクリスマスのミサに出席したことは、非難すべきことだったでしょうか?他の宗教の行事にも臆することなく参加することで、お互いの理解が深まることもあると思います。
神様は何を望んでいるのか、それをどう考えるかで意見が分かれる訳ですね。
そんな感じだね。どうなんすか?

牧師さんや神父さんもいるみたいだし。迷えるオイラを最善に導いてください。
>41: りゅうちゃん
返答ありがとうございます。
ヘレニスタイとヘブライオイ /原理主義・保守派
の話題についてはお互いに定義が違ったということで、それぞれの定義を尊重してここでは一応やめたいと思います。

さて、もしかしたら「クリスチャンはどのように・・・」というトピの方の話題かもしれませんが・・・・。
うーん、やめた新しいトピを立てます。

まぁ、今回の初詣の話題ですけど、人生は選択の連続です。
その中でどのように日本人のクリスチャンとして神の御心にそうように歩むため、神と交わるのかということを考えるトピを立てます。みなさん、興味があればそちらでよろしくお願いします。
こちらは日本の文化土壌にどうキリスト教が溶け込んでいくかをテーマに
意見交換 再利用上げ
えーと
信仰では。。。聖書や伝承に忠実なクリスチャン
そして
日常生活では。。。伝統と文化を大切にするクリスチャン
上記のスタンスのクリスチャンの方へ

このスタンスでコメントつけると 反論してこられる方がいますね
いちおう議論禁止がコミュの鉄則なのでその場合はレスを返さずに
放置を心がけるようになさってください
七五三をキリスト教化して実施してる教会が存在するようですけど
もっともっと日本の文化土壌に密着して
かつての地蔵盆とか午の日とか 地域規模の縁日の中心に教会がなればいいと思います
下手な日曜学校よりよっぽど子供への伝道の効果もあるでしょう
盆正月に帰省して地元の母教会で親族揃ってと礼拝してる人はけっこういらっしゃるのでは?
元旦礼拝に晴れ着とかいいよね。私はクリスマスにも着物着ますが。
朝に削除されたスレに 神道の祝詞を見事にクリスチャンの祈りに変換した文章を載せたんですけど

履歴が残ってなくて どこで拾ったかわからなくなってしまいました涙
。。。と思ったらありましたあせあせ

豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)なる日本(ひのもと)に於きて崇(あが)めらるるべき神は、天地(あめつち)の造りぬしなる父なる大御神、我らの救ひぬしなる御子神いゑすきりすと、助けぬしなる聖(きよ)き御霊(みたま)の三一(みいつ)の神よりほかになきなり。

 我、神々の神にして公(きみ)の公(きみ)なる天津大御神(あまつおおみかみ)に願いたて奉(まつ)るなり。この国のくさぐさの禍罪(まがつみ)、大倭(やまと)の民人(たみびと)のもろもろすべての咎(とが)をば、十字架に架かりたる主(しゅ)いゑすきりすとのとほとき血潮によりて、祓へ給ひ聖め給へ(はらえたまいきよめたまえ)と白(もう)す事を聞食(きこしめ)せと恐み恐み(かしこみかしこみ)も白(もう)す。             ああめん。

>日本の信仰風土は実は福音と親和性があるのではと思いました

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